「洋平先生、こっちきてー!」と子どもたちから人気の日本語教師高羽洋平さん。そんな洋平先生は知る人ぞ知る「スーパー人間」。カナダに来る前は、中京テレビの「オドぜひ」にスーパー人間として出演し、その後商社に就職するも、脱サラ。現在は自分の夢を叶えるべく、バンクーバーで日本語教師として活躍している。今回は、そんな「洋平先生」に話を聞いた。
–世界で活躍したいという夢を持ち総合商社に勤めていたということですが、辞めるきっかけは何でしたか?
僕の場合は、根本的な夢が叶えられていないということに気づいたのがきっかけです。輸出入の仕事なので、海外取引をして、実際にインドネシアにも出張で頻繁に行き、はたから見たら順風満帆の生活のように思われていましたが、心は全く満たされていませんでした。結局僕がどれだけ良いパフォーマンスをしても、一社員が会社内で活躍しているだけであって、舞台は世界じゃなくて、会社じゃないかと…。会社の名前は評価されても、高羽洋平という名前は出てこないんですよね。
それだったら、自分の手で海外で活躍するチャンスをつかみたいなって思うようになりました。それが入社して1年目の終わりごろでした。
–思っていることを行動に移すのは簡単なことではなかったと思います。
めちゃくちゃ悩みましたよ。休みの日もずっと四六時中考えていました。「仕事を辞めたい」よりも「何か新しいことにチャンレジしたい」で悩んでいたので、何かにつながればいいなと、ビジネスやら自己啓発やら小説やら色んなジャンルの本を読み漁りました。若手の読書交流会にも毎週土曜日の朝に参加しました。僕のように今置かれている現状に疑問を持つ人たちも多く、次第に外の社会に対する理想が強くなっていきましたね。そうしているうちに、何十年も先が見えているレールに乗ったままの人生に怖くなって、入社3年目に会社を辞める決意をしました。
–大決断でしたね。
はい。「何、考えてるんだ」「もったいない」って、背中に穴が開くほど後ろ指を刺されましたよ(笑)
僕が一番気になったのは親でしたね。安心していた親を不安にさせるのが申し訳ないなと。しかも仕事を辞めた時は、(新型)コロナ(ウイルス)禍で海外に行けるかどうかわからなければ、仕事や生活の担保もない状態だったので。それだけに、自分の選択は間違ってなかったと証明できるよう、将来に対して強い責任感が生まれました。
今となればあの時反対してくれた人たちが、僕のモチベーションにもなっています。親身になって心配してくれたからこそ反対したわけであって、彼らにも顔向けできるようがんばろって思うようになりました。
–そしてカナダで日本語教師という夢を得たと?
はい。当時コロナ禍で渡航できる国がカナダだけで、とりあえず海外に行けるチャンスがあればそこから広げようと思い、すぐ決断に至りました。日本でチンタラしている時間が僕にはなかったんですよね。
そして、カナダでの学生生活に慣れてきた頃に、僕の強みってなんだろうって考え、日本語教師という職が向いてるかもって思ったんです。英語が話せて当たり前の世界で、日本語が話せること、教えるのにも自信がある、教師という仕事にも親近感がある。だって僕の実家って、父も母も姉たちも、全員教員なんですよね。これだ!と思って、日本語教師育成講座を受講しながら、限られた時間を無駄にしたくなかったので、日本語学校での仕事探しも並行して始めました。
–すばらしい行動力ですね。
子どもの頃から人と同じことをするのにストレスを感じていて、こんな自分は変なのかな?って劣等感を抱いてましたが、そのコンプレックスがたまに強みになってくれることがあるんですよね。
仕事探しにしても、周りはみんなカレッジのコープ提携校の中で仕事を探していましたが、僕は外に出て自力で仕事をゲットしましたし、前職にしても、みんなが就職3年目でこの会社でバリバリがんばろうって時に辞めましたし、今、力を入れているSNSにしても、日本語の良さをどうやって伝えようか考える時、ほかの人がやっていないことを探しています。
–日本語教師となった今はどんな毎日ですか?
カレッジのコープを終え、ワーホリとしてバンクーバーにいる現在も引き続きバンクーバーの日本語学校で教師として活動しています。子どもたちがたくさん集まり、日本語学習を共有できる場所としてはこの学校の存在は大きいですね。またオンラインスクールでも世界中の日本語学習者に日本語を教えています。
また最近ではノースショアで日本語クラブの共同オーガナイザーとしても活動しています。ノースショアには日本語学校がなくて、距離的な理由で日本語学校に通わせるのが難しいご家庭が多いことを知り、そんな子どもたちの役に立ちたくて、このクラブを始めました。ここではカリキュラムから授業まで僕が作っていますよ。
全く違う3つの教育環境で、どうやって日本語を教えるのが生徒たちにとって最善なのかを考えて授業の準備をしています。授業が終わったあとに「帰りたくない」「楽しかった」なんて言ってくれる子どもたちを目にすると、たくさん準備した甲斐があったなとうれしくなりますね。この仕事ではお金では得ることができないもっと大切な何かがあるように感じています。
–商社時代に探していた心の満たしを現職で得ているようですね。
そうですね。日本語を話せない、あるいは話そうとしない子どもたちが、しゃべろうとしたり、しゃべりたいと変わっていく姿を見て、自分の好きな仕事が誰かの役に立てているのを実感しますね。この職を選んで本当に良かったと思います。
今は、次のステップとして僕にしかできない授業、いわば高羽洋平というブランドを作って、それを世界中に広めることを目標としています。そこでHop! Step! JAPAN!というオンライン団体を作りました。現在11,600人が登録し、世界中の日本語学習者と日本語教師を目指している人たちを結ぶ役割を果たしています。日本語教師としての僕の活動を見て、この仕事に興味を持ってくれる人たちが増え、日本語教育の発展につながればいいなと思っています。
人生に伏線を
自分というブランドで活躍したいという目標を持つ高羽洋平さん。「何気ない毎日が実は未来の大きな伏線になっているかもしれない」。その可能性を信じ、いまバンクーバーで挑戦の毎日を送っている。
(編集部)
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