素敵な出会い と 「武士道」 ⑤
この「カナダで出会った新渡戸稲造」ですが、バンクーバー新報に2017年6月から7回ほど掲載されました。その後、新たな発見や付け加えたいこと、そして少し直したいところなども多々見つかり、今回の新しいオンライン版バンクーバー新報に改めて投稿したく、よろしくお願いいたします。
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1884年(明治17年)、22歳の稲造を乗せた船は横浜港から太平洋を渡ってサンフランシスコに到着、さらに数日間も大陸横断鉄道の汽車に乗って、はるか東のペンシルベニア州にようやくたどり着きました。稲造にとって、まずはアメリカの広さに驚いたことでしょう。
早速苦学を重ねながら、大学で農政学などを学びます。そしてある日、キリスト教の一派であるクエーカー教徒の集まりに、素敵な出会いが待っていました。生涯を共にするメアリー・エルキントン嬢との出会いです。ちょうどそのころ、日本から手紙が届きます。札幌農学校助教授に任じ、3年間農政学研究のためドイツ留学を命ず、とあり、官費による留学です。稲造は大いに喜んだことでしょう。これは札幌農学校時代の先輩で、当時札幌農学校の教授をしていた、同じ南部藩出身の佐藤昌介の取り計らいでした。
今度はニューヨークから大西洋を渡ってドイツに向かいます。心残りはメアリーと離れ離れになってしまうことでしたが、ドイツで農政学や統計学などの勉強に励みます。そして彼女との手紙のやり取りで、結婚を決意。E-メールや携帯電話など無い時代の遠距離恋愛の成就。二人の愛情の深さを感じます。さらにもう一つ稲造にとって、大きなことが起こりました。長兄の死です。次兄はすでに他界しており、三男の稲造が新渡戸家を継ぐこととなり、18年ぶりに太田稲造から新渡戸稲造に戻りました。
3年のドイツ留学を終えて、アメリカに戻り、すぐメアリーと結婚式をあげます。稲造28歳。当時は国際結婚などまだ珍しく、また日本のことなどほとんど分からないメアリーの両親は最初は反対で、結婚式にも参列しなかったようです。すぐに日本に帰り、札幌農学校の教授となり、新婚生活が始まりました。
札幌農学校での稲造の講義は大変評判になり、教育者として大活躍。しかし二人にとって大変悲しいことが。男の子が生まれましたが、わずか一週間で息を引きとってしまいました。また遠友夜学校の創立などにも力を注ぎ、疲労も重なって、夫婦とも体調を崩してしまい、群馬県の温泉で治療することにしました。その時に書いた本が『農業本論』です。この本の冒頭に「亡き母の紀念に此の書を捧ぐ」と「紀念」という漢字を使っていることは初回のエッセイに書きました。子どもの死と母の死が重なった…、そう思えてなりません。
さらなる治療のために、アメリカのカリフォルニアで過ごすことになり、その静養中に生まれたのが、あの『武士道』です。新渡戸稲造を世界的に有名にした名著。1900年(明治33年)、38歳でした。これは日本人の精神(The Soul of Japan)を妻のメアリーや友人などに分かりやすく説明しようと書いたもので、英語で書かれています。1894年の日清戦争で、眠れる獅子の清国を破った日本に対する関心が高まっていた時期でもあり、ドイツ語やフランス語など数ヶ国語に訳され、世界的なベストセラーになりました。
この本の最初のページに、アメリカ留学を許してくれた太田時敏(ときとし)叔父への感謝の気持ちが記されています。当時の稲造の太田おじさんに対する計り知れない謝意が感じられます。
To my beloved Uncle Tokitoshi Ota
I dedicate this little book
”little book”とはいかにも日本的ですね。
この『武士道』への素晴らしい評価を得て、稲造は太平洋の橋になる大きな一歩を踏み出した喜びを感じたことでしょう。日本という国を世界に知らしめた特筆すべき本だと思います。でも、もし赤ちゃんの悲劇もなく、病気などにもかからなかったら、この『武士道』の出版は無かったのでは…と、余計なことを考えてしまいました。でも何となく「人間万事塞翁が馬」を感じます。
健康もかなり回復し、3年ぶりに日本に戻ってきた稲造に、政府関係の仕事が入ります。日清戦争によって日本の植民地になった台湾の農業開発を行なうことでした。1901年(明治34年)、今度は台湾に向かいます。
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