庄内藩とリアリズム~投稿千景~

Photo © Ed Sato

エドサトウ

 「大正教養主義の代表的な存在だった和辻哲郎さんは、太平洋戦争が開始された時、ずいぶん喜んでいます。和辻さんは、軍事知識をもっていなかったのでしょう。(中略)昭和の知識人たちが太平洋戦争勃発の時、なだれをうって戦争を賛美することになったのは、思想の転換ということではなくて、教養の一科目であるはずの軍事知識に乏しかっただけのことでしょう。---つまりリアリズムの希薄さです。」と司馬遼太郎著『この国のかたち』の中にあるのを読めば、江戸時代末期の旗本御家も脆弱な都会人になりすぎているというコメントが「新選組」というエッセイの中にもある。

 ひるがえって現代日本には軍事について語ることはタブー視され、官僚もサラリーマン化してしまい、自国軍事について語ろうとしないのはおかしいのではないかという意見もある。

 果たして、幕末の日本にリアリズムがなかったと言えば、山形の庄内藩にはリアリズムはあったのではと小生は思う。

 たまたま、小生はの祖父が日露戦争に従軍したが、出生地は山形県庄内である。この庄内藩は戊辰戦争で負けのない戦いを続けて官軍を震え上がらせたというのは、明治元年のことである。

 このことを知ったのは、数年前の晩秋に東北新幹線に乗り、青森までの旅の車中で読んだJRの鉄道雑誌『トランヴェール』による。庄内は祖父の故郷なので、興味深く思い読み始める。『戊辰戦争絵巻』の説明に「明治元年四月二十四日、清川口から始まる。幕末に活躍した清川八郎が生まれた清川である。絵巻は清川口で官軍を撃破した庄内軍の一隊が険しい六十里超街道を進んで、内陸の天童城に達するまでと、別の一隊が日本海側を北上して官軍が拠点としていた秋田城の手前に迫るまでの戦いを描いている。」

  なぜ庄内藩が強かったかというと、一つには英国製のスナドル銃など、当時の日本では最新式と思われる様式の兵器を大量に買い入れて官軍に備えていたようである。ここに庄内藩のリアリズムが感じられる。これらの兵器を酒田の港まで、幕末に船で運んだのは坂本龍馬のグループかもしれないと想像を膨らますと急に旅が楽しくなってきた。

 それこそ、幕末に酒田の港街には日本中の情報が流れていたのかもしれない。正確な情報はリアリズムに繋がるといえるかもしれない。

 後に、祖父が日露戦争に騎兵として参戦するが、当時最強と言われたロシアのコサック奇兵隊に勝つことができたのは幕末の庄内藩と同じく最新式機関銃を騎兵隊長の秋山好古が用意させたことによるのかもしれない。祖父が日露戦争から無事に帰還できたのは秋山好古にリアリズムががあったことによるのでは?とも思う。

 今頃は、AIの情報分析によることも多くあるかもしれないが、コンピューターは未来を創ることはできない、むしろそれを利用する人間の英知に期待されるのであろう。
(エド・サトウ)