「ジョニ・ミッチェル/未来の古典」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第7回

謹賀新年

 令和五年の始まりです。皆様にとって素晴らしい1年に成りますよう祈念しております。

 今年も「音楽の楽園〜もう一つのカナダ」をよろしくお願いします。掲載の媒体が今月から「日加トゥデイ」に代わりますが、今まで同様、カナダが生んだ偉大なる音楽を紹介して参ります。引き続きの皆様に読んで頂ければ、望外の悦びであります。

 という訳で、今年最初の連載は、ジョニ・ミッチェルです。

COP15とジョニ・ミッチェル

 ジョニ・ミッチェルと言えば、映画「いちご白書」の主題歌となった「サークル・ゲーム」、「青春の光と影(Both Sides Now)」、「ウッド・ストック」等のヒット曲で知られるカナダが生んだシンガー・ソングライターの大御所です。しかも、最初期のフォーク的スタイルから音楽のウィングをロック、ジャズ・フュージョン、更にはクラシックへと大きく拡げ、独特の存在感を示しています。ファルセットを主体とする歌声は、永遠に若々しく、同時に年齢不詳でもあります。1943年11月7日生まれで今年は傘寿になります。そんなジョニ・ミッチェルが、2022年7月、ニューポート・フォーク祭にサプライズ出演しました。フル・セットでのライブは20年ぶりで、話題を集めました。

 2022年末にかけて、そして、彼女の名前が意外な形で最近のニュースで流れました。12月15日、モントリオールの国際会議場で開催された生物多様性条約第15回締約国会議、COP15でのことです。COP15ハイ・レベル・セグメント議長のスティーヴン・ギルボー加環境大臣の声明の冒頭です。

 「今から50年ほど前、カナダの優れたアーティスト、ジョニ・ミッチェルが『私たちは楽園を舗装して駐車場をつくった』と歌い、そこに環境保護のメッセージを託していた。私たちはジョニ・ミッチェルの音楽を聴き、一緒に歌ったものだ。しかし、私たちは彼女が込めたメッセージを本当に理解していたのだろうか。私たちは自然を支配するのではなく、自然と調和して生きていかなければならない。そのために残された時間はわずかだ。今こそ、行動を起こす時だ」

 ギルボー大臣と言えば、若い頃から環境保護活動に真剣に取り組み、時には過激な行動も躊躇しない人物として知られる存在でした。極めて重要な国際会議の鍵になる声明でジョニ・ミッチェルに言及し、国際世論に訴えている姿は、ギルボー大臣の面目躍如ですね。

 ここに言及されたジョニ・ミッチェルの歌は、1970年4月リリースの3枚目音盤「レディズ・オブ・キャニオン」収録の『ビッグ・イエロー・タクシー』です。ジョニ自身が刻む生ギターのコード・カッティングが生む躍動感溢れるリズムと彼女が多重録音したコーラスがサウンドの核になって、ジョニ節のメロディーに乗った歌詞は強靭です。ボブ・ディランから五輪真弓までカバーしたのも頷けます。この時26歳。ジャケット・デザインも自ら手掛ける画家でもあります。恋多く、知性に溢れた才媛の音楽的冒険が本格化してゆくのです。

 それにしても、ジョニ・ミッチェルの時代の先を読む眼力はさすがです。

サウンド・クリエイターの誕生

 ジョニ・ミッチェルの最初期の音楽スタイルは、生ギターの弾き語りでした。故に、彼女の音楽はフォーク或いはフォーク・ロックと分類されていました。が、1970年代になると音楽的変貌を遂げ、時代を率いるサウンド・クリエイターに急速に成長します。

 1970年8月、英国はワイト島で開催された野外フェスでの出来事です。60万人の聴衆が詰めかけた、英国版ウッド・ストックとも称されています。ジミ・ヘンドリックスの最後の公演としても有名ですが、マイルス・デイビス、ドアーズ、エマーソン・レイク&パーマーら最先端のアーティストが出演。シンセサイザーをはじめとする電気楽器もが前衛の響きを奏でたのです。そんな中で、ジョニ・ミッチェルは生ギター、生ピアノ、ダルシマの弾き語りです。彼女の自信と誇りの現れでもあり、異彩を放ちました。一方、聴衆はより刺激の強い音楽を求めます。一部の聴衆は、彼女の演奏中に激しくヤジり暴徒化ました。これに対し、「私に敬意を払え」と堂々と諭す26歳のジョニの姿が記録されています。

 翌1971年6月、ワイト島と同じフォーマットで、ジョニ1人だけで、生ギター、ピアノ、ダルシマの弾き語りで録音した音盤「ブルー」を発表します。彼女の最傑作の一つで商業的にも成功しました。1人の音楽家の表現の極地を極めたもので、シンプルは美しいを証明しています。が、ジョニの音楽的冒険は、ここから本格化し、彼女の歌を際立たせると同時に聴取をも刺激する最良の伴奏を探究します。

 そして、君主は豹変します。

 1972年、新作「バラに送る」は一転、ジャズ・フュージョンの奏者、更にはストリングスをも登用し、サウンドの幅を大きく拡げました。彼女の頭の中に流れるフォーク、カントリー、ブルース、ロックンロール、ジャズ、更にはクラシックが混然一体となった音楽が遂に表に出てきたのです。この音盤は、ジェームス・テイラーとの恋の終焉の時期にあたり、彼女の心模様が歌詞に滲んでいます。

 この音盤を境に、時代の最先端のサウンドを大胆に取り入れ、ジャズ・フュージョン系の若手を積極的登用し始めます。エレクトリック・ベースの革命児、ジャコ・パストリアス、現代ジャズの雄パット・メセニーやマイケル・ブレッカーを率いた実況録音盤「シャドウズ・アンド・ライト」は、時代の音を体現。ジョニの歌の本質は不変ですが、伴奏が変わる事で一層モダンに響きます。ジョニ・ミッチェルは新しい段階に到達し、ロックとジャズとクラシックが融合した前人未到の境地へと進んでいきます。

 2007年には、巨匠ハービー・ハンコックがジョニの音楽への敬意を込めカバー音盤「リバー」を発表。彼女の音楽の革新性と普遍性が改めて浮き上がります。

故郷はサスカチュアン

 ジョニ・ミッチェルは、1943年11月7日、アルバータ州フォートマクラウドに誕生します。父はノルウェー系移民の血筋。空軍中尉で、フォートマクラウド空軍基地で新人パイロットの指導にあたっていた軍人でした。第2次世界大戦終戦後に除隊し、サスカチュアン州で商売を始めます。メイドストーン等、州内を転々とし、ジョニが11歳の頃、州最大の都市サスカトゥーンに落ち着きます。そして、サウカトゥーンこそ、ジョニ・ミッチェルが音楽的冒険に踏み出した街です。

 11歳の頃のポリオ罹患で、左手・指に後遺症が残ったのです。音楽に目覚めギターを始めると、コードを押さえる左手・指に不自由があるが故に、独自のチューニングを編み出し、開放弦を多様する唯一無二の生ギター・サウンドを生み出します。『必要は成功の母』であり『塞翁が馬』、或いは『災い転じて福と成す』でしょうか。

 第2に、ジョニが音楽のほぼ全てを学んだと言う一枚の音盤とこの街で出会います。ランバート、ヘンドリックス&ロスの「The Hottest New Group in Jazz」です。この音盤を聴き倒して、歌唱法、ハーモニー、和声と旋律の関係、伴奏のあり方等々を会得したのです。自分にとっての音楽の原典だったと、ジョニ自身が語っています。

 第3に、ジョニが初めてプロとして演奏し報酬を得た街です。1962年10月31日、19歳の誕生日の1週間前、サスカトゥーンのクラブです。これをきっかけに、サスカチュアン州、更にはアルバータ州等の西部諸州の小さなナイト・クラブ、ライブ・ハウスで歌い、やがて東部トロント、そして米国はロサンゼルスへと進出していく原点です。

 米国、そして世界で大成功のジョニ・ミッチェル。

 彼女が何処の出身かは、特別に意識する必要もありません。が、ジョニ・ミッチェルには紛れもなくカナダ人としてのアイデンティティがあります。故郷はサスカトゥーンだと公言しています。1976年リリースの「逃避行」に収録された『シャロンへの歌』は、彼女の自伝的要素が滲んでいます。

 ジョニ・ミッチェルの進化し変貌し続けた音楽を聴き倒してみれば、彼女を育んだカナダが体感出来ると思います。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身