日本カナダ商工会議所12月スペシャルイベント
日本カナダ商工会議所は毎年12月にクリスマスイベントを開催している。2020年はオンラインで12月15日に「バンクーバー朝日軍と日系人の歴史」というタイトルで、テッドYフルモトさんの講演が行われた。
約100人が参加する盛会
イベントは定員100人のところ締め切り前に定員に達する盛会となった。日本カナダ商工会議所サミー高橋会長は、開会のあいさつで「懇話会、滋賀県人会の皆さまの協力を得たイベントは100人を超える申し込みがありました。その後、参加できない人もいたため、98人が登録していただいています」と述べた。
続けて高橋会長は、スピーチおよび講演を行う、在バンクーバー日本国総領事館羽鳥隆総領事、および日本から参加したテッドYフルモトさん、高井利夫さんを紹介した。フルモトさんはバンクーバーにあった野球チームについての映画『バンクーバーの朝日』の原作者、高井さんはカナダ移民の父と呼ばれた工野儀兵衛氏の曾孫という。
高井さんは、多くの事業を経営する実業家として活躍している。和歌山県美浜町のアメリカ村を再生するための、トーテムポール寄贈プロジェクトを推進する国際協力推進協議会の会長でもある。日本カナダ商工会議所でもこのプロジェクトに全面的に協力を行っているほか、高橋会長は国際協力推進協議会の理事も務める。
羽鳥総領事は、講演者のフルモトさん原作の映画「『バンクーバーの朝日』をバンクーバー赴任前に観ました」と語った。
「新天地を求めて移民された一世の皆さん、さらには二世以降の子どもたちとの関係についても理解することができました。またアジア人への人種差別が大きかった時代に、野球を通じて(カナダ人と)日系人が心を通わせていく様子が描かれていて感動的でした」と振り返った。
高井さんは、バンクーバーと美浜町を結びつけるために何かしたいと、バンクーバーで作ったトーテムポールを美浜町に設置するプロジェクトに参加。さらに工野儀兵衛の胸像も現在制作中で、美浜町のカナダミュージアムに寄贈を予定している。「今後もできる限り協力していきたい」と語った。
テッドYフルモトさんの講演内容を要約する。
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テッドYフルモトさん講演
「バンクーバー朝日軍と日系人の歴史」
父テディ・フルモトさんが1900年に日系カナダ人二世としてバンクーバーで生まれたというテッド・フルモトさんは、多国籍文化の今のカナダが大好きで、カナダを第二の祖国と思っているという。
その上で、「バンクーバー朝日軍の歴史的活躍と約100年前に日系人社会に起きた哀しい歴史について、悪い感情は抜きに事実として語りたい」と冒頭で語った。
今から100年以上前に太平洋を渡り、過酷な人種差別にもひるまず、プライドをかけて力強く道を開いた日系カナダ人。バンクーバー朝日軍は彼らの期待を背負い、「フェアプレーと武士道精神」でカナダのリーグで大活躍をして、人種の違いを超えて多くのファンを魅了した。
活気があったパウエル街
1877年、イギリス船に乗っていた長崎県出身の永野万蔵が勝手に船を降りてニューウエストミンスターに上陸した。永野は鮭を扱う事業を起こして成功して、銀鮭王、塩鮭王と呼ばれた。1977年の日系移民百年祭で永野はカナダ政府から正式に日系移民第一号と認められている。
1877年、カナダパシフィック鉄道開通。香港―横浜―バンクーバーの太平洋定期航路が運航を開始して、バンクーバーは太平洋の玄関口としてのスタートを切った。1876年にバンクーバーで大火が起こったことで復興需要もあった。
一方、当時の日本は明治維新から数年しか経っておらず、国内が疲弊してハワイ、アメリカ、バンクーバーへと移民を送り出していた。
希望に燃えてやってきた日本人たちだが、BCは東洋人に対する排斥運動が最も激しく、日本人の職場は制限され、肉体労働のみ、林業と漁業が中心だった。製材所で日系人は白人の半分の賃金でも文句も言わず、長時間働いた。それでも、手取りは日本の3倍だったという。
また漁業はカナダの日系社会を支える基幹産業となっていった。1888年8月、和歌山県日高郡三尾村出身の宮大工、工野儀兵衛さんがカナダに渡る。高井さんの曽祖父だ。
工野儀兵衛はスチーブストンでフレイザー川の大きさ、鮭の大群を見て驚き、三尾村の人たちをカナダに誘った。1888年15人だった日系漁師の数は、6年後には4000人に達した。こうしてカナダ移民が増えて工野儀兵衛はカナダ移民の父と呼ばれるようになった。
その後、日系人漁師の漁場もスチーブストンからバンクーバー島やさらに北方へ広がっていき、漁師は経済的にも社会的にも確固たる地位を築いていった。一方で、それが摩擦の種となっていく。
日系人の人口が増えていき、パウエル街に日本人街リトルトーキョーが誕生する。さらに1879年には、カナダで初めての日本領事館が設立された。
当時、パウエル街は活気にあふれ、日本語が飛び交っていた。ヘイスティングス製材所では100人以上の日系人が働き、1891年には日本人の旅館が営業を始めた。フルモト家の祖先も旅館を営んでいたという。さらに精米店、製麺店、豆腐屋、かまぼこ店、料亭、銭湯、結納店などさまざまな店ができた。
(後編に続く)
(取材 西川桂子)
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