「かんがえごと 関ヶ原」~投稿千景~

エドサトウ

 日本名三浦按針がオランダの東インド会社の航海士として帆船のガレオン船に乗り、アジアを目指して航海してくるのであるが、仲間の船とは離ればなれになる。彼の船も、また嵐にあい航行不能となり東シナ海の海をただよう難破船となる。船の仲間たちも多くは病死をしたのであろうか、今は十名にも満たない船乗りだけとなり、わずかな食料と雨水で飢えをしのいでいたが、やがて船は黒潮にのり鹿児島沖に到達する。船は瀬戸内海の満ち潮に吸い込まれるように豊後水道を北上して、大分の小島にたどり着いたのは関ヶ原合戦のあった1600年春のことである。

 これを知った北九州の大名であった小早川秀秋は徳川家康にいち早く「南蛮船、大分沖の小島に漂着、難破船にて数名の生存者あり候」と知らせている。家康はこの事を知ると素早く家康の名代を送り、簡単な応急措置で船を修繕すると西軍の手が届かない江戸に曳航させている。家康が興味を感じていたのは、その火器類の大砲や火薬、火縄銃の鉛玉などであった。この先、大戦をするならば玉の原料の鉛とか火薬に必要な硝酸などを大量に準備せねばならず、もしこの船の火器類が利用できれば幸運と言わねばなるまい。西欧の文化に興味を感じたのであろうか、彼は、英国人の按針から、個人的に数学などの学問を習っている。

 彼の盟友であった織田信長や豊臣秀吉が海外との交易や文化に興味を示したように、徳川家康も南蛮人である按針に興味をもったのであろう。当時、火縄銃の鉛玉の原料は東南アジアのタイあたりから輸入されていたから徳川家康も密かに多くの弾薬を用意する必要があり、その意味で按針は大切な人材であったと思われる。

 おそらく、三浦按針のガレオン船の16から20門の大砲がなければ、関ヶ原合戦の東軍の勝利は不可能であったかもしれないというのが小生の私見である。

 しかし、この帆船から接収した大砲を江戸から戦場になるであろう関ヶ原までの距離約450キロメートルの中仙道の山道の街道を運ぶことは大変なことである。東北に鞍替えで移動した石田三成の盟友上杉景勝は謀反の疑いがあるとして、家康は彼を攻めるのであるが、この時も船の大砲キャノン砲は数門運ばれたかもしれないが、これくらいの距離であれば、馬で運ぶこともできたかもしれないが、さすが山道の中仙道を大砲を運ぶのは至難の業であったろうと思われる。

 この時、江戸の町で今でいう運送業をしていた木曽駒五平なる者に会ったのではないかと思われる。木曽駒五平は、日本に昔からいたという小柄の木曽馬を使って運送業を手広く行っていた。おもに建設ブームで賑わう江戸へ建築の材料となる木曽の檜などの材木を運んでいたと思われる。だから結構、羽振りのよい人物であったのであろう。

 そこへ家康の配下のものと一緒に按針が訪ねて行く。按針にしてみれば、木曽馬に興味があり、それに大砲を引かせるぐらいのことを考えていたのかもしれないが、五平の話を聞けば、彼の大八車に大砲を分解して、弾薬なども一緒に運ぶことにしたのであろう。「旦那さん、山道は危険ですし、大変難儀な仕事でございます。江戸の家康様のことは是非とも、私どももお力添えしたく思います。」と五平は言うとニコニコと軽く笑った。この時、按針は木曽駒五平の娘を紹介されている。この縁で後に、夫婦となり、現在の横須賀あたりの天領に徳川家の旗本として領地を拝領して、三浦家は江戸時代、代々続いているのも、按針の不思議なところである。

投稿千景
視点を変えると見え方が変わる。エドサトウさん独特の視点で世界を切り取る連載コラム「投稿千景」。
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