「パーシー・フェイス」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第15回

はじめに

 音楽ファンの皆様、カナダ好きの皆様、こんにちは。

 9月も下旬になると、ここオタワでは街中でも紅葉が始まり、随分と秋めいて来ました。一方、山火事は今もって収まっておらず、地球温暖化と大自然の猛威を実感します。安全確保の観点から避難された方々もいらっしゃると思います。お見舞い申し上げます。

 さて、今月はイージー・リスニングの王者、パーシー・フェイスです。1908年4月、トロントのユダヤ系家庭に8人兄弟姉妹の長男として生まれたカナダ人です。米国を拠点に大成功。日本でも人気を博し、1966年以降、自らのオーケストラを率いて来日すること5回。最晩年の1975年の来日コンサートも大盛況でした。

 パーシー・フェイスと言えば、「夏の日の恋」にトドメを刺します。1960年2月22日から9週間連続でビルボード誌ホット100首位に君臨。年間チャートでも首位です。歌のないイージー・リスニングのレコードがこれだけ大ヒットするのは異例のことで、翌61年にはグラミー賞ソング・オブ・ザ・イヤーを獲得しました。これも空前絶後です。元々は59年に公開されたデルマー・デイヴィス監督・製作・脚本の映画「避暑地の出来事」のために映画音楽の巨匠マックス・スタイナーが書いた曲です。要するにパーシー・フェイスは、この映画音楽をカヴァーしたのです。が、楽曲の真髄を浮かび上がらせるフェイスの編曲の賜物で、オリジナルを遥かに超え人々に愛されています。控えめながらキレのあるリズム、ストリングスの主旋律とハーモニーに副旋律の絶妙のバランス、管楽器の効果的な導入。音楽を知り尽くした采配です。既に60年以上前の曲ですが、全く古さを感じさせません。ティム・バートン監督の「バットマン」でもジャック・ニコルソン扮するジョーカーとキム・ベイジンガー扮する写真家ヴィッキー・ベールが美術館で会う場面で、モーツァルト、プリンスの曲の後で非常に効果的に流れていました。

 そんなパーシー・フェイスには、非常に示唆に富む人生の岐路がありました。

神童?

 成功した音楽家であれば誰でも、神童で圧倒的な才能を示す逸話が残っています。フェイスの場合は、7歳でヴァイオリンを習い始めます。音楽とは無縁の家柄でしたが、母親ミニーの強い勧めだったと言います。実は、瞬く間に上達した訳ではありません。ヴァイオリンにはフレットが無いので、左手の指で押さえる場所が1mm違うだけで音程がずれてしまいます。フェイスは左手の運指が不得手でした。ヴァイオリン弾きにとっては致命傷です。しかも肩と首で楽器を支えるのも苦手、その上、弓に塗る松脂の匂いが大嫌いだったそうです。それで、ヴァイオリンは3年足らずで辞めて、ピアノを始めます。ヴァイオリンの運指は不得手でも、ピアノの鍵盤は正確に押さえることが出来てメキメキ上達します。12歳になるとトロントの映画館でピアノ伴奏の仕事を始めたと云います。

 若干の補足をすれば、1920年当時の映画は無声映画。映像だけで、音はありません。故に、映像に合わせて弁士がストーリーを語り、伴奏者が音楽を奏でていた訳です。映画音楽のスコアを読み込んで即座に弾く必要があるので、読譜力は勿論、弁士の語るリズムに合わせる即興力も求められます。何よりも観客を前に弾く訳ですから良き音楽武者修行でもありました。

 そして、14歳でトロント音楽院(現在のRoyal Conservatory of Music)に入学。グレン・グールドの先輩に当たります。フェイス少年の楽才は一気に開花します。1923年、15歳にして、トロント最高の劇場、客席数3,500のマッセイ・ホールにデビューします。敢えて言えば、ニューヨークのカーネギー・ホールのトロント版でしょうか。演目はフランツ・リスト作曲のピアノと管弦楽のための「ハンガリー幻想曲」です。オーケストラとの共演、しかも超絶技巧による派手なパッセージが随所に登場する難曲です。フェイス少年には、コンサート・ピアニストとしての輝かしい未来が待っていました。

塞翁が馬

 ところが、好事魔多し。事故が起きます。

 1926年4月7日のフェイス18歳の誕生日を過ぎた或る日、両親と他の兄弟姉妹は外出していて、フェイスは3歳の妹ガートルードと二人で自宅にいました。ガートルードは何にでも興味を示す年頃、手当たり次第に物をいじり、マッチに手を出し遊んでいました。と、マッチの火が彼女の服に引火して瞬く間に燃え上がりました。恐れ慄き悲鳴をあげるガートルード。フェイスは、愛妹に駆け寄り、とにかく火を消し止めます。素手のまま服の炎と闘ったのです。幸い、ガートルードは火傷しましたが、無事でした。フェイスはと言えば、両手に大火傷を負い、9ヵ月間に渡り両手に包帯が巻かれ続けました。この間、ピアノを弾くことは出来ません。母親とピアノ教師は、神童フェイスのピアニストとしての輝かしい未来に危険信号が灯ったと大変に懸念しました。

 この時期のフェイス自身の心象風景は、想像するしかありません。ピアニストにとって最重要な左右10本の指に大火傷を負い、9ヵ月余に渡りピアノを弾けない状況が続いた事は18歳のフェイスにとって人生最大の関門だったでしょう。ピアノの神童だったが故に、ピアニストとしての道を断念せざるを得ない事実を誰よりも知悉していたに違いありません。落胆しなかった訳がありません。ですが、この時期、フェイスには違う未来が見え始めたのです。ピアノを弾けないので、頭の中で、音楽を鳴らして作編曲をする。自分が構想した音楽が実際にオーケストラの演奏で確認する事の喜びに目覚めるのです。トロント音楽院では、和声学、作曲法の講義を受け、より広い視野で音楽に向き合い、ピアノを超えて、新しい響きを探究する事にのめり込むフェイスです。火傷によって、新しい道が開けたのです。正に「人間、塞翁が馬」です。

編曲家・指揮者への道

 トロント音楽院で、編曲家そして作曲家としてのフェイスの眠っていた才能が一気に開花します。19歳にして、ファイスは地元ラジオ局の音楽番組「シンプソンズ・オペラ・ハウス」の編曲家兼指揮者に抜擢されます。そして、1933年、24歳の時に、CBC(日本のNHKに相当するカナダ放送協会)が放送する音楽番組で編曲と指揮を担当します。

 この時代、ラジオは世の中の最先端メディアです。フランクリン・ルーズベルト大統領が炉辺談話で国民に語りかけていたのも想起されます。そんなラジオ放送で、音楽番組はエンタテインメントの花形です。が、未だ、録音技術も発展途上ですから全て生放送。正確な時間管理と高水準の演奏が求められます。同時に、聴取者の好みをきちんと把握する事が不可欠です。フェイスは、この点においても優れていました。12歳の頃から、劇場でサイレント映画の伴奏をやっていたので、人々が音楽に求める核を察知する本能が進化したに違いありません。フェイスが編曲・指揮する番組は大変好評を博します。

 1938年には番組名に彼自身の名前を冠した「ミュージック・バイ・フェイス」が始まります。この番組は、米国でも放送され、パーシー・フェイスの名前は米国の音楽ファンの間にも浸透して行きます。そして、1940年、32歳となったフェイスは生まれ育ち音楽活動の拠点として来たトロントを旅立って、シカゴに移住。3大ネットワークの一角NBCラジオの看板音楽番組「カーネーション・コンテンティッド・アワー」の音楽監督となります。瞬く間にフェイス流の編曲は米国の聴衆をも魅了し、3大ネットワークの最右翼CBSの番組からも音楽監督として招かれます。

 そして1950年、CBS系のコロンビア・レコードの専属編曲家・指揮者に就任します。音楽を聴く手段として、公演を除けば、ラジオが圧倒的な地位を占めていた時代が終わり、レコード市場が拡大し、個人個人が好みに合わせてレコードを購入する時代が始まる頃です。パーシー・フェイス・オーケストラを編成し、多くのヒット曲をカヴァーしてイージー・リスニングの名盤を生みます。と同時に、トニー・ベネットやドリス・デイらの楽曲の編曲を担当し、自ら伴奏のオーケストラを指揮。また、音楽プロデューサーとしても八面六臂の大活躍をします。

カナダへの回帰と遺産

 フェイスの音楽家としての成功は圧倒的です。ビルボード誌ホット200チャートに21枚ものアルバムを送り込み、グラミー賞も「夏の日の恋」と「ロミオとジュリエット〜愛のテーマ」で2度受賞しています。世界のエンタテインメント産業の中心地ロサンゼルス・ハリウッドが拠点ですし、国籍も米国籍を取得しています。

 しかし、パーシー・フェイスはカナダ出身者としての極めて強固なアイデンティティを持ち続けた“カナダ人”でした。幼少期からの記憶、サイレント映画伴奏、神童、大火傷、そして編曲家・指揮者へと人生の旅路の骨格は全てトロントで出来上がった訳です。米国での成功の後もフェイスは頻繁にカナダを訪れています。

 晩年には、トロント大学音楽学部に寄付をして、優位な人材を発見し、鍛錬し、機会を与えるべくパーシー・フェイス音楽賞を設立。故国カナダへの恩返しでしょうか。

 1976年2月、癌を患い67歳で逝きました。終の住処はロサンゼルス、エンシノでした。60年代以降の音楽の進化は凄まじく、フェイスが試みたかった事、やり残した事はいっぱいあったかもしれません。それでも、12歳でサイレント映画のピアノ伴奏を始めて以来半世紀を超える音楽人生は素晴らしいの一言です。「グレーテスト・ヒット」のジャケット・デザインの好好爺とした笑顔が音楽に満ちた充実した人生の旅路を物語っています。

 パーシー・フェイス、カナダが生んだ世界に誇る音楽家です。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身