第107回 「石巻の子ども」 

グランマのひとりごと

~グランマのひとりごと~

   2021年3月11日、今日が東北大震災から10年目。このところ毎日、毎日、東北大震災の話がテレビで流されていた。このグランマ、忘れられない思い出がある。それは、昔、バンクーバーを訪れた、あの被災地石巻の子供達の事だ。

 「ホイさぁん、石巻の花火はねぇ、ボボーーーンと大空に高~く上がり、肩まで灰がとんでくるんだよぅー」それは石巻の子供達がバンクーバーの花火大会を見ての帰り道、私に言った一言だった。

 「そうかぁ、そうだよねぇ」ウエスト エンドから観るバンクーバーの花火は海岸からずっと遠くで、海の真ん中でポッツン、ポッポーン, ポッポーン。

 私は子供達に浴衣を着せ、下駄をはいて、意気揚々とバンクーバーの花火大会にウエスト エンド迄連れて行った。総勢20名。

 当時イベント会社をやっていたグランマには、カナディアンロッキーのレイクルイーズでアルバータ ツーリズム後援の国際氷彫刻大会、学生の演奏旅行、キャンピングカーでのロッキー山脈横断等、キャピラノカレッジと日本の大学との交換留学等色々なイベントが有った。

 その一つは「宮城県桃生郡矢本町役場」の企画で、つまり、『文部科学省の「生涯学習の実現」、生涯学習とは「人々が生涯に行うあらゆる学習のこと」、 教育と名のつく分野のほか、スポーツやボランティア、趣味の範囲までが含まれる』のだそうです。矢本町の企画に沿って私社が請負い、バンクーバーで「生涯学習」を毎年やっていたのです。

 バンクーバーの花火大会見物は、結局、彼らを喜ばせる事は出来なかった。しかし、逆に外国の花火大会と「石巻の花火大会」と比べ、自分達の花火大会が立派で素晴らしい事を誇りに思った事は確かだった。それからずっと何時か石巻の花火を観たいとグランマは今も思い続けている。

 彼等の宿舎はUBCと立命館、両大学が共同で建設した「立命館・UBCハウス」と言い、4人用の部屋が50室あり、ベッドルームは個室、キッチン・リビング・バス・トイレは共有と言う所だ。寮から外へ出ると直ぐにマリンドライブ、其の通りを超えると、ビーチへ行く細いかなり急な坂道がある。

 生涯教育の学習指導者の誘いで、皆でビーチのゴミ拾いをする事になった。清掃用ごみ袋を持って降りて行ったビーチ。そこで、子供達が見たのは、なんと何と素っ裸の男女がちらちらと寝転がっていた姿だったのだ。

 知らずに降りて行ったとはいえ、そこはヌーディストビーチだった。子供達は驚いたり、笑ったり。文化の違いだろうか?指導者にしても想像も出来ない事だった。でも、指導者のボランティア精神は他に有効に働いていた。

 翌年、ホワイトロックの公立高校生宅へホームステイすることになった。今でも楽しかった思い出がグランマの目に浮かんでくる。そこはヌーディストビーチではない。

 ホワイトロックの明るいビーチだった。子供達が手をつないで遊び始めた。一人が前に立ち、他のメンバーは手をつないで歌を歌いながら『〇〇さんが欲しい』と言う。そこでジャンケンをして〇〇さんを決める。何だか面白いゲームだった。

 それを見ていたビーチで遊ぶカナダ人の子供達が列に参加し始めた。列は横に長ーい、長ーい列になっていった。日本語で歌いながら、手をつないだ両国の子ども達のゲームは続いた。

 やがてこの生涯教育プログラムに参加したボランティアのカナダ人高校生が日本へ行きたいと言い出した。

 最近、留学エージェントに聞くと現在2021年のホ―ムステイ料金は30~35ドル程度だと言っていた。この生涯教育プロジェクトは1994~6年位だったと思う。当時で1日50ドルだった。だから、14日間滞在費は700ドルだ。

 結局、そのお金を土台にして、カナダの高校生は、とうとう、石巻と矢本町を訪ねることになった。カナダ人高校生が20名近く、ぐわーっと矢本町の町長さんを囲んで撮影した、記念写真が今も残っている。

 あるホームステイ先では、季節外れのお雛様をわざわざ飾って、歓迎してくれたという。矢本町での滞在費は無料だった。ここまで書くとグランマの眼に涙、胸がじーんっと熱くなる。本当に、本当に皆が優しかった。

 国際交流ってこう言う事だと、無言で、この企画に加わった誰もが認識しただろう。

 あの時、仙台から乗った仙石線は暫く震災後不通になっていたそうだが、今はまた開通したと聞く。

 あの大震災直後、グランマは自宅でガラージセールをやった。寄付金集めだ。それは大勢の友人知人団体の助けで、1日で5000ドル近い収益、バンクーバー新報社をとうして赤十字に寄付した。

 そして、別に、震災半年後「宮城大学復興支援部隊」の慈善講演を行う桐島洋子さんに同行、グランマは被災地に行った。緑色の支援部隊のユニフォームを着て訪ねた被災地は、全く昔の面影は残っていなかった。 

 矢本町の昔お世話になった役員と電話で話すことが出来た。彼は「やぁ、大変でしたが、大丈夫です。家はつぶれましたが、蔵が残ったので、そこへ移って住んでいますよ。笑」….「ああ、彼も頑張っているのだよなぁ」

許 澄子

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 好評の連載コラム『老婆のひとりごと』。コラム内容と「老婆」という言葉のイメージが違いすぎる、という声をいただいています。オンライン版バンクーバー新報で連載再開にあたり、「老婆」から「グランマのひとりごと」にタイトルを変更しました。これまでどおり、好奇心いっぱいの許澄子さんが日々の暮らしや不思議な体験を綴ります。

 今後ともコラム「グランマのひとりごと」をよろしくお願いします。