「ザ・バンド」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第13回

 音楽ファン、カナダ・ファンの皆様、こんにちは。

 7月も下旬、オタワの盛夏です。暑過ぎず、湿度もほどほどで快適な夏です。空は何処までも青く、白い雲も芸術作品のようです。こんな夏なら永遠に続いて欲しいと思います。今、この瞬間は、全く秋の気配はありませんが、オタワの夏は短いのが現実です。

 さて、今月は「ザ・バンド」です。昨年7月から「音楽の楽園〜もう一つのカナダ」の連載を始めさせて頂きましたが、この機会を待っていました。と言うのも、ザ・バンドは単にカナダの出身という事だけではなく、是非とも語りたい事が多いのです。そもそも、5人の不動のメンバーのうち、事実上のリーダー、ロビー・ロバートソンを含め4人はカナダ人ですが、要のドラム兼ボーカル、リヴォン・ヘルムは米国はアーカンソー州出身です。ザ・バンドは、その優れた演奏能力でボブ・ディランのバックアップ・バンドとして、ロック史の重要局面の渦中にいました。独立してからは、米国を拠点に活動します。それでも、いや、それだからこそ、カナダ人としてのアイデンティティを強く意識していたようです。カナダの歴史を正面から捉えて直裁に歌っている歌があるのです。

 ザ・バンド最後期の『Northern Light – Southern Cross(南十字星)』というアルバムの4曲目「Acadian Driftwood(アカディアの流木)」という曲です。ほとんどのロック・バンド、いや全てのポピュラー・ミュージックはラブ・ソングに尽きると云っても過言ではない中、ザ・バンドは歴史に題材を求めていて異彩を放っています。初めて聴いたのは、この音盤がリリースされて2年後で、僕は大学1年生でした。生ギターの美しいイントロが印象に残る佳曲で直ぐ好きになりました。実は、日本盤よりも安い輸入盤を買って聴いていたので、歌詞カードは無く、何を歌っているのか分かってませんでした。Acadian driftwood and gypsy tailwind というフレーズとメロディーから、夢敗れた男が故郷を思う歌だと思い込んでいました。そして、40年余を経て、カナダに住み、1754年のフレンチ・インディアン戦争、アブラハム平原の戦いやアカディア人追放、1763年のパリ条約等々カナダの歴史を知った上でこの曲を聴くと、全く別次元の感動と感慨があります。ジャン・クレティエン元首相を公邸の夕食会にお招きし、政治や外交、更には歴史の話題で大いに盛り上がった際に、この曲をかけました。元首相は目を閉じて真剣に聴いておられた姿を印象深く憶えています。

 それでは、ザ・バンドの世界に参りましょう。

トロントの神童

 どんな物語にも始まりがあります。ザ・バンドは5人編成ですから、結成以前に其々のメンバーの人生がある訳です。5人とも優れた音楽家ですが、まず、ギタリストにして作詞作曲、プロデューサー、事実上のリーダーであるロビー・ロバートソンから。1943年7月生まれで、トロント出身です。父はユダヤ人でプロのギャンブラー。母はモホーク族インディアンです。ロバートソンが幼かった頃、父は交通事故(轢き逃げ)で他界。貧しい家庭環境で育ったと云います。が、母の実家のあるトロント郊外のシックス・ネーションズ保護区を頻繁に訪れていて、そこで7歳の頃、年長の従兄弟からギターの手解きを受けます。と、瞬く間に上達。13歳にして、プロとして活動し始めます。14歳で「ロビー&リズム・コーズ」という自らのバンドを結成します。その後、離合集散を経て「ザ・スエーズ」に発展し、活動を本格化させます。神童の面目躍如です。

運命の扉

 1959年10月5日、運命の邂逅が扉を開きます。経緯はこうです。

 この日、ロバートソン率いるザ・スエーズはCHUMという地元ラジオ局が運営するクラブに出演します。と、そこで彼らの演奏を観ていたのがロカビリー歌手ロニー・ホーキンスだったのです。ホーキンスは、米国南部アーカーソン州を拠点に活動し、全米ポップ・チャート26位のヒット曲もある実力者です。トリビアですが、ホーキンスは、マイケル・ジャクソンの“ムーンウォーク”の30年以上前に、“キャメル・ウォーク”と当時呼ばれたマイケルの元になったステージ・パフォーマンスを行っています。そんなホーキンスですが、米国でのロカビリー人気が下火になったため、バックバンド「ホークス」を引き連れ、1959年春に拠点をトロントに移します。

 ホーキンスの狙いどおり、カナダでは大人気を博しますが、米国南部から来たメンバー達は、なかなかトロントの生活に馴染めず、ドラムのリヴォン・ヘルムを除いて帰郷してしまいます。困ったホーキンスは、新たに「ホークス」の面子のリクルートに乗り出します。そこで、白羽の矢が当たったのが弱冠16歳のロビー・ロバートソンでした。最初の一音を聴いて「天才だ!」と分ったと云います。

 この後、別々の地元バンドで活動していたベースのリック・ダンコ、ピアノのリチャード・マニエル、そしてオルガン及びサキソフォン担当のガース・ハドソンが順次「ホークス」に参加して来ます。ホーキンスには若き才能を見抜く眼力があった訳です。ここで、ハドソンについて一言。ザ・バンド5人は全員が様々な楽器をこなす楽才溢れる優れた演奏家ですが、正規の音楽教育を受けている唯一のメンバーがハドソンです。ウエスタン・オンタリオ大・音楽学部でバッハの教会音楽と平均律を専攻。但し、クラッシック音楽を窮屈に感じ、ドロップアウトしています。土臭いブルースに洗練さを与え、シンセサイザーも弾き熟す熟練のミュージシャンです。ここに、ザ・バンド不動の5人が揃います。

祭の準備

 ロビー・ロバートソン、リヴォン・ヘルム、リック・ダンコ、リチャード・マニエル、そしてガース・ハドソンの5人は、ロニー・ホーキンス&ホークスとしてトロントを拠点に活動を続けます。筋金入りのパフォーマー、ホーキンスのバックで演奏することで、プロの演奏家として徹底的に鍛えあげられます。そして、実力をつけたホークスの5人は、永遠にバックバンドの地位に甘んじる気は無く、いつかは陽の当たる場所に出るという野望を持っていました。青は藍より出て藍より青し、です。1963年末をもって、ホークスは独立します。

 1964年、最年長にして歌も歌えるドラマーに敬意を表し、バンド名は「リヴォン&ザ・ホークス」として活動を開始します。準大手アトランティック・レコード傘下のATCOレーベルと契約し、シングル盤をリリースし、カナダと米国をツアーします。但し、ヒットとは無縁。演奏家として高水準ではあるものの、地道に活動する日々が続きます。が、何事においても継続は力です。倦むこと無く音楽をし続ける中で次に繋がる出会いがあります。ブルース歌手兼ハーモニカ奏者ソニー・ボーイ・ウィリアムソンとの共演は、真のブルースへの覚醒でした。そして、1965年、遂にボブ・ディランと出会います。

邂逅〜飛躍

 1965年は、ロック・ミュージックが単なる娯楽の音楽から前衛芸術の域に達する重要な年です。この年、ビートルズは傑作「イエスタデイ」を含む音盤『ヘルプ』、そしてサイケデリック・サウンドの嚆矢となる『ラバーソウル』をリリースします。ボブ・ディランは、生ギターの弾き語りで反戦歌を唄うフォーク・シンガーから脱皮し、エレキ・ギター、オルガン、ベース、ドラムスを導入。65年8月、代表曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」を収録した『追憶のハイウェイ61』を発表します。反戦フォークの雄がロックンローラーに豹変したと大きな話題になります。

 そして、ディランは1965年秋から66年にかけて全米ツアーそして全英ツアーを企画します。そこで、バックバンドが必要になる訳ですが、ディランの友人らがトロントに素晴らしいバンドがいる旨助言します。そこで、実際にディランはリヴォン&ザ・ホークスを聴きに来ます。そこで、ギタリストのロバートソンを雇おうとします。が、ロバートソンは、自分を雇うならば、ダンコ、マニエル、ハドソンを含めたリヴォン&ザ・ホークスの5人全員を雇うよう要求します。全く無名のロバートソン22歳とスーパースター・ディランの折衝です。ディランは、ロバートソンのギターに惚れ込んでいましたし、信頼出来る人物だと得心しました。此処には、若き音楽家の友情と音楽的同志の矜持が滲んでいます。ディランは、5人全員をバックバンドに採用。「ボブ・ディラン&ザ・バンド」名義で、1965年9月から66年5月にかけてコンサート・ツアーに出ます。

 いく先々で、ディランは毀誉褒貶に晒されます。特に、伝統的フォーク・ファンや音楽評論家は、ディランは魂を売ったと酷評します。1966年5月17日、英国はマンチェスターでの公演では、聴衆から「お前はユダ(裏切り者)だと」とのヤジが起こり、場内が騒然とする中、ディランは「君こそ嘘つきだ」と言い返し、バンドメンバーに「Play it fucking loud (とびっきりの大音量で行こう)」と声をかけて「ライク・ア・ローリング・ストーン」を演奏します。この場面は、巨匠マーチン・スコセッジ監督のドキュメンタリー映画「ノー・ディレクション・ホーム」に克明に記録されています。いずれにしても、斬新な事を始めれば、批判はつきものです。が、聴衆は電化したディランを愛し、評価します。結果、『追憶のハイウェイ61』は全米アルバムチャート3位、全英4位と大成功します。ディランを支えたザ・バンドについても音楽関係者の評価は大いに高まります。

 しかし、好事魔多し、です。

ザ・ビッグ・ピンクと地下室

 1966年7月29日、全英ツアーを成功裡に終えて帰国した直後です。ディランはオートバイ事故で九死に一生の大怪我を負います。予定されていたコンサート・ツアーは全てキャンセル。ニューヨーク州北部のウッドストックの山奥で静養する隠遁生活に入ります。一方、ザ・バンドはと云えば、正にロック・ミュージックの一大変革期の最前線を体験し、いよいよ羽ばたく矢先でしたが、仕事が無くなりました。

 そして、1967年春、ディランの大怪我も癒えて来ます。ザ・バンドのメンバーにディランから声が掛かり、ウッドストックのディランの自宅に参集し、一緒に演奏するのです。正式なレコーディングでも公演でもありません。自分達で純粋に音を楽しむのです。何と優雅な。或いは、中学時代にバンドを結成し友人宅の居間でギターを弾いた時の歓喜というべきでしょうか。彼らは、弾き慣れたディランの曲だけでなく、古いブルースやザ・バンドのメンバーが書いた新曲等も試します。やがて、創作意欲に火がつきます。

 ザ・バンドのメンバーは、ディランの家から数キロ離れたソーガティー町に一軒家を借りて、そこから、ほぼ毎日ディランの家に通いました。その家の壁は桃色に塗られていて一際目立っていたので、彼らは“ビッグ・ピンク”と呼びます。そして、その地下室が手作りのスタジオへと変貌しました。

 ディランとザ・バンドの面々は、このビッグ・ピンクの地下室でセッションを繰り返します。リラックスした雰囲気で、気ままに演奏します。テープは回しっぱなしです。1967年6月から9月にかけて断続的に合計130曲以上が録音されます。創作のためのデモ録音で、音盤リリースを想定していた訳ではありません。が、コアなファンはその録音テープの存在を知るに至ります。交通事故後、公の場に全く姿を現さぬディランが最も信頼するザ・バンドと一緒に繰り広げる極私的な演奏です。その海賊盤が出回ります。それを聴いた音楽ファンは密度の濃い演奏に感銘を受けます。ディランは既にスーパースターでしたが、知名度の低いザ・バンドはここで評価を高めます。トリビアですが、この海賊盤は、1975年になって『Basement Tapes(地下室)』との標題で公式にリリースされます。更に、2014年には、全139曲収録のCD6枚組ボックス・セットが出ました。ディラン&ザ・バンドの輝きを真空パックする名盤です。で、話を戻します。

 翌1968年、ザ・バンドは遂にメジャー・デビューを果たします。『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』です。タイトル通り、あの地下室で生まれた音楽。ディランの全面的サポートで完成します。下手上手的ジャケット・デザインはディラン。映画「イージー・ライダー」の挿入歌として有名になりザ・バンドの代表曲の一つ「アイ・シャル・ビー・リリースト」はディランが作詞作曲しバンドに提供した曲です。この音盤は、ロック、ジャズ、ブルース、カントリー等々が溶け合った古くて新しい音楽です。サイケデリックに疲れた人々に素朴な音楽の美しさを示しました。ビートルズやエリック・クラプトンはじめ多くの同時代のミュージシャンに影響を与えたと言われています。ザ・バンドの栄光の日々が始まります。

完結〜ラスト・ワルツ

 1970年1月12日付タイム誌の表紙を飾ります。音楽を超えた社会的意義があった証です。米国を拠点に大成功します。上述のとおりカナダの原点とも言える出来事を「アカディアの流木」という一編の佳曲に綴っています。極論すれば、ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローの詩「エヴァンジェリン〜アカディアの恋物語」に匹敵する作品です。ザ・バンドは紛れもなくカナダのバンドです。

 ザ・バンドは1960〜70年代のロック・ミュージック黄金時代の最重要チャプターの一角を占めます。が、物語には終わりがあります。1976年11月25日(木)、ザ・バンドは『ザ・ラスト・ワルツ』と銘打った解散コンサートをサンフランシスコのウインターランド劇場で敢行します。此処には、ロニー・ホーキンス、ボブ・ディランを筆頭にザ・バンドが関わった多数のミュージシャンがゲスト参加。勿論、ジョニ・ミッチェル、ニール・ヤングらカナダ勢も駆けつけます。そして、マーチン・スコセッジ監督がこのコンサートを軸にザ・バンドの来歴を辿ったドキュメンタリー映画「ラスト・ワルツ」を制作。音楽ファン必見で、同名のサウンドトラック盤も必聴です。カナダが生んだ凄い連中です。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身