「アーケイド・ファイア」 音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第29回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 11月11日は、カナダの歴史にとって大変に重要な第一次世界大戦の終結に因んだ戦争追悼のリメンバランス・デーでした。この日を過ぎると、いよいよオタワの冬が始まります。例えば、今月分の本コラムが掲載された11月21日を見れば、日の出は午前7時10分、日の入りは午後4時27分。冬来りなば、春遠からじとは言いますが、暫くは、陽射しが恋しい日々です。そんな時は、元気の出る音楽を聴きたいものです。

ザ・サバーブ

 そこで、今月はアーケイド・ファイアです。全米・全英・全加のアルバム・チャート首位を獲得した「ザ・サバーブス」はグラミー年間最優秀アルバム賞も獲得したカナダが誇る現代のオルタナ・ロックの雄です。2014年のフジ・ロック・フェスティバルでは大トリを務めています。

 世に、音楽は世界の共通言語である、或いは、音楽に国境は無い、と云います。確かに、その通りだと思います。しかし、一方で、音楽は、その生まれた時代と場所の影響を色濃く受けます。先月のコラムで記したジャズは、正に、19世紀末のニューオリンズだからこそ生まれた音楽でした。その意味では、アーケイド・ファイアは、21世紀のモントリオールだからこそ生まれた楽団だと言えます。カナダの自由と多様性と包摂性の成せる業と言えるでしょう。

2000年、マギル大学にて〜ウィン・バトラー編

 全ての偉大なバンドには、運命的な出会いがあります。1957年7月6日、英国のリバプールの聖ピーター教会でジョンとポールが出会い、「クオリーメン」というスキッフル・バンドで一緒に演奏したのがビートルズに繋がります。1961年10月17日、英国ロンドン郊外のダートフォード駅で、マディイ・ウォーターズのLP盤を持って電車を待っていたミック・ジャガーにキース・リチャーズが話しかけたことからローリング・ストーンズが始まりました。

 アーケイド・ファイアの場合は、ウィン・バトラーがモントリオールのマギル大学でレジーヌ・シャサーニュと出会ったことが全ての起点となったのです。作詞・作曲・編曲、リードヴォーカルも担当するウィンとレジーヌこそが、バンドの核です。この二人の出会いに至る経緯は、非常にカナダ的だと思います。

 まず、ウィン・バトラーです。地理学者の父とジャズ音楽家の母との間に、1980年4月に米国はタホ湖の北に位置するカリフォルニア州トラッキーにアメリカ人として生まれました。両親の仕事の関係で、一時期は南米アルゼンチンのブエノスアイレスで、その後はテキサス州ウッドランズで育ちます。15歳で、米国大統領やノーベル賞学者を排出している名門寄宿制高校フィリップス・エクセター・アカデミーに入学しています。映画制作を夢見る少年ウィンは、その後、ニューヨーク州のサラ・ローレンス大学に進学しますが、1年で中退。2000年、20歳の時に、マギル大学進学のためモントリオールに移住します。モントリオールは、米国の51番目の州と揶揄されることも少なくないカナダにあって、革命前のフランスの伝統が息づく米国と明快な違いがある街です。

 20年以上も前の事で、実際に分からない事も多いのですが、ウィンは、学業もさることながら、バンドを結成し音楽活動に情熱を傾けて行きます。まず、ウィンは、モントリオールの名門コンコルディア大の学生ジョシュ・デューと組んで曲作りに熱中します。実は、ジョシュとウィンは、フィリップス・エクセターの同級生でした。高校時代はそこまで親しくなかったようですが、モントリオールで再会し、意気投合し、マギル大学キャンパスの練習スタジオに入って二人組で精力的に練習を始めたのです。但し、二人だけではサウンドにも限りがあります。ウィンとしては、メンバーを拡大したいと考えていました。

2001年〜レジーヌ・シャサーニュとの出会い

 レジーヌは、1976年8月、ケベック州モントリオールで、ハイチから移民した両親の下に生まれます。両親は、フランス系とアフリカ系の血を引くハイチ人ですが、フランシス・デュバリエル独裁政権時代に祖国を捨て、カナダの中でもフランスの伝統が強く残るケベック州に移住した訳です。レジーヌは、モントリオール近郊のサン・ランベールで育ちます。1998年にコミュニケーション論の学位を得てコンコルディア大学を卒業します。が、元来、多種多様な楽器も弾け歌えるレジーヌですから、音楽、特にジャズの和声学や声楽をきちんと勉強するためマギル大音楽学部に入ります。そして、レジーヌはマギル大のキャンパスの内外で様々な機会に演奏し歌っていました。

 2000年、或る美術展のオープニング・イベントで、レジーヌはジャズ楽団の一員として歌っていました。その場に観客として居合わせたウィンが初めてレジーヌという人物の存在知り、歌を聴いたのです。その瞬間、ウィンは自分のバンドに彼女を参加させたいと直感したといいます。但し、この直感が現実のものとなるには、もう一つの出会いがあるのです。

 翌2001年の初頭の或る日、ウィンとジョシュは、いつもの様に、マギル大近くのスタジオで練習していたそうです。すると、その同じスタジオの別の部屋で練習していたのがレジーヌでした。彼女は、ピアノ、アコーディオン、パーカッション等の多彩な楽器を弾くだけでなく、リードヴォーカルも出来ます。音楽的基礎もしっかりしていて、実際に活躍しているミュージシャンです。

 ウィンにしてみれば、あの美術展のオープニングで歌っていたレジーヌが同じ練習スタジオにいるというのは、只事ではありません。この段階で、ウィンは、全く無名です。書き溜めた曲はありましたが、まともな実績もない二人組です。それでも、ウィンは、レジーヌにバンドへの参加を要請し、レジーヌは承諾します。ここに、アーケイド・ファイアの骨格が出来上がるのです。

 創設メンバーのジョシュは、この出会いについて、「実際に自分たちの曲をレジーヌに聴かせた訳ではないのに、彼女がバンドに入ることになった。ウィンとレジーヌの間には運命的な啓示があったに違いない」と述懐しています。

2002年〜アーケイド・ファイア始動

 2001年、ウィンとレジーヌの協働作業が始まると、バンドに大きな求心力が生まれます。一方、離合集散はどんなロックバンドにも付きものですが、ウィンの高校の同級生で創設メンバーのジョシュは徐々に疎外感を感じ、結局バンドを去ります。ですが、ウィンとレジーヌの下には、マルチ・インストロメンタリストのリチャード・パリーのような名うてのミュージシャンが集まって来ます。バンドとしての一体感が生まれて行きます。

 因みに、アーケイド・ファイアというバンド名の由来が興味深いです。或るインタビューで、ウィンは、「アーケイドで火事が起こった」という話に触発されたと語っています。ここで云うアーケイドとは、ゲームセンターのことです。ゲーセンに集う若者の言葉にしきれないフラストレーションや希望や怒りが含意されているようです。

自費EP

 バンドの実力が備わって来た2002年夏には、ウィンとレジーヌ以下アーケイド・ファイアのメンバーがウィンの両親が住む米国メイン州に赴き、大自然の中で書き溜めた曲を録音します。そして、翌2003年6月には「アーケイド・ファイア」と題する7曲を収録したEP盤を自費でリリースします。今、聴いても、新鮮。虚飾は排したナチュラルなサウンドです。ウィンとレジーヌの声はそれぞれに個性的。各楽曲は全く異なる曲想ですが、耳にスーッと入って来るメロディーは魅力的です。

 アーケイド・ファイアの秘めた潜在力をチラ見せしているのがデビューEPです。自費リリースで、実際にプレスされた枚数は少しでしたが、オンライン配信もされました。聴力と眼力のある音楽関係者は、原石を見逃しませんでした。画一的なカテゴリーに収まらない彼らの音楽ですが、一般にオルタナ・ロックと呼ばれています。商業主義に毒された「売れてるグループ」にはない、荒削りでリアルな音楽の原風景が聴く者の胸を掻きむしります。

 因みに、2003年、ウィンとレジーヌは結婚。音楽の絆は二人を強く結びつけた訳です。

成功〜グラミー賞

フューネラル

 限定的な自費リリースで始動したアーケイド・ファイアですが、数社のインディ系レコード会社が契約を申し出ます。2004年には、マージ・レコードと契約し、満を侍してフル・アルバム第一弾「フューネラル」をリリースします。ビルボード誌アルバム・チャート・トップ200にランクインし、グラミー賞にもノミネートされます。寒い北国の街モントリオール発のアーケイド・ファイアは、瞬く間に北米でファンを獲得したのです。2005年2月には、世界中から一騎当千のバンドが覇を競うニューヨークに進出します。ウェブスター劇場での公演は、耳の肥えた聴衆に新鮮な驚きを与えます。極めて辛口の論評で知られるローリングストーン誌も絶賛します。

ネオン・バイブル

 その後は、現代ロックの歴史そのものと言っても過言ではありません。概略を記します。2005年8月には、サマーソニック・フェス出演のために初来日。11月には、モントリオール近郊ファルナンの教会を購入して、録音スタジオに改修します。そして、2006年は、ほぼ丸一年間かけて、この教会スタジオで新作アルバムの録音・制作に取り組みます。その成果は、2007年3月、第二弾アルバム「ネオン・バイブル」として世に問います。全米・全英チャートで初登場2位と大成功です。YouTubeで、ヨーロッパ・ツアーの際のパリ公演の全貌が観られますが、ウィンとレジーヌが率いる9人の実力派ミュージシャンがギター、ベース、キーボード、ヴァイオリン、マンドリン、アコーディオン、チューバ等々の多彩な楽器を持ち替える演奏は圧巻です。無駄の無いナチュラルなサウンドを堅持しながらも、時代の要素を巧みに取り入れています。「ネオン・バイブル」は、グラミー賞にもノミネートされました。競争の厳しい米国マーケットにおいて、実力バンドの一角を占めるまでに成長します。

 そして、2010年、上述の通り「ザ・サバーブス」でグラミー最優秀アルバムの栄冠を手にします。オルタナだポップだロックだ等というジャンルを越えて、彼らの音楽の力量が名実ともに認められたのです。

栄光、そしてスキャンダル

エヴリシング・ナウ

 考えてみれば、複雑化した現代の社会は、いつも激動の時代と言えます。世界には矛盾に満ち醜悪な面があります。それでも常にポジティブな面はあるのです。2017年「エヴリシング・ナウ」は、希望に満ちた素晴らしいサウンド。名盤です。「サインズ・オブ・ライフ」冒頭には、日本語のアナウンスが微かに聞こえます。

 2019年7月には、ウィンはカナダ市民権も得ました。

ウィ

 第6弾「ウィ」は、19年から構想し取り掛かっていましたが、大部分は新型コロナ感染爆発の真っ只中に録音された特異なアルバムです。米国テキサス州エルパソ郊外の荒野の一軒屋で外界との接触を絶って創られました。全曲、ウィンとレジーヌの共作です。『不安な時代』は正に時代の空気を代弁している曲です。当時を振り返り、ウィンは精神的に相当キツかったと語っています。それでも全体を通して聴けば、不安に押し潰されることなき前向きな確信を感じさせます。22年5月に発表されると加米英はじめ各国チャートで好成績を収めたのも納得できます。

 しかし、好事魔多し、と云います。「ウィ」が音楽的にも高い評価を得ていた22年8月、創始者にして実質的リーダーであるウィンによる過去の性加害を複数名の女性が告発しました。ウィンは、合意の上であった旨反論しています。が、バンドへのダメージは大きなものがあります。一部のラジオ局は、アーケイド・ファイアの楽曲の放送を一時的に停止しました。

結語

 自由と多様性に溢れるモントリオールで産声を上げたアーケイド・ファイアは、21世紀の始まりと軌を一にして歩んで来ました。時代の光と影を反映している現代ロックの物語です。商業主義とは一線を画した丁寧な音づくりは、胸の奥の柔らかい部位を時に優しく時に激しく慰撫します。

 上記のスキャンダルの結末は不明ですが、「ウィ」が彼らの最後の音盤との説もあります。ウィンもレジーヌも既に不惑の年齢を超えています。疾風怒濤の日々は否が応でも創造中枢を刺激します。過ちにはきちんとケジメを付け、誰も踏み入ったことのない領域に響くサウンドを生み出して欲しいと思います。カナダには、善悪の彼岸を超えて全てを受け入れる懐の深さがあるのですから。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身