第130回「グッド ラック」

~グランマのひとりごと~

 許 澄子

 毎日が「思い出」整理の終活で生きる82歳半のお婆さん。そんなある日、ふっと「若いから出来る事もあるし、年齢をとったからこそ出来る事もある。あそこでなら出来る事もあるし、ここだからこそ出来る事がある。出来る事を探せば、出来る事がある。」とこのお婆さんがしみじみつぶやいていた。

 幼稚園時代から器械体操が大好きで、何とかのチャンピオンなんて言われ、でんぐり返しの好きな孫娘が数年前、サーカス「シルク ド ソレイユ」のオーディッションを受けて合格。世界中から集まった数百人の申請者中から、受かったのがたった7人だったと聞いた。そして、サーカスをやることになった。

 その時、中学生だった彼女は頑張って、日本からカナダのフランス語圏モントリオロールに行った。渡航前に母親がフランス語の勉強を薦めたが、本人は勉強しなかった。日本語と英語が話せるからと「フランス語」の必要性を感じなかったのだ。

 思えば今から約51年前、私達家族が暖かな香港からカナダに移民。最初の居住地はそれは寒いモントリオールだった。更にそこは「静かな革命」つまりケベック州の独立運動の真っ最中だったから、「仏語」が重要で、私は到着と同時に公立仏語学校へ入学した。政府がしっかり生活を守ってくれ学費は無料、週150ドルの生活補助金が在学中支払われた。一家のグロッサリー代は当時週50ドルくらいだった。しかし、1年足らずの勉強で仏語が自由に使えるようにはならなかった。やがて、巷に子供達の教育に関して、英語の公立校は閉鎖、全部フランス語になると噂された。それに就職先も見つからない。やっと建築技師の夫が収入を得る為に友人のレストランでウエイターとして働かせてもらうようになった。そして、ある日、彼が笑いながら言った。「客が去った後、テーブルを掃除していたらね、“ No French No Tips!”って書いた紙が置いてあったんだよ」夫は明るく笑っていた。けれど彼はつらかっただろうなぁ。

 移民して僅か2か月後、頼りにしていた弟夫婦はBC州政府の「worker’s compensation board」に就職が決まり、越していった。我々は彼らの家を買い取り、それでも意気揚々と住み始めたモントリオール。しかし、そこで3年間、頑張ったが先が見えない。結局、弟の後を追うようにバンクーバーへ越したのだ。モントリオールの英系小学校生だった娘も、当時の仏語問題を自然に感じていたから、今回、我が子がモントリオールに行くにあたり、仏語を勉強するように助言したわけだ。しかし、中学生の娘は勉強しない。彼女はそれでも、約1年数ケ月間「シルク ド ソレイユ」でサーカスのトレーニングとモントリオールで普通中学勉強をやった。その間の苦労は並大抵ではなかった様だ。いじめにあったかと心配したが、そうではなく逆に言葉の問題で、多くの人の助けと優しさに支えられたのだという。そういえばここで「苛めの話」はあまり聞かないね。

 その彼女は高校から日本へ戻り、今上智大学の2年生。アルバイトの「でんぐり返し」でテレビ出演や、広告に出たり、結構サーカストレーニングが役立っているようだ。

 ねぇ、「若いから出来る事もあるし、年齢をとったからこそ出来る事もある。あそこでなら出来る事もあるし、ここだからこそ出来る事がある。出来る事を探せば、出来る事がある。」のだよねぇ。