エドサトウ
ガレオン船のキャノン砲は陸路と海路の二手に分けて運ばれたのでは、というのが小生の考えである。いやいや、これは考え事というよりも小生の空想の世界と言った方がよいかもしれない。
船で運ばれた大砲は、愛知県の知多半島にある港で陸揚げされて、東海道を荷車で北上して、家康の本陣と合流する。これは船であるから、大砲は六門以上、さらに火薬や鉛玉も相当運ばれたであろう。
六門の大砲は、戦では二門ずつ別々にセットされた三段構えのスタイルで、二門ずつ時差をもうけて発射されたと思われる。だから、大砲は休みなく西軍の石田三成の本陣や大谷軍に打ち込まれたのではあるまいか。
一方、中仙道からは息子徳川秀忠の二軍が大砲六門を木曽駒五平の荷車で運んでいた。その内数門は、長野県の六文銭旗印のつわものぞろい真田軍の抑えにも用いられた。真田軍が中仙道から関ヶ原に進軍するのを抑えることは重要な課題でもあった。一方、無事に中仙道から運ばれた大砲は、東軍の井伊軍の特殊部隊でもある忍者部隊甲賀衆に与えられて、敵の陣地から2キロメートルぐらいのところに設置されて、彼らの用意していた大型の火縄銃を持った甲賀は朝霧に紛れて敵陣500メートルまで接近した関ヶ原合戦の朝の様子である。
大型の火縄銃は火薬も二倍は入るので少なくとも弾丸は1キロメートルぐらいは飛んだであろう。その大型火縄銃を持った忍者部隊甲賀衆が朝の8時ごろに関ヶ原合戦の先陣をきるように敵陣に打ち込めば、火縄銃の爆音が関ヶ原の静寂な朝もやに響く。甲賀衆が後方に下がれば、用意された大砲が火をふき白い爆炎の煙が舞い上る。同時に家康の本陣にいる按針の大砲隊も6門のキャノン砲で石田三成の本陣をめがけて打ちかける。
静寂な朝もやが晴れ上がるころに、大音響がすさまじく響けば、東軍の陣太鼓や鐘がにぎやかに陣中に響く、東西どちらの軍も生き残りをかけた、壮絶な戦いの始まりであった。
石田三成の西軍が兵員の数では、圧倒的に有利であったが、古今東西の歴史の中でも、小軍が大軍に勝った戦の例は数多くある。
現在でも、ウクライナでロシアの大軍に対して、自国ウクライナの存亡をかけて戦っているではないか、しかしながら、これは長期戦になろうとしている。となれば、小国には不利かもしれない。しかし、ロシア国内での戦争反対の世論も大きくなれば、また、新たなロシア革命が起きることも考えられなくもない。それが雪と氷に閉ざされた長い冬の北国ロシアの宿命なのかとも思える。
とにかく、徳川家康のすごさは、日本の東西を二分するような大戦を短時間で終わらせたことであろう。
かつて、家康の若いころに天下一と言われた武田の騎馬軍団と静岡県三方ヶ原で戦ったことがあるが、武田軍にはとうていかなわず、ほうほうのていで自分たちのお城に引き返している。その時、恐怖のあまり、馬上で脱糞したといわれている。お城に引き返してすぐ絵師に、恐怖に打ち震える我が姿を描かせて、生涯座右に置いていたという言い伝えの日本画を見るために名古屋市にある尾張徳川美術館に30代のころに見学に行き、そのコピーした画を購入してしばらく我が家に飾っていたことがある。
戦争の怖さを一番知っていたのは、石田三成よりも徳川家康の方であったのであろう。そのことが、按針さんの船のキャノン砲を使って戦いを勝利に導いたのであろう。
関ヶ原合戦は、コロンブスが1492年に新大陸を発見してからほぼ100年後のこと、ヨーロッパでは近代が始まろうとしていた。
投稿千景
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