第51回 トーテンポールが取りもつ歴史の絆 ~1

 カナダは、多くの移民によって成り立っていることは広く知られている。元をただせば、ファーストネーションズ(先住民)の人々が住む国であった。だが時の経過と共に、まずヨーロッパから入植した人々によって一歩一歩歴史が刻まれて来た。

 その長い歩みの中には、もちろん日本からの人々も含まれている。移民史をたどると今我々が置かれている立場も、その延長上にあることが容易に分かる。

 では最初にこの国に一歩を踏み入れた日本人は誰か?これに関してはすでにいろいろな研究がなされている。

 だが最近カナダ(特に西海岸)の象徴であるトーテンポールが、カナダ日系移民史の突破口を作った街に寄贈されたことで、再度その足跡を三回の連載で振り返ってみたい。

日本人移民のパイオニア

 カナダにおける日系移民の歴史を紐解くと、異論はあるものの、最初に日本からやって来たいわゆる“パイオニア“と呼ばれる人物は、1877年に外国船でカナダの西海岸に到着した長崎県出身の永野萬蔵氏と言われている。ここに「異論」と書くのは、近年の仔細な調査で萬蔵氏はこの年には、まだ日本に居たとする資料などを発掘したビクトリア在住の某歴史研究家夫妻の説が浮上したためである。

新説が発表された歴史書。©︎Keiko Miyamatsu Saunders
新説が発表された歴史書。©︎Keiko Miyamatsu Saunders

 だが丁度100年目に当たる44年前の1977年には、日系人/戦後移住者たちが中心になって、カナダ中の日系コミュニティーで各種の展示会が開催されたり、また当時アメリカに住んでいた萬蔵氏の子息を招いて祝賀会も催している。加えてカナダ政府は、BC州Owikeno Lakeの源頭の東側にそびえている標高1968mの山を、彼にちなんでMt. Manzo Naganoと命名した。

 この一連の諸行事が揺るがない事実となって「萬蔵説」は固定化し、以後この史実がくつがえされる事はなく、カナダ日系史の初期を飾る人物として各方面で語り継がれている。

工野儀兵衛

 さてこの「異論/正論」は別としても、1800年後半から1900年初期にかけては、かなりの日本人がアメリカ大陸を目指して移民した事は確かである。

 歴史に残る大きな出来事では、1868年(明治初年)5月にハワイのサトウキビ畑で働くための労働者として153名が移民している。時代がちょうど明治元年であったことから、彼らは「元年者=がんねんもの」と呼ばれた。3年前の2018年には秋篠宮ご夫妻を招き、150年目を祝う大祝賀祭がホノルルで開催された。

 だがこの政策には政府が関与していたものの、維新のゴタゴタで国交間での規約がはっきりとしていた分けではなかった事から、多くの悲喜劇が生じたと言われている。

 しかしカナダの場合は、個々に渡カして西海岸のビクトリアやバンクーバー周辺にやって来たのである。その一例が永野万蔵であり、また1888年に和歌山県三尾村(現 美浜町三尾地区)から来た、34歳の工野儀兵衛(くのぎへい)氏(1854‐1917)を筆頭とする数名であった。

工野儀兵衛氏の顔写真(サミー高橋氏提供)©サミー高橋氏
工野儀兵衛氏の顔写真(サミー高橋氏提供)

 彼は生まれ故郷では大工であったものの、そこは山が海に迫り耕作する土地もない貧しい漁村。風光明媚ではあるが生活は困窮を極め、将来に希望を託すことはおぼつかなかった。そうした気持ちを抱えての日々には、目に入る大海原の向こうに広がるまだ見ぬ外国の地への憧れが膨らんだとしても無理からぬことであったろう。

 とは言え、130余年前に頼る人もいない新天地に向かって外国船で太平洋を渡るには、大いなる勇気と冒険心がなければ成し得ないであったろうことは容易に想像がつく。

現在の三尾村の遠景。©Opqr
現在の三尾村の遠景。©Opqr

 そしてやって来たBC州のスティーブストンと言う村で彼らが目にしたのは、流れるフレーザー河に泳ぐ想像を絶する鮭の大群であった。儀兵衛氏はその時の光景を「船に鮭が飛び込んでくる!」と故郷に知らせたのだが、この驚きの言葉は後々までの語り草になっている。

 彼はすぐさま、人手が幾らあっても足りないほど仕事の豊富な漁業にたずさわり、故郷の村から人々を呼び寄せ、缶詰工場を造るなど商才を発揮して、ひと角の成功を収めていった。その揺るぎない実績を持って20 年後の1908 年に、日本を出てから初めて村を訪れた時は、まさに「故郷に錦を飾る」の言葉に相応しい凱旋であったに違いない。

 外国で功をなし立派に成長した彼の姿に、村人たちの多くは更なる渡航熱に火を点けられ「儀兵衛に続け!」とばかりに次々とカナダに渡った。後に移民の最盛期を迎えた1940年頃には、2000余人にも達したと言われている。

 それはまさに年月と共に出現した「スティーブストン三尾村」そのものであったが、まじめで働き者の彼らは、漁業以外にも林業などに従事し、その稼ぎを故郷に送金したことで、三尾は豊かな村へと変身して行った。

 また出稼ぎを終え、長期のカナダ生活に終止符を打って帰国した人々は、西洋風の生活様式を持ち帰ったり、日本家屋とは一味違ったロッジ風の民家を建てたりする者もいて、三尾村は別名「アメリカ村」と呼ばれるようになった。

 スティーブストンはカナダのBC州にあるにも場所かかわらず、「アメリカ村」と呼ぶのには違和感を覚えるものの、当時は「海外=アメリカ」という一般の日本人の外国に対する乏しい知識が反映しての命名であったのだろう。

サンダース宮松敬子 
フリーランス・ジャーナリスト。カナダに移住して40数年後の2014年春に、エスニック色が濃厚な文化の町トロント市から「文化は自然」のビクトリア市に国内移住。白人色の濃い当地の様相に「ここも同じカナダか!」と驚愕。だがそれこそがカナダの一面と理解し、引き続きニュースを追っている。
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