令和6年能登半島地震により被害に遭われた皆様には、心からのお見舞いを申し上げます。そして、ご家族や大切な方々を亡くされた皆さまへ、謹んでお悔やみを申し上げます。また、被災地への物資輸送の際に航空機接触事故で犠牲になられた自衛隊の方々に、ご冥福をお祈り致します。
さて、2020年に新型コロナウイルスが流行してから数年間の充電期間を経て、コラムを再開しましたが、日加トゥデイオンライン版ではきちんと私の自己紹介をしていませんでした。そこで今回は、私がどのような経緯でカナダで薬局薬剤師になったかについて書いてみたいと思います。どうか気軽に読んでください。
まずは名前ですが、佐藤厚(さとうあつし)です。カナダで生活しやすいように、日本人でもニックネームを持っておられる方も結構いますが、私はそのまま本名で生きています。一回で名前を覚えてもらえることは稀ですが、それでもAtとsushiと綴りを分けて説明すると「おー、君はスシか!」と言った具合にスッと覚えてもらえます。
両親ともに日本人で、生まれ育ちも新潟県という生粋の日本人ですが、「これからは海外だ!」という、田舎にしては先見の目と気合を併せ持つ母親の影響で英語と海外生活に興味を持つようになりました。大学1年生の春休みに、当時宣伝していたバンクーバー短期語学留学に参加し、人生初の海外渡航でバンクーバーを訪れました。到着早々、右側通行する車や街に溢れるコーヒーの匂い、誰でも気軽に「ハウズイッゴーイン?」と話しかけてくるような陽気でオープンかつ大雑把なところがピタッとハマり、こんなところで生活してみたいと思いました。
また、普通の人なら渡航前に地球の歩き方のようなガイドブックで色々下調べすると思いますが、田舎者の私は世の中にそんなガイドブックがあることさえも知りません。またインターネットはようやく社会に普及し始めたばかりで、サッと調べ物ができるようなスピードではありませんでした。ですから、渡航前の資料は留学エージェントのパンフレットぐらいだったと思います。だから尚更のこと、人生で初めてみる外国カナダに、色々な意味で衝撃を受けた訳です。
もう一つ海外を目指した理由として、ちょうど私が大学生の頃、日本の薬剤師の在り方が大きく変わろうとしていたことがあります。1990年に政府主導で医薬分業が推進されたことで、薬剤師が病院の調剤室にこもって薬を取り揃える時代は終わり、病院やクリニックの門前薬局で、薬剤師が患者さんにお薬の説明をし、服薬管理をするようになっていました。
それでも、日本の薬剤師業務は北米より30年遅れているというのが当時の通説で、しかも当時の米国のギャロップ社による信頼される職業ランキングでは、薬剤師が毎年のように一位を獲得していた時代です。大学の入学式でも、学長先生が「北米の薬剤師に追いつけ追い越せ」という旨の訓示をされました。
良く言えば素直、別の言い方をすれば恐ろしいほどの単純思考を持つ私は、今風にいえば「ヤバい(カッコ良すぎるという意味)!やっぱりこれからは北米で薬剤師でしょ!」と思わずにはいられませんでした。その後、毎回切羽詰まりながらも留年することなく薬学部(当時は4年制)を卒業し、また合格点ギリギリ薬剤師免許を取得。近いうちに薬学教育は6年制になるだろうということで、そのまま大学院にも進みましたが、日本国内で薬剤師として働いたり、研究者として生きていく人生は全くイメージできませんでした。むしろ海外生活への憧れは年々強まり、DVD(当時はかなり最新のテクノロジー)で米国の医療ドラマ「ER」を何度となく見て、海外の医療現場で働く自分をイメージし、鼓舞していました。
私の海外志向が固まったのはそんな経緯ですが、その後すんなりカナダで薬剤師になれたという訳ではありません。主に薬のサイエンスにフォーカスした日本の薬学教育と、その頃すでに患者さんの薬学的ケアに重点を置くカナダのそれとは大きく異なっていたため、カナダの薬剤師国家試験で求められる知識の枠組みを理解するのに苦労しました。特に模擬患者さんに対応し、問題解決することが求められる実地試験に関しては、コツが掴めず最後まで非常に苦労しました。大きな理由として、そのような実地トレーニングをしていなかったことと、日本では薬剤師の仕事の範囲外の内容まで出てきましたから、当然といえば当然の成り行きです。
薬局でアシスタントやボランティアとして働くことでも出来れば、現場の薬剤師のやることを習うよりも慣れる感じでどんどん吸収できたとは思いますが、長期滞在できるビザがなく、日本と往復しながら短期滞在を繰り返していたため、それも叶いませんでした。もっとも薬局マネージャーという現在の私の立場で考えれば、履歴書にどんなに立派に「日本で薬剤師、現在カナダの薬剤師免許に挑戦中です」と書いてあっても、どこの馬の骨とも分かりませんから、そんな人を短期でボランティアで預かるリスクは大です。薬剤師は人の命を預かる仕事ですし、薬局には多くの麻薬も保管してありますから、よほど信頼できる人でなければ、薬局でボランティアをするのはかなり難しいことだと思います。
そして極めつけは、やはり日頃から英語で話せる友達やガールフレンドがいなかったことで、現実的にカナダで薬剤師として仕事ができるレベルのスピーキング力を独学で身につけるのは困難を極めました。
では、どうしたか?
カナダの国家試験で失敗を繰り返し、先の見えない暗いトンネルを歩いている間も時間は流れ、日本でソーシャルネットワークサイトの先駆けとも言える「ミクシィ」が流行するようになりました。そのミクシィの海外医療従事者グループで、現在はビクトリアにあるウォールマートのVictoria Hillside店で薬剤師として勤務する苗村英子さんと知り合い、アドバイスをもらうことができました。
苗村さんは、ブリティッシュコロンビア大学(UBC)で導入されたばかりのCanadian Pharmacy Practice Program(CP3プログラム)を第2期生として受講し、その後国家試験に合格したとのこと。薬剤師の移民に免許取得をサポートする目的として、トロント大学で始まった外国人薬剤師用のブリッジングプログラムがUBCでも取り入れられ、これがかなり役に立ったとのことでした。
その時点の私は、かろうじて筆記試験には合格したものの、実地試験は3回の失敗を重ね、次の試験が不合格なら、もう一生カナダでは薬剤師になれないというピンチな場面にありました。良くも悪くもカナダの薬剤師国家試験では受験回数に制限があるのです。
これは人生最後のカナダ長期滞在になるかもしれないということで、この年のワーキングホリデービザを取得して渡加。まずはUBCのCP3プログラムに入ることを目標にし、英語の基準を満たすためにIELTSを何度も受験。これも私にとっては簡単なものではなく、特に悪戦苦闘していたスピーキングのテスト(当時は試験官との面接)の前にはリラックスして頭を柔らかくするためにビールを飲んでみるなど、あらゆる手を尽くしました。その甲斐もあってか、ギリギリのところでCP3の受講要件を満たすことができ、CP3プログラムに入ることができました。実際、最終スコアの通知が届いた時点で、2007年のCP3春クラスは既に始まっていましたから、滑り込みでギリギリセーフといった感じでしょうか。
小さなクラスで10人程度クラスメートがいましたが、私と同年代か年上の人がほとんど。様々な国から同じ目的を持った人が集まり、当たり前のようにテストに合格するぞという雰囲気があったので、私も最後までやる気を維持することができました。
4ヶ月の座学と2ヶ月の薬局実習という2部構成でしたが、もっと実地訓練が必要だと認識していた私は先生に実習の延長をお願いしてみたものの叶わずじまい。プログラム終了から試験本番までの1ヶ月間は、クラスメートと服薬指導の練習を繰り返しました。
本当に人生最後のチャンスとなると逆に気持ちが落ち着くもので、試験中はそれなりに問題の意図を汲み取りながら対処することが出来ました。そして、30歳にして、晴れてカナダの薬剤師になることができました。
ここに至るまで色々な出会いがありましたが、あの時ミクシィで苗村さんと出会っていなければ、私は今頃カナダで薬剤師になっていなかったと思います。また、当時バンクーバーで出会った現在の妻の励まし抜きには、今の自分はありません。
しかし、何かになるというのは、何事においてもそうであるように、新たなスタート地点に立ったということを意味します。次回は、これまでのカナダでの薬剤師人生についてお話しします。(続く)
*薬や薬局に関する質問・疑問等があれば、いつでも編集部にご連絡ください。編集部連絡先: contact@japancanadatoday.ca
佐藤厚(さとう・あつし)
新潟県出身。薬剤師(日本・カナダ)。 2008年よりLondon Drugsで薬局薬剤師。国際渡航医学会の医療職認定を取得し、トラベルクリニック担当。 糖尿病指導士。禁煙指導士。現在、UBCのFlex PharmDプログラムの学生として、学位取得に励む日々を送っている。 趣味はテニスとスキー(腰痛と要相談)
全ての「また お薬の時間ですよ」はこちらからご覧いただけます。前身の「お薬の時間ですよ」はこちらから。