音楽ファンの皆様、カナダ好きの皆様、こんにちは。
3月も中旬で、長い冬も最終段階です。長崎出身の私も何とか初めてのオタワの冬を無事に越しつつあります。一方、オタワ名物、リドー運河の世界一長い天然スケートリンクがオープンしませんでした。歴史上初めての事と伺いました。寒さが足りず運河の氷が十分に厚くならなかった訳です。正に地球温暖化を実感します。
さて皆様、未だ、気候変動という概念もない頃の事ですが、“カナダのモーツァルト”と称された素晴らしい作曲家がいた事をご存知ですか?
アンドレ・マシュー(Andre Matheus)です。
神童
アンドレ・マシューは、1929年2月18日、モントリオールの音楽教師の家に生まれました。両親とも音楽教師で、父ロドルフは作曲家、母ウィレミンはチェリストでした。しかし、両親ともに音楽の素晴らしさを知ると同時に、音楽家としての人生の過酷さを嫌というほど知っていました。それ故に、アンドレにはピアノを禁じていました。息子には社会的に認知され安定した人生を望んだのです。が、両親の音楽DNAを引き継いだアンドレは驚くべき早熟で、4歳の頃には作曲を始める程でした。その才能は、音楽が出来るというレベルを遥かに越えた天才でした。父ルドルフは覚悟決め方針を転換。モーツァルトに対し父レオポルドが全身全霊で英才教育を施したように、アンドレを鍛え磨きます。成果は直ぐに現れます。
1935年3月25日、モントリオールのリッツ・カールトン・ホテルでリサイタルを開きます。アンドレの作品を父子がピアノ2台で連弾したのです。6歳でのデビューです。翌36年には、カナダ放送協会オーケストラと共演してアンドレ作曲の「ピアノと管弦楽のためのコンチェルティーノ」を初演します。この演奏が関係者の目と耳にとまり、ケベック州政府の奨学金を得てパリ留学が実現します。この時、アンドレは7歳になったばかりの少年です。両親と姉の家族4人での事実上のパリ移住です。
パリ
マシュー少年は、パリに到着したその年の12月には、早速リサイタルを開きます。神童の域を越え、巨大な潜在力が明らかになります。が、まだ単純で音楽の真髄と奥義には至ってはいません。アンドレの本当の勉強が始まります。
1930年代のパリは、世界の楽都です。ストラヴィンスキー、ラフマニノフ、プロコフィエフ、ラヴェルらが暮らす街です。アンドレ少年は、スポンジが水を吸うよう、少年の心と眼でパリの全てを吸収します。パリ音楽院のド・ラ・プレスレ教授に師事し和声と作曲を学びます。1939年、隣のドイツではヒットラーの不気味な足音が徐々に大きくなる中、音楽漬けの少年は10歳になります。3月26日、パリ8区ラ・ボエン通りの「サル・ガヴォー」でリサイタルを開きます。フランスのピアノ製作会社ガヴォーに因んだコンサート・ホールで、ラヴェル、ドビュッシー、ストラヴィンスキーらが室内楽曲を初演した由緒ある場所です。カナダはモントリオール出身の10歳のピアニスト作曲家が登場する訳です。もはや芸達者な少年の発表会ではありません。極めてシリアスなものです。ラフマニノフら音楽関係者も多数聴きに来ます。耳の肥えたパリの聴衆は容赦ない事でも知られています。
“カナダのモーツァルト”現る
其処で、アンドレはピアノ協奏曲第1番等の自らの作品を弾きます。不安げな両親を尻目に自信に満ちた10歳のアンドレは神がかっていたと云います。会場は総立ち、圧倒的な賞賛を得ます。作家エミール・ヴュイエルモーズは「カナダのモーツァルト現る」と論じ、パリのメディアが大きく報じるのです。フランス各地への公演旅行も企画され、「カナダのモーツァルト来る」は格好の宣伝文句となり各地で大きな話題を集めます。
そこで、アンドレ親子は3年振りにモントリオールに帰郷します。いわば凱旋帰国です。ところが・・。
1939年9月1日、ヒットラーはポーランドを侵攻し、第2次世界大戦が勃発。欧州は戦場と化します。アンドレ親子はパリに戻る事を諦めます。カナダは英連邦の一員として直ちに連合国に加わり参戦しますが、戦場は大西洋の対岸。モントリオールは平和そのものでした。でも、パリとは比べようもありません。早熟の神童には刺激が足りなかったでしょう。ザルツブルグがモーツァルトにとって退屈な街だったように。
ニューヨーク
アンドレ親子は、北米各地を公演旅行で訪れます。1940年2月3日にはニューヨークはカーネギー・ホールで公演。これを機に、アンドレ親子はニューヨークで暮らし始めます。ジュリアード音楽院やコロンビア大学で教鞭を取るモリス教授に師事し作曲を勉強。この頃、ニューヨーク・フィルハーモニック創設百周年を記念して作曲コンテストが行われます。因みに1842年創設でウィーン・フィルと同じ年です。11歳のアンドレが書き上げたばかりのピアノ協奏曲第2番を父ロドルフが勝手に応募します。そして、見事に一等賞に輝きます。カーネギー・ホールでも公演。実り多き日々です。一方、早熟の天才アンドレも今やティーンエイジャーです。強烈な自我が芽生え始めます。14歳のアンドレはピアノ協奏曲第3番を書きます。今では「ケベック協奏曲」と呼ばれ、美しい旋律と流麗なピアノを際立たせる管弦楽は聴けば聴くほど惹き込まれていきます。特に第2楽章アンダンテの微量の哀愁は異国にあったアンドレ青年の心象風景のようです。1943年、アンドレ親子は故郷モントリオールに帰ります。地元が生んだ天才の帰還です。公演は盛況です。が、満たされぬ思いも募ります。
再びパリ
欧州全土を巻き込んだ第2次世界大戦も終結した翌46年、マシューは17歳の青年に成長。再びパリへ留学します。音楽面では、ピアノ協奏曲第4番ホ短調を完成させます。アンドレ・マシューの代表作です。第1楽章冒頭からデモーニッシュな響きが迫ります。人間の奥に潜む言葉にならない複雑な情念がピアノの超絶技巧に乗り移っています。一転、第2楽章の抒情的な面には心が洗われます。動と静、陰と陽が交錯する振幅の大きいダイナミックな音楽です。18歳にして、この力量。巨大な才能です。しかし、この2度目のパリ留学は、実生活ではホームシックに陥り孤独と酒の苛烈な日々でもありました。アルコール依存症に陥りこの後の人生の宿痾となってしまいます。
モントリオール
1947年、アンドレは留学を切り上げモントリオールに戻ります。その時は全く別人のようだったと伝わっています。18歳にして疲労困憊し世捨て人の如き雰囲気だったと。既に、作曲家として傑作を残していたアンドレにとって、生きる意味を問い自分を探す旅路に疲れてしまったのかもしれません。1950年代になると、徐々に、活動の場が遠のきます。光が強ければ影も濃くなるもの。天才の人生は過酷です。才能の代償でしょうか?
1968年6月2日、アンドレ・マシューは39歳3カ月余の生涯を閉じます。かつて“カナダのモーツァルト”と絶賛されたアンドレ・マシューです。76年のモントリオール・オリンピックの開会式ではマシューの曲が使用されました。が、徐々に忘れられていきます。
再発見
が、21世紀に入り、アンドレ・マシューは再発見されます。カナダが誇るピアニスト、アラン・ルフェーブルがマシューの音楽を精力的に取りあげ、再びマシューの音楽と人生に光が当たり始めたのです。最大の理由は、時代を越えて輝くマシューの楽曲自体の素晴らしさです。が、ルフェーブルの公演活動やCDリリースがなければ、どうだったか・・。例えば、人類史に輝く傑作、バッハ「マタイ受難曲」も百余年の時を経て忘れられていました。メンデルスゾーンが再発見して現在に繋がっています。
ルフェーブルはピアノ連弾曲からピアノ協奏曲まで次々にCDを発表。上述の「ピアノ協奏曲第4番」は半世紀余ほぼ演奏される事はありませんでした。ルフェーブルが2008年にCDリリースし世界に聴かせたのです。そして、2010年にはアンドレ・マシューの光と影を描く映画「L’enfant Prodigy」が公開されますが、ルフェーブルはその実現にも極めて大きな役割を果たしています。音楽も担当しています。
“カナダのモーツァルト”の音楽と人生を味わってみては如何ですか?
(了)
山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。
山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身