「国立芸術センター管弦楽団」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第11回

 皆様こんにちは。5月の声を聞き、オタワに遅い春が来たと思ったら、あっという間に初夏に突入したような今日この頃です。チューリップ・フェスティバルも始まり、街中が鮮やかな色彩に溢れています。リドー運河沿いの散策に最高の季節です。自然の恩恵を受けた首都オタワの美しさを実感します。勿論、オタワには美しい自然以外にも素晴らしい点は多々あります。その一つがNational Art Centre Orchestra(国立芸術センター管弦楽団)です。地元では “NACO”として大変に親しまれていて、オタワの音楽生活をより豊かなものにしています。

歴史

 NACオーケストラは、世界水準の管弦楽団ではありますが、必ずしも日本では知られていません。そこで、簡単に歴史を辿ってみたいと思います。

 まず、オタワです。カナダの首都ですが、カナダ最大の都市はトロント(今やニューヨーク、ロサンゼルスに次ぐ北米第3位の大都市)、バンクーバー、モントリオール、そしてカルガリーに次ぐカナダ第5位の都市で、人口は約百万人。

 カナダ自体が非常に若い国家で、未だ大英帝国の植民地時代にヴィクトリア女王がオタワを首都に選定したのが1857年の事です。当時は木材交易の中継地の小さな村でした。川を挟んだ対岸がケベックであること、米国との国境から十分に離れているという地の利から選ばれた訳です。1867年7月1日、大英帝国の自治領としてカナダが建国され、1931年のウエストミンスター憲章で名実ともに主権国家となり、以来、カナダの発展とともに首都オタワも発展します。が、オタワの本質は政治都市で、経済や文化の面での発達には時間を要しました。

 転機はカナダ建国百周年です。レスター・ピアソン首相が建国百周年の1967年に向けてオタワに国立芸術センターの設立を決定します。1964年の事です。敷地は首都オタワの中心部、議会近傍のコンフェデレーション広場のリドー運河沿い。設計は、モントリオールを拠点とする設計会社AFOPの創設メンバーの1人にしてマギル大学建築学科教授のフレッド・レスベンソルドです。彼は、ポーランド出身で32歳でカナダに移民。この人選も極めてカナダ的です。1964年に着工。残念ながら竣工は百周年に間に合わず、オープンは1969年6月2日となりました。が、待った甲斐はあったのです。センターは、舞台芸術のための大劇場、リハーサル・ホール、レセプション・ホール、ワークショップ用のスペース、ショップ、レストランを擁するガラス張りの極めて現代的な複合施設で、首都の名所となります。

 同時に、NACの目玉、レジデント・オーケストラとして国立芸術センター管弦楽団が設立されます。若い国の若い首都に若いオーケストラが誕生した訳です。初代音楽監督は、ケベック州セットフォード・マインズ出身のジャン=マリー・ボーデでした。かつてカナダ放送協会を率いたカナダが誇る音楽家です。

飛躍

 何処の国の何処の街でも、地元のオーケストラは地元の誇りです。NACOもそうです。地元のみならず連邦政府からもサポートを受けて実力をつけていきます。特に、1991年、古楽器による演奏で世界的に著名なトレヴァー・ピノックを迎え、「オタワのオーケストラ」から「カナダのオーケストラ」へと実力を伸ばします。

 次いで1999年、現代最高峰のヴァイオリン奏者兼指揮者のピンカス・ズッカーマンが音楽監督に就任します。16年間にわたりNACOを磨き抜き、レコーディングにも積極的に取り組み、世界的な楽団へと飛躍させます。

 そして2015年、ズッカーマンを引き継ぐ第7代音楽監督がアレクサンダー・シェリーです。1979年ロンドン生まれで両親ともピアニスト。王立音楽院でチェロと指揮を学んだ俊英で、36歳の若さでの就任です。非常にクリエイティブで、古典的名曲の演奏には安住しません。就任直後から4人のカナダ人女性の人生を音楽で描く「ライフ・リフレクテッド」プロジェクトを始動させます。現在のカナダを象徴、ノーベル文学賞受賞のアリス・マンロー、先住民ミクマク族の詩人リタ・ジョー、宇宙飛行士ロベルタ・ボンダー、ネット上の虐待で15歳で自殺したアマンダ・トッドです。4人の若手カナダ人作曲家がそれぞれの楽曲を提供。マルチ・メディアを駆使した演奏会は新しい時代の到来を実感させます。更に、2020年に発表した「クララ-ロベルト-ヨハネス: 音楽の憧憬」は、シューマンと妻クララ、そしてブラームスという3人の天才の音楽と人生をガブリエラ・モンテーロの即興で繋いで2枚組CDに凝縮した隠れた名盤です。ここにもシェリーの先進性が発揮されています。

感動

 そして、NACOは今年で設立54年。オタワ在住の私も機会を見つけて国立芸術センターに通っています。2023年の公演で感銘を受けた3つの公演について記します。

〈マーガレット・アトウッド作品の世界初演〉

 2月9日、国民的作家マーガレット・アトウッドの詩作に現代最高のオペラ作曲家ジェイク・へギー(Jake Heggie)が曲を提供した「バリトンと管弦楽のための『殺害された姉妹に捧ぐ歌』」(Songs for Murdered Sisters for baritone and orchestra)の世界初演が行われました。この作品は、NACオーケストラとヒューストン歌劇場が共同で委嘱したものです。

 『殺害された姉妹に捧ぐ歌』は、アトウッド女史が2020年に発表した詩作です。標題が如実に示すように、この作品は2015年に実際に起きたカナダ史上最悪と言われている家庭内暴力殺人事件を題材にしています。不条理としか言いようのない殺人に対する憤怒、残された家族への慰撫・慰安・救済はあるのか?答は何処かにあるのでしょうか。

 へギーが紡いだ旋律と管弦楽は、極悪非道の出来事に直面する人間の情念を音で描写しています。憤怒と復讐を超えた気高い人間性を感じさせる崇高な音楽です。

 アトウッド女史は、現在トロント在住で、83歳。遠方への旅行は控えているそうですが、この日は世界初演という事でオタワまで来訪。演奏後、舞台からご挨拶されたのが印象的でした。

 バリトンは、マギル大学で音楽修士業を納めたジョシュア・ホプキンス。2002年9月にはホセ・カレーラスからジュリアン・ゲイリー声楽コンクールの優勝を授与された逸材で、メトロポリタン歌劇場はじめ米国・カナダで活躍しています。実は、ジョシュアの姉が犠牲者の1人だったという経緯があります。アトウッド女史の磨き込まれた言葉を、深く芯の強い声で丹念に歌い込む姿が聴衆の胸を抉りました。言葉を超えた鎮魂が場を支配しました。

〈ベートーヴェン交響曲第5番「運命」〉

 4月23日は「運命」でした。これは、ドイツのフランク・シュタインマイヤー大統領のカナダ公式訪問の機会に、国立芸術センターで行われた特別公演でした。G7の同僚サビン・スパワッサー駐加ドイツ大使からの招待で、貴重な機会を頂戴しました。

 実は、NACOの面々は個別に様々な活動をしています。特に、音楽監督シェリーは、上述のとおりの八面六臂の活躍ぶりでロンドンのロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団を含むいくつもの楽団を指揮していて2年前からスケジュールが埋まっている状況です。よって、大統領のオタワ訪問の日程とNACオーケストラのスケジュールがマッチしたのは奇跡的でした。

 ベートーヴェンの母国ドイツの大統領を前にNACオーケストラは燃えました。ハ短調の冒頭のダ・ダ・ダ・ダーンから異様な緊張感が劇場を支配します。楽曲が展開していくにつれて、徐々に希望を感じさせる響きです。最終第4楽章は圧倒的な音圧。何人も運命に支配されるのではなく、自ら道を開くことが出来るのだ、と確信と自信に満ちた解放感で終結します。NACOの全員が一丸となり、個々の音が統合されて一つの明確な意思を持つ生き物のようでした。指揮者シェリーのしなやかな右腕の先のタクトは美しく弧を描き、楽団員を制御し鼓舞し挑発し、高みへと導きます。特筆したいのは、コンサート・マスター川崎洋介です。音楽の女神様が乗り移ったかのようで、指だけではなく身体全体で音楽表現します。楽曲が絶頂に達すると椅子から立ち上がって弾きます。そのエネルギーが楽団員全員に伝播するのです。本当に素晴らしい演奏でした。

 演奏直後に、NACオーケストラ専務理事のネルソン・マクドゥーガル氏が私に耳打ちしました。「超多忙な日程の合間をぬって何とか調整がついて実現した公演だった。実は、全くリハーサル無しで本番に臨んだんだよ。でも、最高の出来栄えだった。本当に誇りに思う」と。

〈ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」ピアノ辻井伸之〉

 そして、5月10日は、辻井伸之さんのオタワ初見参。NACオーケストラとの初共演でした。ラフマニノフ2番は、辻井さんの十八番です。クライバーン・ピアノコンクールで日本人初優勝を飾ったのが2009年6月ですが、その前年に佐渡豊指揮ベルリン・ドイツ交響楽団を率いて録音したのもラフマニノフ2番でした。

 実は、10日午前中のリハーサルに招いて頂きました。辻井さんはブルージーンズに格子柄のパーカーというカジュアルな姿で舞台に登場して、本番さながらに第1楽章から第3楽章まで通しで弾きます。フィッシャーの指揮棒がピアノとオーケストラを丁寧に紡ぎ音の一粒一粒が綺麗にそろいます。もしも音を見て音に触れることが出来たなら、真珠の如き深い色彩とビロードのような感触だろうと感じました。シェリー、辻井さん、NACオーケストラの相性が抜群なのです。とても初めての共演とは信じられませんでした。

 夕刻8時から本番でした。辻井さんの登場で会場は爆発的な拍手です。鍵盤を確認し、沈黙が会場を覆います。と、辻井さんがヘ短調の和音をピアニッシモで提示します。加速度を増してフォルテッシモに達したところで管弦楽が入って来ます。ラフマニノフ2番はピアノ独奏から始まるので、テンポを決めるのはピアニストです。そのテンポに管弦楽が完全にシンクロする時に劇的な効果が生まれます。辻井さんの左手とコントラバスとチェロが一体化するのです。CDではなく、目の前で聴いて空気の震えを感じて初めて分かる類の音楽的体験です。

 ラフマニノフ2番は、技術的にはピアノの超絶技巧が散りばめられた難曲中の難曲です。が、同時に美しいメロディの宝庫です。映画音楽として利用される程。ですから、技巧を見せびらかすのではなく、技巧は美しい音楽を構築するための手段です。但し、超絶技巧を完璧に奏でる実力がなければ話になりません。辻井さんとNACOは一心同体と化して儚くも美しく強靭な協奏曲を奏でました。

 第3楽章が終わった瞬間、会場は大きな感動と興奮に包まれ、拍手が鳴り止みません。辻井さんは、会場の熱狂に応えて、ショパン「革命」をアンコールしました。圧倒的な演奏でした。

未来

 2022〜23年のシーズンは5月で終了します。10月から始まる2023〜24年のシーズンへの期待が高まります。マクドゥーガル専務理事は、忙しく世界中を飛び回りNACOの海外ツアーを調整しています。カーネギーホール公演も決まっています。2025年大阪万博の機会の日本公演も視野に入っています。NACOの未来は明るく、更に飛躍し、世界一流のオーケストラと認識される日も遠くないと思います

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身