エド・ハヤシさん
1937年4月、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市スティーブストン生まれ
1942年アルバータ州テイバーに移動、1950年まで滞在
両親は滋賀県出身
スティーブストンからアルバータ州南部へ
エド・ハヤシさんが家族と共にスティーブストンを離れたのは1942年。行先はブリティッシュ・コロンビア(BC)州右隣アルバータ州南部のテイバーだった。スティーブストンで生活していた時のこともアルバータ州に移動した時のことも覚えていないという。
「その頃はまだ小さかったから当時のことは覚えていません。BC州を離れたことも覚えていないです」
テイバーで両親はシュガービート(テンサイ)農園で働いた。なぜアルバータ州だったのか?カナダ政府の指定した収容所はBC州に多くあった。ハヤシさんは「当時両親には4人の子どもがいてみんな1歳違いでした」とハヤシさんを筆頭に弟妹が3人いたと話す。「両親は家族で一緒に暮らしたかったからアルバータを選んだんだと思います」。シュガービート農園は人手を必要としていた。農園への移動を選んだ場合は家族一緒に移動できた。
ただ生活環境が悪いことに他の収容所と変わりはなかった。「住んでいたのは社宅でしたが、掘っ立て小屋でした。すごく寒かったです。断熱材も電気もありませんでした」。暖房は石炭ストーブだけだった。「石炭ストーブとは石炭を使って家を温めるストーブのことで、暖房はそれしかありませんでした。石炭ストーブで覚えているのは、寒い日に母が石を持ってきて、その石をストーブに入れて温めて。それを古いブランケットで包んでベッドの横に置くんです。そうやって足を温めていました」
そのストーブに乗せて沸いていた湯は翌朝には氷が張っていたことを覚えている。「それだけ寒かったってことですね」。アルバータ州テイバーの冬季の最低気温は平均で氷点下10度前後、寒い時には氷点下40度になることもある。そんな中で電気も断熱材もない掘っ立て小屋で家族6人が暮らしていた。それでも、「いい経験だったよね」と苦しさは表情には出さない。
大変なのは暖房だけではなかった。「食べる物もあまりなかった」と振り返る。「自分たちで育てていたものを食べました。冬の間も保存できるものを育てていたと思います。父はだいたい週に1回買い物に出かけていました」。食料を買い出しに行く町までは2~3マイル(3~6キロメートル)離れていた。そこまで父親は古いトラックで出かけた。「出されたものをなんでも食べていましたね。食べ物のことで文句なんて言いません。とにかくテーブルにある物を食べる。そういう生活でした。大変でしたね」
差別を感じなかった子ども時代
強制収容政策の中にあっても学校には通っていた。ハヤシさん自身はグレード1~3(小学1年~3年にあたる)まで通ったという。弟や妹も一緒に通った。通学手段は馬車。「あの頃、学校には馬車で通っていたのを覚えてますね」と笑う。生活環境は厳しかったが子どもとしては「色々と楽しいことをして遊んでいました」。
「白人の友達」もいたと話す。「まだ子どもだったので戦争のことはよく分かりませんでした。だから子どもなりに楽しく過ごしていました」。
日曜学校(サンデースクール)にも通っていた。日曜学校とはキリスト教会で日曜日に開かれる学校のこと。「子どもの頃にはサンデースクールに行ってました。毎週日曜日に女性が自分の車で迎えに来てくれて、テイバーのサンデースクールに連れて行ってくれました。毎週日曜日が楽しみでしたね。イエスキリストについても多くを学びました」
学校に通っていた子ども時代を振り返り、特に日系カナダ人に対する差別は感じなかったという。「子どもだったから、たぶん差別は特になかったんじゃないかと思います」
バンクーバーへ
カナダ政府は「戦時特措法」を解除。1942年4月1日から日系カナダ人はようやく国内を自由に移動できるようになった。
ハヤシ一家は1950年までアルバータ州テイバーで生活し、同年バンクーバーへ戻る。そして漁師に戻りたいと考えていた父親がウエストバンクーバー市のグレート・ノーザン・キャナリーで漁師の仕事を見つける。
「家族で(アルバータ州テイバーから)バンクーバーに戻る時には戻るためのお金がありませんでした。そこで父は叔母からお金を借りてバンクーバーに戻る資金としました」。借りた金は漁師として働いて返済した。アルバータでも、戻ってきてからも、両親は苦労したと振り返る。
ウエストバンクーバーでは社宅で暮らした。他にも日系人家族が住んでいたと記憶している。ハヤシさんはといえば当時12歳。ウエストバンクーバーの学校に通った。キャナリーから通学していた日系人は自分たち兄妹だけだったという。クラスは全て「白人」だった。それでも特に「差別は感じなかった」と語った。
その後、学校を辞め大工養成学校に1年間通い3年間の修行を終えて大工として働き始めた。その頃は日系カナダ人の大工に対する差別を感じたという。当時は組合に加入していると仕事ができたことから1957年に組合に加入。大工の仕事を見つけるのが大変な時代だったと振り返った。大工仲間に日系カナダ人の友人もいたがお互いに強制収容時代のことを話すことはなかったと語った。
カナダ政府の日系人強制収容政策について
ハヤシさんは「リドレス運動」には直接参加しなかった。教養のある人たちが活動していたこと、1988年頃のこと、21,000ドルを受け取ったことを覚えている。
カナダが日系カナダ人に取った政策について聞くと「残念なことだ」と語った。「日系カナダ人は全てをなくしたと思う。家もなくなったし、働くための漁船もなくしました。たくさんの物をなくして、それは二度と自分たちの元に戻ってはきませんでした」
そして隣組が主催したというソルトスプリングアイランドへのツアーに参加した時のことを話し始めた。1800年代後半に日本から来た男性の話だ。「ずいぶん前に隣組のソルトスプリングアイランドへのツアーに参加しました。日本から来た日本人男性は500エーカーの土地を買ったそうです。今だったらすごい価値になっていると思います。でも彼には1セントも戻ってくることはありませんでした。それって恥ずかしいことだと思いませんか?」
1800年代後半にはソルトスプリングアイランドに日本人が移住していた。漁業や農業をして暮らしていた聞いているという。でも「彼は全てを失った。とても残念なこと」。
ハヤシさん一家は戦前社宅に暮らしていたため没収される家は持っていなかったという。ただ漁船は没収された。もちろん強制収容政策が終わってもそれが戻ってくることはなかった。
日本とのつながりを大切に
初めて日本へ行ったのは1985年。45歳の時だった。大工の仕事をするために訪日したという。当時日本で家を建ててくれる大工を探しているという日本人「鈴木さん」とバンクーバーで知り合った。「少しは日本語ができたから」と笑いながら「西宮で家を建てる気はないか?」と誘われたという。
「それで考えました。いまバンクーバーに住んでいるけども日本に行けるまたとない機会がやってきた。旅費はただ、しかもお金になる仕事…。と、そこでバンクーバーでの仕事をいったん閉めて日本に行きました。初めての日本でした」。それから3カ月滞在した。その時立てた家は今でも兵庫県西宮市に立っている。
初めての日本の印象を聞くと「日本の人はすごく丁寧で、いい人で、色々と助けてくれました。私は日系カナダ人だから上手な日本語はできないけど、それでも仲良くなりました」。
日本とのつながりは今でも続いている。現在はバンクーバー市にある「隣組」でボランティア活動をしている。隣組は1974年に設立された日系ボランティア団体。日系カナダ人強制収容政策から開放された後、日本語を母国語とする当時すでにシニアとなっていた日系一世を助けることが目的だった。「ボランティアをするのは好きですね。シニアを助けられるし。自分もシニアだけど、まだ体は十分に動くから」と笑う。
子どもの頃には「家では日本語だったから」と両親から習ったという日本語は隣組でさらに磨きがかかっている。
「隣組ではほとんどの人が日本語を話すんです。だから私もそれを聞きながら、上手くなってきてると思います。話すのも聞き取るのも」。インタビューの合間にも所々に日本語がこぼれる。
日本文化については「守っていくべきだと思いますね。私たちは日系人ですから、それは大事なことだと思います」。文化の中には日本人としての態度も含まれる。「日本人は丁寧だし、ほとんどの人は正直者。ほとんどというのがミソだけど、その気質は大切にしたいです。私たちは、人が良くて、正直者で、そして働き者として知られてますからね」
一生懸命働くことは両親から引き継いだ。自分も大工になって一生懸命働いてきた。家族を持ち、家を持ち、成功した人生だと思うと振り返る。両親はアルバータでも、バンクーバーに戻ってからも、苦労したと思いを馳せる。
自分の子どもたちにも強制収容時代のことは伝えている。「子どもたちも私たちが厳しい時代を過ごしたことは知っています」。
日系カナダ人に起こった事実を伝えていくことは重要なことだ。そして日系人であることについて、「私は日系カナダ人であることに誇りを持っています。今の自分があることを幸せに思います」と語った。
(記事 三島直美)
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