風化させず伝えていきたい『バンクーバー朝日軍と日系人の歴史』後編

日本カナダ商工会議所12月スペシャルイベント

 日本カナダ商工会議所は毎年12月にクリスマスイベントを開催している。2020年はオンラインで12月15日に「バンクーバー朝日軍と日系人の歴史」というタイトルで、テッドYフルモトさんの講演が行われた。約100人が参加して盛会となったイベントリポートの後編。

始まった日系漁師いじめ

 パウエル街に日本人街、リトルトーキョーが誕生した19世紀終わりごろ、カナダ西海岸は「白人のパラダイス」だった。そこにやって来たアジア人に白人らは良い感情を持っていなかった。1895年、ブリティッシュ・コロンビア(BC)州は仕事に就くなら帰化することを求める法案を可決した。

 さらに漁業会社、加工会社が日系人を雇わない、船や家を貸さない、漁業許可証を発行しないという「日系漁師いじめ」や締め出しが始まる。

 当時、日系人はアメリカでも差別に直面していた。1907年、アメリカ本土への日系人の移住が禁止されて、アメリカに行けなくなったため、代わってカナダに来る人が増えた。

 1907年7月24日、1,200人の日系移民を乗せた船がカナダに到着する。これを受けてBC州検事総長までもが、大量の日系移民が今後押し寄せてくると言って白人の恐怖心をあおった。1907年9月7日に日系人をはじめとするアジア系移民を排斥しようとバンクーバー暴動が発生する。

バンクーバー暴動の後のパウエル街で。テッドYフルモトさんが講演で使用したスライド 

 暴徒らはまず中国人街を襲う。そして、日系人の住むパウエル街で大暴れした後、中国人街に戻った。

 その間に日系人たちは長老のところに集まり作戦を練って対抗する。入口にバリケードを作り、木刀や日本刀を持った男らが待ち構え、再びやってきた暴徒を追い返した。

 一方、その結果、日系人は好戦的で野蛮人といった報道も行われ、日本からの移民は年間400人に制限する、レミュー協定発令につながった。

差別をスポーツではねのけた朝日軍

 カナダ生まれ、カナダ育ちの日系二世も、英語が話せなかった一世と同じ差別を受けた。そんな中でスポーツで戦って、差別をはねのけたのが、1914年に生まれたバンクーバー朝日軍だったという。

 初戦をコールド勝ちでかざった朝日軍は、あっという間にコミュニティで大人気になる。1919年5月には白人リーグ、インターナショナルリーグからオファーを受けて参戦して優勝する。

 その後、いったんは内部分裂でチームは弱体化するが、ハリー・ミヤサキが監督になり朝日軍の再建・強化に手腕を発揮する。分裂した朝日軍を元に戻して、試合に勝つだけでなく、ハリー・ミヤサキは野球をすることで白人社会と交流して、彼らの日系人に対する間違った先入観をただすことを目指した。1926年、朝日軍が首位で勝てば優勝という試合で、審判があからさまな白人びいきを始める。すると白人の観客までもが審判に抗議して、公正な判定を求めた。

 その後、朝日軍は黄金時代を迎え白人たちからも畏敬の目で見られるようになる。1941年夏、通算8回目、5年連続でリーグ優勝を果たす。朝日軍は野球で人種間の隔たりを超えることができた。しかし、1941年12月に太平洋戦争が勃発する。

日系人苦難の日々

日系人は強制収容所に送られた 
テッドYフルモトさんが講演で使用したスライドより。
(courtesy Library and Archives Canada/C-057250) 

 戦争が始まると、カナダ政府は日系人全てを敵性国民として、日系人指導者の逮捕・拘禁、日本語学校閉鎖、出漁の全面禁止などに乗り出した。翌1942年には日本の攻撃に備えるという理由で太平洋沿岸から100マイル以内から日系人を締め出す。日系人はタシメやスローカンの収容所などに送られた。

 朝日軍は解散となったが、選手たちは収容所に持ってきていた道具で野球をする。それが過酷な状況で暮らす日系人たちの心に灯をともし、さらに野球を通して、収容先の街の人たちとも交流することになった。

リドレス運動で再び注目された朝日軍

 1945年終戦。日系人は焼け野原となった日本に帰るか、全財産を失ったままカナダ東部で暮らすか二者択一を迫られる。日系人は1949年まで西海岸に戻ることはできなかった。

 1977年の日系移民100年祭をきっかけにリドレス運動がおこり、ついにはブライアン・マルルーニ首相が戦時中にカナダ政府が日系人に対して行ったことについて正式に謝罪。また、朝日軍にも注目が集まり、2003年にカナダ野球の殿堂入りを果たす。

 講演をしたテッド・フルモトさんの父テディ・フルモトさんは朝日軍のエースピッチャーだった。テディさんは肩と背中を痛め朝日を引退。その後、ミシガン大学で学び、戦前に日本に渡り、NHKのアナウンサーとなった。日本ではGHQやアメリカ大使館で、アメリカ空軍と航空自衛隊の間の通訳としても活躍、1979年に他界した。

 テディさん死後、朝日軍の記憶は息子のテッド・フルモトさんからも薄れかけていた。しかし、朝日軍メンバーの生存者と連絡が取れて、1998年にカナダを訪れる。テッドさんを歓迎した朝日軍選手らは「我々は片時も日本のことを忘れたことはない。日本の方は私たちのことを知っていますか?」と聞いたという。

テッドYフルモトさん。Photo courtesy of Ted Y. Furumoto
テッドYフルモトさん。Photo courtesy of Ted Y. Furumoto

 それがきっかけで、朝日軍のことを伝えようと『バンクーバー朝日軍』の執筆に至った。

そうだ:ここの文章はいきなり講演から解説に入って、ちょっと不自然。「至った。」で止めて、たとえば、「執筆のきっかけをそう語ったフルモトさんは現在~」と講演と解説を切り離した方がしっくりくる。切り離し方は色々あると思うけど。

 執筆のきっかけをそう語ったテッド・フルモトさんは現在、
・バンクーバー朝日軍の歴史的活躍の事実を風化させることなく日本中、世界中に伝えたい。
・日本人、日系人としての誇りやよい意味での愛国心を持ち、祖国を元気に世界を平和に豊かにするため活躍してほしい。
・罪のない一般市民を巻き込み、不幸にする戦争は何があってもしてはならない。
・過去の過ちを認めたカナダは、多種多様な人種がお互いを尊重しあう多国籍文化の国。ぜひ世界の見本となり続けてほしい。

という思いから本を書き、各地で講演会を行っているという。

 講演会参加者のうち4人に抽選で『バンクーバー朝日軍』 東峰書房2009/3/1)のテッド・フルモトさんサイン入り書籍、もしくは映画『バンクーバーの朝日』(発売元:フジテレビジョン 販売元:東宝 ©2014「バンクーバーの朝日」製作委員会)のDVDが贈られた。DVDは滋賀県人会、平居幹さんが提供した。

(取材 西川桂子)

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