バンクーバーでがんと闘っていた米澤(ハリー)幸也さんが4月6日、永眠した。最後の最後まで生きる望みがある限り治療を続けたいと生前語っていたと朝日ベースボールアソシエーション副会長福村十三郎さんは話した。
米澤さんがバンクーバーに滞在していた期間は比較的短い。それでも彼のポジティブな言動は周りに良い影響しか与えなかったと振り返った。
思い出は尽きないという。米澤さんはバンクーバーで学校に通いながら、バンクーバー朝日でボランティアコーチをしていた。チームで彼がいかに慕われていたかは、今年1月の新年会での様子が物語っている。
常に前向き、0.000001%でも可能性があることにはチャレンジする。朝日でボランティアコーチをするきっかけも本人の熱い希望によるものだったと福村さんは言う。「何度も、何度も、しつこくメールが来たんですよ。まだシーズンオフだと言っているのに」と笑った。
日本でも、バンクーバーでも続けていたことがある。ゴミ拾いだ。以前に見たドキュメンタリーでゾウのお腹から大量のゴミが出てきたことにショックを受け、それ以来毎日ゴミ拾いを続けていたという。
強い思いを持ち続け、実行できるのが「ハリーのすごさ」と語る。
もう一つのエピソードは、阪神園芸への就職。米澤さんは就職を希望していたが当時求人は出ていなかった。でも求人がないからチャンスがないということにはならないらしい。求人がなくても就職できるチャンスがあると思えば、何度でも挑戦する。阪神園芸と言えば、甲子園のグランド整備を請け負っている会社として知られている。もちろん、スポーツ施設本部スポーツ施設部に就職した。
福村さんによると、お父さんにとっても自慢の息子だったという。
その生き方は、見逃し三振をしないと決めていた感じに似ていると語る。空振り三振なら納得できる。でもチャンスがある限りバットを振ってファウルで粘る。粘って、粘って、チャンスをつかむ。そんな人生だったのではないかと思う、最後は力尽きた空振り三振ではない、「きっとボールがなくなってしまったのだと思います」と話した。
しかし、ハリーさんのあきらめない精神はきっとバンクーバー朝日の選手を含め、彼と触れあった全ての人に受け継がれていくだろうと期待している。15日には偲ぶ会がニューウエストミンスターで行われた。23歳の早すぎる旅立ちを、バンクーバー朝日の関係者、友人・知人が集まり、見送ったという。
福村さんは「ハリーにかける言葉は『ありがとう』、その一言しかないです」と語った。
(文・三島直美)
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