はじめに
光陰矢の如し、とは良く言ったもので、もう12月も下旬です。あと10日で大晦日です。年末年始の慌ただしい中、気持ちをリラックスさせるため、或いは、やりかけた仕事を完了させるべく気合いを入れるために、音楽を聴く方は多いです。出張で飛行機に乗るとイヤホンやヘッドホンを着用している非常に多くの人々を見かけます。
今や、音楽は日常生活の不可欠の一部です。1日24時間、どこででも好きな時に、状況に応じ、好みに合わせ、世に存在する様々な音楽が聴けます。考えてみると、現代の科学技術の賜物です。言わば、iPhoneは現代のカーネギー・ホールです。源流を辿れば、音楽を屋外に持ち出したのはSONYのウォークマンでした。更に、音楽をテープやビニール盤に刻んで記録し再現出来る仕組みを作ったのは、発明王エジソンです。それ以前は、ストリーミングもCDもテレビもラジオもレコードも存在していません。音楽は、演奏される場所に行かなければ聴くことは出来なかったのです。
そこで、今回の「音楽の楽園」は、カナダが誇る歴史的コンサート・ホール、トロントの「マッセイ・ホール」です。
極私的なマッセイ・ホールとの出会い
佐世保から上京してからの学生時代の事です。“モラトリアム”とか“自分探し”とか言えば、聞こえは悪くありませんが、実際は、世の中の事を何も分からず、本当に何をしたいのかも見えず、霞を食うような日々でした。授業はサボリ、新宿のジャズ喫茶に入り浸ってました。特に、大好きだったのがDUGという店でした。ロール・キャベツで有名なレストラン「アカシア」が1階にある雑居ビルの狭い階段を上がった2階でした。中上建次の初期の傑作「灰色のコカ・コーラ」に登場します。DUGは、店内が薄暗く、おしゃべり厳禁、JBLの巨大スピーカーの腹に響く音響がリアルでした。コーヒー1杯で2時間、お代わりすれば3時間くらいは大丈夫でした。ジャズをひたすら聴き、時に情報誌「ぴあ」で名画座で上映中の映画をチェックしたり、ヘンリー・ミラーやジャック・ケルアックやジャン・ジュネらを読んでいました。正直に言えば、内容はほとんど憶えていません。が、そこで聴いたチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーの即興が胸を掻きむしった感じは、今も鮮明に思い出します。その頃、よく聴いた音盤が「ジャズ・アット・マッセイ・ホール」です。実は、マッセイ・ホールがトロントに所在するという事や、この音盤に関する逸話はもっと後になって知るに至りましたが、これがマッセイ・ホールとの極私的な出会いでした。
マッセイ・ホールに終結したザ・クインテット
この音盤は、70年も前に録音された古いものですが、ジャズ愛好家の必聴盤となっています。ジャズで使用される基本中の基本の5つの楽器の最高峰が5人集まっているからです。それだけでも超レアです。ドラム、マックス・ローチ。ベース、チャールス・ミンガス。ピアノ、バド・パウエル。トランペット、ディジー・ガレスピー。そして、アルト・サックス、チャーリー・パーカーです。ニューヨークを拠点にする5人の日程が合ったのが奇跡的でした。しかし、相当酷い依存症に陥っていたパーカーは自分の楽器すら忘れてくる始末です。何とか、主催者側が用意できたのが、プラスチック製の玩具のようなサックスでした。更に、この公演が行われたのが1953年5月15日の金曜日の夜。ちょうど同じ時間帯に世界ボクシング・ヘビー級王者ロッキー・マルシアノと前王者ジャシー・ジョー・ウォルコットとのタイトルマッチが米国で行われ、テレビ中継は驚異的な視聴率でした。従って、ジャズ史上に燦然と名を残す5人の揃い踏みでも、3千人収容出来るマッセイ・ホールに観客はわずかでした。当時の北米社会の中でのジャズの位置付けを反映しているとも言えます。主催者はまともにギャラが払えず、メンバーには小切手を渡しますが、結局、その小切手は現金化出来なかったそうです。
しかしです。何重にも重なった不運な状況を吹き飛ばすほど、音楽は素晴らしいのです。マッセイ・ホールの名を今に留める名盤です。
故郷に錦を飾るニール・ヤング
更に、何年も経って、久しぶりにマッセイ・ホールの名を見たのは、ニール・ヤングの「ライブ・アット・マッセイ・ホール1971」という音盤です。2007年3月のリリースですが、内容は、音盤タイトルにあるとおり1971年1月19日のマッセイ・ホールにおける単独公演の克明な記録です。レコード会社の販売戦略で、素晴らしい内容にも関わらず、長らくお蔵入りになっていたものが陽の目を見たのです。
ニール・ヤングはトロントが生んだロックの英雄で、今も、現役で活躍しています。1966年以降、拠点は米国です。そのニール・ヤングがマッセイ・ホールに登場です。1971年1月と言えば、ヤングが参加するスーパー・グループ「クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(CSN&Y)」の1970年9月発表の音盤「デジャ・ヴ」が全米・全加・全蘭アルバム・チャートで1位を獲得。正に絶頂期です。CSN&Yは、出身国で言えば、米国人、英国1人、そしてカナダ1人です。国籍はさて起き、それぞれ才能溢れる個性的なミュージシャンです。協働して素晴らしい音楽を生み出す歓喜も大きいでしょうが、嫉妬も葛藤も不可避です。そんな中、ニール・ヤングはグループから距離をおき、故郷に錦を飾るマッセイ・ホールでの単独公演です。
自身で弾く生ギターとピアノのみを伴奏とする弾き語りで全18曲を歌います。この段階で発表されていたのは上記「デジャ・ヴ」収録の『ヘルプレス』等の8曲のみ。残りは全て未発表曲。故郷のファンの前で新曲を披露するのです。これは貴重です。この単独公演の13ヶ月後にリリースされる傑作「ハーヴェスト」に収録されることになる5つの曲の原型が聴けるのです。特に、後に全米1位になる『孤独の旅路』のピアノ弾き語りは必聴です。正に、マッセイ・ホールで、未来の名曲が現在進行形で鍛えられていた訳です。
このライブ盤のもう一つの価値は、観客の反応をリアルに刻んでいる事です。歌詞の中に、“カナダ”とか “ノース・オンタリオ”とか出てくる箇所では、歓声があがります。曲の間で、観客に「カナダを出て5年になるけれど、戻って来れて嬉しい」と語りかける時には熱狂的な拍手が湧きます。また、アンコールを求める観客が足を踏み鳴らす音が迫力です。要するに、ニール・ヤングとカナダとの強い絆が克明に記録されています。
マッセイ・ホール略史
今や、トロントは、ニューヨーク、ロサンゼルスに次ぐ北米3位の大都市です。そのトロントの象徴的な建物の一つがマッセイ・ホールです。その名は、カナダが誇る実業家ハート・マッセイに由来します。全カナダの60%のシェアを誇った農機具メーカー、マッセイ製作所の会長のトロント市民への贈り物とも言えます。鉄道王アンドリュー・カーネギーがカーネギー・ホールを完成したのが1891年ですが、その3年後の1894年に完成します。
マッセイ製作所は、米国生まれの父ダニエル・マッセイがオンタリオ州ニュー・カッスルに創業した小さな会社でした。高校を卒業し、1851年にハートは父の会社に就職し、経営を学びます。1856年に父が他界すると、33歳のハートが会社を引き継ぎます。地元で会社の土台を固めます。
1867年7月、大英帝国の自治領としてカナダが「建国」され、オンタリオ州は加速度的に発展します。1870年代になると、拡大著しいトロントにマッセイ製作所の拠点を移します。大きな決断でしたが、会社は順調に成長します。80年代に入ると、自社の農機具をアルゼンチン、オーストラリア、更には欧州各国へと輸出し始めます。
そして、1884年、ハートは既に61歳で会社も順調です。引退の時と考え、商才溢れる息子のチャールズ36歳に会社を引き継ぐ準備を始めます。ところが、チャールズは腸チフスで急逝します。失意の中で、ハートはそれまで以上に経営に没頭し、同業のハリス社やパターソン・ウィンザー社等を吸収合併して、マッセイ製作所をカナダ最大の農機具メーカーに育てます。
そして、功成り名を遂げたハート・マッセイは、息子チャールズが大変な音楽好きだったことから、チャールズ追悼の思いも込めて、コンサート・ホールの建設を決めます。コンセプトは、「宗教に関係なく、音楽を楽しみ、皆が集える場所とする」、それと、「入場料を低く設定し、コンサート・ホールを利潤追求の場としない」というものです。そして、コンサート・ホールの建物はネオ・クラシカルな意匠で、アルハンブラ宮殿がモデルとなっています。カナダが誇る建築家シドニー・バッジリーの代表作です。柿落としは、1894年6月14日、ヘンデルの「メサイヤ」でした。ハートは、マッセイ・ホール完成の1年8ヶ月後に他界。享年73歳でした。
21世紀、その先へ
ハート・マッセイの思いが詰まったマッセイ・ホールは、素晴らしい音響と同時に、自由で多様性に満ち包摂的な街の個性と相まって、此処では、クラシックから、ジャズ、ロック、ブルース更には民族音楽に至るまで、実に多様で多彩なアーティストが公演を行っています。
トロント・シンフォニー・オーケストラは、1906年の創設以来、1984年に新設のロイ・トンプソン・ホールに移るまで、ここマッセイ・ホールを拠点としていました。クラシック音楽では、ジョージ・ガーシュイン、マリア・カラス、グレン・グールド、ウラジミール・ホロヴィッツ、アルトゥーロ・トスカニーニ、ルチアーノ・パバロッティ等々。
ロック・ポップならば、ボブ・ディラン、ビリー・ジョエル、ジャスティン・ビーバー、クリーム、ボブ・マーリー、ゴードン・ライトフット、ラッシュ等々。
現在、マッセイ・ホールは、リノベーションの真っ最中です。ハートの思いは、世紀を跨ぎ、未来へと繋がっていきます。19世紀の最先端の建物が、その核を残しつつ、大胆に21世紀の最先端へと変貌を遂げつつあります。
マッセイ・ホール、22世紀に残る古典の生まれる場所になるに違いありません。
(了)
山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。
山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身