第54回 発掘された先住民の子供たちの遺体 前編

~「記録」も「墓標」もない墓地跡から~

 現在カナダに住む人々の歴史をたどれば、先住民にルーツを持つ人以外は、過去に何処かからやって来た「新移住者」と言うことになる。その点から考えると、極端な言い方ではあるが、先住民のみがこの北米大陸を支配する権利を持つことになる。

 だが移り変わる長い歴史の中で、支配/非支配の立場が逆転し、現在のような立ち位置になった。その流れを「前編」「後編」に分けて先住民側から追ってみよう。

5月末の衝撃的なニュース

 去る5月27日、カナダ発のショッキングなニュースが、国内はもとより世界の多くのメディアを席巻した。それはBC州内陸部Kamloops市近郊にある建物の、元Indian Residential School(以後IRS)だった近辺で、215人の墓標の無い子供達の遺体が発見されたからだ。

1930年代のKamloopsのIRS(ウィキペディアより)
1930年代のKamloopsのIRS(ウィキペディアより)

 作業に携わった業者やプロセスなどの詳細は明かにされなかったが、先住民のTk’emlúps te Secwépemc 族のチーフによれば、特別なレーダー探知機で遺体の埋葬場所を次々に探し当て、その後先住民の儀式に則り死者の魂を葬ったと言う。誰もがその数の多さに驚愕したが、中には3才位とみられる幼な子の遺骨もあり悲しみが一層増した。

 Trudeau首相はすぐに「先住民の子供たちをコミュニティーから引き離すような当時の政策は恥ずべきもので戦慄を覚える。今回が特例ではない事を知り、カナダ史の暗黒の部分を隠蔽せずに事実を認めなければならない」との声明を出し、全国の連邦政府の建物を反旗にするように命じた。

ビクトリア市にあるBC州議事堂の反旗(筆者撮影)。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders
ビクトリア市にあるBC州議事堂の反旗(筆者撮影)。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders

 8月半ばには今後の発掘作業継続費、IRS生存者たちのヒーリング、心的療法費、モニュメントをオタワに建設する費用等などのために320ミリオンを計上することを決定。又HorganBC州首相も120ミリオンを「期限なしのグラント」とすることを約束した。

 この「期限なし」と言うのは、記録も墓標もない遺体の埋蔵地は、時の経過と共に人の手に渡っている所も多い。となれば、まず現在の所有者から発掘許可を取る必要があり、そうしたプロセスがすんなりと行くとは限らない等の困難が伴うためである。

 しかしこの「墓標のない先住民の墓」と言うのは、全国の数多くの先住民コミュニティーや、またこの方面の調査をしている文化人類学者たちの間では耳新しいニュースではない。PEIとNew Brunswickの2州を除く8州と3準州には同様な墓地が存在する。その為これから発掘されるであろう予測総数は数千体になるとも言われれ、記録などが残っていない事も多く実態を掴むのは至難の業である。

 Kamloopsが引き金になり、遅きにしするものの、置き去りにされた子供たちの遺体が関係者の手で篤く弔われるのは、ある意味で不幸中の幸いと言えるだろう。

ビクトリアの州議事堂前の階段にディスプレイされた子供の靴やオモチャの数々。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders
ビクトリアの州議事堂前の階段にディスプレイされた子供の靴やオモチャの数々。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders

 この問題はすでに何回か先住民関連のニュースの中で、断続的にメディアの耳目を集めてはいた。だが今回は「子供の遺体、その数の多さ」などで波紋が広がり、カナダにおける先住民の歴史が改めて表面化し一般の人々の関心を呼んだことは喜ばしいことである。

 では何故このような事が起きたかを理解するために、当時カナダ連邦政府が行った「先住民政策(Indian Act)」によって進められた流れをごく簡単に追ってみる。(注:各方面からの詳細な情報を集めたものの、出稿元によって数字に違いがある事を記しておく)

連邦政府の「Indian Act政策」 

 周知の通り北米は何処でも先住民達の住む土地であったが、歴史の流れと共に最初に欧州から白人たちが入植して来たことで大きく様替わりした。

1831年:モハーク族の子供を対象に初の寄宿制の学校が、英国国教会主導でBrantford(ON州)に設立された

1867年:連邦政府が「The dominion of Canada」政策を制定。中に「Indian Act政策」があり、先住民に関する指導、教育、文化などは連邦政府が担う事とし、彼等を「インディアン」と称した。ミティス(欧州人と先住民の間に生まれた人)やイヌイットも含まれた

1883年:John Macdonald初代首相がIRSを連邦政府の指導で設立し、子供たちを親元から離し言語、文化、宗教を断ち切る教育をすることを決定。 

1920年:先住民の4~16歳の子供を更に強制的にIRSに就学させた。Dr. Peter Henderson Bryce の報告(1922)には「政府は健康に関して十分にケアせずIRSでの死亡率が高いことも無視」と著している

1950年代:北方全域に6校を設立。1959年にはNWTのInuvikに500人以上のイヌイットが在籍。

1966年10月:12歳のオジブ族の少年がOntario州KenoraのIRSから逃亡して餓死。正式調査の結果IRSが心身ともに大変に負担であった事実が判明。IRSでは日常的にムチでの体罰が行われたり、性的アビューズも多かった

1990年10月:Manitoba州の先住民チーフPhil Fontaine氏は、某集会でFort Alexander IRSでの体験を公表し連邦政府に公開調査を依頼し、1991年に調査開始

1996年:Saskatchewan州Punnichy のGordon IRSを最後に、15万人以上が在籍したとされる全国のIRSを閉鎖。11月にThe Royal Commission on Aboriginal People Final Reportが発表され、IRSの内情が先住民の及ぼした喪失感や精神的トラウマに及ぶ調査をまとめた

2004年:Ontario州Fort AlbanyのAnne’s IRS(1902~1976)に在籍したサバイバーが体験した心身共のアビューズ被害を上告し152の法的訴訟に政府が決着

2007年:IRS Settlement Agreementの契約の中で、政府はIRS関連の人々に補償金を支払った。Truth Reconciliation commission (TRC)へのファンドも設立

2008年6月:Harper元首相が公式謝罪

2015年11月:WinnipegにTRC本部を開設。IRSに関する資料、証言、供述を収集し永遠保存を決定。

 以上に見るようにIRSは連邦政府によって設立されたが、実際の運営は主にカトリック教会が携わったのである。

 政府間との問題は一応決着したが、無数の子供たちが死亡した一方、サバイバーたちの多くは癒えないトラウマを今も抱えている。 

 また1960~1980年までの間には親元から離された2万人以上の子供が、ソーシャルワーカーなどによって孤児院や養子として貰われた。だがその全てが先住民とは関係のない場所や家庭であったため、言語、文化、アイデンティティを喪失した先住民は多い。

(後編に続く)

サンダース宮松敬子 
フリーランス・ジャーナリスト。カナダに移住して40数年後の2014年春に、エスニック色が濃厚な文化の町トロント市から「文化は自然」のビクトリア市に国内移住。白人色の濃い当地の様相に「ここも同じカナダか!」と驚愕。だがそれこそがカナダの一面と理解し、引き続きニュースを追っている。
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