タシメは、1942年にカナダ政府が日系カナダ人を収容するために設置した強制収容所。カナダ政府が補助する強制収容所としては最大規模。
政府が定めた100マイル(160キロメートル)「制限区域」のすぐ外にあった。約1,200エーカーという広大な敷地内に、最多時には2,644人が収容された。
収容所とした土地は「フォーティーン・マイル・ランチ」と呼ばれる酪農と家畜農場だったが、強制収容のため政府が持ち主からリースし、1942年7月から強制収容所へと姿を変えた。
1942年9月8日に最初の収容者がバンクーバー市にある日系カナダ人が一時的に強制収容されたヘイスティングス・パークから到着。鉄道とバスを使って、その後も150人ずつのグループで送られた。
タシメ強制収容所となった土地は、当初、ホープ‐プリンストン・ハイウェイ建設に従事するために家族と離れて道路沿いのキャンプで生活していた18歳から45歳の男性を中心とした500世帯を収容するために選ばれた場所だった。しかし、収容所の建設にも労働力が必要になったため、男性たちが再び家族と合流することが許された。こうして、急きょ住宅の増設が必要となった結果、タシメ収容所が整備された。
強制収容に伴い、建設が急ピッチで進められ、1942年12月までには347戸の住宅が完成した。
タシメでの生活環境
住民たちは、自給自足で農作業や手工芸などを通じて生活した。学校や病院も設置されていたが、教育や医療サービスは限られており、厳しい生活環境だった。特に食料や日用品の不足が深刻で、多くの住民が貧しい生活を強いられていた。
収容所には約40人のカナダ人職員、BC州安全保障委員会職員、連邦警察(RCMP)、病院職員、宣教師もいた。
手紙の検閲や電話の制限が課せられていた一方で、一部の住民は短波ラジオを密かに保持し、日本のニュースを回覧で共有していた。
タシメは近隣にコミュニティが存在しなかったため、収容所内で社会生活が完結していた。祭りやスポーツ活動が行われ、住民たちは互いに支え合いながら生活を続けていた。
1946年に閉鎖、カナダ政府による東部移住政策
1945年8月に第2次世界大戦が終結したにもかかわらずカナダ政府は日系カナダ人に対し、ロッキー以東への移動か、日本への「帰国」の二者択一を迫った。タシメ収容所の日系人たちも移動を始め、1946年8月12日に収容所は閉鎖した。
現在タシメ跡地はサンシャインバレーと呼ばれている。タシメ収容所記念センターが設立され、収容所当時の記憶が失われることなく、資料館や記念碑を通じて語り継がれている。
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