4月の声を聞き、春の到来を感じる日々です。今年の冬は暖冬で、オタワ名物のリドー運河の天然スケート・リンクがオープン出来ませんでした。それでも、兎に角私にとって初めてのカナダの冬を無事に過ごすことが出来ました。実は、3月下旬に数日間ですが要務帰国しました。東京は既に桜がほぼ満開でしたが、オタワに戻ると氷点下10℃近くまで冷え込む日もありました。やはりオタワは世界一寒い首都なのだと実感した次第です。
さて、北の大地カナダの音楽ですが、8000キロに及ぶ陸上の国境で米国と接し、大西洋を挟んで英国と向き合う地理的な状況もあって、英米からの影響が非常に大きい訳です。しかもカナダで売れたアーティストの多くが米国を拠点に活躍する事も多いです。その意味で米加の音楽はほぼ一体化しているようにも見えます。が、カナダは、米国とは幾分異なりヨーロッパ的なニュアンスを持つ個性溢れる偉大なバンドを輩出し続ける音楽の楽園です。そして、カナダを拠点に、北米で活躍しているバンドも少なくありません。今月は、ラッシュを取り上げます。
ロックの歴史
ラッシュの成り立ちをより良く知る上で、ロックの歴史を概観するのも意味があると思います。
1956年、エルビス・プレスリーが彗星の如く登場します。エド・サリバン・ショーに出演し、その声と官能的な歌い方とロックンロールのビートで全米を虜にします。「ハートブレイク・ホテル」が全米1位を獲得した頃からロック・ミュージックは怒涛の勢いで発展します。英国では、エルビスの影響を受けたビートルズが誕生。ティーンエイジャーの圧倒的な支持を得て社会現象にまで発展します。しかも、単なるエンターテイメントの域を超えて、音楽的に怒涛の勢いで成長し、既存のポップ・ミュージックを革新しました。その影響は留まるところを知らず、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、キンクス、クリーム、ディープ・パープル等々数多の偉大なバンドがロンドンから世界に多彩な音楽を発信します。
1970年にビートルズは解散しますが、そこからロック・ミュージックは加速度的に進化します。最大の要因は、シンセサイザーやメロトロン等の最先端技術を導入したキーボード群の登場です。ジャズやクラシック音楽の素養のある鍵盤奏者が、それまでのエレキ・ギター中心のロック・バンドのあり方を大きく変えます。キング・クリムゾン、ピンク・フロイド、イエス、エマーソン・レイク&パーマ等のプログレッシブ・ロック系のバンドが台頭します。
進化の波がカナダを襲いラッシュが生まれた
そんなロック・ミュージックの進化は、幾つもの波となって北の大地カナダにも繰り返し押し寄せます。そして、その影響を受けつつロックはカナダで独自の進化を遂げます。その好例がラッシュです。3人のメンバーはいずれ劣らぬ溢れる才能の持ち主。ゲディー・リーは歌、ベース、シンセサイザーを担当。アレックス・ライフソンはギターを筆頭に弦楽器。ニール・パートはリズムの鬼にして文学少年。北米におけるプログレッシブ・ロックの先駆者にして、ボストン、ミスター・ビッグ、ガンズ・アンド・ローゼズ等の米国のバンドにも影響を与えています。優れたアルバムを何枚も発表しています。2013年には「ロックの殿堂」入りしました。
しかし、ロック史の論評や名盤特集で取り上げられる事は残念ながら少ないのです。シングル盤の大ヒット曲が少なく商業的に大成功とは言い難く、成功した同僚バンドとは異なりカナダを拠点とし続けた事も影響しているかもしれません。
改めてラッシュを聴けば、時代の先を行く画期的バンドであったと再認識します。正当に評価される日が来ると確信しています。
「パーマネント・ウェイヴス」
代表作は1980年発表の『パーマネント・ウェイヴス』です。4つの要素が絶妙の比率で溶け合っています。
第1に、旋律と歌詞。音楽の核心です。ポップにして哀愁を感じさせ、時に刺激的なメロディーです。加えて、純文学からSFまで造詣の深い本の虫であるドラム奏者にして詩人のニールが書く深遠な歌詞が深みを与えます。言葉が旋律に乗り素晴らしい歌が生まれます。
第2に、ゲディー・リーのヴォーカル。透明感のある芯の強い声です。極めて正確な音程で、超高音域を軽々と歌い、“魔女”の如き声と評されることもあります。唯一無二です。敢えて例えるならば、ジョン・アンダーソン(イエス)とロバート・プラント(レッド・ツェッペリン)とアクセル・ローズ(ガンズ・アンド・ローゼズ)を足して3で割ったような特別な声です。
第3に、引き締まったバンド・サウンド。ニールは躍動感溢れるリズムを刻みかつ多彩なパーカッション群で色彩感抜群です。ゲディーが弾くベース・リフが曲の骨格を構築。その上に、アレックスのエレキ・ギターが舞います。着実なコード・ワークから超高速フレーズを駆使したアドリブまで自由自在です。聴く者の胸を掻き毟り、何か素晴らしい事が始まる予感を与えます。
そして、第4の要素がプログレッシブ・ロックの神髄シンセサイザーを活用したシンフォニックな音創りです。聴く者の脳を刺激します。クラッシック音楽として権威の塊のように扱われている音楽も、それが作曲された当時においては時代の最先端を行く音楽だったのだと感じます。
ラッシュ誕生秘話
ラッシュの原型となるバンドの結成は1968年8月に遡ります。トロント近郊のウィローデール地区での出来事です。音楽的早熟の高校生アレックスは15歳にして、幼き頃からの友人と3人組のバンドを結成。練習を重ね、初公演に臨みます。場所は、トロント郊外ノース・ヨークの聖セオドール・カンタベリー英国教会の地下に設けられていた青少年センターです。実は、公演が決まった段階では、未だバンド名は有りませんでした。簡潔にして特徴的な名称が良いという事で、ラッシュ(Rush)と決めます。この初公演で、メンバーは25カナダ・ドルの報酬を得たと云います。
その後、アレックスと2人の友人は練習に明け暮れ、ラッシュとしてライブ活動を続けますが、メンバー間の実力差が目立ち始めます。圧倒的なアレックスのギターに見合う優れたヴォーカルを探します。と、ベース奏者兼リード・ヴォーカルとして参加するのが同い年のゲディーです。この2人の出会いこそラッシュの核心です。知る人ぞ知る地元のバンドに成長します。が、高校生であるが故に様々な制約がありました。例えば、酒類を出す店舗等には出演出来ませんでした。が、1971年に飲酒年齢が18歳に引き下げられ、高校生とはいえメンバーが18歳になっていたラッシュはクラブ出演が可能になります。幅広い年齢層の客の前で演奏することでバンドの実力は飛躍的に上がります。しかも出演料を稼ぎながら。若くして、プロ意識に芽生えていく訳です。そして、大手マーキュリー・レコードと契約します。
デビュー盤『ラッシュ』は1973年11月に録音、翌74年1月にリリースされます。全8曲は全てゲディーとアレックスの作品。この時、2人とも弱冠20歳。偉大なバンドのデビュー盤には、そのバンドの過去と未だ見ぬ将来の可能性が潜んでいます。ラッシュの場合もそうです。レッド・ツェッペリンの影響は顕著ではあるものの、鋭角的ギターと超高音ヴォーカルには甘過ぎないポップ感が溶け込んでいます。ラッシュの個性の萌芽です。恐るべきロック小僧がその全貌を見せ始める訳です。
幸先良く、国境の直ぐ南の米国はオハイオ州のDJ達がデビュー盤収録の「ワーキング・マン」を好んでオンエアします。商業的成功に直結した訳ではありませんが、ラッシュの認知度が高まって行きます。次の音盤が期待されます。ラッシュの飛躍の鍵を握る新ドラマーとしてニール・パートが加入。1974年12月の事です。ここに鉄壁の3人組ラッシュが完成します。
危機の克服
新生ラッシュは、75年2月『夜間飛行』を発表。怒涛の勢いで、75年7月には続く『鋼の抱擁』を録音し9月に即刻リリースします。ラッシュ流ヘヴィメタルをコアなファンは高く評価します。しかし、商業的には全く駄目。マーキュリー・レコードは契約打ち切りを決めます。音楽は芸術ですが、レコード会社は私企業です。利益が不可欠です。エンタメ業界の厳しい現実です。
1976年2月、ラッシュは最後の録音に臨みます。この時、メンバーは弱冠22歳。怖いもの知らずの好奇心の塊です。一方、野心も巨大です。ここで3人は生き残りを賭けて従来の路線からの大胆な脱皮を図ります。ラッシュ・サウンドの核であるヘヴィメタルを維持しつつシンセサイザー等を大胆に導入して交響曲的な楽曲で勝負をかけます。それが「西暦2112」です。ここにヘヴィメタとプログレが融合したラッシュの個性が確立します。商業的にもカナダのチャートで5位、米国では61位と善戦。首は繋がりました。そして、上述の「パーマネント・ウェイヴス」が大成功する訳です。そして、名盤を生み続けます。
最終章
何事にも終わりはあります。2012年6月、ラッシュ最後のスタジオ音盤「クロックワーク・エンジェルズ」がリリースされます。不動の3人組は既に59歳。とは言え、瑞々しいサウンドは、とても還暦直前の親父が奏でているとは思えません。ゲディーの声も健在です。商業主義に負けぬラッシュの核を刻んでいます。
2015年は、新生ラッシュ誕生から40年の節目という事で「R40」と銘打ち3ヶ月余にわたる北米ツアーを敢行します。が、終了後、ニールは、自身の腱鞘炎が悪化し引退の意向を明らかにします。波乱万丈の半世紀に迫るラッシュの音楽的冒険は、スタジオ音盤19枚、ライブ音盤11枚を残し、このツアーを最終章として完結しました。名実ともに最後の音盤となる「R40 LIVE」はCD3枚組で全30曲、収録時間195分57秒。音質はさて置き、ラッシュの歴史と真髄が詰まった名盤です。
ヘヴィメタとプログレを融合させロック・ミュージックの進化を体現したラッシュ。カナダの誇るロック史に刻まれるスーパー・バンドです。
(了)
山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。
山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身