グリーンウッドは、カナダで初めて強制収容される日系カナダ人の受け入れに積極的な姿勢を示した町として知られる。グランドフォークスは「自活収容地」として家族が共同で生活を築いた町である。
グリーンウッドでの日系カナダ人の歴史
グリーンウッドは、カナダ政府が補助した日系強制収容所の一つだが、1942年に強制移動が始まった時に、他の多くの地域が受け入れを拒否する中で、この町は日系人を積極的に受け入れた。
当時グリーンウッドの人口は約200人まで減少し、町は衰退の危機に瀕していたため、W.E.マッカーサー・シニア市長が「日系カナダ人の受け入れを拒否しない」と新聞広告で明言。これにより、日系カナダ人が新たな居住地としてグリーンウッドに移動するきっかけとなった。
カトリック教会のベネディクト・クイグリー神父やフランシスコ会の修道女が、日系カナダ人を迎える上で重要な役割を果たした。
戦後とグリーンウッドの現在
1945年、カナダ政府は日系カナダ人に、ロッキー山脈以東か、日本に「帰国」するかという二者択一を迫った。しかし、グリーンウッドでは市役所と商務省が日系人を地域に留めるために政府に抗議文を提出。その結果、何百人もの日系カナダ人がこの町に残り、新たな生活を築いた。グリーンウッドは、戦後も日系カナダ人の生活基盤を提供し続けた数少ない地域の一つとなった。
2018年、グリーンウッドでは日系レガシーパークに「私たちは共に生きた」と題された約80枚の家族記念碑が設置された。この記念碑は、日系カナダ人と地元の白人家族が協力して地域を支え合った歴史を後世に伝えるもので、現在も数十人の日系カナダ人がこの町に住み続け、歴史と文化を守り続けている。
グランドフォークスでの日系カナダ人の歴史
グランドフォークスはグリーンウッドの東約40キロメートルに位置している。1939年からこの地に住むエズマツ・ナカタニ牧師らの働きにより、日系カナダ人が自主的に生活基盤を築いた「自活移動地」の一つである。ここには300人以上が移動した。
グリーンウッドやミッドウェイなど近隣の町と連携して、多くの日系カナダ人の生活基盤を整える支援が行われた。
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