はじめに
日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、
明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いします。
厳しい国際情勢と激動のカナダ内政で幕を開けた2025年ですが、年末年始の休暇ではリラックスした時間を過ごすことが出来ました。そして、改めて実感したのは、カナダが生んだ音楽家の奥深さです。特に、休暇中の極私的ヘヴィーローテーション音盤の一つがk.d.ラングの「makeover」だったのですが、この音盤を聴くにつけ、頭と身体の双方に実に心地良く爽快な刺激を受けたのです。音盤ジャケットもデザインといい色合いといい最高です。
仕事がら、私は日々カナダの各界の要人の方々とお目にかかる訳ですが、硬い話のみならず、時にはソフトな事柄も沢山話します。その際に、カナダを代表するアーティストは誰かという話題にもなりますが、多くの方がk.d.ラングだと指摘されます。その意味するところは、単に歌が上手いとか、ヒット曲が沢山あるという事を超えて、カナダという国家のあり様を体現しているという事だと思います。
という訳で、今回の「音楽の楽園」は、k.d.ラングについてです。
ハレルヤ
k.d.ラングには実に多彩な面があります。何処から始めればよいか悩むところですが、まずは「ハレルヤ」からにします。2004年発表の音盤「北緯49度の讃歌(Hymns of the 49th Parallel)」に収録されています。静謐な中にも雄弁に歌う、名唱です。
カナダは国の成り立ちからして非常に多様性に富んだ国。それはカナダの生む音楽の多様性に直結しています。このコラムでも、ロック・ポップからジャズ、更にはクラシックまで毎月紹介して来ています。カナダ人が誇り愛する音楽に満ちています。が、敢えて、カナダを象徴する歌を選ぶとすれば、第2の国歌とも言われる「ハレルヤ」でしょう。本コラム第4回で取り上げたレナード・コーエンの作詞・作曲で1984年発表の音盤「哀しみのダンス」に収録された曲です。歌詞には旧約聖書からの逸話も言及され、完成に5年を要したと云われています。旋律は讃美歌のような崇高さと親しみやすさが同居しています。ボブ・ディランやマドンナはじめ300を超えるアーティストがカバーしています。その中でも、ラングが歌う「ハレルヤ」は、原作者のコーエンに勝るとも劣りません。
ラングの「ハレルヤ」が数多あるカバーとは一線を画す特別な存在となったのは、2010年2月のバンクーバー冬季オリンピックの開会式での歌唱です。バンクーバー冬季五輪の開会式は、史上初の屋内開催。中心には先住民の誇りである氷製の巨大なトーテムが設置されました。ミカエル・ジャン総督が開会宣言を行いましたが、五輪史上初の黒人による宣言でした。要するに、カナダの歴史と文化と個性を前面に出した式典だった訳ですが、ラングの「ハレルヤ」は、音楽の面からカナダの誇りを示したものでした。多くのカナダ人にとって忘れられない瞬間だったと云います。
カントリー・ミュージックとの出会いと革新
そんな国民的歌手k.d.ラングの生い立ちを簡単に記します。1961年11月、アルバータ州の州都エドモントンでドラッグストア経営者の父と教師だった母の下、4人兄弟の末っ子として誕生。7歳でピアノ、10歳でギターを始めました。12歳の時、父は出奔したそうです。人知れぬ苦労もあったようですが、アルバータ州のレッド・ディア大学に進学します。そして、運命の扉が開きます。
ラングは、学業はさて置き、カントリー・ミュージックにのめり込みます。特に、米国現代カントリーの先駆者パッツィー・クラインのナッシュビル・サウンドに魅せられ、パッツィーのカバー・グループ「ザ・リクラインズ」を結成します。1983年、22歳の時には、シングル盤「フライデー・ダンス・プロムナード」でプロ・デビュー。エドモントンのクラブで演奏活動を本格化させます。
84年には、アルバム「A Truly Western Experience」を発表。カントリーを基礎としつつより現代的な要素も盛り込んだ音盤は高い評価を得て、エドモントンのローカル・バンドから全国区へと成長します。批評家達は、従来のカントリーを革新するk.d.ラング&リクラインズの音楽を“カウボーイ・パンク”と呼びました。ラングの声と歌唱、更にバンド・サウンドは、時代と共鳴し始めます。
85年には、ジュノー賞の最優秀新人女性ヴォーカリスト賞を受賞します。注目すべきは、k.d.ラングは最早カントリーというジャンルに限定されない歌手としての大いなる可能性が開花し始めるのです。
トリビアですが、今をときめくテイラー・スウィフトもカントリー&ウエスタンの歌手としてデビューしますが、進化を遂げて、カントリーの重力圏を超えたポップ・ミュージックの境地に達しています。ラングは、スウィフトに先立つこと30年前に、カントリーを超える音楽的冒険の旅路を始めたのです。
音楽と文学の邂逅
k.d.ラングの特徴の一つが、名前の表記です。誕生時の姓名は、Kathryn Dawn Langでした。が、デビューしてからは、一貫して、k.d. langと全て小文字で表記しています。法律的にも改名しています。そこには、ラングの拘りがあります。特に、米国の詩人e.e. cummingsから影響を受けたと云います。
e.e. cummingsは、アバンギャルド志向で、既存の形式を破り、ユニークな構造や語順、スペースを使った自由詩スタイルを信条としました。人間の本質を深く掘り下げ、極めて内省的なトーンの表現が読む者の胸に迫ります。そんなカミングは、自身の名も型破りな表現を反映させて、e.e. cummingsと小文字のみで記していました。一説には、謙遜を意図したとも云われています。
k.d.ラングは、虚飾を排した赤裸々な感情を形式的な制約を超えて自由に表現しようとしています。音楽と文学の違いはあるにせよ、真に自由な表現を希求しようとする衝動という意味では、k.d.ラングとe.e.カミングスの姿勢は重なります。音楽と文学の邂逅を小文字のみを使った名前の表記が象徴しています。
成功
k.d.ラングは、カントリー・ミュージックを基盤とし、多彩な音楽的な要素を導入して独特なサウンドを築くとともに、前衛的な文学的要素も加味して、ラング流音楽を進化させます。その核心は、彼女の声と歌唱です。アルトの声域で芯太く情感が籠った歌が聴く者の心の奥に刺さります。
エドモントンの地元シーンから始まった音楽キャリアは、カナダ全土、更にエンタメビジネスのメッカ米国へと広がります。
1986年には、カントリー・ミュージックの本場テネシー州ナッシュビルに進出。恐るべき創造力と生産性を示します。翌87年には「エンジェル・ウィズ・ア・ラリアット」、88年には「シャドウランド」をたて続きに発表。そして、89年には、k.d.ラングのカントリー時代を締め括る「アブソルート・トーチ・アンド・トワング」を発表します。非常に高い評価を得て、グラミー賞の最優秀女性カントリー・ヴォーカル賞を受賞します。商業的にも、シングル・カットされた『愛いっぱいのフルムーン』がカナダのチャート1位を獲得し、米国でもヒットしました。
1992年、前作から3年のインターバルを経て、k.d.ラングは「アンジャニュウ」を発表します。収録された10曲は全てラング自身の作品で、ソングライターとしての資質が全開します。サウンドは、カントリー的なフレイバーを微量に感じさせつつも現代的。いわゆるコンテンポラリー・ポップに仕上がっています。都会的な雰囲気の中に滲む田園的要素がお洒落。ラングの声は、最初のワン・フレーズから、ラングと分かる屹立した個性です。歌唱は、語るように歌います。言葉に吹き込まれた生命が舞うようです。商業的にも大成功し、母国カナダ以外でも、日米英独豪NZ等のアルバムチャートで好成績を残しました。そして、グラミー賞6部門にノミネートされ、見事に最優秀女性ポップ・ヴォーカル賞を受賞しました。
その後も、ラングは栄光に包まれたキャリアを歩みます。歌手としては勿論、女優として映画にも出演します。007ジェームス・ボンド「トゥモロー・ネバー・ダイ」では、エンディング・テーマ「サレンダー」を歌いました。1996年には、35歳の若さで、「カナダ勲章」を受賞します。2006年の音盤「Reintarnation」ではエルビス・プレスリー追悼を前面に出します。2010年は、上述のとおり、バンクーバー・オリンピック開会式を彩りました。2013年には、「カナダ音楽の殿堂」に列せられました。2014年には、ブロードウェイへも出演します。彼女の活動は留まるところを知りません。
私生活と社会活動
k.d.ラングは、1992年に、同性愛者であることをカミングアウトしました。伝統を重視し、保守的な面もあるカントリー・ミュージック界からの反発も覚悟したと云いますが、それは杞憂に終わりました。彼女の正直な姿勢は評価されました。時代の変化を牽引し体現したのです。HIV問題も献身的に支援。アニー・レノックスと共同で、チャリティー盤「Sing」を2007年12月1日の世界エイズデーに発表しました。
また、彼女は、チベット仏教徒にして、菜食主義者でもあります。米国で設立された動物愛護団体PETA(People for the Ethical Treatment of Animals)の活動にも積極的に関わっています。彼女の地元アルバータ州では、畜産が州経済を支えている関係で軋轢も生じました。アルバータ州農業大臣が「州を挙げて応援してきたラングが動物愛護側についたことは、裏切られたような気分で極めて遺憾だ」と発言しました。とは言え、ラングの姿勢は一貫していますし、アルバータ州は畜産を重視し、アルバータ牛は今や強力な輸出品目でもあります。
自由で多様性を旨とするカナダの現実の一旦がここにあります。同時に、個人としてのラングの社会的な影響力の大きさを示す逸話でもあります。
結語
k.d.ラングの歩みを俯瞰すると、何通りにも自己を表現する術を持ち、それぞれに成果を残しています。一人の人間が為し得る可能性の振幅の大きさに驚嘆します。
実は、彼女は2019年には、BBCのラジオ番組に出演し、ほぼ引退する意向を表明しました。還暦を前にした、一つの決断だったのでしょう。それでも、2021年には、既存の録音をリズム重視のクラブサウンドに大胆に編曲し直した「makeover」を発表。ラングの音楽が時代を超えて共鳴し得ることを証明しました。
そして、2024年9月、k.d.ラングは力強くカムバックします。還暦を過ぎて、原点回帰するのです。32年ぶりに、あのリクラインズを再結成したのです。「カナダ・カントリー音楽の殿堂」入りを祝してのことです。YouTubeでその模様は観れますが、彼女自身も聴衆も本当に楽しんでいます。理屈も蘊蓄も超えた、音楽の楽しさに溢れています。
2024年10月、彼女は新たに音楽出版社と出版契約を結びました。既存の作品のみならず、将来の作品も視野に入っているとのことです。
k.d.ラング、成熟した国民的歌手の今後の更なる活躍が楽しみです。
(了)
山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。
山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身