エドサトウ
正月からずっと考えていたことがある。いささか夢のような話なので、「初夢」という題にしてみた。
なぜに田中英道先生が言われるようにイスラエルの民のような姿をした埴輪が日本の古墳の中に見られるのは、平安時代の貴族の娘さんが紫式部のような結構鮮やかな赤や緑の入った十二ひとえの着物を着ている絹織物を買い付けに来たようにも見える。ローマ時代の貴族男子が着ていた衣装にも、それと似た派手な色の衣装を着けた絵画が残っている。
当時、これだけきれいな絹織物を作れるのは東洋の中でも日本が最高ではなかったのかと、正月の百人一首のかるたの札に見られるような絹織物が倭国日本にあったように想像される。
中国の小さな植民地のような出先機関が楽浪郡という北朝鮮の平壌あたりに紀元前からある。そこへ中国の長安(現在は西安)にいたシルクロードの民のイラン人とかイスラエル人が倭人の絹織物に目を付けて早くからやってきて楽浪郡から日本に来たのかもしれない。だから、魏志倭人伝でも、その距離を楽浪郡、もしくはその対岸の中国から考えればと思う。中国の当時の一里は現在の500メートルぐらいらしいから、魏志倭人伝もそのように読めば理解できるかもしれないと思うのであるが?
その高句麗にある楽浪郡から倭人の絹と交換するための鉄の塊とそれを加工する中近東の人々が弥生時代から倭国にいたようにも想像される。イタリアのスパゲッティは中国のうどんに起源があるらしいから、日本の鮮やか絹織物がはるかローマまで、ラクダの隊商によって運ばれたのであろう。日本とローマの古い絹の遺伝子を調べたら新しい発見があるかもしれない。
倭国にあるジマ大国、僕風に読めば「島大国」は北九州にあり、日本の本土側からお米などを運び、帰りの船には鉄やガラス製品が運ばれたと考えれば、沖ノ島が日本海側の中継交易の基地として西日本にネットワークを広げていたのかもしれない。その交易に朝鮮半島の南の倭国に住んでいたという秦氏が裏日本一帯で絹織物などの生産に力を入れて大きな勢力となっていくのではあるまいか?日本では織物を機織り(はたおり)というのは、この秦氏のことをさしているのではと勝手な想像である。
西日本に馬や牛でスキを使う農耕も始まってくると、鮭などを食料にしていた自給自足の縄文人も伊勢街道を経由して奈良の三輪山あたりまで、物々交換のために縄文土器に穀物や木の実を入れて、やってくるのである。何故か三輪山のご神体は中近東などの砂漠で生きていて大切にされ、印鑑(交易のしるしに)に使われたという蛇なのである。このことは、楽浪郡から来た高句麗の役人と一緒に来たイラン系の人たちがいたのかもしれない。そのなごりが三輪山のご神体なのかもしれない。この縄文人のネットワークは楽浪郡経由で入ってくるコマの人達の牛馬の力による農耕を東日本全土に広め、一段と日本の開拓が進んだようにも想像できる。
当然、いろんな諍いが起こり始めてくると北九州にあったジマ大国は、明日香村に拠点を移動してくることはシャーマン卑弥呼のお告げであったのであろう。また、三輪山は絹織物交易のイラン系の人々の拠点であったためか蛇の信仰が根付いたのかもしれない。
夢のような話の想像は膨らむばかりである。
投稿千景
視点を変えると見え方が変わる。エドサトウさん独特の視点で世界を切り取る連載コラム「投稿千景」。
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