日系三世メアリー・イトウ氏
『仲よき事は美しき哉』の言葉を残したのは、明治から昭和にかけての長きにわたって、小説家、劇作家、また詩人や画家としても活躍した武者小路実篤である。昭和の時代に日本の学校に通った者なら、必ずや国語の時間などに勉強させられた記憶があることだろう。
一般に知られている英語の訳は「How beautiful it is to have good friends」であるが、これでは友情のことのみを指していることになる。更なる幅白い解釈をすれば、そこには家族も含まれるのではないかと考えるのが一般的だろう。
いずれの解釈にせよ、そんな言葉がふと私の脳裏をよぎったのはCanadian Broadcasting Corporation:CBC放送局から、同局の元アナウンサーであったMary Ito氏をインタビューした記事が発表されたのを読んだ時だった。
彼女はオンタリオ州地域で生き生きと活躍する市井の人々を、音楽などと共に楽しく紹介するFresh Airと呼ばれるラジオ番組のホストを長いこと務めた日系三世である。
現在CBCは嘱託として働いているが、、現役時代からトロントの日系文化会館(Japanese Canadian Cultural Centre: JCCC)などで行われる各種のイベントで司会を務めるなど、気さくで温かい人柄が高く評価されていた。
さて彼女に関するその記事とは、現在世界中を恐怖に落とし入れ、終息の兆しのほとんど見えないCOVID-19にまつわるものであった。一口に言って「家族愛」の極限を地で行ったと断言しても過言ではなく、読者の感涙を誘ったヒューマンストーリーである。
カナダ政府がCOVID-19の問題を「対岸の火事ではいられない」と、真剣に取り組み始めたのは3月に入ってから。それ以前は高齢者の疾患率が高い病気で、若者は大丈夫と言った風潮がみられ、事実犠牲者は、大都市のトロントやモントリオールなどのシニアホームの居住者に多かった。
日系二世のIto氏の両親
同時期Ito氏の両親もトロントの某シニアホームで暮らしていたのだが、 母親(92歳)も父親(97歳)も高齢のため体力が非常に弱っていた。当然ながら二人揃ってPCR検査を受けたのだが、医者からは疾患するのは時間の問題と宣言された。それを聞いたIto氏は検査結果を待たずに、両親と同じシニアホームの同じ棟に即入居することを希望した。
言わずもがなであるが、それは非常に高い率で彼女もウィルスに侵され、最悪の場合は死をも覚悟することであった。間髪を入れずの決心と、人手不足が日に日に深刻になっていた医療機関の現状からして、元気な人の手助けはホームにとって大変に有難くすぐに許可を出した。
Ito氏はその短期間に夫と成人している3人の子供たちを説き伏せ、最悪の場合の備えをして4月12日の復活祭の日曜日に両親のそばで過ごす生活を開始した。
最初に彼女の姿を見た母親の第一声は「何で貴女ここにいるの?」だったそうだが、すぐに母親の容態は急変し、昼夜を問わずの看病を必要とするようになった。そして僅か3日後には、ホームからコロナ専門病棟のある病院に搬送されたのだが、翌日には心臓発作を起こし非常に危険な状態に陥った。
それを知った父親は、妻と共に最後の日々を過ごすために、自分も同じ病院に移送されることを切望した。お陰で4月20日に60余年連れ添った妻が命尽きた瞬間に立ち会うことは出来たのだが、苦渋に満ちた顔を両手に埋めたまま一言も言葉を発することはなかったと言う。
すでにウィルスに侵されていた父親は、それから9日目に病状をこじらせて亡くなり、またIto氏は予想した通り陽性反応を示した。母親とは僅か一週間余り、父親とは半月余りであったが、最後の日々を愛する二人の元で過ごせたことに彼女は心から感謝したいと言い切る。加えて「両親を家族から離し孤独の中で死んで行く姿をどうやっても想像することが出来なかった」と淡々と語る。
7月16日に行った筆者のインタビューでは、体力は十分に回復しているものの、まだスタミナが元通りにはなっていないと答えている。
カナダ日系人の歴史
親とは言え、Ito氏がここ迄両親に対する深い愛情を示す娘に育ったのは、一体何処に起因しているのだろうか・・・と考えずにはいられない。
思いやり深い仲の良いご両親のもとで育ったことは疑う余地はない。だが更に深く考えてみるに、第二次世界大戦開始後、母国であった筈のカナダから日系二世が受けた理不尽な社会的制裁があったことに深く関係していると思えてならない。
今では広く知られていることだが、二世たちはカナダに生を受けたカナダ人であったにもかかわらず、1941年12月7日の日本軍の真珠湾攻撃によって、一夜にして「敵国人」にされてしまった過去がある。その後BC州に住む日本人移民やカナダ生まれの日系人たちは、根こそぎロッキー山脈の麓の粗末な強制収容所に送られ、財産は全て没収され、それ等が戻って来ることはなかった。
後に三世が中心になって起こしたリドレス運動(redress movement)によって、1988年に戦時賠償が行われた。しかし日系人の多くは辛かった経験を声高に語ることはせず、恨むこともなく、また次代を引き継ぐ家族たちにも口を閉ざし続けた。
Ito氏の両親も一口ではとても語り尽くせない辛酸と屈辱を経験し、一時は日本に帰国するなどの生活苦も味わったが、二人からカナダに対する恨みなどを一度も聞いたことがないと言う。
辛苦を口にする前に黙々と前を向いて行動する・・・そんな親からの暗黙の教訓が、Ito氏に受け継がれているからこそ、コロナ禍の真っただ中に躊躇なく身を投じ、両親を見守る決心をしたのではなかろうか・・・、そんな気がしてならない。
サンダース宮松敬子
フリーランス・ジャーナリスト。カナダに移住して40数年後の2014年春に、エスニック色が濃厚な文化の町トロント市から「文化は自然」のビクトリア市に国内移住。白人色の濃い当地の様相に「ここも同じカナダか!」と驚愕。だがそれこそがカナダの一面と理解し、引き続きニュースを追っている。
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