はじめに
日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。
3月の声を聞き、夏時間が始まりました。春はすぐそこまで来ているという雰囲気があります。日照時間も日毎に伸びて来て、気分も明るくなります。ですが、オタワは、世界で最も寒い首都の一つ。まだまだ油断は出来ません。
さて、今月は、エレノア・コリンズです。カナダの「ファースト・レディー・オブ・ジャズ」と称されている偉大な歌手です。北米で初めて、自らの名前を冠した全国放送のテレビ番組のホストを務めた黒人であり女性です。音楽を超えた社会的インパクトを与えた人物です。カナダ勲章を筆頭に多数の賞を受賞し、ブリティッシュ・コロンビア芸能の殿堂にも叙せられています。
実は、今回はエレノアを書こうと前から決めていました。そして、実際にこの原稿を書き始めた直後に、バンクーバーから訃報が届きました。エレノア・コリンズが104歳で他界したというのです。家族の発表によれば、3月3日、ブリティッシュ・コロンビア州サリー市のサリー記念病院で安らかに逝ったそうです。グローブ&メイル、CBC等の主要メディアで大きく報道されました。
2022年1月には、カナダ郵便公社が、エレノア・コリンズの業績を讃えて、記念切手を発行しました。その際に、5分32秒のビデオを制作していて、YouTubeで視聴出来ます。そこには、彼女の代表的なパフォーマンス、関係者のコメントとともに、インタヴューが収録されています。この時、102歳です。が、非常に若々しく、全身からポジティブなメッセージが発せられています。
エレノア・コリンズの1世紀余の人生は、優れたジャズ歌手にして時代を切り拓いたテレビ・ショー・ホストという業績を超えて、カナダの歴史そのものを体現しているように思えます。
先駆者の娘
エレノア・コリンズは、1919年11月、アルバータ州エドモントン郊外に誕生します。黒人の父とクレオール系先住民の母の間の3人姉妹の2番目です。ここで注目すべきは、両親が米国オクラホマ州からのホームステッド移民だったことです。
米国のホームステッド法は、リンカーン大統領が1862年に署名した、自作農民育成を目的とした法律です。映画「シェーン」や「大草原の小さな家」が正に、ホームステッド法で自分の農場を持った家族の物語です。
カナダの場合は、20世紀初頭、カナダ政府は人口を増やすための積極的な移民政策を展開します。カナダ版ホームステッド法とも言うべき土地所有法を制定し、アルバータ州については、1908年から14年にかけて、米国のテキサス州、オクラホマ州、ミズーリ州等の黒人入植者を募集します。一定の条件を満たせば、州内の未開拓地160エイカー(東京ドーム14個分)を米国からの黒人移民に対して無償で払い下げるのです。
1910年、エレノアの両親は、この募集に応じ、米南部のオクラホマ州から厳しい気候のアルバータ州の未開地に入植したのです。正に、パイオニア精神です。米南部の黒人にとって、カナダは自由にして希望の地に見えたことでしょう。
エレノアは、先駆者たる両親からパイオニア精神と音楽の才を受け継ぎ、彼女の人生を歩み始めます。
エドモントンの歌姫
ちょうどエレノアの両親が移住して来た1910年、エドモントンには、米国からのホームステッド移民達によって、シロホ・バプテスト教会が設立されます。この教会こそ、エレノアが音楽的才能を開花させていく場所となります。
エレノアは、天性の歌手でした。微妙な音程の差異や音色の陰影を聴き分ける優れた耳を持っていました。家族で歌い楽器を演奏する家庭環境で育ちます。幼少の頃より、シロホ教会で聖歌や讃美歌や国歌などを歌うのです。正確な音程と豊かな表情を持った歌唱は、教会に集う老若男女を魅了したことでしょう。
1934年、エレノア15歳の時に、エドモントンで開催されたアマチュア・タレント・コンテストで優勝。それをきっかけに、地元ラジオ局CFRNと契約します。エレノアの舞台は、教会を超えて、拡がります。そして、エレノアの伴奏も、教会のオルガンから、プロのダンス・バンド等の楽団へとグレードアップ。プロの歌手としてのキャリアを歩み始めたのです。地元エドモントンで歌う日々がエレノアの歌を磨きます。
バンクーバー
1939年、19歳になるエレノアは、満を侍して拠点をブリティッシュ・コロンビア(BC)州バンクーバーに移します。そして、「スゥイング・ロウ・カルテット」と名乗る4人組のゴスペル・コーラス・グループを結成します。このカルテットは、時を経ずして地元で評判となっていきます。1940年には、バンクーバーを中心に広くBC州南部を聴取エリアとするCBCラジオへ定期的に出演するようになります。CBCラジオとの関係がやがてエレノアの一層の飛躍をもたらします。
さて、音楽活動が充実してきこの時期、エレノアにとって運命の出会いが到来します。エドモントンとは違って年間を通じて温暖なバンクーバーで、エレノアはアウトドアの活動を満喫していたといいます。特に、スタンレー公園のテニス・コートがお気に入りだったそうです。そこで、生涯を共にするリチャード・コリンズと出会うのです。出会って2年後の1942年に2人は結婚します。結婚によって、彼女の人生に芯が通ったのかもしれません。彼女の歌には一層磨きがかかります。
1945年、25歳のエレノアは、ゴスペル・コーラス・グループから独立し、ソロとしてのキャリアを歩み始めます。バンクーバーを拠点に活躍するカナダ屈指のジャズ・バンド、レイ・ノリス五重奏団の専属歌手に迎え入れられます。そして、CBCラジオの新番組「セレナーデ・イン・リズム」に出演します。この番組は、海外に駐在するカナダ軍基地においても放送されました。レイ・ノリス楽団のスィング感溢れる演奏で際立つエレノアの歌はリスナーに愛され、この番組は数年続きました。
バーナビー〜子育ての日々
やがて、エレノアとリチャードは、4人の子宝に恵まれます。音楽活動は極めて順調ではありましたが、エレノアは1948年から52年まで育休を取ります。女性の社会進出に関連し、出産・子育てと仕事を如何に両立するかは現代でも課題ですが、75年前、エレノアの選択は鮮やかです。
コリンズ家は、バンクーバー郊外のバーナビーに新居を構えます。大都市の中心部から離れて落ち着いた環境で家族との時間を過ごします。一見、素敵なことに見えます。しかし、そこは、完全なる白人コミュニティーでした。1948年のカナダ・BC州は、現在のカナダ・BC州とは全く違います。日系カナダ人を、カナダ市民でありながらも、敵性外国人として財産を没収し強制キャンプに収容し、45年に戦争が終結しても49年4月までは日系カナダ人がBC州に帰還することを禁じていたのです。極めて、露骨な人種差別と偏見があったのです。
白人街の唯一の黒人家族として、大変に苦労があったようです。が、ボランティア活動や地元の子供達に音楽を教える活動を通じて、コミュニティーから敬愛されるに至ります。多様性と包摂性を自らの手で勝ち取っていくエレノアです。そこには、未開地で人生をスタートさせた両親の強靭さが受け継がれています。現在のカナダのモットーである多様性と包摂性は、現状を打破するこのような先駆的人々の不断の努力の上に築かれているのだと得心します。
歴史をつくる
子育てを一段落させたエレノアは、母としての慈しみと強さを内に秘め、歌に一段と深みを増して、徐々に音楽活動を再開させます。
1952年には、バンクーバーを拠点とする非営利の音楽振興組織「シアター・アンダー・ザ・スターズ」がスタンレー公園内の野外劇場で夏の間に主催するミュージカル「フィニアンの虹」に出演します。聴衆の前で歌い演じ喝采を浴びる喜びとの再会です。勿論、家族との時間は何ものにも代え難いのでしょうが、音楽家魂に火が付いたようです。翌53年は、シェークスピアの原作を巨匠コール・ポーターがミュージカル化した傑作「キス・ミー・ケイト」に出演し、再びスタンレー公園の舞台に立つのです。
ちょうどこの頃、時代がラジオからテレビへと進化します。1952年、カナダ最大の都市モントリオールと第2の大都市トロントで、一般家庭向けにテレビ放送が始まります。翌53年には、テレビの波はバンクーバーにも到達します。この全く新しいメディアは、エレノアに、更なる機会をもたらします。
1954年、エレノアは、CBCバンクーバーTV制作のバラエティー番組「バンブーラ:西インディーの1日(Bamboula: A Day in the West Indies)」に出演します。これは、カナダ史上初の複数の人種のキャストが一緒に出演する番組でした。カナダの社会が人種差別と偏見を克服していく最前線にエレノアはいたのです。CBC幹部は、エレノアのパフォーマンスに感銘を受けます。舞台は、バンクーバーからカナダ全土へと拡大します。
1955年6月19日の日曜日、エレノアが司会を自ら務め、歌い、ゲストをもてなす音楽番組「ザ・エレノア・ショー」の全国放送が始まりました。この番組は、北米史上初となる、黒人がホストを務めその名を冠した全国放送の番組となりました。女性、ジャズ歌手がホストを務める番組としても北米初です。この時、エレノアは35歳。YouTubeで、この時の模様を見ることが出来ます。白黒の画面で音質も良くはありません。それでも、慈愛に満ちて美しい表情と絹のような声と絶妙の歌唱は、彼女の実力と魅力を余すことなく伝えます。歴史をつくった瞬間です。
因みに、類似の番組としては、米国NBCの「ナット・キング・コール・ショー」の方が有名です。が、こちらは、1956年11月5日が初回放送です。米国に先んじたカナダの矜持とも言えます。
結語
エレノアは、その後もテレビ、ラジオ、公演と活躍します。米国への進出についてオファーが何度もあったそうですが、断り、カナダに留まりました。このコラムでも取り上げた才能溢れる多くのカナダ出身の音楽家は、米国へ拠点を移し、より大きな成功を得て、名を成しています。勿論、競争の苛烈な米国音楽業界での活動は綺麗事だけでないでしょうし、「夢破れて山河あり」の場合も多々あるでしょう。
実は、現在、エレノアの音盤を入手するのは非常に難しいです。優れた楽才とパイオニアの精神を持ってはいましたが、誰かのカバーやスタンダード曲だけでなく、商業的に成功した彼女のヒット曲に恵まれなかったからでしょう。歴史にifを言っても詮無いことですが、仮に両親の祖国アメリカで勝負していたら・・と想像してしまいます。
エレノア・コリンズ、104歳の大往生。
カナダの誇りです。
(了)
山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。
山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身