はじめに
日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。
早いもので、2022年7月に始めた「音楽の楽園」は2年を過ぎて、いよいよ3年目に突入します。実感するのは、カナダの奥深さです。それは、音楽だけに限りません。政治・経済・ビジネス・科学技術・芸術など、様々な分野でです。理想を掲げ、常識にとらわれず、斬新なものを生む、エネルギーと創造性に満ちていると思います。
そこで、今回、皆さまに紹介したいのは、「きみこの真珠(Kimiko’s Pearl)」という新作バレエです。ここには、音楽、舞踏、舞台美術、現在、過去、歴史、政治、欺瞞、諦観、希望、赦し、勇気、家族、そして愛が凝縮しています。
「ブラボー・ナイアガラ」
「きみこの真珠」は、オンタリオ州ナイアガラ・オン・ザ・レイク地区で優れた舞台芸術を地元コミュニティーに紹介している非営利団体「ブラボー・ナイアガラ(Bravo Niagara! Festival of the Arts)」により委嘱・制作された作品です。
「ブラボー・ナイアガラ」は、トロント出身の日系カナダ人ピアニスト、クリスティン・モリさんと御令嬢のアレクシス・スピルデナーさんが10年前に立ち上げました。
クリスティンは、アスペン音楽祭、タングルウッド音楽祭を経て、ジュリアード音楽院を卒業。米国で30年余にわたり、フロリダ管弦楽団所属のピアニストとして活動する傍ら、アイザック・スターンからボビー・マクファーレンまで多彩なアーティストと共演し、高い評価を得ます。現役を退いたクリスティンは、トロントの郊外ナイアガ地区に帰郷します。第2の人生を始めるに際し、自身の日系カナダ人としてのアイデンティティーと音楽家としての情熱が結びつきます。長年の夢を形にする時が来たのです。それは、地元ナイアガラ地区に世界水準の音楽家を呼び、地元コミュニティーに極上のパフォーマンスを届けるというものです。
御令嬢のアレクシスは、ピアニストの母の下で音楽愛を吸収して成長し、デューク大学を優秀な成績で卒業。オンタリオ州のドーズウェル副総督から多様な文化振興に功績のあった若者を表彰する「リンカーン・アレキサンダー賞(注)」を授与されます。(注: リンカーン・アレキサンダーは、オンタリオ州初の黒人の副総督)
「ブラボー・ナイアガラ」は、母の芸術的センスと娘のマネージメント能力が融合して、良い仕事に恵まれます。地元に密着する姿勢も好感されます。2014年の立ち上げ以降、「ブラボー・ナイアガラ」は、このコラムでも取り上げたジェームス・エーネス(第20回)、ヤン・リシエツキ(第23回)をはじめとするクラシック音楽やマンハッタン・トランスファーなどのジャズ、ポップのスター達を引っ張って来ます。地元コミュニティーにとっては、居ながらにして、世界最高峰の音楽に触れるまたとない機会です。地元コミュニティーに提供する音楽・舞台芸術は、年を追うごとに、充実していきます。
日系カナダ人アイデンティティー
「ブラボー・ナイアガラ」が確固たる基盤を固めると、クリスティンとアレクシスの母娘は、長年温めて来たアイデアの実現に取りかかります。日系カナダ人が辿って来た旅路を舞台芸術作品に昇華させるのです。
日系カナダ人の歴史を概略すれば、最初期の移民、差別的な扱い、刻苦勉励して得た安定したカナダでの生活、太平洋戦争の勃発と敵性外国人移民としての強制収容や財産没収、戦後は、戦時中の困難を克服しカナダ社会の中で尊敬される地位を築くに至る訳です。
実は、このような日系カナダ人の歴史が反映された芸術作品は少ないのです。それは、日系カナダ人が辿った苦難と克服の経緯が現在のカナダ社会において十分に認知されていないのと同じです。クリスティンとアレクシスは、芸術を通して日系カナダ人の歴史と誇りを伝える意義の大きさを確信します。正に、日系カナダ人のアイデンティティーの核心でもあります。
とは言え、歴史を芸術で描くということは「言うは易く行うは難し」です。そこで選択されたのがバレエです。人類がつくる究極の舞台芸術の一つです。音楽と舞踏と舞台美術がつくりあげる空間には、言葉を超えた人間の情念が現れます。極めて具体的な事象から喜怒哀楽の感情までも盛り込めるのです。
但し、新作のバレエ作品を制作し実際に上演するためには、台本、音楽、振り付け、美術、ダンサー、演奏家、リハーサル、上演会場等々が必要で、そのためには莫大な経費を要します。現代の舞台芸術は、如何に経費を工面するかという現実的問題に直面します。あのカーネギー・ホールも一時は倒産・解体の危機に直面したほどです。
しかし、クリスティンとアレクシスの構想力と緻密な戦略と情熱が道を拓きます。National Creation Fundからの支援が確保出来たのです。いよいよ、構想が作品へと結実します。
総合芸術バレエ〜7つのスペクトラム
「きみこの真珠」は、次の7つのスペクトラムが交差し融合して初めて完成しました。
第1に、物語です。これは、クリスティンとアレクシスの4世代にわたる家族の旅路です。実は、トロント生まれのアレクシスが4代目で、ミドルネームもキミコ。「きみこ」のモデルです。家族の物語は、きみこの視点で、曽祖父シズオ・アユカワの代から描かれています。アユカワ・ファミリーの実話に基づく物語が作品の核です。但し、物語だけではバレエになりません。物語の真髄をバレエによって最高に輝かせる台本が不可欠です。トニー賞受賞台本作家のハワード・ライヒが書き下しました。
第2に、音楽です。現代カナダが誇る作曲家ケビン・ラオが、ライヒの台本に基づいて、全編を新たに作曲しました。バレエには台詞はありません。全ての感情や情景を音楽で描かねばなりません。ラオが紡ぐ旋律とハーモニーとリズムが、音楽でしか表現できない情感を舞台に生み出します。
第3に、振り付けです。世界最高水準のウィニペグ・バレエ所属のヨースケ・ミノが担当しました。舞台の進行に合わせて、強制収容という非道な措置、絶望、諦観、希望、愛まで、舞踏で表現します。鍛え抜かれたダンサーの律動を引き出します。
第4に、舞台美術です。ポップ・アートから日系カナダ人の歴史をモチーフにした作品まで実に多彩かつ上質な作品群で、カナダ勲章も受賞されているノーマン・タケウチ画伯らの作品です。シンプルな舞台に、アクセントをつけ、時代と場所を提示します。
第5に、演奏家たちです。ケビン・ラオ作品の常連でもある国立芸術センター管弦楽団の首席チェリストのレイチェル・メンサー、メトロポリタン・オペラ管弦楽団のハープ奏者のマリコ・アンラクらが参加。極上の演奏が物語と舞踏を包み込みます。
第6に、ダンサーたち。ウィニペグ、コースタル、ボストンのバレエ団から参加し、鍛え抜かれた肉体の強靭さと柔らかさと美しさで、起伏に富んだストーリーを表現します。
そして、第7は、音響と照明です。バレエが上演される場を、観客席とは完全に異なる時空へと変貌させる要です。ケビン・ラオの音楽は、観客席を取り囲む360度の何処から聞こえてくるかは、バレエの進行に合わせて、緻密にデザインされているのです。
これら7つのスペクトラムが重なり「きみこの真珠」全2幕が完成します。入念なリハーサルを経て、実際に聴衆の眼前でその真価を問う時が来ます。
世界初演〜オンタリオ州セント・キャサリン市、2024年6月22〜23日
クリスティンとアレクシスが構想した4代にわたるアユカワ家の物語は、 National Creation Fund の支援を得て、「ブラボー・ナイアガラ」が委嘱・制作。新作バレエ作品「きみこの真珠」は、抜群の音響を誇る地元の劇場「ファースト・オンタリオ・パフォーミング・アーツ・センター」において、本年6月22日、午後7時から世界初演が行われました。
特筆すべきは、会場ロビーに展示されていたアレクシスの曽祖父シズオ・アユカワが自ら手作りした木製トランクです。これは、戦時中の日系カナダ人収容の歴史を後世に語り継ぐべくアユカワ家からオタワの「国立戦争博物館」に寄贈されたものです。今般の世界初演のために、特別に展示されました。日系カナダ人が強制退去させられた時、携行出来たのは鞄一つだけだったという非人道的な措置を無言で訴えていました。舞台にも、家族4代にわたる出来事と思い出を次世代に繋ぐ重要なアイテムとして配置されています。この木製トランクに刻印された「13657」という数字が、非人間的措置の非道さを静かに告発しています。
世界初演は、最初に関係者の挨拶で幕を開けました。「ブラボー・ナイアガラ」を代表して、アレクシスが、家族の思い、日系カナダ人の思い、新作オペラにかける思いを述べました。一つ一つの言葉に本当に重みを感じました。私も、今日の極めて良好な日加関係の土台に日系カナダ人の存在があり、苦難を乗り越えて来た旅路への信心なる敬意を表しました。
その後、和太鼓グループによる勇壮なオープニング・アクトが祝福しました。
バレエ「きみこの真珠」は、1941年12月7日の日本軍のパールハーバー攻撃で太平洋戦争が没発する場面から始まりました。物理的には同じ舞台ですが、美術と音楽と舞踏と照明の妙で、全く異なる時と場所となります。変幻自在です。設定は、ブリティッシュ・コロンビアからウィニペグ、そしてトロントへと移ります。敵性外国移民として断罪される場面も、過酷な中に勇気を持って対峙する場面もあります。きみこの祖父母が恋に落ちるラブストーリーは可憐です。言葉を用いない描写の中で、舞踏の芸術性に圧倒されます。
音楽と舞踏と舞台美術が融合した素晴らしいパフォーマンスは、瞬く間に終わりました。鳴り止まぬスタンディング・オベーションが、聴取の感動を直裁に示していました。
その先へ
「きみこの真珠」の世界初演は壮大なプロジェクトの始まりです。
音楽に関して言えば、2025〜26のシーズンで、トロント交響楽団による「組曲『きみこの真珠』」の演奏が予定されています。これは、バレエ作品として作曲された楽曲をオーケストラ用作品として再構成するものです。「きみこの真珠」が新しいアヴェニューを歩み始めます。ストラビンスキーの「火の鳥」もバレエ音楽が管弦楽曲へと展開したものです。「組曲『きみこの真珠』」がケビン・ラオの最高傑作になると確信します。
そして、日系カナダ人の歴史を描くバレエ「きみこの真珠」は、将来は首都オタワ、北米最大都市ニューヨーク、更には東京においても上演されるべき作品だと思います。来年は、大阪万博の年です。日本とカナダの間でも様々な文化交流が行われます。是非とも、その一角に「きみこの真珠」が含まれることを願ってやみません。
(了)
山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。
山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身