その知られざる魅力≫ ③
この「カナダで出会った新渡戸稲造」ですが、バンクーバー新報に2017年6月から7回ほど掲載されました。その後、新たな発見や付け加えたいこと、そして少し直したいところなども多々見つかり、今回の新しいオンライン版バンクーバー新報に改めて投稿したく、よろしくお願いいたします。
☆ 生い立ち、そして旅立ち
新渡戸稲造が生まれたのは今からおよそ160年前の1862年です。
1853年にペリーの黒船が来航し、尊王攘夷そして討幕の嵐が吹き荒れていた、まさに江戸幕末激動の真っただ中でした。
南部藩(岩手県盛岡市)の武士の3男、兄弟姉妹8人の末っ子。当時父親は藩の江戸留守居役として、江戸におり、外国の珍しい品物、例えばオルゴールなどを土産として、ときどき実家に届けていたようです。稲造はそんな外国の珍しい物を見ながら育ったので、普通の子供よりは外国にあこがれや親しみを感じていたのでは、と想像できます。
少年時代はかなり腕白だったようですが、稲造が5歳のとき1867年に父親が世を去ります。この年は大政奉還、坂本龍馬暗殺など、さらに夏目漱石や正岡子規が生まれた、日本の歴史上とても重要な年ですが、ちなみにカナダの建国もこの年1867年です。まさか将来そんな異国の地、カナダで客死することになるなど、5歳の稲造は夢にも思わなかったことでしょう。
翌年1868年が明治維新。新しい時代の幕開けです。このとき南部藩は会津藩などと幕府軍に加わり、薩摩藩や長州藩などの新政府軍と戦い、賊軍として敗れます。時代の大きな変化とともに、幕府側についた南部藩は大変な苦難を余儀なくされました。
そのような激動のときに、母親のせきは一人で子供たちを育てなければなりませんでした。でもこの母親せきは良妻賢母のほまれ高く、すごいお母さんだったようです。これからの世の中、新政府に逆らった南部藩の人間が偉くなるには学問が必要だと考え、江戸から戻ってきた医者に頼んで、子供たちに英語を習わせたとのこと。稲造が英語に興味を持ったのも、この頃の母親の教育の賜物だったのでしょう。
また、当時はまだご法度だった牛肉を強い子に育てようと、子供たちに食べさせたというエピソードもあります。当時としてはとても進歩的な、まさに教育ママの先駆者だったのではと、思えてなりません。
末っ子の稲造はこの母親の影響を強く受け、いつも「立派な人になれ」と育てられました。そして日本よりはるかに文明の進んだ国があることを知り、立派な人になるには、ぜひ東京に行ってみたいと思い始めました。この時、稲造の叔父である太田時敏(稲造の父親の弟)はすでに盛岡を離れ、東京で洋品店を経営していました。子供がいない叔父の要望もあり、3男の稲造は太田家の養子となって、名前も太田稲造と変わりました。
歴史に「もし」は禁句ですが、もし南部藩が新政府に逆らわなかったとしたら、新渡戸家もそんな苦難は受けず、稲造も養子などにいかず、かなり違った人生を歩んだのではないか、と勝手な想像をしてしまいました。
明治維新から3年後の1871年、養子先である東京の太田叔父さんを訪ねて盛岡に別れを告げました。これが母親との最後の別れになろうとは知る由もありませんが、太田稲造9歳の旅立ちでした。
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