バンクーバー朝日は、戦前にバンクーバーパウエル街で結成された日系カナダ人の野球チームです。当時白人コミュニティでも熱狂的なファンが多かった、バンクーバーで最も有力なアマチュア・チームの一つでした。1941年に日本と連合国軍の間で戦争が勃発するまで、パウエル通りグラウンド(正式にはオッペンハイマー公園)を拠点に活動していました。2022年7月30日、3年ぶりの開催となったパウエル祭で、浄土真宗本願寺派・カナダ開教区バンクーバー仏教会の青木龍也僧侶が、旧朝日軍の選手たちに敬意を表し、追悼慰霊式を執行いたしました。記念式典は夏の日差しがまだ燦々と差す夕方5時から約20分間に渡りました。真っ赤なバンクーバー朝日のチームシャツを身に纏う現役選手、チーム関係者達が参列、祭りに足を運んだ人々も大勢加わり、厳かに黙祷をしました。バンクーバー仏教会の青木僧侶が戦前活躍された選手たちへの敬意と感謝を込めてお経を上げて下さり、参加者代表の方々が焼香しました。
線香の煙が雲一つない青空に登り、黙祷中に一瞬物音がパッタリと消えたパウエル通りグラウンドの会場では、100年の時空を超え旧朝日軍選手が声を掛けあい、キャッチボールをしたり、バントや滑り込みの練習をする音が聞こえてくるような感覚に襲われました。1989年に公開されたフィールド・オブ・ドリームスという映画の “If you build it, they will come.” というよく知られたセリフのように、旧朝日軍の選手たちの霊がこのメモリアルのために戻って来てくれたのではないかと、焼香をしながら想いを馳せていた人達も多々いたことでしょう。オッペンハイマー公園の周りにパウエル祭に集まり行き交う人たちの姿が、戦前に仕事や学校を終えバンクーバー朝日の練習や試合を観に意気揚々と急足で歩く、日本人街の住人や近所に住む白人住人達の姿と重なりました。
日系史の一コマに刻まれるだろう今回の行事は、新朝日軍の発起人のひとりであり、朝日ベースボール・アソシエーションの理事と日本カナダ商工会議所会長を兼任される、サミー高橋さんが発案されました。それには、朝日軍の伝統と永劫を次世代に伝えていきたい、橋渡しをしたいという熱い思いと大義がありました。その目標を実現するため高橋さんは長年に渡り、野球を通して日本とカナダを結ぶ活動にも力を注いできています。今年2022年三月には、オンラインでバンクーバー朝日軍と和歌山桐蔭高校(旧制和歌山中学)の友好100周年記念イベントを朝日ベースボール・アソシエーションと日本カナダ商工会議所の共催で行いました。それがきっかけとなり、旧朝日軍追悼慰霊式を、その延長線上にある元祖朝日軍選手たちへの鎮魂と感謝の意を込め、敬意を表する目的を持ち、多くの関係者達の協力を得て日系コミュニティの伝統であるパウエル祭での実施に至ったのです。
参列者のなかには在バンクーバー日本領事館羽鳥隆総領事からのメッセージを代読された今村香代領事をはじめ、トミオ福村(朝日ベースボール・アソシエーション副会長)、他沢山の関係者が集まりました。強く関心を引いたのには、参列者の中に日系パイオニア移民や旧朝日軍選手の子孫である人たちの顔があったことです。日本からバンクーバーを訪問中であった、工野儀兵衛のひ孫にあたる高井利夫さん、そしてバンクーバー在住の工野儀兵衛のひ孫、ゲリー工野さんは、ひ孫同士の初めての顔合わせも果たしました。さらにオリジナルプレーヤーのひ孫、ワイリー・ウオーターズさん、タイ・スガの孫であるリン富田さんの顔もありました。特に上西功一(ケイ上西)さんは唯一生存されているオリジナルプレーヤーであり、わざわざこの日のために酷暑の中にもかかわらず、カムループスから息子のエド上西さんと駆けつけてくれました。式典では、エドさんが代弁者となり、ケイさんの式開催実現協力関係者たちへの感謝の気持ち、旧朝日軍の思い出なども詰まった謝辞と追悼辞を読み上げました。
感極まった式終了後、祭りに参加してたまたま式に参列したという女性が“なんて美しい瞬間だったのでしょう。まるで選手がそこにいるようでしたよ”と彼女の横にいる日系女性の肩を軽く抱いている姿が目に付きました。周りを見渡すと、人々の顔がとても穏やかになっていたのも見受けられたのです。魂を鎮められたのは旧朝日軍選手だけではなく、今に生きる現役朝日軍選手や関係者、そして偶然その場に居合わせた多くの参加者達でもあったのでしょう。バンクーバー朝日史を振り返ることは、古きをあたため新しきを知る、日系史を学び尊ぶことに繋がったと信じます。平和な気持ち、明日への希望をもたらしてくれ、バンクーバー朝日の強制解散から約80年後のパウエル通りグラウンドに、旧・新バンクーバー朝日チームやそのサポーターが再び集まれた事に心から感謝し、合掌。
(寄稿 日本カナダ商工会議所リポーター)