安倍首相の式典での挨拶
先週の土曜日8月15日は、日本が戦争に敗れ終戦を迎えてから75年目であった。もし読者が日本人なら「戦争」と言った時「どの戦争のこと?」と言う問いは返って来ない事と予測する。
世界の中には次々に自国が戦争に巻き込まれるため、どれを指すのか定かでない国も多いのである。とは言え日本も今は、戦後生まれが総人口の83%以上になっているため、実際に兵隊として戦地に赴いた人などは、ほんの一握りの高齢者になっている。
また終戦(1945年)以前に生まれていたとしても、日本国内のあの悲惨な戦争体験、例えば空襲、B29、防空壕、焼け野原…と言ったことを覚えている年齢となれば4、5歳になっていなければならない。その層の人達の数も今は11%余りと言う。
周知の通り今年は単に終戦75周年目であるだけでなく、広島/長崎に原爆が投下されてからも同年数の月日が流れたことになる。例年8月6日には広島で、また9日には長崎で、原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が行われ、首相が出席して挨拶するのが習わしになっている。
ところが今年は、その大きな節目の年にもかかわらず、あろうことか、両式典での首相の挨拶の93%が同じ文言であったのだ。
世界で唯一の被爆国である日本の、首相として臨席した人の挨拶が、まるでコピペをしたかのような、使い回しと言われても仕方がない内容であったとは!
開いた口が塞がらないと言うのはこのことで、犠牲者を如何に軽んじているかの表れで、彼らを冒涜していると言わざるを得ない。
サーロー節子(Setsuko Thurlow)氏
各種の理由があってのことではあるものの、日本は未だに核兵器禁止条約批准国になっていない。現在世界で40カ国が署名しているが、批准条約を発効させるにはあと10カ国の承認が必要である。一日も早くその数に達することを熱望している一人が、トロント在住の被爆体験者で反核運動家のサーロー節子氏である。
2017年12月のノーベル平和賞受賞式で、ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)事務局長のベアトリス・フィン(Beatrice Fihn)氏と共に記念のメダルと賞状を受領し、受賞記念講演を行ったことで知っている人も多い事と思う。
彼女は1945年8月6日、広島市に原爆が投下された時、爆心地から1.8km離れた場所にいて被爆した。建物の下敷きにもなったりして九死に一生を得たが、幸いにも強く生き延びたのである。
筆者はトロントで知己を得てから、折に触れ何度か波乱万丈の人生についてお聞きした事があり、その度に深い感銘を受けたものだ。88歳になられた今は、脚が不自由なため歩行に困難をきたしておられるが、実に意志強固で核廃絶のために現在でも全身全霊で戦っている。今年も広島の記念式典には、トロントから遠距離参加をして、メッセージを送った。
ビクトリア市在住の長崎の原爆体験者
被爆体験者は日本人ばかりでないことは広く知られることだが、ここビクトリアにもRudi Hoenson氏というオランダ系カナダ人男性がいた。「いた」と過去形で書くのは、今年5月に96歳で亡くなったからである。
1945年、彼は21歳の若いオランダ兵士として現在のインドネシアで戦っていたが、終戦直前に日本軍の捕虜(PoW=Prisoner of War)となり、長崎の三菱造船所に送られ3年半もの間強制労働を強いられた。この捕虜収容所は、後に語り草になるほど劣悪な環境で、十分に食料も与えられず73キロあった体重が、半分になったほどであった。そこは長崎の爆心地から1.4Km離れていたのだが、彼は仲間の多くと8月9日の原爆投下をその地で体験したのである。
幸いにも戦後その収容所からは解放されカナダに移住したのだが、この悲惨な体験は丁度日系カナダ人たちが、強制収容所での辛い思い出を家族や後世の人々に語らなかったのと同じに、Hoenson氏も70年近く誰にも明かすことはなかった。しかし毎年8月を迎えるたびに、脳裏に思い出が去来した事は確かであった。
だが2014年のある時、彼のこの体験をビクトリア在住で、長い事Camosun College で社会学や日本の伝統文化について教鞭を執っていたり、移住者の助けをするinter-Cultural Association でコーディネーターをしていた坂本千家紀子(みちこ)さんが耳にする事となり、彼女はHoenson氏に手紙を書き送った。
筆舌に尽くし難いであろうこの苦い思い出が、歳を重ねると共に彼の心の中にどの様に深く刻まれているか…。それを癒すために自分に何か出来ることはないかと思いたったのである。例えば新聞を読んであげたり、アポにお連れしたり、お茶を一緒に飲んだり…。そして最後に日本の軍隊が彼や戦友たちに行ったむごい仕打ちに対し、陳謝の気持ちを書き添えた。
数日後紀子さんは、Hoenson氏から電話を受け取った。「貴女が謝ることなんかありませんよ。戦争を引き起こしたのは貴女ではないのですから」との温かい言葉が返って来たのである。
以来、つかず離れずの心の通ったお付き合いが続いたが、紀子さんは「私の方が彼から人間として学ぶことが多かったのです」と言う。戦中戦後の出来事や辛かった経験に対し一切の憎しみを持たず、ポジティブ思考で前に向かって人生を歩む姿は、ちょうど自分の両親も東京の大空襲で焼け出され疎開をして辛苦をなめたものの、前向きに生きた両親からの教えと共通するものがあったと述懐する。
今年一月に新年の挨拶を交わしたのが最後になってしまったことが惜しまれる。
YYJ島のささやかな式典
6日と9日の原爆投下の日には、ここビクトリアでも日系カナダ人団体のVictoria Nikkei Cultural Society が主催して、ダウンタウンのInner Harbour近くにある「友情の鐘」と呼ばれる盛岡から寄贈の鐘が設置されている小さな公園で記念式典が執り行われた。
両日とも30余人の参加者を得て、何人もの人が鐘を鳴らしささやかではあったが、75年の節目に相応しい心温まる穏やかな一時を共有した。
余談だが、ビクトリア市の北に隣接するSaanich市の市庁舎の前には、広島の隣にある廿日市市から原爆にあったものの、力強く生き延びた銀杏の木から根分けされた苗木が植わっている。3年ほどの間にすくすくと生育し60㎝ほどの背丈に伸び、市庁舎を訪れる人を見守っている。
二年前の秋に行われた地方選挙で落選したRichard Atwel 前市長が、廿日市市と姉妹都市になる計画に非常に乗り気だったのだが、次期市長にはその意思がなく計画が頓挫した経緯がある。
サンダース宮松敬子
フリーランス・ジャーナリスト。カナダに移住して40数年後の2014年春に、エスニック色が濃厚な文化の町トロント市から「文化は自然」のビクトリア市に国内移住。白人色の濃い当地の様相に「ここも同じカナダか!」と驚愕。だがそれこそがカナダの一面と理解し、引き続きニュースを追っている。
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