エドサトウ
戦争のない時代に、戦争のない国に生まれたかったと思っても、それは自分の力とか能力では選択できないものがある。
(太平洋戦争)戦後生まれの僕たちの人生には、直接に戦争はなかったが、米国の市民権を得るためにベトナム戦争に従軍して、戦死した若者もいた。また、ぼくらの知人の息子さんは、カナダの軍隊にいて、アフガニスタンで国連の平和維持活動に参加していた折に、パトロール中であったと思われるが戦死されて、遺体となりエドモントの空軍基地にもどってきた。日本から移民してきた両親にしてみれば、軍のミッション(使命)であったのだけれども沈痛な思いであったろうと想像される。
1970年代、日本では交通事故で亡くなる人が一年に一万六千人以上あった。2019年は三千二百十五人であった。こちらも、交通戦争の犠牲者というべきかもしれない。
1970年代の月給は、平均数万円であったろうと思われる。僕の土建会社のアルバイト代が確か一日千円ぐらいであったことから逆算すれば、僕の先輩の方が手取りの給料は少なかったみたいで、憤慨していたのを記憶している。そういう時代にアメリカに行くには、一年分の給料が飛行機代になるような時代に、どうやって僕達若者がアメリカに行くことができようか? その頃に、日本の若者の中には、片道切符でアメリカに渡り、レストランなどでアルバイトをして、帰りの旅費をためたり、英語の勉強をしたりした体験記が本になった時代である。
そういう時代に学校を卒業したばかりの18歳から25歳くらいの僕達若者が、カナダに農業訓練生として渡加してきたのである。僕たちは農業実習で得た給料から飛行機代を移住事業団を通じて毎月返納したのである。大した持ち金もないのにカナダに来られたのは運が良かったのだろうと思う。
本を読んでいたら、「ものごとのなりゆきは運命ではない」という一文があった。私たちの運命は大きな河の流れの中で生きているようなものではあるが、岩に育つ苔のように流されることなく生きることもできるかもしれない。岩をの苔の育つまで長く生き続けなければならぬという事であろうか。物事は成り行きではなく、無意識に自ら選択してのことなのかもしれない。
とにかく、アルバータ州での農業実習を終了してから、50年間仕事を続けられたことは幸運であったと思うが、最近、左の手足しびれて少々不自由になり、健康が心配となり急きょ綜合病院に行き、スキャンなどで検査をしてもらうと、頭などは異常はなさそうであるが、肩と首のあたりの血管と神経が圧迫されている様子で、次の段階はその部分を広げる手術をするかということになり、首のまわりのスキャンを撮ることになり、現在はその連絡待ちである。
カナダの年金を貰える年齢なので、「もうそろそろリタイヤか?」と思う今日この頃である。
時代はかっての産業革命を思わせるように、コロナウイルスの感染症により大きくデジタル産業革命へと変化していこうとしているように見える。働き方がデジタル化で大きく変化をして、そのために中間層の仕事は大幅に少なくなると言われる時代に晩年の人生を生きているものとしては、戸惑うばかりであるが、時代の変化を鳥観で眺めるのも面白いことかもしれない。病なれど面白きわが人生なり。
静かに降りたるクリスマスの雪に、過ゆく穏やかな我が人生に、何の不服があろうか。ああ、面白き人生かな?