「初夢25(2)」~投稿千景~

エドサトウ

 魏志倭人伝の中に卑弥呼が中国の王に絹を献上したとあるのを見れば、九州などの西日本では弥生時代の早くから絹が創られたようである。

 西日本は、蚕のエサとなる桑の木や、蚕が育つこと、気候的に蚕の原産地とされるベトナムと気候が似ていることから、北九州を中心に絹の生産がおこなわれていたようである。その後、古墳時代には、日本海側や近畿地方に広がっていくのではあるまいか?しかし、縄文人は芭蕉の繊維で織った白い布に首を通す穴をあけて、それを羽織り、麻縄の腰紐でしばっていたようである。麻縄は縄文時代の早い時期から作られたようである。

 「5世紀の加羅諸国の活動はそれほど活発ではなかった。400年に南下してきた高句麗軍を任那加羅、安ラなどが倭と協力して撃退したのちは約八十年間、なんの動きも伝えられていない。(やがて)小国が統合し領主的な貴族による統合国家ができた。ーーー」、その中に安ラ出身の漢氏や金海加羅出身の秦氏がいた。さらに、この井上秀雄氏の『古代朝鮮史』を読めば、「百二十二年のこととして玉都(ぎょくと)の人たちは、倭兵の侵入という流れに惑わされ山や谷に逃げ込もうとした。ーーー外部の発達しない地方では、住民が自ら安全な地を求めて山谷にひそむことが多い。」「このように朝鮮の城郭は、中国の県城から始まりながら、山城の創設に見られるように、住民保護を主目的としたものであった。」その住民保護から想像できることは、仁徳天皇陵古墳が、この地域の開拓に携わっていた南朝鮮の倭人や縄文人の大きなグループであったとすれば、何か大きな争いが起きた場合に、お堀のあるこの大きな古墳に逃げ込み、自衛の戦いの用意をしたのかもしれない。また、この人たちを守るユダヤ人傭兵がいたのかもしれない。そのように考えれば、仁徳天皇陵古墳の大きなことが理解できるのである。

 城ではないが北の方角に位置する小高い円墳に登れば、遠くを見ることができるし、弓矢を放つこともできる。南寄りの方墳の広場には高床式の屋敷がありコメなどが貯蔵されてあるとすれば、堀には水が十分にあるから、古墳から住民とともに外敵と戦うことができる。表向きには古墳であっても、開拓者住民の砦であったようにも想像できる。だとすれば、彼らの傭兵にユダヤ系の人がいたのかもしれない。だから、古墳の周りから兵士や馬の埴輪が出てくるのかもしれない。

 だから、古墳であっても実は自衛のための城郭のようなものであったためにか、また鉄の武器や農具を安全に盗賊から保管するためにも頑丈な大きな石でできた石室であったのかもしれない。頑丈なお墓は沖縄のお墓と同じように女性の子宮を意味して、死者が子宮に帰るところであり、また台風などの暴風雨から家族が身を守るところであったようにも想像される。

 <林屋_ーーーやはり韓半島の突端に倭の巨頭保みたいなものが作られておったに違いない。

  司馬_それがこちらから出向いて行ったものか、元来向こうが本尊なのか、そこまで断定すると仮説の世界に入るからいわずとしておくとして、当時は何でそんなに朝鮮と往来がさかんなんだろう。説話でも、神功皇后の朝鮮出兵があったり、とにかく韓半島に執着しておりますね。生活の必要から言えば、先ほども話に出たように、日本列島のほうがはるかに食っていきやすい。であるのに倭の政権があれほど韓半島に支店を置き続けることに執着したのか?

  林屋_それは、やはり半島は大陸の橋みたいなものですからね。大陸が文化、技術の源泉だという考えは牢固としてあるでしょう。現に百済との交流も任那を通じて開けてくる。ですから文化の通路として、何とかあの一角を押さえておきたい、あるいは半島から来る人は大事にする。これは利用せねばならぬという考えはありますね。

  司馬_一つだけ、強烈な魅力としたポイントを選ぶとしたら、鉄でしょうね。> 『歴史の夜咄』司馬遼太郎 林屋辰三郎から

 鉄の道具とか牛馬の動力がなければ、あれだけ大きな仁徳天皇陵古墳はできないであろうと僕は夢のような想像を膨らますのである。

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