第50回 アジアの小国ミャンマーの行く末

ノーベル平和賞受賞者‐アウンサン・スーチー氏

 二ヶ月半程前の2月1日から、世界のメディアには「ミャンマー」という文字が頻繁に登場している。だが国軍によるクーデターが起こったと言う以外、一体東南アジアのあの小国に今何が進行しているのか、その詳細を知るのはなかなか容易ではない。

 筆者は一時この国について格別な興味を持ってニュースを追っていた時期があった。それは何時頃のことかと思い、手元に残っているはずの日本語や英語の新聞、雑誌の切り抜きを探してみた。嬉しいことにそれらは、91年秋にノーベル平和賞を受賞した同国の政治指導者、アウンサン・スーチー氏が著した『自由』(集英社)と題する本の間に挟まれていた。

自由 自ら綴った祖国愛の記録©︎ Keiko Miyamatsu Saunders
自由』(集英社刊 ISBN 4087731405) ©︎ Keiko Miyamatsu Saunders

 この表紙のポートレートを見ても分かるように、確かに美しい人ではある。だがこれを見たらそんな平易な評価だけではなく、黒目がちな瞳の奥に一体どんな秘めた思いを持っているのか…、誰でもが知りたくなるに違いない。

 まさに私もそんな興味が先立っていたようだが、忘れかけていた記憶を呼び起こし、その資料の一枚一枚に再度目を通してみると、それまで政治運動に関わった経験のなかった氏の母国に対する篤い思いが改めて伝わって来る。

 1988年英国で家族と暮らしていたスーチー氏に、ビルマに住む実母が危篤との知らせが送られて来た。これを機にビルマに戻り政治活動にのめり込むようになり、「第二次ビルマ独立闘争」に参加することになったのである。だがその手段は、マハトマ・ガンジーのように暴力を用いずに、それまでの暴政に対抗し、結果として徐々に野党民主化勢力のリーダーになった経緯が読み取れる。

自由 自ら綴った祖国愛の記録©︎ Keiko Miyamatsu Saunders
自由 自ら綴った祖国愛の記録©︎ Keiko Miyamatsu Saunders

日本との歴史的関係

 しかしそこに至るまでの氏の生い立ちは実に興味深い。

 もともとは「ビルマ」と言う名称だったこの国を、1942年から45年まで統治していたのは「大日本帝国」だった。日本軍はそれまで大英帝国が植民地として支配していた状況から、ビルマを解放すると言う表向きの名目によって1941年に侵攻を進めていた。

 当時のビルマ独立義勇軍は、英国からの独立を希求していたため日本軍に協力的で、最終的に首都ラグーンを陥落したのである。

 それによって生まれたビルマ国ではあったものの、一般国民からの支持を得ることは出来ず抗日運動が続いていた。日本の敗戦が濃厚になった1945年に、国防相の役職にあったアウンサン将軍がクーデターを起こして英国側につき、連合軍と協力してビルマを日本軍から奪還した。

 まさにこのアウンサン将軍がアウンサン・スーチー氏の父であったのだが、その後ビルマは再び英国領となってしまった。だが将軍は反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)総裁に就任して、独立国家となるべく英国と交渉を進めた。その結果1947年には一年以内に独立する協定を締結したものの、残念なことにその翌年に政敵によって暗殺され、晴れの日を見ることはなかったのだ。

在りし日のアウンサン将軍一家(中央がアウンサン・スーチー氏)©︎ Keiko Miyamatsu Saunders
在りし日のアウンサン将軍一家(中央がアウンサン・スーチー氏)©︎ Keiko Miyamatsu Saunders

 以後将軍は「建国の父」と呼ばれるようになり国民から敬愛されたが、スーチー氏はそんな政権の不安定な時期の1945年6月にラングーンで生を受けたのである。父親が暗殺されてからは、看護師で後に駐インド兼ネパール特命全権大使になった母親と共に、インドのニューデリーに移り住んだ。

 長じてからは、英国のオックスフォード大学で哲学・政治学・経済学を学び、その後米国に渡りNY大学大学院で国際関係論を専攻し、NYの国際連合事務局で仕事をするなど国際舞台で大活躍をしたのである。加えてオックスフォード大学時代に二年間日本語を勉強したため、国際交流基金の支援で京大の東南アジア研究センターの客員研究員として来日してもいる。

 こんな経歴を見るとお堅い学究一筋の人生かと言えば、決してそうではなく、72年にはオックスフォード大学の後輩で、チベット研究者の英国人マイケル・アリス氏(1999年死去)と結婚し二児を儲けている。

女性党首

 近年ではニュージーランド、アイスランド、台湾、ドイツ、フィンランド、デンマークなど国家の指導者に女性が選ばれることは、まだ話題にはなるものの「大変に」珍しいことではなくなった。しかしスーチー氏が実母が危篤状態である事を知り、英国からビルマに戻ったのを機に政治活動にのめり込むようになった1988年頃には、一国の党首が女性であったのは英国のマーガレット・サッチャー氏のみであった。

 理不尽な軍の圧政に苦しむ生まれ故郷のビルマ国民を救いた一心で、経験のない政治の世界に一歩を踏み出したのは、やはり胸の奥に父親ゆずりの秘めた闘志があったためかもしれない。

 その時から数えてすでに33年もの年月が経過しており、また氏が率いる国民民主主義連盟(NLD)が、2015年に勝利し本格的な民主主義に向けて希望の兆しが見えていた。にもかかわらず、ここに来てまた軍による民主主義体制への回帰を求める市民への弾圧が激化し、スーチー氏は今度で4度目の軟禁状態に置かれている。

 クーデターの理由は幾つかあるようだが、一番の理由は昨年11月の国内総選挙の結果が予想に反してNLDが圧勝したことで、国軍系の連邦団結発展党(USDP)が選挙結果に不正があったといちゃもんを付けているためと言われている。「おや、何処かで聞いたようなセリフだな?!」と思えるが、氏の解放を求めるデモ隊の犠牲者は、4月11日までに全土で700人以上にも上ると発表されている。民衆が独裁への「反逆」「抵抗」の印として3本指を掲げて行進する姿は世界中に流されている。

デモ隊 ©︎ Keiko Miyamatsu Saunders
デモ隊 ©︎ Keiko Miyamatsu Saunders

 国際社会が協力して国軍に圧力をかけることは最も大切ではあるが、一つだけ気になることある。それは近年「氏が指導者として少数民族のロヒンギャに対する暴力・虐殺に適切な対応をしなかった」ことで、これが軍政府と共通の政策とみなされている事である。それが理由で、今まで世界各国から氏に与えられた数えきれない程の受賞や称号などの幾つかが剥奪や取り消しをされている点である。

カナダ名誉市民賞(2007年授与)。後にロヒンギャ問題への対応の不誠実さに対し剥奪(2018年)©︎ Keiko Miyamatsu Saunders
カナダ名誉市民賞(2007年授与)。後にロヒンギャ問題への対応の不誠実さに対し剥奪(2018年)©︎ Keiko Miyamatsu Saunders

 近年公の場で見られる氏の様相は、盛装していてもなおは痛々しいほどに細身で過酷な運命に粗がいながら生きることが伺える。今どんな状況のもとに軟禁されているのであろうか、大いに気になるところだ。

サンダース宮松敬子 
フリーランス・ジャーナリスト。カナダに移住して40数年後の2014年春に、エスニック色が濃厚な文化の町トロント市から「文化は自然」のビクトリア市に国内移住。白人色の濃い当地の様相に「ここも同じカナダか!」と驚愕。だがそれこそがカナダの一面と理解し、引き続きニュースを追っている。
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