はじめに
日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。
2月になり、冬が本格化しています。私にとっては3度目の冬ですが、初めて、世界で最も寒い首都の一つというオタワの本領が発揮されていると実感する日々です。寒い日は、氷点下20度を下回る日が続きます。青空で雲一つない晴天で、積もった雪が眩しく感じるような日が実は気温が低いのです。放射冷却現象です。どんよりと曇っている日は、厚い雲が地表面の熱を保存しているせいで、マイナス5度ほどにまで上昇します。
そんな冬の日々、仕事がら様々な方々にお目にかかり、実に色々な事を学びます。先日は、公邸にカナダ国立美術館の関係者をお招きして夕食を共にしました。公邸の嶋シェフの絶品和食と日本酒で、お互いに打ち解けた雰囲気で、大いに盛り上がりました。話題はトランプ政権、カナダ内政、現代美術の将来、日系人アーティスト、NYのメトロポリタン美術館の歴史、更には2028年の日加外交関係樹立100周年に向けた国立美術館との協力にまで多岐に渡りました。
私は、食卓でも常に音楽をかけています。BGMですから、音量は控えめです。ちょうど、マイルス・デイビスの「イン・ア・サイレント・ウェイ」を流している時でしたが、音楽話しが弾み、ジャン=フランソワ・ベリズリー館長が現代のカナダ音楽界で素晴らしいアーティストがいるとして、ピアニスト・作曲家のジャン=ミッシェル・ブレ(Jean=Michel Blais)を教えてくれました。実は、これまで、ブレの音楽を聴いたことはありませんでした。ベリズリー館長は、外交官の息子として世界各地で育ち、長じて名門コンコルディア大学で美術史・現代アートを専攻し、卒業後はサザビーズ、UNESCO等で活躍。48歳の若さで国立美術館の館長に就任した才人です。鋭い感性を備えたベルズリー館長の一押しです。アップル・ミュージックで探して、直ぐにかけました。それが、ブレの音楽との出会いです。
前置きが長くなってしまいましたが、今月の「音楽の楽園」は、ジャン=ミッシェル・ブレです。
第一印象
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夕食会が終わりゲストの皆様が帰った後、書斎でブレを聴きました。「II」という2016年に発表されたデビュー盤です。胸にすーっと入って来ました。何の準備も要らない。ただ、耳を傾ければ、音楽が染み入って来る感じです。透明でシンプル。必要最小限の音で出来ていると感じました。同時に、ブレは、ピアノと一体化していると感じました。呼吸するように、話すように、微笑むようにピアノを弾いてるのだと。喜怒哀楽が指先からピアノの88個の鍵盤に伝わっているようです。エリック・サティやジョージ・ウィンストン、或いは久石譲を彷彿させます。
また、ブレの音楽には押し付けがましさとか過度な自己主張が無いとも感じました。私の全く個人的な感覚ですが、傑作や名作と称される音楽の中には、聴くのに凄いエネルギーを要するものがあります。勿論、そこには、巨大な音楽的感動はあるのですが、余り元気のない時には聴く気がしません。ブレの音楽は、真逆です。聴く側に元気があろうがなかろうが、聴く者の心に寄り添うように音楽的な詩情を喚起します。私小説的な親密さを感じさせます。
聴く者にとって、ブレの音楽は非常に自由です。聴く者の思いを開放する音楽です。例えば、デビュー盤収録の「Casa」という曲は、雪景色の中で聴くと、正に雪にピッタリと感じるのですが、仮に夏の夕暮れに聴けば、暑さの火照る都市の喧騒の中に現れる一瞬の静寂にも似合うように感じます。要するに変幻自在なのです。だから、ジャンルを特定することが出来ません。クラシックの要素もあれば、ジャズ的でもあります。映画音楽にもなるでしょう。目が冴えて眠れぬ夜に聴けば、あっという間に熟睡に誘います。
そんなブレの来歴が非常に興味深いです。
神童の放浪
ジャン=ミッシェル・ブレは、1984年4月にモントリオール郊外のニコレに誕生します。父は聖歌隊で歌っていましたし、母はオルガン奏者でもありました。音楽に溢れる家庭で、両親からの影響は陰に陽にあったことでしょう。
9歳の頃から自宅のピアノで遊び始めたと云います。ジャン=ミッシェル少年にとっては、ピアノは学ぶものではなく、日々の生活の中の自分の分身のような存在になっていたことでしょう。家の中にあるビンやフライパンを叩いたドラムごっこも大好き。ラジオ・カナダで放送される「ワールド・ミュージック」を熱心に聴き、ケルト音楽や東欧の音楽に惹かれたといいます。11歳になる頃には、オリジナル曲を書き始めました。特段、誰かに師事したというのではなく、自然な成り行きだったそうです。
そして、地元の音楽関係者の間で注目され、17歳にして、ケベック州トロリヴィエール音楽院に進学。本格的に、ピアノと作曲を学び始めました。しかし、ジャン=ミッシェルにとっては、音楽院での音楽の「勉強」は、余りにも制約が多く、喜びよりも苦痛を感じたといいます。何故ならば、自分が本当にやりたい事は、その瞬間のインスピレーションを切り取る即興や変奏、破天荒な音楽的冒険なのだと気がついたからです。周囲の関係者も、音楽院が提供する科目・授業は、彼が欲する音楽とはズレていると感じたそうです。要するに、音楽院には彼の居場所はなかったのです。そうと気が付くと、ジャン=ミッシェルは躊躇なく音楽院を去ります。
ここからのジャン=ミッシェルの青春の旅路が非常に印象的です。青年は荒野をめざす的な自分探しですね。
まず、中米のグアテマラに行きます。何故、グアテマラだったかは知る由もありません。が、彼の地の孤児院で4ヶ月に渡って働きます。その後は、ベルリンに行きました。そして、再び南米、アルゼンチンはブエノス・アイレスに渡ります。この間、「ピアノは全く弾かず、ピアノのことも忘れていました」と或るインタビューで述懐しています。
文字通り、音楽から離れ、故郷から離れた日々が、己を鍛え、真の自分を見出すことに繋がります。
音楽との再会〜自己流スタイルの確立
ジャン=ミッシェルは、1年余に亘る旅からモントリオールに帰還します。
その時、家族・友人・知人に見せるような旅先で撮った写真がないことに愕然とします。音楽院での挫折から立ち直る傷心の旅路ですし、元来、カメラを持ち歩くタイプでもないのです。とはいえ、旅先で出会った人や風景や驚きや感動を伝える術が無いことに心が騒ついたことでしょう。そこで、ジャン=ミッシェルは、自分を見出すのです。自分には、写真はないが、音楽があると。ピアノが弾けるじゃないか、作曲できるじゃないか、と。己が経験したことや感じたことを、音楽を通じて表現出来ると。
或る時、かつて即興的に作曲した曲のディテールを思い出せなかったことがあったといいます。それ以来、断片であれ何であれ、録音しておくようになります。高級な機材ではなく手頃に入手できるもので。自分の部屋の日常的な音も録音されます。それも音楽の一部だと感じるようになります。ここにジャン=ミッシェルの独自のスタイルが出来上がるのです。
とは言え、この段階では、未だ音楽だけで生活を支えるには至っていません。放浪から帰還したジャン=ミッシェルは、コンコルディア大学で、一般教養を修めると同時に特別支援教育について学びます。そして、ケベック州の特別支援学級の教師となります。情熱をもって教師を勤めつつ、自己の音楽を追求する日々です。有り体に言えば、音楽を趣味とする教師です。趣味と言うには、ほぼプロですが。実は、世の中には、世に出る機会に巡り会わない玄人裸足の音楽家は少なからずいます。ジャン=ミッシェルも10年程そんな日々を過ごします。
Arts & Craftsとの出会い
特別支援教師の傍ら、自己の音楽を追求していたジャン=ミッシェルは、やがて、完成した曲をBandcampというオンライン・プラットフォームに投稿し始めます。メジャーなレコード会社との契約のない音楽家にとっては、貴重な作品発表の場です。教師とセミプロ音楽家の日々を過ごすジャン=ミッシェルにとっては、教師と音楽を両立できて不満はなかったと言います。ですが、遂に、運命の扉が開きます。
2015年、31歳になったジャン=ミッシェルは、モントリオール地元のArts & Crafts(A&C)というレコード会社に発見されたのです。キャメロン・リードというアーティストがBandcampで聴いたジャン=ミッシェルの曲に魅せられます。そこで、リードはA&Cの関係者に彼の音楽を紹介します。美しいというだけでは音盤になりません。レコード会社も民間企業ですから商売にならなければ意味はありません。この時、A&Cのプロデューサーはジャン=ミッシェルの音楽にサムシングを感じたといいます。無駄な装飾のない音楽の原風景でしょうか。A&Cは、ジャン=ミッシェルに連絡を取ります。最初のコンタクトに関し、ジャン=ミッシェルは、冗談だと思って、送られてきたEメールを削除しそうになったと語っています。最終的には、双方のコミュニケーションが取れて契約に至ります。条件は、教師を辞めて、音楽に専念することでした。生活が一変する訳ですから、逡巡もあったに違いありませんが、プロの音楽家としての道を歩み始めました。
デビュー盤「II」は、ジャン=ミッシェルの自宅で録音されました。使用楽器は、自宅のアップライト・ピアノとキーボード。録音時の生活音もありのままに含まれています。耳をすませば、雨、子供たちの声も聞こえます。即興的に作られた8曲が収録されています。
今や、音楽は、高度に産業化され、最新の設備で工業品のように生産され商品にされています。そんな中にあって、「II」は手作り感いっぱい。時代の流れから超然としていると言えば、褒め過ぎですね。でも、偽らざる等身大の音楽です。シンプルな音楽ですが、旋律が生きています。何度聴いても発見があり、新鮮です。
タイム誌「今年のベスト10アルバム」にも選択されました。そして、ジャン=ミッシェル・ブレは、素晴らしい楽曲を生み続け飛翔します。
カンヌ映画祭
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2019年には、ジャン=ミッシェルは、ケベック出身のグザヴィエ・ドランが監督・脚本・主演を務めた映画「マティアス&マキシム」の音楽を担当しました。ドラン監督は、幼少の頃から子役も務めたカナダ映画の申し子です。友情と恋愛の境界線と自己認識の揺らぎを繊細に描いた本作品は、映画の批評家筋から高い評価を得て、カンヌ映画祭においてプレミア上映されました。映画音楽はジャン=ミッシェルです。音楽が全面に出過ぎず、しかし、映画を観る者にそれぞれの場面の情感をリアルに伝えるのです。彼が映画のために提供した音楽は、目と耳の肥えたカンヌの批評家等を魅了しました。カンヌ映画祭のサウンドトラック部門を受賞したのです。
この受賞に関し、ジャン=ミッシェルは「映画音楽作曲家として仕事が出来るなんて思ったことはありませんでした。まして、カンヌに来れるなんて」とSNSでコメントしています。謙虚な人柄の一端が現れていますね。
その後も着実に名盤をリリースしていますが、もう1枚だけ。
aubades
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私が最も好きなアルバムが2022年に発表された「aubades」です。このタイトルは、直訳すれば「夜明けのセレナーデ」です。ここには、新しい始まりに歓喜し、未だ見ぬ出会いを応援するような響きがあります。闇に抱かれた夜が終わって、これから登る陽光への憧憬があります。
ジャン=ミッシェルは、この音盤について「私は、ロックダウンの最中に自宅で一人、離婚の手続きをしていました・・・孤独に負けないよう、自分自身を癒すために書いたものなのです」と語っています。
全11曲が収録されていますが、ピアノを軸にしつつも、弦楽器と管楽器が音楽の陰影を深く多彩に仕上げています。アップル・ミュージック版には本人が記した簡単な解説が付してあります。そこには、フィリップ・グラス、ドビュッシー、チリー・ゴンザレス、ヤニー、サティ、ショパンといった作曲家の名前も言及されています。創作の過程を垣間見る思いです。
結語
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ジャン=ミッシェル・ブレは、今年41歳。デビューから9年、いよいよ脂が乗って来たようです。1オクターブに存在する12の音の順列組合せが生む、音楽の無限の可能性を自然体で、さりげなく見せてくれます。頭脳ではなく心が感じる旋律の妙があります。
最新盤は、3月発表予定の「désert」です。将来がいよいよ楽しみです。
(了)
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山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。
山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身