キクコ・タサカさん
1939年ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市スティーブストン生まれ
1942年グリーンウッドに移動、1958年頃にバンクーバーに戻る
父方は愛媛県、母方は和歌山県三尾村出身
グリーンウッドでの生活
タサカさん一家は1942年にスティーブストンからグリーンウッドに移動した。父親は、強制収容前はスティーブストンで床屋をしていたという。「とても大きなすてきなビルだったけど、建ったあと移動させられたから」。タサカさんが3歳の時だった。
グリーンウッドはブリティッシュ・コロンビア(BC)州中央南部、バンクーバーから東に約400キロメートルのアメリカとの国境に近いところに位置している。自己支援強制収容地の一つだが、他の収容地と異なり、強制移動させられる日系カナダ人を町として積極的に受け入れた。さらにカトリック教会のベネディクト・クイグリー神父やフランシスコ会の修道女も日系人の支援に大きな役割を果たしている。
タサカさんは「悪いことは全然経験していないの」と話し始めた。グリーンウッドには大工が先に入り、ベッド、テーブル、イス、そして日本式風呂など生活に必要なものを作って準備していたと振り返る。
ただ「最初の年は寒かったの。バンクーバーは暖かかったけど、グリーンウッドは山の中だからすごく寒かった」。寒さは、軍の古いブランケットやユニフォームを買ってきて活用してしのいだ。「そうやって過ごしたのね、何もなかったから」。
それでもグリーンウッドでの生活は楽しかったという。学校もすぐに始まった。フランシスコ会の修道女が運営していた。「その学校もすごく良かったの。グレード8まであって。(就職のための)タイピングなども教えてくれたの」。
町では日本の祭りもあった。「日本人は着物を着て、踊りもあった。日本人の人たちは芝居もしたりしてよかったよ」。町が積極的に日系人を受けて入れていたことで、日系人コミュニティができていた。
「グリーンウッドの田舎に日本人が来てくれて白人の人たちは喜んでた。日本人が来てからカルチャーやいろんなことを教えてくれて、フェスティバルもしてくれて、いろんなことをしてくれたから、みんな良かったと喜んでた」。
タサカさんの両親は強制収容が終了してもグリーンウッドから離れなかったという。「グリーンウッドみたいに良い町はないって言って喜んでね」。
バンクーバーでの差別を乗り越えて
グリーンウッドで約15年暮らしたあとバンクーバーに戻ってきた。18歳くらいで仕事を探しにバンクーバーに戻る人は多かったと振り返る。「グリーンウッドに仕事がなかったから」。タサカさんもその一人だった。
すでに1950年代後半になっていた。強制移動は1949年に終了。日系人は自由に移動ができた。それでもバンクーバーに戻ってきた当時の「差別だけは忘れられない」と言う。「こっち(バンクーバー)の人たちは私たちを下に見てたのね。みんなではなかったけど、いい人もいたけど。みんなで我慢した。我慢しかなかったのね。差別は本当に大変だった。差別されていると思ったら嫌だった。ひどい人もいたけど、しょうがなかった」。
タサカさんは日系カナダ人二世の多くが日本語を使わないのは、差別も関係していると思うと話す。「みんな(バンクーバーに)帰ってきた時は日本語を使いたくなかった。なるべく英語を使って。差別されているから日本人って見せたくなかったのね。その時はしょうがなかったのね」。いま二世の人たちと話すと「日本語を使っていたらよかったって」。後悔している人もいると感じている。
三世のタサカさんは流暢な日本語を話す。グリーンウッドでは日本語を使っていた。「親たちは英語ができないから日本語を使っていたの」。それにグリーンウッドでは日系人が多かったこともあり差別を感じなかった。「でもバンクーバーに帰ってきた時は社会が違ったから日本語を使えなかったの」。
それでもバンクーバーでは同年代で自分たちのコミュニティを作り、時々集まって、ダンスパーティや祭りを楽しんだ。「悪くなかったよ、差別はあったけど。我慢してがんばりました」。当時の友達は60年たったいまでも続いているという。
日系コミュニティへの思い
「いまでも私の中では(自分は)日本人だと思っている。どこにいても。もう三世になるのにね」。父方の祖父が1890年に愛媛県から移民。バンクーバーの対岸にあるバンクーバー島南部に近い島ソルトスプリングス・アイランドでビジネスをしていた。父親はソルトスプリングス・アイランド生まれ。母方の祖父は和歌山県三尾村出身。「私たち親から(日本の)良いところたくさんもらってるから。だからそれを絶対なくしたくないのね」。
また日本から来る多くの日本人と関わっているタサカさんは「日本の人たちは、なんて言ったらいいのかな…英語で言うとKind、Considerate」、親切で思いやりがあると話す。カナダで生まれカナダで育ちカナダ人と多く付き合いがあるが、「なぜか分からないけど、日本の人たちとの付き合いの方が居心地いいの。そんなことを言ったら怒られるかもしれないけどね」と笑う。
タサカさんは隣組でボランティア活動をしている。隣組は1970年代に当時英語が分からなかった一世や二世のシニアを助けるために設立された日本語ボランティア団体。いまでも、シニアを中心に日本語でのサービスを多く提供している。
「きょう私はインタビューを日本語でしたかったの」。一つは日本語を話す勇気をなかなか持てない二世たちを応援する意味で、そしてもう一つは、日系収容で苦労した一世、二世たちのことを知らない日本からの人たちに直接日本語で伝えるため。
「時々、一世、二世の人たちの苦労が分からない人たちがいるの。だから移民してきている日本の人たちにも知ってほしいの、一世たちが経験したことを」。1942年から始まったカナダ政府による日系カナダ人強制収容政策、日本の人にも知ってもらいたいと語った。
(記事 三島直美)
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