はじめに
日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。
感謝祭も過ぎて、10月も中旬になると晩秋です。オタワに長く住んでいる人々からは「地球温暖化で近年は、昔のように寒くはないよ」という声も聞きますが、紅葉は深まり、落葉が風に舞い、朝夕は氷点下に迫る日もあります。オタワの街もゆるりと冬支度を始めています。
そして、街には様々な音楽が溢れています。都会の要素と自然が溶け合うオタワは、実はジャズが似合う街です。
歴史を紐解けば、ジャズ黎明期で未だジャズという言葉が定着する以前から、オタワ出身のブラウン・ブラザーズはボードヴィル・バンドで人気を博しました。ボートヴィルはコメディー・寸劇とダンスと音楽が合体した娯楽でした。その音楽はジャズ的な要素を持ったものでした。ボードヴィルとジャズには切っても切れない絆があると言えます。ブラウン・ブラザーズは、オタワではかつてダウンタウンに在ったベネット劇場を拠点に活動しつつ、カナダ各地で公演し、米国に進出しています。
考えてみれば、カナダは鍵盤の帝王の異名を持つオスカー・ピーターソンを生み出しました。「クールの誕生」や「スケッチ・オブ・スペイン」等ジャズの歴史に刻まれるマイルス・デイビスの代表作を編曲し実質的に共同制作したギル・エバンスもカナダ出身です。実は、デューク・エリントン楽団は、200回を超えるカナダ公演を行っていました。エリントン御大は、カナダにおけるジャズは、米国の亜流ではなく、確固としたオリジナリティーを持って発展している旨述べています。
という訳で、今回の「音楽の楽園」は、カナダにおける「ジャズ事始め」です。
ジャズの誕生
ジャズという音楽の原型は、19世紀末、米国ルイジアナ州ニューオリンズにて生まれたというのが定説です。西アフリカの大地の音楽、欧州の教会音楽、奴隷の労働歌、黒人霊歌、ブルースが混じり合って徐々に出来上がったのです。ジャズの誕生には、特にクリオールと称される白人と黒人の混血の人々が大きな役割を果たしました。若干の解説をすれば、ニューオリンズは当時の米国で最もヨーロッパ的な街で、綿花の積み出し港として栄えていました。ヨーロッパ系白人男性が多く居住し、地元の黒人女性との間で生まれた混血児クリオールの中には高等教育を受ける者もいました。中には、正規の音楽教育を受け、ピアノや管楽器を見事に弾ける者もいました。彼らは、黒人的なリズムや旋律を取り入れて独自の音楽を発展させて行きます。因みに、1894年のルイジアナ州法でクリオールも黒人に分類されたことも、ジャズの発展にインパクトをもったと言われています。
そんなジャズ創世記の1914年、ニューオリンズでザ・オリジナル・クリオール・オーケストラ(以下、クリオール・バンド)という6人編成の楽団が誕生します。全員が黒人のミュージシャンです。リーダーは、最年長42歳のベース奏者ビル・ジョンソンです。彼こそ、コントラバスを弓ではなく指で弾くピチカート奏法で弾いたパイオニアです。リズムと和音の結節点としてのベースの最重要の役割は彼に由来するのです。クリオール・バンドのフロント陣は、25歳のコルネット奏者、フレディ・ケッパード。当時のニューオリンズで、コルネットの王者の1人と目されていました。かのルイ・アームストロングは13歳で少年院から出所したばかりで、ようやくコルネットを正式に習い始めたばかりで未だ全くの無名の頃です。名うてのミュージシャンが集うこの楽団は地元で評判となり、やがて、エンタテインメントの都ロサンゼルスへ出ます。そこで、アレクサンダー・パンテージスという興行主と出会い、クリオール・バンドは、歌手、ダンサー、コメディアンを加えて、鉄道に乗り北米大陸各地を巡業することになります。そして、故郷ニューオリンズから3,300キロも離れた大平原を訪れるのです。
カナダ史上初のジャズ・コンサート
ビル・ジョンソン率いるクリオール・バンドは、1914年9月21日の月曜日、午後2時半過ぎ、マニトバ州の州都ウィニペグのダウンタウン、マーケット・ストリートとメイン・ストリートの角にあるパンテージス劇場の舞台に立ちます。これこそ、記録に残るカナダ史上初のジャズ・コンサートです。
何故、ウィニペグだったのでしょうか?それは、地理的な要衝の地で、北米の鉄道網における米国中西部とカナダの平原州の結節点だったからです。人、モノ、カネ、そして情報が集まる街です。自ずと、エンタテインメントも発展します。因みに、この伝統は今にも繋がります。ゲス・フーやニール・ヤングはこの街から巣立ったのですから。
翌9月22日付のウィニペグ・トリビューン紙は、このコンサートについて「奇妙な楽器を素晴らしい方法で演奏した」と報じています。何が奇妙な楽器だったのかは判然としませんが、クリオール・バンドは、米国南部のプランテーションで働く黒人の作業服姿で演奏しました。ボードヴィル・スタイルの公演でした。今とは違って、当時はSNSはおろかテレビもラジオも未だありません。漸く、エジソンの蓄音機が普及し始めた頃です。それまでには存在していなかった全く新しい音楽であるジャズの響きを初めて生で聴いたカナダの聴衆の反応はどんなものだったのでしょうか?
クリオール・バンドの巡業は、ウィニペグで5回の公演をした後は、エドモントン、カルガリーと続きます。当時のカナダにとって最大の関心は第1次世界大戦です。未だ大英帝国の自治領でしたから、英国の参戦で自動的に参戦となりました。ドイツ軍の状況、フランス戦線、先陣を切るカナダ兵の英国での訓練などが詳しく報道されます。そんな中、新しく珍妙な音楽についての賛否論評も垣間見ることができます。
1914年9月29日のエドモントン・ブレテン紙は「この日最大のヒットはクリオール・バンドだ。トロンボーン、コルネット、クラリネット、ヴァイオリン、マンドリン、そしてベースを演奏。“ケンタッキーの我が家”などの美しい旋律は見事だった。観客の心からの拍手がいつまでも続いた」と報じています。一方、同日のエドモントン・ジャーナル紙は酷く批判的で、「クリオール・バンドは、大きな喝采を浴びたが、要するに、雑音を奏でただけだった」と記しています。両紙の記事から、エドモントンの聴衆がクリオール・バンドの演奏を大いに喜んだことは間違いないようです。その斬新な音楽を如何に評するかは、ある意味、極めて主観的なものかもしれません。ですが、いつの世も頭の硬い保守派にとっては新しい音楽は雑音に聴こえるようです。映画「アマデウス」のモーツァルトと皇帝のやり取りを持ち出すまでもなく、時代の先を行く優れた音楽はいずれは広く受け入れられます。
このオリジナル・クリオール・バンドは、その後も巡業を続けます。シアトルに引き続き、BC州バンクーバーとヴィクトリアでも公演し、更にサンフランシスコやロサンゼルスを巡り、ソルトレイク・シティーで千秋楽を迎えたのは1915年1月だったといいます。
カナダで録音された最初のジャズ・レコード
20世紀初頭、モントリオールにはカナダの文化の真髄がありました。と言うのも、ケベック州の中心にして、フランス系住民が多数を占めているもののイギリス系住民も少なくなく、文化的にはフランスとイギリスの影響が融合し、独自の個性を発揮していました。また、経済・金融の中心であり、早くから製造業も発展していました。このような背景で、勃興間もないレコード制作産業の拠点となりました。
国際的には、米国のコロンビア社やブランズウイック社、フランスのパテ社がレコード市場を席巻していました。しかし、カナダ人エミーユ・ベルリナーが興したベルリナー・グラモフォン社とその長男ハーバートが起業したコンポ社は、モントリオールで、地元の音楽家を起用してレコード制作を行っていました。1910年頃、カナダ初のレコーディング・スタジオがピール・ストリートに建設されました。
ここに、ニューヨークの興行主ハリー・ヤークスという男が登場します。1920年、彼は、ブルーバード・オーケストラというジャズ楽団をモントリオールで編成します。ニューヨークから連れて来た音楽家も地元で雇った演奏家もいたようです。人気を博し、同年5月、べリュリー通りにブルーバード・カフェという店までオープンします。耳新しい音楽がモントリオールっ子を魅了したのです。
そして、ブルーバード・オーケストラは、「Dance-O-Mania」という曲をベルリナー・グラモフォン社のスタジオで録音し、SP盤をリリースします。いわゆるディキシー・ランド風の明るいジャズです。コルネットやサックスに加え、バンジョーやヴァイオリンや鉄琴も入ってリズムと旋律とハーモニーが弾けます。YouTubeでも聴けます。これこそ、カナダで録音された初のジャズ・レコードです。
モントリオールは、ジャズ創世記の熱量を今に伝えます。モントリオール・ジャズ祭は、世界最大のジャズ・フェスです(本コラム第12回参照)。
職業的ジャズ・ミュージシャンとなった最初のカナダ人
時に、天は二物を与えることがあります。溢れる才能は、多彩に輝くのです。カナダ人初の職業ジャズ音楽家となったジョージ・パリスもそんな魅力的な人物です。
不明な部分も少なくないのですが、ジョージは、自治領カナダ誕生の翌年である1868年、ノバスコシア州の田舎町トルーローに黒人の両親の下に生まれます。一家はその後はモントリオールに出て、そこで育ちます。ジョージは14歳で両親の下を去り、サーカス団に入り、北米各地を巡業して周ったといいます。
ジョージ・パリスは、素晴らしい運動神経の持ち主で、スポーツ万能でした。100メートル走10秒25のパシフィック・ノースウエスト地区記録を持つ陸上選手にして、ラクロスでも活躍、ヘビー級のボクサーでもありました。その関係で、パリスは、サンフランシスコでは、1878年生まれのジャック・ジョンソンという若い選手のトレーナーを務めました。後に1908年、カナダ人の世界王者トミー・バーンズを破り、史上初の黒人の世界ヘビー級チャンピオンとなり、1915年まで防衛した伝説のボクシング選手です。
トリビアですが、このジャック・ジョンソンは、人種差別に屈することなく己の才能を開花させた黒人の偉大な先達です。かのマイルス・デイビスは、彼の生涯を描いたドキュメンタリー映画のための音楽をつくり、彼に敬意を寄せて「A Tribute to Jack Johnson(邦題:ジャック・ジョンソン)」という音盤を1970年に録音しています。伝統的なジャズを電化し、ロックの要素を大胆に導入した名盤です。
そんなジョージ・パリスは、バンクーバーに落ち着きます。RCMPの体育教官の職を得ています。が、サーカス出身で、芸能にも関心があるのです。1909年、世界王者となったジャック・ジョンソンが試合でバンクーバーにやって来ました。二人の再会です。そして、二人はボクシング試合と芸能を組み合わせた興行を各地で行います。ちょうどジャズ音楽が人々を惹きつけ始めた頃でした。ジョージは、人々がこの新しい音楽に熱狂する様を見ます。そこで、パリスは、若い頃サーカス団で伝授されたドラムの腕を改めて磨き直し、ドラム奏者となります。ボクシングで両手両脚を自在に駆使する運動能力が複数の太鼓やシンバル等を制御するドラムに共通したとの説もあります。
そして、1917年10月、バンクーバーに、パトリシア・ホテルが開業します。そこには、キャバレーが設けられ、街の芸能の拠点になりましたが、そのインハウス楽団を率いたのが齢49歳のジョージ・パリスだったのです。パトリシア・ホテルは、勃興期のジャズの中心だったといいます。記録によれば、パリスは、アメリカ音楽家協会の第145支部に1919年から32年まで13 年間にわたってライセンス登録をしていました。一方、バンクーバー市年鑑には、パリスが職業を音楽家としていたのは1920年から22年までです。音楽以外のマルチな活動もしていた訳です。
それでも、ジョージ・パリスは、カナダにおいて、ジャズで生計を立てた職業的音楽家の先駆けです。記録の残っているカナダで最初のプロのジャズ・ミュージシャンです。
結語
何事にも始まりがあります。天地創造の物語には、古の出来事を想像する喜びに満ちています。若い国カナダで新しい音楽ジャズが根付いていく様子は、非常に興味深いものがあります。今般、執筆に当たっては、Mark Miller著「Such Melodious Racket」を参考にしました。
(了)
山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。
山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身