エドサトウ
関ヶ原古戦場から再び東名高速道路に入り、米原市で北陸高速道路に入るのであるけれど、米原市の琵琶湖湖岸に面した磯に、かつて小生が日系の造船所で働いていたころに、お世話になった大先輩の川崎さんの実家がある。川崎さんは、日米の太平洋戦争が始まる前にカナダに移住されて、戦争が始まると多くの日系人と同じく500キロも離れた内陸部に強制移動させられて、戦中戦後といろいろと苦労されている。その実家は、我が家と同じように弟さんが後を継いで、守ってこられたが、戦争末期に海軍に召集されて、南方方面(東南アジア)に行かれ、戦後はその時にかかったマラリアのためか、弟さんは病死をされている。その後、実家は養子をもらい、その方が実家を守っておられる。その実家のある磯町のはずれに車を止める。
湖岸に面し、かつては半農半漁の村であったようである。大昔の日本の古事記に磯町から東に見える伊吹山で日本武尊が毒蛇にかまれて、この村で療養をしていたという言い伝えが、ここの磯神社にあるというから、ずいぶん古くから人々が住んでいたらしい。人々は仕事に出ているためか、あまり人の気配のない午後の村のはずれを歩いてこられた年配のおばあさんに道を尋ねるように、「僕はカナダに住んでいるのですが、カナダでお世話になった川崎さんと言う方が、ここの磯の方なのですが、そういう方を知りませんか?」と問うと、「この辺は川崎と言う姓ばかりだよ!」と笑いながら答えられた。
「私は、昔に、この近くの村から嫁いできたけどね」と付け加えられた。古くから北陸街道と中仙道が交わるこの地は、米とか日本海の海産物などが集まる物流の要の地であったのかもしれない。
湖岸ぞいの道を車で北上して行くとキャンプ場のある公園があり、その近くに「道の駅」という地元の野菜や名物を売る店があり、ふらりと立ち寄り地元のヨモギで作られたヨモギ饅頭などを買う。車の中でおやつに食べたが、懐かしくて美味しかった。そこから再び北陸街道に入り、長浜市の城下町にある観光名所の一つ黒壁に寄る。かつて、豊臣秀吉がここに住みお城を築いたときに、水郷のように琵琶湖の水を利用して、堀をいくつも城の周りに作っている。これが後の大阪城のモデルになっていると説明が黒壁の街の中にあった。黒壁の街は蔵のような古い黒い壁の家並みに、今はお土産屋さんとか食堂が多く見られた。ところどころに「太閤さんさんありがとう」のポスターが見られるのは何故か印象的であった。
ここ長浜市は西軍の大将石田三成の生誕の地であり、ここで秀吉と出会い秀吉の小姓となり出世していくのである。しかし、関ヶ原の戦い後、三成が捕縛されて京都で処刑されるのは、無常の時の流れなのであろうか?一方で、ここへ来る前に寄った米原は京極氏の領地で、京極高知は東軍の左翼に陣を構えて、西軍から寝返った小早川軍と共に大谷軍を攻めて勝利している。東軍に寝返った小早川秀秋は以前に石田三成から北九州の領地を改易させられたことがあり、三成を快く思っていなかったと想像すれば、この寝返りも納得できなくもない。
京極高知の兄は米原で西軍の毛利軍が中仙道を通って関ヶ原へ軍を進めるのをくい止めているのは、家康にとっても関ヶ原の戦いの勝利の一因となったとも思える。
もう、四時も過ぎて、天気予報とおりに雨がぽつりぽつりと降り始め、西の空はにわかに黒雲に覆われて強い風が舞い、今にも大雨が来そうな気配になり、急ぎ車に戻り、今夜の宿泊地金沢を目指して高速道路を北へと走る。
投稿千景
視点を変えると見え方が変わる。エドサトウさん独特の視点で世界を切り取る連載コラム「投稿千景」。
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