セリーヌ・ディオン 音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第26回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 4年ごとに訪れる閏年にあって世界が注目するものは何でしょう?そうです。一つが米国の大統領選挙。もう一つが夏季オリンピックです。今年の開催地は、クーベルタン男爵の故国フランスは、花の都パリでした。日本人選手の活躍に歓喜と悔し涙が交差し、胸が熱くなった2週間があっと言う間に過ぎました。

 実は、100年前の1924年もパリ五輪でした。映画「炎のランナー」の原典です。ユダヤ人ハロルド・エイブラハムスとスコットランド人牧師エリック・リデルが「走る」ことは「生きる」ことだと身をもって示したのです。

 そして、2024パリ五輪。開会式を締め括るセリーヌ・ディオンの渾身の歌唱が、「歌う」ことは「生きる」ことだと強烈に印象づけました。

 と言う訳で、今回は、カナダが生んだ世界の歌姫、セリーヌ・ディオンです。

2024年7月26日午後11時

 パリ五輪の開会式は、極めてフランス的な趣向を凝らしたものでした。史上初めて、競技場の外で行われた開会式です。選手団はセーヌ川を船で入場しました。韓国を北朝鮮と間違えたり、国旗を上下逆さまに掲げたり笑えないハプニングもありました。それでも、パリの中心地を東から西に6kmにわたりパレードが進み、様々なパフォーマンスが行われ、毀誉褒貶はありつつも、今のフランスを世界に印象づける式典でした。その極め付けがセリーヌ・ディオンでした。

 エッフェル塔に設けられた特設ステージに登場したセリーヌは純白のドレスを纏っていました。ディオールのマリア・グラツィア・キウリが特別にデザインしたオートクチュールで、スパンコールが刺繍され、背中やスカートに施されたフリンジは計500メートルに及んだそうです。衣装も凄かったですが、とにかく歌が圧巻です。

 “あなたが望めば、世界の果てまで行ってもいいわ。
 髪をきるのも、家を捨てるのも、友達さえも、祖国をも裏切るわ。
 怖いものは何もない。あなたさえいれば”

 フランスを代表する歌姫エディット・ピアフ自身が作詞した『愛の讃歌(Hymne à l’amour)』です。元来は、妻子ある恋人プロ・ボクサー、マルセル・セダンとの恋を終わらせるために書いたと言われています。背徳的な匂いも漂います。が、マルグリット・モノーが紡いだ明朗な旋律が、毒をも制する崇高な愛の核心を突きます。今や、シャンソンの名曲中の名曲で、フランスを代表する曲です。パリ五輪開会式に相応しい曲と言えます。

 セリーヌは、低音域で囁くように歌い始めます。大人の女性を感じさせます。曲の展開とともに、正確な音程とアーティキュレーションで、歌が始動します。絹のような滑らかな表面と鋼鉄のような強固な芯を持つセリーヌの声の本領発揮です。高音域になると、あの華奢な身体のどこから出て来るのか、豊かな声量で魅了します。3分30秒の音楽の王国でした。

何故、セリーヌ・ディオンだったのか?

 オリンピックは、好むと好まざるにかかわらず、主催国の威信と誇りがかかります。特に、開会式においては、主催国の文化・歴史・伝統が色濃く反映します。パリ五輪の開会式を締め括る曲が「愛の讃歌」だったのも頷けます。しかし、その「愛の賛歌」を歌ったのがカナダ人セリーヌ・ディオンだったのが非常に興味深いです。

From left to right: Daphn Brki, Thomas Jolly, Tony Estanguet. ©Paris2024
From left to right: Daphn Brki, Thomas Jolly, Tony Estanguet. ©Paris2024

 一般に、フランス人は自国の歴史・文化への誇りとこだわりが強いイメージがあるのに、最大の見せ場がフランス人歌手でなかったのは何故なのでしょうか。鍵は、開会式の芸術監督を務めた42歳の気鋭の俳優・演出家トマ・ジョリにあります。22歳で演出家デビューし、シェークスピアの「ヘンリー6世」を大胆に解釈・翻訳し、18時間連続上演させ、仏演劇界で最高の権威あるモリエール賞も受賞しています。ジョリは、過去の因習やジェンダーなど固定観念に囚われず、移民・環境・格差などの社会問題も直裁に取り入れた作品を発表しています。自身、ゲイであることも公表しています。芸術の国フランスですから、パリ五輪の開会・閉会式の芸術監督候補は数十人いたそうですが、最終的にジョリが選ばれました。フランスの懐の深さを感じさせます。

 「シャンソンの名曲『愛の賛歌』の歌い手に、ラブソングの名手であることを理由に世界的歌手のセリーヌ・ディオンを選んだ」とは、ジョリ監督の弁です。開明的な芸術監督が一切の忖度抜きで、国籍にこだわらず、非常にシンプルな理由で歌手としての実力でセリーヌ・ディオンを選んだ訳です。フランスを象徴する歌を、世界最高の歌手に歌ってもらうことこそが、フランスの文化・芸術を世界に示すことだというジョリ監督の確信でしょう。

 そして、もう一つ。セリーヌ・ディオンを起用する理由があったのです。

スティッフパーソン症候群

 パリ五輪開会式でのセリーヌ・ディオンのパフォーマンスは、当日のその瞬間まで、極秘裏にかつ慎重に準備が進められて来ました。

 何故ならば、セリーヌは、2020年3月の米ニュージャージー州での公演以降は、スティッフパーソン症候群(SPS)という難病のため、歌手活動を停止していたからです。この難病は、不随意の痙攣や筋肉の硬直を引き起こす神経性疾患で、音や接触などの体感によって症状が誘発、悪化するものです。100万人に1人という極めて稀な疾患です。

 セリーヌはこの疾患が原因で「以前のように歌えなくなった」と吐露しています。実は、数年前から、徐々にその兆候があって、公演を短く切り上げたりしていました。2022年12月には、歌手活動を休止し治療に専念すると発表しました。2024年6月に公開されたドキュメンタリー映画「アイ・アム・セリーヌ・ディオン〜病との闘いの中で〜」が、困難な生活を赤裸々に描いています。スーパースターの光と影を包み隠さず映すこのドキュメンタリーも、苛烈な競争に晒されるショービジネス故のしたたかなプロモーション戦略の一環です。それでも、SPS療法のため1日に80〜90ミリグラムのジアゼバムを飲まなければならないと苦痛に涙しながら語る様子や、リハビリの途中で倒れる様子は、セリーヌが病と闘っている現実を突きつけます。

 そんな過酷な疾患を克服して歌うセリーヌの様子は、観る者の胸に迫ります。SPSを患いながらの圧巻のパフォーマンスは、意思があれば、困難は乗り越えられるのだと、勇気を与えます。世の中、綺麗事ですまない、そんなに甘くない、というシニカルな諦観に鉄槌を下します。ジョリ芸術監督がセリーヌを起用した理由の一つでしょう。話題にならない訳がありません。感動しない訳がありません。

 次に、そんなセリーヌ・ディオンの旅路を振り返りましょう。勿論、生まれた時からスターになるべく生まれた訳ではありません。ですが、運命の出会いがありました。

ケベック州モントリオール郊外シャルマーニュ

 セリーヌ・ディオンは1968年3月、ケベック州モントリオール郊外のシャルマーニュの屠殺業を営むフランス系の14人兄弟姉妹の末っ子として生まれました。両親とも音楽愛好家で、家計は楽ではありませんでしたが、家庭には音楽が溢れていました。そして、セリーヌは幼少期から類稀な才能を示していました。とにかく驚異的に歌が上手だったのです。5歳で、兄マイケルの結婚式の大勢の来客を前に歌って、皆を驚かせたといいます。以来、ピアノ・バーなど地元で歌っていました。とは言え、この類の神童神話は、決して珍しくありません。此処そこに、歌の上手い女子はいるのですから。

 転機は、セリーヌ12歳の時に訪れます。セリーヌは、母と兄マイケルと一緒に、“Ce n’était qu’un rêve”というオリジナル曲を自主録音したのです。家族の力です。そして、兄は、その音源を、たまたま或るレコードの裏表紙に記載されていた音楽マネージャー、ルネ・アンジェリルに送ったのです。ルネの事務所には、その種の音楽テームは頻繁に送られて来ていましたが、胸に迫る音楽は滅多にありません。しかし、ディオン・ファミリーの音楽を聴いた瞬間、ルネは、セリーヌの歌に魂を奪われ涙したと言います。この時、ルネ39歳。ケベック州の音楽業界でキャリアを重ねて来た男は、12歳のセリーヌに宿る尋常ならざる才能を確信。マネージメント契約を結びます。今日のセリーヌ・ディオンの原点です。

 因みに、英国の地方都市リバプールのビートルズが世界のビートルズになったのは、敏腕マネージャー、ブライアン・エプスタインの功績大です。ホイットニー・ヒューストンは、クライブ・デイヴィスなかりせば、世に出ていなかったでしょう。偉大な才能の原石は、発見され研磨されなければ、原石のままです。原石は、目利きでなければ、普通の石にしか見えません。ルネとの出会いが運命の扉を開いたのです。

 1981年、ルネは、自宅を抵当に入れて借金をして、セリーヌのデビュー盤“La voix du bon Dieu”をリリースします。この音盤は、ケベック州チャート首位に立ちます。そこで、セリーヌには、多数の公演ツアーの誘いがありましたが、ルネは「この才能を潰すわけにはいかない」として、全ての誘いを断りました。

 ここを起点に、現代のエンタテインメントのシンデレラ・ストーリーが始まるのです。但し、一朝一夕にスターダムに上り詰めた訳ではありません。必要十分な時間をかけて熟成していきます。“Easy come, easy go” は避けるのです。これもルネの戦略です。

世界へ

 1982年、セリーヌは、初来日します。「第13回ヤマハ世界歌謡音楽祭」に参加するためです。他のツアーは拒否したルネが、この音楽祭にはゴー・サインを出した訳です。極めて、戦略的です。ルネの狙いは的中します。カナダから参加したフランス語しか話せない無名14歳は、予選を勝ち抜き、「ママに捧げる詩」で最優秀歌唱者と金賞を受賞したのです。国際的に通用する歌唱力を証明しました。

 1984年には、初めてパリで公演します。オランピア劇場に出演者の最年少記録を打ち立てます。

 1988年には、ユーロビジョン・ソング・コンテストに参加。スイス代表としてフランス語の曲「私をおいて旅立たないで」を歌い、グランプリを獲得しました。フランス語圏以外にセリーヌ・ディオンの名前が知られるきっかけとなりました。

 但し、この段階では、未だフランス語のみを話し、フランス語の歌しか歌っていません。ケベック州で土台を固めて、まずカナダ全土、そして米国へと狙いを定めます。英語の猛勉強も始めます。

 1990年、ついに初の英語アルバム「ユニゾン」で米国に進出します。シングル・カットされた「哀しみのハート・ビート」がビルボード誌チャート5位のスマッシュ・ヒットとなります。今、聴いても、王道を行く良質のポップ・アルバムです。歌唱力は折り紙付きです。但し、セリーヌの唯一無二の個性は未だ発展途上との印象は否めませんが、ここから、セリーヌのサクセス・ストーリーは加速します。

 91年には、ディズニー映画「美女と野獣」の主題歌を、ピーボ・ブライソンとのデュエットでヒットさせ、アカデミー賞とグラミー賞を初めて受賞します。92年には、英語音盤第2弾「セリーヌ・ディオン」をリリース。全世界で500万枚のセールスを誇ります。96年には、アトランタ五輪の開会式で「パワー・オブ・ラブ」を熱唱。カナダ出身ですが、完全に世界を舞台に活躍するアーティストに成長します。そして、セリーヌの名を不動のものとしたのが映画「タイタニック」の主題歌「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」です。余りに美し過ぎる歌です。洋楽カラオケで挑戦すれば分かりますが、あの曲の美しさを引き出すには、特別な歌唱力が不可欠です。色々なカバーはありますが、セリーヌにしか歌えない、彼女のシグニチャー・ソングです。この後は、現代エンタテインメントの歴史です。

私生活

 セリーヌほどのスーパースターになれば、1日24時間、7日で1週間、1年365日を、アーティストと一個人との間で分割するのは極めて困難でしょう。音楽のことを考えない瞬間は無いかもしれません。声が楽器ですから、常に丁寧なケアが必要でしょう。アフリカの諺に、「速く行きたければ一人で行け。遠くへ行きたければ皆んなで行け」というのがあります。素晴らしいパフォーマンスは、固い絆で結ばれたバック・バンドとの不断の練習と入念なリハーサルの賜物です。

 そんな中、セリーヌは、彼女を見出したルネ・アンジェリルと結婚します。ルネの大戦略が奏功してスター街道爆進中の1994年12月のことです。この時、新婦セリーヌ26歳、新郎ルネは52歳です。実は、ルネにとってはこれが3度目の結婚でした。それはさて置き、この結婚は、セリーヌにとってもルネにとっても、ワーク・ライフ・バランスではなく、究極のワーク・ライフ・フュージョンと言えるでしょう。正に、歌うことが生きることです。

 2016年、喉頭癌を患い闘病中のルネでしたが、74歳の誕生日の2日前に、心臓麻痺で他界します。ケベック州葬が行われ、カナダ政府関連施設は半旗を掲げて、哀悼の意を示しました。

 ドキュメンタリー映画「アイ・アム・セリーヌ・ディオン」のサウンドトラック盤の内ジャケットは、自宅の居間で、薬を飲んでいるセリーヌを見守るルネの肖像写真です。セリーヌとルネの協働は次のステージに入ったように感じます。

未来へ

 数々の物語を生んだパリ五輪ですが、人々の記憶は徐々に薄れていくでしょう。エッフェル塔でセリーヌが歌った「愛の讃歌」もいずれ過去の出来事になっていきます。

 セリーヌ・ディオンの音楽的冒険は、今後も続くでしょう。それが、シャルマーニュの少女の頃からの歌手の本能だからです。難病と闘いながら、必ずや、素晴らしい歌を届けてくれることでしょう。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身