「縁」が重なって実現したバンクーバー・矢野アカデミー30周年を迎えて、矢野修三さんインタビュー(前編)

矢野アカデミー校長・矢野修三さん。2024年8月20日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito
矢野アカデミー校長・矢野修三さん。2024年8月20日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito

 矢野アカデミーが2024年9月に開講30周年を迎えた。バンクーバーで日本語を母国語としない大人を対象に日本語を教える先駆者として活躍する矢野アカデミー校長、矢野修三さんに話を聞いた。

「縁」が重なって実現したバンクーバーでの矢野アカデミー開講

 矢野アカデミーを開講したのは1994年9月。場所はバンクーバー・ガスタウン。観光スポット蒸気時計の近くで、知り合いを通して借りた部屋で「矢野アカデミー」が始まった。

 日本では日本語教師はおろか教員免許すら持っていなかったと笑う。きっかけはつくば博。1985年に茨城県つくば市で開催された国際科学技術博覧会に、当時勤めていた会社のプロジェクトチームの一員として参加した。準備から開催期間も含めて約1年。万博と言えば海外パビリオンも多く、そうした関係者には日本語がある程度できる人が派遣されていた。そうした中で「『日本語を教えてください』って多くの人に声をかけられたんですよ」と振り返る。

 これが矢野アカデミーinバンクーバーの最初の「縁」だった。

 つくば博が終了し、仕事は通常業務に戻った。そんな時、転勤の可能性が出てきたため、家族の事情も考慮して、「脱サラをしようかな」と密かに考えていたという。その時にひらめいたのがつくば博での体験。「万博で外国の人に日本語を教えてほしいって言われたのが頭に残っていたから、いまとなってはそれが日本語教師になろうと思ったきっかけかな」と話す。

 しかし終身雇用が当たり前の当時、脱サラには勇気がいった。「自分としてもすごい決心でしたね。ちょうど42歳。男の厄年です」と笑う。

 会社を退職後に父親も一緒に横浜に引っ越し、日本語教師養成講座を受講。会社員時代とは違い、時間に余裕がある生活の中で出合ったのがバンクーバーへの2つ目の「縁」だった。

 たまたま入ったピザ屋で食事をしていた外国人に声をかけた。「同じような世代の外国の人に声をかけたんですよ。自分は日本語教師になるための勉強もしていて、そのための英語の勉強もしていたから、英語で話しかけてみたんです。『どこから来たの?』って感じに」と思い出し笑い。すると「相手はこっちの英語が下手だと分かって優しく話しかけてくれたんですよ。それで会話が弾んで、どこに住んでいるのか聞いたら、すごい近所!奥さんの仕事の関係で家族で1年間だけ横浜に滞在していることが分かったんです」。しかも同年代の子どもがいて、彼自身は英語を教えているという。この彼がカナダ人だった。「ほんとこれが運命の出会いなんですよ。彼に会ってなければ、私のカナダ移住もなかったですね」

「ピザ屋で彼に会っていなければ、バンクーバーに行こうとは思わなかったですね」と振り返る矢野修三さん。2024年8月20日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito
「ピザ屋で彼に会っていなければ、バンクーバーに行こうとは思わなかったですね」と振り返る矢野修三さん。2024年8月20日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito

 それから家族ぐるみの付き合いが始まった。一緒に旅行にも行った。彼ら家族がカナダに帰った後も手紙のやりとりは続いていた。そんな時「カナダに行ってみようかっていうことになって。1988年、家族でカナダに会いに行ったんです」。当時友人家族はデルタ市に住んでいた。その時の印象が忘れられないという。「空港に着いた時、8月なのに、なにこのさわやかさ!って思って。その友人が空港まで迎えに来てくれてデルタの自宅に泊めてくれたんです。大きな裏庭があって豪邸に見えてね。いいところだなぁっと」。当時は物価も安く、カナダの銀行の利子は高いという時代と振り返る。「移住しようかなぁと芽生えましたね。でも、本当にできるとは思ってもいませんでしたけど」

 それでもバンクーバーにすでに移住している人に滞在中に色々と話を聞いた。すると「簡単、簡単なんて言われて。カナダ大使館に聞いたらいいよ」とアドバイスを受けた。早速帰国後カナダ大使館に問い合わせて、起業家移民という移住制度があることを知って、「じゃあちょっとやってみるかと考え始めましたね。正式に始めようと思ったのは1989年くらい」。すぐに申請したが、面接までいったにもかかわらずビザ発給とはならなかった。カナダ大使館からは政策が変わったためと説明され、再申請し1993年無事に移住が決まった。そして、1994年8月8日、「末広がりの吉日」にバンクーバーに降り立った。

 「いま思えば」と前置きして、「85年のつくば博の最終日に会場に『来年はバンクーバーで会いましょう』とあったんですよ。86年と言えばバンクーバーEXPO(バンクーバー国際交通博覧会86)。その時はバンクーバーなんて知らなかったけど、振り返ると『赤い糸』があったのかなと思います」と笑った。

「優しく、楽しくをモットーに」矢野アカデミー30周年、矢野修三さんインタビュー(後編)に続く

(取材 三島直美/写真 斉藤光一)

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