日系カナダ人強制収容について(時系列):日系カナダ人物語

 カナダ政府は国家安全保障を「口実」に日系カナダ人を強制収容する政策を実施した。この政策により、ブリティッシュ・コロンビア(BC)州バンクーバーを中心に沿岸部に暮らしていた日系人約22,000人が、住んでいた家を追われ強制的に移動させられただけではなく、家や財産を奪われ、過酷な労働や生活を強いられた。

真珠湾攻撃、日系カナダ人排除命令

 1941年12月7日、日本軍がアメリカ・ハワイ州真珠湾を攻撃、カナダ政府は同日に日本に宣戦布告した。これを機にカナダ政府は内閣条例9591号「戦時措置法」を適用。

 日本国籍者および1922年以降に帰化した日系者は2月7日までに「敵性外国人名簿」に登録することが義務付けられた。

 12月8日、漁業に従事する日系人はスパイと疑われ、BC州で日系カナダ人が所有する漁船約1,200隻が押収された。日本語学校も閉鎖。新聞は日本語新聞3社が閉鎖されたが、英字新聞「ニューカナディアン」のみは発行を許された。

 12月16日には、日本人を先祖に持つカナダ人は国籍に関わらず日系人として登録することを義務付ける内閣条例第9760号が発令される。バンクーバー市スタンレーパークの日系カナダ人戦没者慰霊碑の火も消された。

強制収容の流れ

 1942年1月16日、戦時措置法に基づく内閣条例365号が発令され、BC州沿岸から100マイル(約160キロ)内を「制限区域」と設定。「敵性外国人」男性を追放すると決定した。

 2月7日、18歳から45歳の日系カナダ人男性に制限区域外へ移動することを命じた。男性たちは道路建設労働キャンプに送られることになった。

 2月19日、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が大統領令9066号に署名。日系アメリカ人の西海岸からの追放が承認された。

 2月24日、カナダ政府が内閣条例1486号を承認。法務大臣は日本人を祖先に持つ全て日系人の移動を管理できるようになる。

 2月25日、マッキンジー・キング首相が日系カナダ人全員を制限区域から追放することを発表した。日系カナダ人の約9割が居住していた地域が対象となり、対象者の60%はカナダ生まれだった。

 2月26日、日系カナダ人の大量移送が開始された。24時間以内に退去するよう通知された人もいた。自動車、カメラ、ラジオなどは没収された。

 3月4日、内閣条例第1665号により、日系カナダ人の財産は敵性外国人財産管理人により「保護の名目のためだけ」に差し押さえられた。BC州公安委員会(BCSC)が設立され、日系人を沿岸地区から移送する役割を担った。

 3月16日、強制収容の対象となった日系カナダ人約22,000人のうち最初の一団がバンクーバー市北東にあるへイスティングス・パークに到着した。

 ヘイスティングス・パークには約8,000人が集められ、強制移動地が決まるまで一時的に収容された。ヘイスティングス・パークでの生活はひどく、家族は引き離され、家畜小屋に住まわされた。

 3月25日、BCSCが男性を道路建設キャンプへ、女性や子どもを「ゴーストタウン」に設置する収容所に移動させることを計画する。バンクーバー以外からの日系カナダ人の連れ去りもあり、3月25日までにヘイスティングス・パークに滞在する日系人は1,593人になった。

 1942年末までに、約12,029人がBC州内陸部の収容所に送られた。945人が道路建設を含む労働キャンプに送られ、3,991人がアルバータ州やマニトバ州のシュガービート(テンサイ/砂糖大根)農園に移動した。1,161人が制限区域外の自活収容地に送られた。

道路建設労働キャンプ

 1942年2月、連邦政府は内閣条例によりブリティッシュ・コロンビア州、アルバータ州、オンタリオ州に道路建設キャンプ(ロードキャンプ)設置を決定した。

 設置されたキャンプは、BC州に3カ所、ホープ‐プリンストン、レベルストーク-シカモス、ブルーリバー‐イエローヘッド、オンタリオ州に1カ所、ジャックフィッシュ‐シュレイバー。BC州の3カ所が安全保障上最優先とされた。

 これらの3カ所のロードキャンプにBC州沿岸部から強制移動させられた日系カナダ人男性が送られた。

シュガービート農場

 連邦政府とBC州政府は砂糖の不足と労働力の不足を解消するため、日系人をアルバータ州やマニトバ州のシュガービート農場に移住させる計画を策定。マニトバ州では、戦争が終われば彼らを移動させることを条件に受け入れを実施した。

 バンクーバーから鉄道で移動、駅で農場主に引き取られ、それぞれの農場で働くことになった。

 BCSCの強制移動計画は、家族が一緒に移動できる唯一の選択肢がアルバータ州かマニトバ州への移動だったため、家族で一緒に移動したい人たちにとっては強制収容所への移動よりも魅力的な選択肢だった。

 しかし、農園での労働は非常に大変だった。居住環境も劣悪で、収容所の施設は過密状態で電気も水道もない状況だった。

政府補助収容所と自活収容地

 制限区域外に設置された収容地には、カナダ政府が補助した収容所と自給自足する自活収容地があった。

 政府補助収容所は10カ所、タシメ、グリーンウッド、スローカンシティ、レモンクリーク、ポポフ、ベイファーム、ローズベリー、ニューデンバー、サンドン、カスロー。

 1942年4月21日、ヘイスティングス・パークからの最初の移送者がグリーンウッドに到着した。ただグリーンウッドは市長が日系人を積極的に受け入れることを発表したため、のちに状況は改善した。

 5月21日、グリーンウッド、カスロー、ニューデンバー、スローカンシティ、サンドンに男性が送られ、他の日系人が到着する前に生活できるように準備した。

 9月8日、最初の収容者がタシメに到着し、150人ずつのグループで順次移送が行われた。

農地没収、「ニューカナディアン」新聞の再刊

 6月29日、内閣条例第5523号により「退役軍人定住局長官」に日系カナダ人の農場を自由に売却賃貸する権限が与えられた。これにより、572の農場が所有者の同意を得ずに売却され、日系人は経済的基盤を完全に失うことになった。

 11月30日、カスローで「ニューカナディアン」新聞が再刊。収容所内の情報や政府方針を知る重要な情報源となり、多くの日系人にとって貴重な存在となった。

敵性財産管理局による財産没収と売却

 1943年1月19日、内閣条例第469号により、敵性外国人財産管理人を通してカナダ政府が本人の承諾なしに日系人の不動産や財産を売却できるようになる。同年6月23日には、769件の不動産と賃貸収入が退役軍人土地管理局に85万ドルで引き取られた。

戦後の移動と権利回復(1945年以降)

 1945年4月13日からカナダ政府は、BC州で生活している日系カナダ人にロッキー山脈以東への移動か、日本への「帰国」を迫る。

 8月15日、日本が降伏、事実上第2次世界大戦が終結。

 1946年1月 戦時措置法が失効。しかしカナダ政府は国家非常時暫定法を発令して日系カナダ人への差別措置を継続した。

 5月31日、日系カナダ人の日本への「送還」が始まった。

 大多数はロッキー山脈以東への移住を選んだが、この政策は実質的に日本への送還を強制的に促すもので、約3,964人が「自発的送還」として日本へ追放された。送還されたほとんどはカナダ生まれで、日本に行ったことがなく、日本語を話すこともできなかった。

 この政策に対し、日系カナダ人とその支援者たちが反対運動を展開した結果、最終的に政策は撤回されたが、帰国には何年もかかった。

 1949年4月1日、日系カナダ人への移動制限が解除され、沿岸地域への移動が自由になった。しかし、送還や財産没収によって大きな損失を被った日系カナダ人の多くは、かつての生活基盤を取り戻すことができず、新たな生活を築いていく必要があった。

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