日系カナダ人物語「記憶を次世代へ」:堀井昭さん「差別はいつでもどこでも起きる」

Dr. Akira Horii/堀井昭さん
Dr. Akira Horii/堀井昭さん

堀井昭さん

1931年10月、ブリティッシュ・コロンビア州バンクーバー市生まれ
1942年ブリティッシュ・コロンビア州イースト・リルエットに移動、1949年にバンクーバー市に戻る
元医師、両親は和歌山県出身

日系人への差別がなかったストラスコナ小学校時代

 「子ども時代はバンクーバーで育って、当時は差別なんて知りませんでした」と話し始めた。バンクーバーに住んでいた多くの日系人がそうだったように、ホリイさんもストラスコナ小学校に通った。

 当時の小学校ではイギリス系の生徒には上流階級意識があり、中国系、イタリア系、ユダヤ系の生徒たちをそれぞれ差別的に呼んでいたという。それでも「私たちを『ジャップ』と呼んでいるのは聞いたことがなかったですね」。生徒数の約50%は日系2世だったと思うと語る。『ジャップ』とは日本人を差別的に呼ぶ言葉だ。

 当時はヨーロッパで第2次世界大戦が始まり、イギリスで困っている子どもたちにくつ下やキルトを送るため授業では先生がくつ下の編み方やキルトの作り方を教えていたという。

 「(太平洋)戦争前はハッピーな子どもでした。差別が何かも知りませんでしたしね」

人生が一変した真珠湾攻撃

 ハッピーな子ども時代を一変させたのは1941年12月7日、日本軍によるアメリカ・ハワイ州真珠湾攻撃だった。「世界が一変しました」。同日カナダが日本に宣戦布告した。「日系カナダ人にとって天地がひっくり返る出来事でした」。

 ホリイさんが10歳の時だった。なにもかも突然に起きた。「突然学校を辞めなくてはいけなくなりました。パールハーバーまでは私はストラスコナ小学校のグレード5(5年生)で、アレキサンダー通りのバンクーバー日本語学校の5年生でした」。ストラスコナ小学校に通っていた日系カナダ人の生徒約630人が去らなくてはならなかった。学校の生徒数は半分に減ったという。

 それから日系カナダ人コミュニティに起こったことを説明した。

 カナダ政府は日本に起源を持つ全ての日系カナダ人をブリティッシュ・コロンビア(BC)州沿岸から100マイル(160キロメートル)以東へ移動することを強制。家屋、自動車、ビジネス、漁船などの財産は差し押さえられた。その中にはホリイさんの父親が所有していた漁船も含まれていた。健康な18歳から45歳までの男性はロードキャンプで働くことを強いられ、BC州内のホープ・プリンストン、レベルストーク・シカモス、ブルーリバー・イエローヘッドの3カ所に送られた。ロードキャンプ行きを拒否した者はオンタリオ州の捕虜収容所(Prison of War)に送られた。

 カナダ政府がBC州内に用意した収容地は10カ所。最大規模だったタシメグリーンウッドスローカンシティ、レモンクリーク、ポポフ、ベイファームローズベリー、ニューデンバー、サンドン、カスロー。サンドンには仏教徒が多く送られ、高い山に挟まれた谷間の街で冬の環境があまりにも劣悪なため、のちにニューデンバーに移ったと説明した。これら10カ所は「政府が支援している強制収容所でした」。

 1942年1月14日にカナダ政府が日系カナダ人を「敵性外国人」とし同年2月から収容所送りを開始するも、これら10カ所の収容所は準備が間に合わず、多くがバンクーバー市のヘイスティングス・パークに集められた。尿やフンの臭いのする馬小屋での生活を強いられ、長い場合には「9月や10月頃までそこで生活していた人もいたと聞いています」。

 その他に「自分たちで生計を立てて暮らす収容地がありました」。自立型収容地でBC州内に5カ所。イーストリルエット、ブリッジ・リバー、ミントシティ、マックギリブレイ・フォールズ。政府からの支援は一切ないため自分たちで生活しなければならない。ただ家族一緒に移動できた。

イーストリルエットでの生活

 「私の両親は自立型収容地に行くことにしました」。鉄道でコールハーバーからスココミッシュに行き、そこからパシフィック・グレート・イースタン・レールウェイ(PGE)、現在のBCレール、で移動した。当時はスココミッシュがPGEの最南端駅だったと記憶している。乗り換えてから一晩明けるとリルエットの町に着いた。「朝、目が覚めると山に囲まれていました。『こんな所に住むのかぁ』と思いましたね。でもまあ、リルエットという小さな町で住むのも悪くないかと考え直しました」。しかし「驚いたことに」と続けて、そこからさらにトラックに乗せられて4マイル(約6.5キロ)走って着いたのはフレーザー川を渡った「イーストリルエットという場所でした」。

East Lillooet

 父親やそこに移動してきた男性陣は春からタール紙を使った小屋の建設を始めた。母親はホリイさんを筆頭に5人の子どもを抱えていた。「飲み水も、電気もなくて、差別のため仕事もありませんでした」。日系人はリルエットの町に入ることすら許されていなかったという。

 それでも生活のために色々と工夫した。飲み水は購入した。生活用水はフレーザー川からの水をろ過する装置を作って賄った。食料は野菜を自分たちで栽培した。冬季でも保存できるジャガイモやタマネギ、「ゴボウも作ってましたね」と笑う。食用に鶏も飼育、卵も取れた。時には先住民からサーモンを買うこともあったという。「母はサーモンを缶詰にしていました」。各家には「お風呂」も作った。こうして自立した生活を送った。

 イーストリルエットに移動してきた男性は多くが漁師だったため、生活のためにできることが限られた。そこで「救世主となったのがハニー(メープルリッジ)で農家をしていたトクタロウ・ツユキさんでした」。ツユキさんによるとリルエット地方の気候は暑くて乾燥しているのでトマト作りに最適だという。そこで共同でトマトの栽培を始めた。収穫したトマトはニューウエストミンスターに送っていたが、そのうちに町にトマトの缶詰工場を作るとそこで加工した。「そうやって7年間イーストリルエットで生き延びました」。

 苦しい生活環境だったが、男性たちは子どものために小学校を建てた。「でも教師がいなかったので高校を卒業していた人ならだれでも小学校の先生を務めました」。ただすでに高校生だった10代の若者は高校を卒業することができなかった。移動してきた当時はリルエットの町の学校には行けなかったからだ。

 しかし1946年までには町の高校に通えるようになっていた。ホリイさんもリルエットの高校へ通い、4マイルを自転車で通学したという。冬の寒さが厳しいリルエットで「寒い日は道路が凍っていましたし、学校に着いた頃には口も凍っていました」。

 高校に通いながら家計を助けるためにアルバイトもした。町の新聞社で働いたり、父のトマト農園や缶詰工場でも働いた。「長男が家を助けるのは当たり前でした」。

 それから高校3年の時にカナダ人の友人とUBCハイスクール・コンファレンスに参加するためにバンクーバーに戻った時のことを話した。学校代表として行くにもかかわらず警察の許可証が必要だったという。「自分が生まれた町に行くのにRCMP(連邦警察)の許可証を取らなければいけませんでした。BC州沿岸付近にいることすら許されなかったのです。映画を見た帰りに二人で宿泊していた友人のいとこの家に帰る途中にイーストヘイスティングス通りを歩いていると警察官に呼び止められました。私が日本人だと分かったんだと思います」。ここで何をしていると聞かれた。「リルエットからの許可証を見せました。バンクーバーに来るための特別な許可証でした」。1948年12月のバンクーバーはまだ日系人に冷たかった。

 そしてリルエットの高校を1949年に卒業した。

漁師をしながらUBC医学部を卒業

 1949年4月1日に強制収容政策は終了し、日系カナダ人は自由に移動できるようになった。同年に高校を卒業したホリイさんはブリティッシュコロンビア大学(UBC)に入学する。「両親が大学進学を許してくれました」。でも大学にお金がかかることは分かっている。「大学の寮に入っていましたけど、大学までは路面電車代10セントを節約するためにヒッチハイクをして行きました」。

 授業は通常5コースのところを6コース取った。「リルエットから出てきた田舎者の1年生はウブでした」と笑う。化学、物理、生物のラボもあった。「試験を受けて1年目を終えた時、よくやったなぁと思いました」。

 しかし父親の仕事を手伝うために1年で休学した。「父親はすごく漁師に戻りたがっていました」。1950年から父親を手伝って漁師となった。BC州北部のプリンス・ルーパート辺りでサーモン漁を始めた。漁師生活は2年間続いた。稼いだ収入は両親に渡した。やはりここでも長男として家族を助けるのは当然と考えていた。そうして家族は1951年にようやくバンクーバーに戻ってきた。

 2年間の休学をへて1952年にUBCに復学した。相変わらず6コースを取ったという。夏には父を助けるために漁師として働いた。1957年まで漁師は続けた。

 1955年に大学を卒業し、友人から「医学部を受けてみないか」と誘われ申請したら「驚いたことに受理されました」と笑った。医学部時代には横隔膜下膿瘍で生死をさまよう経験をした。大学医学部の教授のおかげで一命を取り止めたが1年間を棒に振った。それでも1960年に卒業。それから2週間後には結婚し、フォルクスワーゲンで新婚旅行代わりにアメリカ北部を横断しトロントへ。トロント・ウエスタン病院で1年間インターンとして働いた。

医師時代に出会った日系一世の話

 強制収容前のバンクーバー。ホリイさんは長男だけに甘やかされたこともあったという。パウエル通りの日本人街でバンクーバー仏教会の前にあった小さな菓子屋に連れてもらっていた。「あんぱんを買ってもらってました。そこはマツモト夫婦がやっていた店でした」。通っているうちにマツモト夫妻と仲良くなったが、強制収容時はどこに行っていたのか知らなかった。

 そして1961年医師として働き始めた頃にマツモト夫妻が患者になったという。そこで初めて夫のマツモトさんが第1次世界大戦にカナダ兵として参加した退役軍人だったことを知った。「兵隊姿の写真は背が高くて、ハンサムで、強そうで。キンゴ・マツモトさんといいました」。

 日系カナダ人は第1次世界大戦にカナダ兵として222人が参加した。BC州では差別が激しかったため入隊できず、アルバータ州まで行って入隊した。そのうち54人が戦死した。バンクーバー市スタンレーパークには当時の日系コミュニティが建てた日系カナダ人戦没者慰霊碑がある。

 第1次世界大戦にカナダ兵として参加して帰ってきた日系カナダ人には市民権が与えられた。「最初はカナダ政府は拒否したのですが1931年に与えられました。東洋人としては初めての市民権でした」。それでも「1941年12月に日本との戦争が始まるとマツモトさんも『敵性外国人』とされ、市民権もはく奪され、強制収容されました」。第1次世界大戦で戦った全ての日系カナダ人が同じ扱いを受けた。

 マツモトさんはヨーロッパで戦った時に毒ガスを吸っていたため肺を病んでいたという。「皮肉ですよね」。カナダのために命を懸けた国民へカナダ政府の冷酷さを皮肉った。

日系カナダ人強制収容と差別

 「強制収容と差別を話すことについて関心を持ち始めたのは晩年になってからです」と言う。医師時代は日本語ができる医師Dr. Aki Horiiとして親しまれ、多くの日系1世の患者を担当した。いまは小学校や高校、大学、カレッジなどで経験談や差別について話している。

 ホリイさんは日系カナダ人に対するカナダ政府の対応は差別的な議員の言動が理由だったと話す。連邦、BC州、バンクーバー市、全ての政府に日系人に対する差別を公言する議員がいた。中でも国会議員は特に力を発揮したという。

 当時のバンクーバー・サン紙に掲載されていた議員らの差別的な言葉を引用して、それがどれほどひどいものだったかを語った。「ジャップがブリティッシュ・コロンビア州に戻ることを決して許してはならない」「政府の計画は一刻も早くBCからこれらの人々(日系カナダ人)を追い出すことだ。私は公人として残された限りの時間を費やして個人的な意思を持ってこれを行う。彼らがここに二度と帰ってくることのないように」「ロッキーから太平洋まで一人のジャップも入れてはならない」

 そして、日本軍の真珠湾攻撃は単なる日系カナダ人を追い出すための口実だったことを語るバンクーバー・サン紙の特集記事を紹介した。2015年3月付の記事は1942年この週の歴史として掲載されている。要約すると、東洋からの移民が来て50年の間、BC州は日本人の受け入れに反対してきたが連邦政府がそれを阻止してきた。しかしすばらしい軍事的理由で日本人を内陸部に移動させることができた。戦争を利用して問題を解決できたことは喜ばしい、となっている。

 ホリイさんは「これを読むと戦争は当時日系カナダ人を追い出すための口実だったことがよく分かります」と力を込める。それは1945年8月15日に第2次世界大戦が終わっても続いた。1945年カナダ政府はBC州に住む日系カナダ人にロッキー山脈より東に移動するか、日本に帰るかの二者択一を迫った。約4,000人が日本へ行き、「多くの人はアルバータ州やサスカチュワン州に行きました」。

 差別はいつどこでも起きると話す。それは心に傷を残す。「医師のミーティングで、ある医師が『ジャップ』という単語を何度も会話の中で使ったんです」と自身の経験を語った。「それから1カ月は眠ることができなくて」。次のミーティングでそのことを告げるとその医師は謝ったという。

 「差別は最も予期しないところで起きるものなんだよ、と生徒たちには伝えているよ」と静かに語った。

(取材 三島直美)

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