戦没者追悼行事
毎年11月11日はRemembrance Day或いはPoppy Dayと呼ばれ、英連邦の国々では戦没者追悼記念式典が繰り広げられる。その一員であるカナダでも、国を挙げてこの日を記念する行事が全国津々浦々で開催され、連邦政府が定める休日となっている。
国によって歴史的なバックグランドが異なるため、同じ呼称ではないものの、この日を同様の記念日としている国は多く、例えばアメリカの場合にはVeterans Day と呼ばれる。
当初は第一次大戦の終戦一周年に当たる1919年11月9日に慰霊式典が執り行われたが、実際に戦闘が終結したのは1918年11月11日で同日の11時に休戦協定が発効されたことから、当時のイギリス国王George5世によってこの日を記念日と定めたという。この戦いには日本も参戦したが、それに相当する記念日は設けられていない。
赤いポピーの由来
11月に入ると、街中で赤いポピーのリプリカの花を胸に付けた人の姿が目に付くようになるが、これが何に由来し、カナダがその発祥元であることを知らない人は案外多いようだ。
その謎を紐解くには、まず第一次世界大戦(1914年7月28日~1918年11月11日)の歴史を知る必要がある。
この戦争の最前線は、大部分においてベルギーの沿岸からフランダースフィールドと呼ばれる地域を越えて北フランスの中心部まで移動したのだが、これがいわゆる西部戦線として知られている戦いだった。
この時カナダから医師として参戦したのが詩人/アーティストでもあったJohn McCrae氏(Guelph, Ontario出身)で、目を覆うばかりに悲惨な戦いで親友が戦死した。その弔いを終えて戦場を見渡すとそこには数えきれない戦没者の十字架が建てられていたが、その合間の土壌からは赤いポピーが力強く花を咲かせていた。目に焼き付いたその光景を彼は「フランダースの野に(In Flanders Fields)」と言う詩に残したことで、第一次世界大戦以降、戦死した兵士たちを追悼するシンボルとしてポピーが使用され今日に至っているのである。
カナダの子供たちは学校でこの詩を暗唱し、また後にメロディーを付けて歌にもなったものを音楽の時間に学習する。彼自身は1918年1月28日に髄膜炎と肺炎を併発してフランスの陸軍病院で亡くなっている。
さて今年の記念日のビクトリア市は、まるで戦死者がすすり泣いているような気さえするうすら寒い雨のそぼ降る日であった。だが、BC 州議事堂前を始め各地に建つ戦没者の記念碑前ではそれぞれセレモニーが執り行われた。参列者は記念碑に赤いポピーのレプリカを置いたり、またそれが飾られたリースを手向け、11時には戦没者に敬意を払うために2分間の黙祷を行った。
戦死した兵士や関係者たちに、参列者が思いを馳せる瞬間である。
日本の戦没者追悼施設
ひるがえって日本を思う時、国のために戦死した兵士たちに敬意を払い、弔う施設や記念碑は皆無であることに思い当たる。もちろん靖国神社と言う施設はあるが、周知の通りここは第二次世界大戦のA級戦犯合祀問題、それに伴う中韓との政治的軋轢、政治家たちの私的参拝、宗教の自由問題等など、戦後76年経った今も折に触れ問題が浮上し大きな議論の対象になっている。
隣接の千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、引き取り手のない無名戦士の遺骨のみが収まっており、戦死者全体を追悼する場ではない。
また国立追悼施設を設置する案には賛否両論があり、今のところそれが実現する可能性はない。軍人でもなく赤紙一枚で戦争に駆り出された多くの兵隊たちの死は、真に「無駄死に」と言う他にないのが残念である。
サンダース宮松敬子
フリーランス・ジャーナリスト。カナダに移住して40数年後の2014年春に、エスニック色が濃厚な文化の町トロント市から「文化は自然」のビクトリア市に国内移住。白人色の濃い当地の様相に「ここも同じカナダか!」と驚愕。だがそれこそがカナダの一面と理解し、引き続きニュースを追っている。
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