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Naomi Mishima

Naomi Mishima
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「冬至の日*駿河の海に富士ひかる」

カナダde着物

第78話
*里帰りで着物を学ぶ*

 いよいよ、今年の二十四節気も冬至を迎えました。

 世界中では、依然として紛争や戦争が続き、心を痛める出来事が後を絶ちません。
 日々報じられるニュースに、不安を感じることも多かったのではないでしょうか。

 そのような中でも、私たちはそれぞれの場所で日常を重ね、人とのつながりや、学び、ささやかな喜びに支えられながら、この一年を歩んできたように思います。

 冬至は、一年で最も夜が長い日であると同時に、ここから再び光が増していく節目でもあります。

 どうかこの冬至が、皆さまにとって心を静め、次の季節への希望を見出すひとときとなりますように。
 寒さ厳しき折、くれぐれもご自愛ください。

「Peace, Love, and Passion」Manto Artworks
「Peace, Love, and Passion」Manto Artworks

 晩秋の日本へ里帰りをしています。

 駿河湾を囲むように私の故郷静岡県はありますので、東京へ向かう時も大阪へ向かう時も、どちらかの肩側に駿河湾を横にし、お天気がいい日には、雪を覆う富士山を見ながら目的地へ向かうようになります。
 今年の秋は、珍しく肌寒い日もあり、富士山はうっすらと雪化粧、青空とのコントラストが美しい姿を見せてくれました。

「晩秋の富士山」コナともこ
「晩秋の富士山」コナともこ

 静岡の自宅とグループホームに暮らす両親は、会うたびに少しずつ体が小さくなっていきます。 小柄な私でさえ、自分のほうが成長しているのではないかと錯覚してしまうほどです。

 それでも、好奇心旺盛な二人は、デイサービスやホームで行われるさまざまなアクティビティに積極的に参加しています。
 母は俳句や書道に親しみ、父は毎日新聞に目を通し、いつまでも時代の流れを感じていたいという思いがあるのでしょう。

 日本人は、季節を楽しみ、外からの文化を柔軟に取り入れながら、日々の暮らしを楽しむことを大切にしてきました。

 そのため、シニア向けのアクティビティも非常に充実しており、カナダに住む私たちも、ぜひ見習ってみたいものです。

「季節を楽しむ日本の食文化、秋の和菓子、米寿のお祝いに金目鯛の煮付けをリクエストする母」コナともこ
「季節を楽しむ日本の食文化、秋の和菓子、米寿のお祝いに金目鯛の煮付けをリクエストする母」コナともこ

*今日の着物*Today’s Kimono*
「里帰りで着物を学ぶ:きもののヒミツ 友禅のうまれるところ」

 私が静岡に到着した折、ちょうど静岡市美術館で、きものの特別展覧会が開催されていました。
 これはぜひ見たいと思い、早速、幼なじみと一緒に出かけることにしました。

 彼女は、春の里帰りの際にも私に付き合ってくれた友人で、着物や帯の制作にも携わる、共通の“着物好き”でもあります。
 作品を見る目も確かで、展示を前に交わす会話は尽きることがありませんでした。

 京都と静岡の二都市のみで開催されたこの展覧会は、友禅の老舗・千穂のコレクションを中心に構成され、近世の着物や当時流行した雛形本、友禅染裂、染め型、さらには人間国宝によるきもの作品などが紹介されていました。
 デザインが生み出される背景や、制作者の創意に迫る内容は、「きもののヒミツ」と題され、見応えのあるものでした。

「静岡市美術館にて”きもののヒミツ 友禅のうまれるところ”展覧会にて」 コナともこ
「静岡市美術館にて”きもののヒミツ 友禅のうまれるところ”展覧会にて」 コナともこ

 真っ白な館内に並ぶ、豪華絢爛なきものの数々。
 日本刺繍の繊細さや洗練されたデザインは、百年以上前のものとは思えず、今なお新しささえ感じさせます。

 一反の布に込められた技と美意識、そして時代を超えて受け継がれてきた感性に触れながら、着物が単なる衣服ではなく、日本の文化や精神を映し出す存在であることを、改めて実感しました。

 幼なじみと静かに作品を見つめながら過ごした時間は、心豊かなひとときとなりました。

「着物の撮影はできませんでした。美術館のショップには着物に関する専門書が並んでいました。」コナともこ
「着物の撮影はできませんでした。美術館のショップには着物に関する専門書が並んでいました。」コナともこ

*今年最後のご挨拶*My last greeting of the year*

 今年も残すところ、あとわずかとなりました。皆さまにとりまして、どのような一年だったでしょうか。

 本年も、和の学校@東漸寺ならびに東漸寺では、日本文化を通じて、季節の行事やさまざまな教室、ワークショップを開催してまいりました。日本を離れて暮らしていても、学び、楽しめることはたくさんありますね。

 そこで得た知識や経験を生かし、カナダの皆さんへ日本文化を紹介する「大使」としてのご活躍も期待しております。大それたことをしなくても、日々の暮らしの中に和の文化を取り入れて過ごすことは、十分に意義のあることだと思います。

 どうぞ皆さま、良いお年をお迎えくださいませ。

コナ ともこ
(和の学校@東漸寺 主宰)

「Rainbow & I」Manto Artworks
「Rainbow & I」Manto Artworks

*参照*

暦生活
https://www.543life.com

静岡市美術館
https://shizubi.jp/

展覧会「きもののヒミツ:友禅の生まれるところ」
https://shizubi.jp/exhibition/20251025_kimono/251025_01.php

「着物語り」
コナともこさんが着物の魅力をバンクーバーから発信する連載コラム。毎月四季折々の着物やカナダで楽しむ着こなしなどを紹介します。
2020年8月から連載開始。第1回からのコラムはこちらから

コナともこ
アラ還の自称着物愛好家。日本文化の伝道師に憧れ日々お稽古に励んでおります。
14年前からコキットラム市の東漸寺で「和の学校」を主宰。日本文化を親子で学び継承する活動をしております。

年間を通じて季節の行事に加え、お寺での初参り、七五三祝い、十歳祝い、元服祝い、二十歳祝い、結婚式、生前葬、お葬式などの設えと装いのお手伝いもさせていただいております。

*詳しくはコナともこ までお問い合わせ下さい。tands410@gmail.com
東漸寺は非営利団体で、和の学校の収益は東漸寺の活動やお寺の維持の為に使われています。

カナダ人の夫+社会人と大学生の3人娘がおり、バンクーバー近郊在住。

和の学校ホームページ https://wanogakkou.jimdofree.com/
インスタグラム https://www.instagram.com/wa_no_gakkou_tozenji/
フェイスブック https://www.facebook.com/profile.php?id=100069272582016

東漸寺Tozenji Temple https://tozenjibc.ca/

コナともこ
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Instagram https://www.instagram.com/konatomoko/?hl

「東漸寺🌸春🌸2024」Manto Artworks
「東漸寺🌸春🌸2024」Manto Artworks

カナダで活躍する日本人薬剤師の物語 若子直也さん

 皆さん、こんにちは。

 2025年も残すところあと1週間となりました。今年は新しい試みとして、カナダで活躍する日本人薬剤師の皆さんを紹介してきました。多文化社会のカナダでは、さまざまな言語や価値観が混ざり合って暮らしていますが、やはり日本語で相談できる薬剤師の存在はとても心強いものです。

 また、私としては嬉しいことに、このコラムを日本から読んでくださり、実際に「カナダで薬剤師になりました」という方もいらっしゃると聞きました。

 YouTubeのような動画が主流の時代に、こうして活字を通してカナダ西海岸の日本人薬剤師の姿を伝えられること、そして国境を越えて日本人の患者さんと薬剤師のネットワークが広がっていくことを、とても素敵に感じます。

 さて今回は、ブリティッシュコロンビア州ビクトリアで薬局を運営されている薬剤師の若子直也(わかご なおや)さんをご紹介します。

若子直也さん
若子直也さん

 名古屋出身の若子さんは、もともとは薬剤師ではなく、サイエンティスト(科学者)を志していました。自宅近くに製薬大手ファイザー社の研究所があったことがきっかけで、当時としては比較的新しい分野だった分子生物学の世界に興味を持ったといいます。

 私や若子さんが学生だった頃の分子生物学の教科書は、他の科目に比べるとずいぶん薄いものでした。それでも、目には見えないながらも生命の根幹を形づくる学問として、そして薬物治療への応用が未知数であることにも惹かれ、若子さんはその可能性に夢中になっていきました。

 京都大学で薬学を学んでいた学生時代、そして大学院生として研究に打ち込んでいた頃の若子さんは、まさに“研究漬け”の日々を送っていました。昼夜を問わず実験に追われ、ライフワークバランスを失うほどの忙しさ。次第に「このままでいいのだろうか」と疑問を抱くようになったといいます。

 就職活動の際には、薬剤師としては少し異色の弁理士事務所の試験を受け、見事合格。それでも、どの資格が自立した生活につながるのかを考えたとき、若子さんが選んだのは薬剤師の道でした。

 薬剤師免許を取得し、大学院で修士号を修めた後、薬局勤務を経験。そこで直面したのは、薬を渡すことが中心で、患者さんとじっくり向き合う時間がほとんどないという、日本の薬局が抱える現実でした。当時は医薬分業が進められていたものの、実際の現場では薬の準備や監査など、対物業務に多くの時間を費やす状況に、強い違和感を覚えたといいます。

 次に目を向けたのは海外でした。留学経験があったわけではありませんが、学生時代にヨーロッパ旅行を経験しており、「もともと海外には興味があったんです」と若子さんは振り返ります。

 英語は「なんとかなる」と思いながらも、語学学校や短期留学のような“ホップ・ステップ・ジャンプ”というプロセスを経ず、日本から直接、トロント大学の外国人薬剤師向けブリッジングプログラムに入り、カナダの薬剤師国家試験の受験に備えました。

 当時はインターネットこそありましたが、今のように情報が充実していたわけではありません。ホームステイも語学学校も経ずに、いきなりカナダでの生活を始めるのは容易なことではなかったでしょう。それでも若子さんは、常に逆算思考で行動します。「カナダで薬剤師として働くにはライセンスが必要。ライセンスを取るためには試験があり、そのための勉強がある」。必要なステップを順に整理し、着実に準備を進めていきました。

 特にOSCE(実技試験)では、まず薬学英会話を重点的に磨き、その他の課題は後回しにすることで突破。常に合理的な戦略が功を奏しました。文化の違いに戸惑うことはほとんどなかったそうですが、これは単なる要領の良さではなく、柔軟に生き抜ける順応力の賜物だと思います。

 カナダでの最初の職場は、ビクトリアにあるPure Pharmacyの小さな薬局。その後、London Drugs、Rexall、Walmart(いずれもビクトリア市内)を経て、現在はPharmasave Westside Villageでマネージャーとして勤務しています。

 マネージャーとして一番大変なのは、リーダーシップとのこと。チームにはインド系・中東系など多様なバックグラウンドのスタッフが在籍し、労働倫理や時間感覚も人それぞれ。「みんなが同じ方向を向いて動いてくれるようにするのが、一番の課題です」。とはいえ、大きなトラブルはなし。「考え方が違うからこそ学びがあるんです」と、若子さんは前向きに語ります。

 「以前勤務した薬局で課されたメディケーションレビューの件数のノルマも苦手で」と苦笑する若子さん。しかも、メディケーションレビューの価値は、これまで考えられてきたよりも低いのではないか、そして今後は報酬体系の見直しが必要になるだろうと冷静に分析。現場を見つめるまなざしは、常に現実的です。

 一方で、ワクチン接種や薬剤師による処方(Minor Ailment)など、カナダの臨床薬剤師ならではの仕事にはやりがいを感じているそうです。職能の範囲には限界もありますが、必要に応じてドクターへの紹介も行います。「まだシステムとしては粗い部分もありますが、十分に患者さんの役には立っています」と話してくれました。

 若子さんと話していると、常に先見の明を感じます。今後、AI(人工知能)が薬局業務にどのように取り入れられていくのかを尋ねてみました。

 「AIが薬局業務に入ってきたとき、思考プロセスが言語化されやすくなると思います。でも、AIで置き換えられない部分はたくさんあります。特に『どうやって患者さんに薬剤師に相談してもらうか』という誘導は、人間にしかできません。人の流れをどう作るか。それを考えるのが、これからの薬剤師の仕事です。とのこと。若子さんは、AIと人の共存を見据えています。

 現在の薬局では臨床業務にやりがいを感じつつ、10年後にはリタイアしてパートタイムで働きたいと話す若子さん。プライベートでは料理好きで、「食を通じて社会に貢献したい」との思いも。日本では医食同源という言葉をよく使い、栄養バランスの取れた食事の重要性を伝えていましたが、カナダでは食育という文化はまだあまり根付いていません。その分野に自分の知識を生かしたいと語ります。

 また旅行も大好きで、これまでシンガポール、中国、タイ、メキシコ、そして日本への里帰りも欠かしません。異国で文化の違いに触れることを大切にしながら、明晰な頭脳で未来を見据え、ライフワークバランスを大切にする若子さん。料理と穏やかな暮らしを愛するその姿は、どこかカナダという国の気質にぴったりと感じられました。

 読者の皆さま、そしてこのコラムにご登場くださった薬剤師の皆さん、2025年も大変お世話になりました。どうぞご自愛のうえ、楽しいクリスマスと素晴らしい新年をお迎えください。

*薬や薬局に関する一般的な質問・疑問等があれば、いつでも編集部にご連絡ください。編集部連絡先: contact@japancanadatoday.ca

佐藤厚(さとう・あつし)
新潟県出身。薬剤師(日本・カナダ)。 2008年よりLondon Drugsで薬局薬剤師。国際渡航医学会の医療職認定を取得し、トラベルクリニック担当。 糖尿病指導士。禁煙指導士。現在、UBCのFlex PharmDプログラムの学生として、学位取得に励む日々を送っている。 趣味はテニスとスキー(腰痛と要相談)

お薬についての質問や相談はこちらからお願い致します。https://forms.gle/Y4GtmkXQJ8vKB4MHA

全ての「また お薬の時間ですよ」はこちらからご覧いただけます。前身の「お薬の時間ですよ」はこちらから。

35 ☆「忙しい」は厄介なり

日本語教師  矢野修三

 早や、師走も終盤を迎え、またまた「今年も残り少なく・・・」、こんな挨拶をする時期になってしまった。まさに「光陰矢のごとし」。歳を重ねるにつれ、一年の歩みが駆け足のごとく通り過ぎていく思いを強めている。

 そして、忘年会のシーズンだが、かなり物忘れも進んでおり、あえて忘年会などする必要ない思いも強めているが、年末の風物詩であり、やらないと何となく落ち着かない。

 そこで、先ずは日本語大好きな上級者たちと年忘れ会を行なった。年の瀬の話題として「師走」や「忙しい」の語源や漢字の由来など説明しながら、とりあえず、乾杯。

 すると、T君から「忙しい」に関して厄介な質問を受けてしまった。「いそがしい」はよく使うので、分かりますが、この漢字、「せわしい」とも読むんですね。今まで聞いたことないですが、どんな違いがありますか。うーん。これは日本語教師泣かせの質問で、以前にも質問されて困った記憶がある。

 この「忙しい」だが、日本人でも、「せわしい」とはなかなか読めない。それは、「いそがしい」は常用漢字としての読み方だが、「せわしい」は常用外の読み方なので、公的な新聞などには使えず、ひらがな書きなので、あまり馴染みがないからであろう。

 もちろん、私的なメールやエッセイなどでの使用は問題ないが、送り仮名が同じであり、読み手とすれば、どっちで読むか、ややこしい。もし、「忙しい」と書いて「せわしい」と読んでもらいたい場合はルビを振るか、やはり、ひらがな書きが無難である。

 ところで、この「いそがしい」と「せわしい」の違いだが、日本人は、個人差もあろうが、何となく使い分けている。でも学校で習った記憶などなく、説明しようとすればなかなか難しく、日本語教師としてはとても厄介な言葉である。

 生徒には、なるべく簡単に、分かりやすく教えたいのだが、当方もはっきり理解しておらず、「いそがしい」は「やることが多くて時間がない」状態で、英語では「busy」であり、「せわしい」は「そわそわして落ち着きがない」状態、心で感じる忙しさなので、「restless」ぐらいかも。こんな説明が関の山である。

 でも、「心忙しい」は確かに、「心いそがしい」とは読まず、「心せわしい」であり、そのほうがぴったりする。やはり、「せわしい」は心で感じる慌ただしさを表しているのは間違いなし。

 さらに、「せわしない」が加わると、ますます厄介に。これは「せわしい」の否定形ではなく、逆に強めた感じで、話し言葉などに使われているようである。一度も使ったことないが・・・。

 このように、使い分けを説明するのは難しく、上級者には、先生もよく分からず、ごめんなさい。でも、こんなこと気にせず、日本語の奥深さを感じてくれればそれで十分ですよと、やや焦りながら、せわしなく、こんな情けない説明になってしまった。

 ここで一句 「年の瀬や せわしないから 世話しない」。 一応生徒には受けました。

 せわしくない、のんびりしたお正月をお迎えください。

「ことばの交差点」
日本語を楽しく深掘りする矢野修三さんのコラム。日常の何気ない言葉遣いをカナダから考察。日本語を学ぶ外国人の視点に日本語教師として感心しながら日本語を共に学びます。第1回からのコラムはこちら

矢野修三(やの・しゅうぞう)
1994年 バンクーバーに家族で移住(50歳)
YANO Academy(日本語学校)開校
2020年 教室を閉じる(26年間)
現在はオンライン講座を開講中(日本からも可)
・日本語教師養成講座(卒業生2900名)
・外から見る日本語講座(目からうろこの日本語)    
メール:yano94canada@gmail.com
ホームページ:https://yanoacademy.ca

日本語教師として37年、81歳になって
初めて、平仮名「あいうえお」の
素晴らしさ、奥深さを悟りましたよ。

愛情、いっぱいで、生まれ
あ  い     う

笑顔で、終える。
え   お

素晴らしきかな「あいうえお」

お正月イベント

日時:2026年1月3日(土)11:00-15:00

場所:日系文化センター・博物館 6688 Southoaks Crescent, Burnaby, BC

入場無料

家族や友達と一緒に、楽しい新年の思い出を作りましょう!

新年の抱負や願い事を筆に込める「書初め」をはじめ、日本のお正月文化を存分に体験できるイベントです。

書初め
新年の抱負や願い事を筆で書き、一年のスタートを切ります。

獅子舞(ししまい)
邪気を払い、福をもたらすと言われる迫力ある獅子舞の演舞をお楽しみいただけます。

ゲーム
将棋、囲碁、かるた、花札など、世代を超えて楽しめる日本の伝統的なゲームを用意しています。

フラダンスの体験ワークショップも自由にご参加ください。

飲食ブース
温かいおでん、大福もち、おにぎりとお味噌汁、沖縄そば、Japadogなど、軽食や飲み物をご用意しています。

大阪・関西万博カナダ館代表ローリー・ピーターズさんインタビュー「カナダの誇りを日本の人たちに示せた」

カナダ館のローリー・ピーターズ政府代表。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
カナダ館のローリー・ピーターズ政府代表。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 大阪湾の人工島・夢洲(ゆめしま、大阪市此花区)で4月13日に開幕した大阪・関西万博が10月13日に幕を閉じた。カナダ政府はカナダパビリオン(カナダ館)を出展。「再生」をコンセプトとして拡張現実(AR)を通じてカナダの魅力を発信した。

 閉幕まであと1週間となった10月7日にカナダ館で政府代表ローリー・ピーターズさんに話を聞いた。

カナダ館への来場者の反応について

カナダ館の前にある大きな「CANADA」の前で記念撮影。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
カナダ館の前にある大きな「CANADA」の前で記念撮影。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 「私はこのプロジェクトをこれまで2年半から3年にわたって率いてきた代表ですので、少し偏った見方になるかもしれません。でも、万博の終わりというのは振り返りの時期です。そして、実際に全てが終わった後にはさらに深く振り返ることになるでしょう。というのも、今はまだ真っ只中で、毎日何千人もの来場者を迎えているだけでなく、6カ月間にわたる非常に忙しいスケジュールのプログラムやイベントをまだ終えていないからです。

 この万博がいかに成功したか、そしてカナダがこの万博でいかに成功したかを示す良い例や実例がたくさんあります。パートナーへのインタビューや来場者へのアンケート、さらにはいくつかの賞の受賞を通じて、カナダにとってこの万博がどれほど成果のあるものだったかを裏付けることができました。

 1970年(大阪万博)は大阪や日本にとってだけでなく、カナダにとっても大きな節目でした。というのも、カナダは1967年のモントリオール万博で世界を驚かせたばかりで、1970年の大阪万博では非常に目立つ場所とスペースを与えられました。カナダへの期待と関心は非常に高く、それに応えることができました。1970年には、ソ連(現ロシア)に次いで2番目に多く訪問されたパビリオンとなり、当時のカナダの人口を上回る来場者数だったと理解しています。

 しかし、それはカナダの象徴的なイメージ以上のものを発見することが目的でした。そしてそれは、私がカナダ館で役割を担った2005年の愛知万博でも目指したことです。その後も、1985年のつくば、沖縄、そして今回の2025年と、いくつかの専門万博で比較対象があり、一般的に言ってカナダは常に人気のあるパビリオンの一つです。人々はカナダを好み、カナダと日本の関係は常に人と人とのつながりに基づいて築かれてきました。

 カナダで学んだことがある人、住んだことがある人、ワーキングホリデーで滞在した人など、カナダと再びつながりたいと思っている人も多くいます。そしてそれは、2025年の今回にも当てはまります。来場者のレビューは非常に好意的です。

 拡張現実を通じたカナダ横断の詩的な旅に感動していただいていますし、テクノロジーや「ミステリーハンター」の体験にも同様に感銘を受けていただいています。そして、現地でホスティングスタッフとして活躍するカナダ人との交流にも感動されています。

出口手前の秋のカナダと赤毛のアン。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
出口手前の秋のカナダと赤毛のアン。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 さらに、プーティンショップでカナダの味を少し体験することも新鮮でおもしろく、多くの人を引きつけています。そして、来場者のフィードバックでは、他のパビリオンとの比較や対比を通じて、カナダを訪れてみたい、再訪したい、カナダで学びたい、あるいはカナダについてもっと前向きに、もっと現代的な視点で考えてみたいというインスピレーションを受けたという声が多く寄せられています。カナダの象徴的なイメージだけではない、新たな視点での関心が生まれています」

カナダから政府関係者も多く来場、カナダと日本をつなぐ場として

 「万博はグローバルなプラットフォームですが、近年では来場者のほとんどが開催国からの方々で、今回も92%以上が日本からの来場者だと聞いています。ですから、パビリオンやプログラムを設計する際には、例えばドバイ(万博)のように多様な通過者が訪れる場所よりも、日本での開催の方が少しやりやすい面があります。ドバイでは人口構成が非常に多様で、設計の難易度も異なります。今回の万博は、日加の2国間関係を強化し、カナダと日本のつながりを再確認することが主な目的ですが、同時にインド太平洋地域、つまり近隣地域におけるカナダの存在を広げるという視点も取り入れています。

 カナダのインド太平洋戦略をご存じかもしれませんが、この万博はその戦略の初期段階における象徴的な取り組みとして位置づけられています。ですから、今回の参加は日本の来場者、日本の関係者、日本企業、日本政府関係者とのつながりを築くことが中心であり、カナダの各州や準州もこの機会を活用したいと考えていました。このプロジェクトはカナダ外務省(Global Affairs Canada)と、国際貿易担当大臣および外務大臣の管轄のもとで推進されています。

パビリオン外側にあるステージ。多くのイベントがここで開催された。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
パビリオン外側にあるステージ。多くのイベントがここで開催された。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 私たちはこのプロジェクトを企画し、舞台を整えました。東京のカナダ大使館とも密接に連携し、彼らの優先事項が私たちの優先事項にもなるよう調整しました。いわば「テーブルを整え」、各州や準州、さらには姉妹都市などがこの空間を活用し、ネットワーク、交流や新たなパートナーシップ、友情の芽生えを促進できるようにしたのです。BC(ブリティッシュ・コロンビア)州のイービー州首相が率いる代表団は「BCウィーク」と呼ばれる1週間を担当し、イベントやアクティビティを展開しました。毎朝「太平洋を越えた健康体操」として、BC版ラジオ体操を行い、BC産ブルーベリースムージーも提供しました。また、地下のコラボレーションスペースでは重要なビジネス交流や会合も行われました。

 パビリオンでは、来場者にすばらしい体験を提供することはもちろんですが、同時に会議やビジネス、コラボレーションのための空間も設けており、学校や大学の学生グループ、各州・準州のビジネス代表団を招いています。

 産業界からも参加があり、エア・カナダは関係者向けのイベントを開催し、カナダのビーフ業界、ポーク業界や農業省もこの6カ月間のプラットフォームを活用しています。つまり、今回の万博は、人と人との交流やパブリック・ディプロマシー(公共外交)だけでなく、経済外交やカナダの豊かな地域的多様性の発信という側面も兼ね備えた取り組みとなっています。

 6カ月間にわたって開催されるという点で、期間・規模・スコープの面で世界に類を見ないイベントです。まさに「国家ブランディングの最高峰のプラットフォーム」とされており、一部では「国家ブランディングのオリンピック」と呼ばれることもあります。それほどまでに、各国が自国の魅力を発信する場として重要視されているのです」

カナダのテーマ、ジェンダー平等、多様性も再現

 「今回の万博の全体的なテーマは、持続可能な開発目標(SDGs)に焦点を当てています。というのも、2030年まであと5年しかなく、2030年は国連が定めたSDGsの達成期限だからです。そこで、「未来の持続可能な社会のデザイン」がテーマに選ばれました。そして、サブテーマとして「Saving Lives(いのちを救う)」「Empowering Lives(いのちに力を与える)」「Connecting Lives(いのちをつなぐ)」の3つが設定され、夢洲の万博会場もそれぞれのサブテーマに対応する3つのゾーンに分けられています。カナダ館は、「Empowering Lives(いのちに力を与える)」ゾーンに位置しており、フランス語訳では「inspiring lives(いのちを鼓舞する)」となっています。

 各参加国には、どのSDGsに焦点を当てるかを示すよう求められ、また、万博のテーマを反映する独自のテーマを設定するよう求められました。私たちは1970年の大阪万博を振り返り、当時のテーマ「発見(Discover Canada)」を思い出しました。最初は「再発見(Rediscovery)」も考えましたが、十分に意味があるとは感じられず、日本語・英語・フランス語のいずれにも通じる言葉を探した結果、「再生(Saisei)」というテーマにたどり着きました。

 「再生」には多層的な意味があり、たとえばVCRの「再生」のように1970年やそれ以前への巻き戻しという意味もありますし、再誕・再構築という意味もあります。私たちは過去から学び、それを土台にしながら、次世代を鼓舞することに焦点を当てたいと考えました。つまり、前の世代から何を学び、次の世代に何を託すか。SDGsの達成は、まさに次世代の手に委ねられているのです。

 そして、カナダの強みとは何かを考えたとき、多様性と創造性は間違いなくその一つです。社会的イノベーションや、世界を映し出す力もまたカナダの強みです。もちろん完璧ではなく、進行中の取り組みではありますが、特に現在のように包摂性や多様性が世界的に試されている時代において、カナダがそれをどれほどうまく実践しているかを示す絶好の機会となりました。

 ジェンダー平等もまた、私たちが強く打ち出したい価値の一つです。私自身がコミッショナー・ジェネラル(代表)を務めていることも注目される点です。万博のコミッショナー・ジェネラル(CG)やパビリオンのディレクターに女性が就任する例は増えてきていますが、まだ十分ではありません。今回、女性の建築家が設計を担当し、日本の施工チームも女性が中心となっていました。現場の施工管理者やプロジェクトマネージャーも女性で、クリエイティブチームには女性や先住民のアドバイザーも加わっています。文化プログラムでは、出演者の半数以上が女性であり、料理チームもジェンダーバランスが取れていて、(カナダの)全国の調理学校から集まっています。これらは全て、カナダがジェンダー平等と多様性を体現する社会であることを意図的に示すための取り組みです。

カナダ館の前にある大きな「CANADA」の前で記念撮影。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 この多様性の考え方は、時にさりげない形で表れますが、先週末のパフォーマンスはまさにその好例でした。130人以上のアーティストがカナダ全国から集まり、音楽やダンスのパフォーマンスを披露しました。

 その中で、ケリー・バド(Kelly Bado)というアーティストが出演しました。彼女はコートジボワール出身で、現在はマニトバ州ウィニペグに住んでいます。彼女のバンドメンバー2人は、フランス語を話すメティス(先住民)です。彼女たちは英語とフランス語で歌い、観客は「彼女はコートジボワール出身と言っているけれど、ここはカナダ館だ」と思いながら、肌の色を忘れてただ音楽を楽しんでいました。それはまさに「これがカナダだ」と感じさせるすばらしい実例でした。

 展示でも、地域の多様性が表現されています。州ごとではなく、地域ごとに構成されており、それぞれが融合しながらも独自の特徴を持っています。文化的な多様性も重要なメッセージですし、LGBTQ+への支援も示しています。カナダ国旗と並んでプライド旗を掲げ、「真実と和解」の旗も掲げました。

 先住民週間も設け、北海道のアイヌコミュニティ、ニュージーランドのマオリ、オーストラリアの先住民と連携しました。カナダがこの万博で高い人気と注目を集めているからこそ、私たちの強みを共有する絶好の機会となったのです」

最も印象に残っていることは?

 「印象的な出来事が毎日のようにあって、どれもすばらしいです。

 例えば昨日(10月6日)は2つのイベントがありました。一つはケベック州と関西・大阪の企業とのランチミーティングでした。6月にケベック州と大阪との間で覚書(MOU)を締結したのですが、通常、万博はビジネス契約の場ではありません。でも、パートナーシップの可能性を示すには絶好の機会です。今回は実際にそのMOUを実現させる場を設けることができました。MOUはただの署名で終わってしまうこともありますが、私たちはそれを「MODo(行動に移す覚書)」にしたかったんです。

 そして昨日、わずか3カ月でその第一歩となる交流が実現しました。企業同士が集まり、協業の可能性について話し合いました。ランチは若手の料理チームがケベック産の食材を使って準備し、日本でも購入できる商品を紹介しました。

 料理やワインの魅力も発信しました。昨日はBC州のオカナガン産ワインも提供しました。人と人をつなぐ場になったと思います。

 午後には、日本のパートナーとの連携を模索する活動もありました。会場には9つのテーマ館があり、そのひとつが河瀨直美監督の館(https://expo2025-inochinoakashi.com/)です。彼女はカンヌのパルムドール受賞監督で、「なら国際映画祭」のディレクターでもあります。以前から若手映画作家の育成プログラムについて話していて、私たちも若者の支援を重視しているので「何か一緒にやりましょう」と提案しました。そして昨日の午後、準備期間はほとんどなかったのですが、万博最終週に、地下の会議室で3本の映画を上映しました。一般の方やホスティングスタッフが参加し、「再生」の力を別の形で体感する機会となりました。

 そして、私にとってのハイライトは、万博開幕前日の4月12日です。開幕前に約70人のカナダ人と日本人が集まりました。1970年の大阪万博や1985年のつくば万博でホスティングスタッフを務めた方々です。実際の元スタッフは38〜39人で、家族や孫も同行していました。40年ぶりに再会する方もいて、感動的でした。

 東京のカナダ大使イアン・マッケイも、つくば万博の元ホスティングスタッフです。今回のホスティングスタッフプログラムのコーディネーターは、1985年当時の彼の同僚でした。この再会は2年半かけて準備されたもので、1970年のカナダ館の日本人スタッフも数人参加しました。

 ただの同窓会ではなく、新しいホスティングスタッフへの知識の継承の場でもありました。翌日から6カ月間の来場者対応に備える彼らに向けて、ティータイムを設けて交流しました。涙あり、音楽あり、笑いありの時間で、「再生」の象徴のような瞬間でした。

 他にも、カナダのナショナルデーも印象深いです。全国からアーティストを招き、伝統的なパンケーキ・ブレックファストを開催しました。あいにくの雨でしたが、私は「雨女」なんです(笑)、正午には晴れて、フェイスペインティングや音楽、パンケーキなど、カナダらしいお祝いムードに包まれました。

 各国がパレードを行うのですが、カナダはホスティングスタッフや運転手、清掃スタッフが旗を持って音楽に合わせて歌いながら行進しました。派手ではないけれど、楽しくて、誰でも参加できるカナダらしいパレードでした。

カナダ館から見る大屋根リング。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
カナダ館から見る大屋根リング。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 本当に、挙げきれないほどの思い出があります。日本での反応も非常に好意的で、来場者の皆さんに喜んでいただけてうれしいです。カナダからの来場者も予想以上に多く、特に開幕当初は驚きましたが、その後も続いています。

 通常、万博では自国民が最も厳しい批評家になるものですが、今回は「自分の国がこんなにすばらしく表現されている」と誇りに思ってくれる方ばかりでした。展示やプレゼンテーションに自分自身を重ねて見ていて、技術や創造性、多面的な表現に感動していました。

 このプロジェクトに関わったカナダの市民や納税者の皆さんが「自分たちがきちんと代表されている」と感じてくれたことが、私たちにとって何よりもうれしいことです。本当に、素晴らしい経験でした」

日本で開催された万博全てに参加してきたカナダ

 カナダが初めて日本の万博に参加したのは1970年に開催されたアジア初の万博「大阪万博」。「発見(Discovery)」をテーマにしたカナダ館の入場者数は2500万人以上で、当時のカナダの人口を超えていたという。最も人気のパビリオンの一つとして人々の記憶に刻まれている。

 その後も1975年沖縄国際海洋博(沖縄県)、1985年科学万博つくば(茨木県)、1990年大阪国際花と緑の博覧会(大阪府)、2005年愛・地球博(愛知県)に参加。地球博では約300万人が来館した。

 大阪・関西万博は10月14日に来場者数を発表。約2900万人(関係者340万人を含む)が訪れた。各パビリオンの公式な来館者数は発表されていないが、カナダ館は満足度の高い人気パビリオンとして報道各社が紹介している。

 10月12日には、The Bureau International des Expositions(BIE)によるBIEデー表彰式が行われ、「大阪・関西万博 2025 公式参加者アワード」を発表。カナダ館は、Exhibition Design部門独自パビリオン出展「タイプA」(1,500㎡以上)で、金賞中国、銀賞インドネシアに次ぐ銅賞を獲得した。BIEは、3週間を超えて開催される非商業的性格を持つ全ての国際博覧会(「万博」)を監督・規制する責任を持つ政府間機関。

 カナダ館は、川の氷が春に解けるときに氷の破片が集まって流れをせき止める自然現象「水路氷結」に由来する氷をイメージした外観と、氷が砕けて冬の終わりと春の訪れを告げ、川の水が解放されて流れ出し、大地の再生が始まりを表した床のデザインが美しいカナダを表している。

https://www.canadaexpo2025.ca/ja-jp

大屋根リングから見たカナダ館。「再生」をテーマにした美しいデザインのパビリオン。左の列は館内への入り口、右の列はプーティンなどが楽しめるレストランへの入り口。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
大屋根リングから見たカナダ館。「再生」をテーマにした美しいデザインのパビリオン。左の列は館内への入り口、右の列はプーティンなどが楽しめるレストランへの入り口。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

(取材 三島直美)

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岡田誠司氏インタビュー「40年の外交官時代を振り返り次世代に伝える」

スライドや写真を使って話す岡田誠司氏。2025年8月7日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/バンクーバー日本商工会
スライドや写真を使って話す岡田誠司氏。2025年8月7日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/バンクーバー日本商工会

 筑波大学大学院で客員教授として教壇に立つ岡田誠司氏。在バンクーバー日本国総領事として2013年から3年間、バンクーバーに滞在。在留邦人だけでなく日系カナダ人のコミュニティとも広く交流し、外交官という仕事を超えて親交を深めた。

 8月6日、バンクーバー日本商工会(懇話会)主催の講演会を前にバンクーバー市で話を聞いた。

42年間の外交官生活を振り返り、次世代に伝えられること

 岡田氏は1981年に外務省に入省。2013年から16年まで在バンクーバー日本国総領事、その後、在南スーダン日本国大使や在バチカン日本国大使を歴任。2023年に退職。現在は茨木県つくば市在住。明治大学経営企画担当常勤理事も務めている。

インタビューに応じる岡田誠司氏。2025年8月7日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/バンクーバー日本商工会
インタビューに応じる岡田誠司氏。2025年8月7日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/バンクーバー日本商工会

 「4月から筑波大学大学院で教え始めて、クラスに30人いますが、23人が外国人留学生で、日本人の学生は7人。だから本当にインターナショナルで色々な国の学生がいます。

 何をしているかというと要するに国際関係なんですが、国際関係の中でも実際の外交というのはどういう風に動いているのかという話をしています。私は日本の外交官でしたから、日本での話を中心にして、外交というのはどういう風に各国と行われているのかなどを話しています。

 大学で教えたいと思ったきっかけは、1981年から2023年まで42年間外務省にいたわけですが、その間にずっと色々な国を回って外交の仕事に携わってきたことを思い返すと、自分がいた42年の間に世界は良くなったんだろうかと振り返ってみて、実は必ずしもそうは言えない。むしろこれからの世界情勢というのは非常に心配ごとがたくさんある。

 そうすると自分は42年なり外交に携わってきたのですが、外交は1人でやるわけではないですが、結果として世の中が必ずしも良くなっていないということに対する思いはあります。

 そうであれば、それを次の世代を担う人たちに『何が良かったのか、何が良くなかったのか?』ということをきちんと伝えていかなくてはいけないかなという思いがあって大学で教えています」

「法の支配」が世界的に揺らいでいる

 バンクーバー総領事館の前任地はアフガニスタンで、中近東情勢にも詳しい岡田さんに現在の中近東を含む世界情勢について聞いた。

 「非常に懸念すべき材料がたくさんあって抽象的に大きな話で言うと、国際情勢を動かしていく基本的なルールがあるわけです。少なくとも自分が外務省に入って、ずっと日本は、今もそうですが、外交を動かしていく時の基本的なルールを守っています。

 それは、第2次世界大戦の反省に立って作られた色々なシステム、抽象的に言うと「“Rule of Law”法の支配」と言われるものです。この「国際法」をきちんとみんなで作って、その下でみんなで共存していきましょうっていうそういう大きな目的があって、それは国連の大きな目標の1つなんです。

 日本はそういう中で経済でも政治でもいわゆるRule of Lawを非常に重要視して、外交もしているわけですが、残念ながら、それが今大きな岐路に立っているっていうことです。中東の紛争もそうですし、アメリカを中心とする色々な経済の問題もそうなんですが、要するにみんなが寄って立つところの「国際法」を遵守してやっていきましょうっていう方向から大きく外れている。それが根本的な原因だと思います」

バンクーバー総領事時代の思い出

講演中の岡田誠司氏。2025年8月7日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/バンクーバー日本商工会
講演中の岡田誠司氏。2025年8月7日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/バンクーバー日本商工会

 2014年にバンクーバー総領事館が開館125周年を迎え、岡田氏は総領事として外務省に残る公文書を調べ、歴史を振り返るフォーラム「二つの歩み」を開催した。外交文書からひも解くバンクーバーでの外交と、当時の日系カナダ人コミュニティの歴史を並べて考察するという新しい視点からのバンクーバーの日系の歴史を戦前から現代まで1年で6回シリーズとして開催した。

 「バンクーバーだからこそできたっていうのは、日系コミュニティの人たちと一緒に日系人の歴史の検証です。6回のワークショップを開きました。

 バンクーバー総領事館は1889年にオープンしています。そして最初の総領事が来てから今もそうですけど、外交として行った仕事の記録を東京に全部送るんです。それが外交資料館に残っています。それで、私は1889年に領事館ができた時からの記録をずっと見返して、総領事館は何をやってきたのかっていう話をしました。

 一方で日系コミュニティは日系コミュニティの歴史がずっと続いているわけで、それを並べてみると色々な局面で色々なことがあったことが分かります。日系コミュニティで何かが起きた時に総領事館は何をやったのか、そういう話を紹介するワークショップでした。これは私自身も非常に勉強になったし、日系コミュニティの方々も普通そういう外交文書って直接見ることはないと思うので、新しい事実というか、そういうものがたくさん見つかって、おもしろかったですね」

 今回の講演では、戦前の総領事館が日系カナダ人の人たちの問題にどのようにかかわったのかを説明。日系カナダ人の問題だからと見放すのではなく直接的ではなくても間接的に手助けしたことを紹介した。また在任中には日韓の歴史問題がバーナビー市に持ち込まれたことや、ようやくBC州から日本に向けて始まったLNG(液化天然ガス)の輸出が当時は非常に難しい問題だったことについても語った。

ブリティッシュ・コロンビア州に流れ着いた東日本大震災によるがれき漂流問題

 2011年に起きた東日本大震災は大きな問題を起こした。その一つが、地震や津波で出た大量の「がれき」が太平洋を渡り北米西海岸に到着するという問題だった。日本政府はカナダ・アメリカに清掃支援金を支払うことを発表し、カナダには100万ドルが送られた。さまざまな団体が清掃作業を行ったが、バンクーバーでは震災の募金活動のために日本人の学生が中心となって作った団体「ジャパンラブ・プロジェクト」が清掃作業でも活躍した。2013年には清掃に関する報告会が総領事公邸で行われている。

 「東日本大震災が起きて2年ぐらいたったころに、その震災のがれきが(北米)西海岸に流れ着くということで、カナダも含めて結構大きな社会問題になったんです。そこには色々な誇張された情報もたくさんあったので、それはカナダに対しては正確な情報を伝えました。『放射線汚染されたがれきが来る』みたいな心配もあったわけです。結果的にはそういうことはないですと伝えました。それでもがれきが到着するのは事実ですからカナダ側には不安があったのかもしれません。

 あの時にうれしかったのは日本人の学生が協力して、率先して自分たちで清掃活動しようとグループで清掃に行ってくれたことです。それに私と妻も一緒に(トフィーノまで)行って清掃活動をしました。行ってみると大変で。ご承知のとおり、あちら(バンクーバー島南部西海岸側)へは道路アクセスが難しいので、みんなボートでぐるっと回って行って、回収したゴミもゾディアックみたいなボートに乗せて持ってこないと持ってこれない。結構大変でした」

若い世代への期待

 「先ほども言ったように国際情勢って必ずしも良くなっていないというか、むしろ流動化しています。そういう中で若い人たちにもグローバルな視点がとても大事だと思っています。そういう意味で、私は学生たちにはどんどん(海外へ)出て行って(日本の)外を見てもらう。(日本の)外を見ることは合わせて日本のこともよく分かるんです。そういう目を持って、これからのキャリアの中で生かせてもらえたらなと思っています。

 外交官として私は基本的にはどこに行っても同じようにしていました。私たちの仕事は、仕事という局面で見れば外交の基本になるのは情報です。相手の国は何を考えているのかということを正確になるべく多くの情報を得ること、合わせてこちらからの情報もきちんと発信して、日本はこういうことを考えてますよ、ということを言っているのが、外交の仕事なんです。

 そういう意味では色々な人たちに会って、色々な人たちからお話を聞いて、またこちらからも必要な情報を提供してっていうことなので、それはどこの国に行っても同じです。

 ただバンクーバーでは、いわゆる仕事という意味での日本だけではなくて、日系コミュニティの方々とか在留邦人の方々もたくさんいますし、そういう方との中で得る情報もたくさんありますから、そういう意味ではここでは本当に色々な方とお会いできて本当に楽しかったです」

バンクーバーのコミュニティに一言

 「私は2013年から16年までここに滞在させていただきましたけれども、非常にたくさんの方々とお会いできて、日加関係というお仕事上の関係だけではなくて、個人的な、友情というか、色々な方とそれが育まれたのは私にとって本当に代え難い場所でした。

 私たちは1つの国に3年ぐらいしかいないので、そういう関係は大体それで終わるんですけど、ここではそうではなくて、ここでできた色々な方と関係をずっと続けていけたらいいなと思っています。

 ですので私はずっと日本にいますので、日本に皆さんがお越しになることあれば日本でもまた再開して色々な話ができればと願っています」

バンクーバー総領事時代から親しくしていたブリティッシュ・コロンビア州元議員ラルストン氏(左)と岡田氏(中央)、髙橋良明バンクーバー総領事(右)。2025年8月7日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/バンクーバー日本商工会
バンクーバー総領事時代から親しくしていたブリティッシュ・コロンビア州元議員ラルストン氏(左)と岡田氏(中央)、髙橋良明バンクーバー総領事(右)。2025年8月7日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/バンクーバー日本商工会

(取材 三島直美)

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高丘選手、バンクーバー・ホワイトキャップスと再契約

試合後にファンと一緒に喜ぶ選手たち、高丘も笑顔を見せる。FCダラス戦。2025年10月26日、BCプレース。Photo by Saito Koichi/Japan Canada Today
試合後にファンと一緒に喜ぶ選手たち、高丘も笑顔を見せる。FCダラス戦。2025年10月26日、BCプレース。Photo by Saito Koichi/Japan Canada Today

 MLSバンクーバー・ホワイトキャップスFCは12月18日、GK髙丘陽平(29)選手との契約延長を発表した。スポーティングディレクターのアクセル・シュスター氏は「ヨウヘイは加入以来クラブの中心的存在となり、リーグ屈指のゴールキーパーであることを証明してきた。ピッチ内外で模範的なプロフェッショナルであり、再び彼を迎えられることをうれしく思う」と声明で語った。

 髙丘選手は2023年にJリーグの横浜F・マリノスから加入。以降、通算129試合に先発し、MLSに昇格して以降ではクラブ2位となる35クリーンシートを記録。2025年シーズンは45試合に先発出場し、クラブ新記録となる16クリーンシートを達成。レギュラーシーズンではリーグタイの18勝、うちリーグ最多の13クリーンシートの活躍を見せた。今季は日本人としてMLSオールスターに初選出され、年間最優秀GK賞のファイナリストにも名を連ねた。

 本人もクラブを通して「クラブからの愛とサポートを感じてきた。最高のシーズンはまだこれから。来年はすべてのタイトルを勝ち取りたい」と意欲を語っている。 

 2025年シーズンのホワイトキャップスは西カンファレンスで初優勝を果たし、MLSカップ決勝に進出。インテル・マイアミに敗れたものの、MLSに昇格して以降では最高のシーズンとなった。高丘選手はMLSレギュラーシーズンとプレーオフの全試合で先発出場し、守護神として活躍した。

 2026年にはFIFAワールドカップ北中米大会が6月から7月にかけて開催される。バンクーバー市も開催都市として全7試合が予定されている。高丘選手が日本代表に召集されるかにも注目が集まる。

 ホワイトキャップスとの契約は2027年6月まで。

 MLSは2027年からレギュラーシーズンの開催時期を現在の春開幕からヨーロッパに合わせる夏開催へと移行する。そのため、2027年シーズンは2月から5月までに短縮される。

(記事 三島直美)

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日本・カナダ商工会議所 恒例クリスマスランチョンを開催

2025年クリスマスランチョンにて ― 食事を楽しむ参加者の皆様(31名)
2025年クリスマスランチョンにて ― 食事を楽しむ参加者の皆様(31名)

日本・カナダ商工会議所は、2025年12月12日(金)、バンクーバー市ガスタウン地区のイタリアンレストラン Brioche Ristorante & Wine Bar において、恒例のクリスマスランチョンを開催した。当日は、会長、副会長、理事、会員、また来賓を含む会員等31名が参加した。 

2025年クリスマスランチョンにて ― 食事を楽しむ参加者の皆様(31名)
2025年クリスマスランチョンにて ― 食事を楽しむ参加者の皆様(31名)

本ランチョンは、年末にあたり会員相互の親睦を深めるとともに、日本とカナダ間のビジネス交流を一層促進することを目的として毎年開催されている。

榎本彩乃さん
榎本彩乃さん

また、本会の創立者である故・小松和子氏の功績にちなみ、日本とカナダをつなぐ活動に貢献した日本人および本会の運営に寄与した会員を表彰する「小松和子アワード」を授与する機会としても位置づけられている。

当日の司会進行は、会員でValuable Link所属の榎本彩乃氏が務めた。日本・カナダ商工会議所には日本人以外の会員も在籍していることから、進行はすべて英語で行われた。

来賓挨拶

冒頭では、来賓としてご出席いただいた髙橋良明総領事よりご挨拶があり、当地ビジネス界への本会の貢献に対する期待とともに、来年に向けた激励のお言葉が述べられた。

髙橋良明総領事
髙橋良明総領事

ゲストパフォーマンス

続いて、カナダ先住民スコーミッシュ族のDarren Yelton(ダレン・イエルトン)氏による祝いの伝統音楽パフォーマンスが披露され、会場は厳かで温かみのある雰囲気に包まれた。

ダレン・イエルトン氏
ダレン・イエルトン氏

ダレン氏はまた、彫刻家としても知られており、日本・カナダ商工会議所のプロジェクトを通じ、多くの移民を送り出した歴史を持つ和歌山県美浜町に2020年に寄贈されたトーテムポールの制作者でもある。

第5回 小松和子アワード授賞式

その後、第5回小松和子アワードの授賞発表式が行われ、3つのカテゴリーにおいて受賞者が選出され、各受賞者のこれまでの活動内容や功績が紹介された。

カテゴリー1受賞者:本間真理氏

最初の受賞者は、バンクーバー日本語学校において長年にわたり校長を務め、日本語普及に多大な貢献をされた本間真理氏で、「Lifetime Achievement賞」が贈られた。本間氏は本年ご逝去されたため、当日は娘である佐野文野様が代理で登壇し、「改めて母の偉業を理解した」と涙ながらに謝辞を述べられた。

佐野文野氏
佐野文野氏

カテゴリー2受賞者:花城正美氏

二人目の受賞者は花城正美氏。沖縄県出身の花城氏は、長年にわたり日系カナダ人コミュニティに対し、沖縄の伝統文化であるエイサーを紹介・普及してきた功績が評価された。

花城正美氏
花城正美氏

カテゴリー3受賞者:ウィットレッド太朗氏

最後の受賞者は、本会副理事であり事務局長を兼務するウィットレッド太朗氏で、日本・カナダ商工会議所への多大な貢献が称えられた。イベント運営にも積極的に取り組んでいるウィットレッド氏は、今後の会の更なる活性化と事務局機能の強化への意欲を述べた。

ウィットレッド太朗氏
ウィットレッド太朗氏

小松和子アワードの授賞発表式は、受賞者の日系コミュニティでの地道な取り組みや会への貢献が共有されることで、他の会員にとっても大きな励みとなる時間となった。

会長挨拶

続いて、サミー高橋会長より挨拶が行われ、本会のミッションである「日本とカナダをビジネス、文化、教育、観光を通じてつなぐ」という理念に基づき、本年の活動報告がなされた。姉妹都市交流(ニューウエストミンスター市と守口市、ノースバンクーバー市と千葉市、バンクーバー市と横浜市、リッチモンド市と和歌山県)に触れるとともに、今月初めに実施された旧日本人町復興プロジェクトである Vancouver Community Kintsugi Association への支援について報告があった。また、来年3月にはUBC日本人学生が運営するUBCジャパンキャリアネットワークとの協働による「ジャパンコネクト」、5月にはビジネス・スタートアップセミナーの開催が予定されていること、さらに日本・カナダ商工会議所青年部の活性化についても発表された。

サミー高橋会長
サミー高橋会長

その後、参加者はイタリアン料理を楽しみながら歓談し、終始和やかな雰囲気の中、各テーブルでは活発な交流が見られ、互いの活動に対する今後のビジョンや目標について意見交換や激励が行われるなど、有意義な交流の場となった。

食事を囲み交流を深める参加者の皆様
食事を囲み交流を深める参加者の皆様

最後にドアプライズ抽選会が行われ、約3時間にわたる会は終始和やかな雰囲気の中、盛況のうちに進行した。本ランチョン会は、会員間の結束を深めるとともに、日加間のネットワーク強化に寄与する意義深い行事となり、盛会のうちに終了した。

左から田尻理事、榎本さん、ウィットレッド理事、若林理事、鈴木理事、イエルトンさん、パトリシア名誉理事、サミー会長、マトソン理事、マトソン名誉理事
左から田尻理事、榎本さん、ウィットレッド理事、若林理事、鈴木理事、イエルトンさん、パトリシア名誉理事、サミー会長、マトソン理事、マトソン名誉理事

投稿 日本・カナダ商工会議所
文責 鈴木 香絵
撮影 吉川 英治

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「アンジェラ・ヒューイット」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第42回

はじめに

 音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、こんにちは。

 12月と言えば「しわす」。師走です。万葉集の頃からある言葉です。語源には諸説ありますが、学術的には古語の「しはす」説が有力との見方があります。漢字で書くと「為果つ」。事を終えるという意味で、一年の事が果てる月という趣旨だそうです。但し、「としはつ=年果」或いは「せわし=忙」等もあります。一般的には、「師(先生)も走るほど忙しい」が広がっていますが、後付けの説のようです。

 いずれにしても、激動の1年を締め括る12月は大変に忙しいです。日本に限らずオタワでも眼の廻る忙しさです。クリスマス前に溜まった仕事を終わらせたいという思いは、大晦日までに決着させたいという覚悟と同じで、そのような発想は洋の東西を問わないようです。

 そこで音楽です。多忙な12月に聴きたい音楽と言えば、俗世の現実とは別の次元で、心を落ち着かせ、人生は素晴らしいと感じさせてくれる調べです。音楽は、極めて個人的・主観的なものですし、人の好みは分かれるものです。が、私はヨハン・セバスチャン・バッハを聴いています。そこには、虚飾を排した音の連なりが生む、言葉を超えた美しさがあります。BWV(バッハ作品目録)で整理されている楽曲1071曲は、深遠なる音楽の宇宙です。1オクターブの中にある12個の音の順列組合せが生む無限の可能性の扉を開いたのがバッハです。1685年3月31日に神聖ローマ帝国(現代のドイツ)アイゼナハに生まれ、1750年7月28日にライプツィヒに65歳で没し、生涯ドイツから出たことがなかった男です。その後クラシック音楽のみならず、20世紀以降のハード・ロックやプログレッソ・ロック、フォーク、更にはジャズにもバッハが響いています。

 さて、前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。現代を代表するバッハ弾きについてです。世界中の名だたるピアニストでバッハをレパートリーにしない演奏家はいません。しかし、アンジェラ・ヒューイットこそが現代最高のバッハ演奏家と言って過言ではないでしょう。ヒューイットは、1958年7月オタワ生まれ。オタワの、いやカナダの誇りです。

 ということで、今回の「音楽の楽園」は、アンジェラ・ヒューイットです。

美しい音

 「速く弾いたり大きな音を出せる人はたくさんいるけれど、美しい音を出せる人はそうそういません。」

 ヒューイットが『王子ホールマガジン』とのインタビューで語った一節です。耳と心で美しい音を感じ、和音を弾く時もそれぞれの音のバランスに細心の注意を払い、ひとつ一つの音に歌わせ、トーンの質を保つことがピアノ演奏の極意だと述べています。既に膨大な録音を残していますが、1986年にドイツ・グラモフォンからリリースした国際的デビュー音盤「J.S.Bach・Angela Hewitt」こそヒューイットの原点とも言える録音です。ここには、彼女が追求し続ける“美しい音”が溢れています。

神童、オタワに現る

 “美しい音”を奏でるアンジェラ・ヒューイットの来歴を辿ります。

 まず、父ゴッドフリー・ヒューイット。英国はヨークシャー出身の音楽家で、1930年、24歳の頃、カナダに移住にします。そして、オタワ中心部の連邦議会や最高裁判所の所在する一角にあるクライスト教会大聖堂の聖歌隊監督にしてオルガン奏者となります。50年間にわたりこの職にあったそうです。因みに、ここは未だオタワがバイタウンと呼ばれていた1832年に設立されたオタワで最古の由緒正しき教会です。

 母マーサは、1914年生まれのカナダ人でピアニスト兼ピアノ教師です。ゴッドフリーにオルガンを習っていたそうです。それが二人の出会いだったのでしょう。

 アンジェラ・ヒューイットは、この両親の下、1958年7月にオタワに誕生します。父52歳、母44歳の高齢出産でした。家庭内には常に音楽が流れていたそうです。2歳でおもちゃのピアノを買い与えられ、3歳になると本物のピアノで母からレッスンを受けるようになります。親に言われて嫌々練習するのでは全くなく、アンジェラの方から教えて欲しいとせがみ、毎日、ピアノに向かっていて、ピアノを弾いていない頃を憶えていない程だと云います。

 世に、“好きこそものの上手なれ”と云いますが、アンジェラは4歳にして初めて公開演奏を行います。

 この幼少期について、アンジェラは振り返ってコメントしています。「母は、私にとって最初の、そして最良の先生だった。厳しくも優しく、私に音楽の“神聖さ”を教えてくれた。」と述べています。

 そんな偉大な母ですが、アンジェラが6歳になる頃には、早くも母の重力圏を越え始めます。2週間に1度、オタワから電車とバスを乗り継ぎ5時間余をかけてトロント王立音楽院まで通い、本格的なレッスンを受けるようになります。更に、ヴァイオリンとリコーダーも学びます。音楽の奥義への探求の始まりです。

 9歳の時には、同音楽院で本格的なリサイタルを開くほどに超速の進化を遂げます。

 15歳でオタワ大学音楽学部に進学し、ジャン=ポール・セビル教授に師事。

 17歳になると、満を持して各国のピアノ・コンクールに出場するようになり、その名を北米、更に欧州へと知らしめていきます。

ショパン国際ピアノ・コンクール

 バッハ弾きとし名を成しているアンジェラですが、実は、古典派からロマン派の作品まで多彩なレパートリーを誇っています。そして、その実力は瞬く間に証明されていきます。

 コンクール出場を始めた1975年、17歳の時には、ニューヨーク州バッファローで開催されたショパン・ヤング・ピアニスト・コンクールとワシントンD.C.でのバッハ・コンクールで優勝。20歳の時、地元のCBCラジオ音楽コンクールのピアノ部門で優勝。21歳で、ロベール・カサドシュ国際ピアノ・コンクール(旧クリーブランド国際ピアノ・コンクール)で3位。

 22歳となった1980年は、まず、イタリアはミラノで開催されたディノ・チアーニ・ピアノ・コンクールで優勝します。そして、5年に1度のショパン・コンクールに出場しました。

 この年のショパン・コンクールは10回目となる節目で、センセーショナルな大会として長く語り継がれています。ベトナム人ピアニスト、ダン・タイ・ソンがアジア人で初めて優勝する一方、革新的な演奏で最有力候補と前評判の高かった天才ポゴレリチは最終選考に残らず落選。彼の革新性を高く評価していたアルゲリッチは、この結果に抗議し審査員を辞任する騒動となりました。最高レベルでの音楽評価の多様性と主観性を赤裸々に示しました。4位は該当者なしで、5位に日本の海老彰子が入賞しました。実は、アンジェラはこの大会で入賞した訳ではありません。しかし、ショパン特有のテンポ感を再現しつつ旋律を“美しい音”で歌わせたアンジェラは聴衆から圧倒的な喝采を浴び、名誉賞(Honorable Mention)が与えられました。

 いよいよ、世界へ羽ばたく準備が整って来た感がありますが、もう一つの極めて重要な節目がアンジェラを待っていました。

トロント国際バッハ・ピアノ・コンクール

 1985年、アンジェラ27歳の年です。各国のピアノ・コンクールに出場し始め10年が経っていました。

 この年は、バッハ生誕300年の記念すべき特別な年でした。そこで、カナダ・バッハ協会(Canadian Bach Society/ Société Bach du Canada)が企画・主催した特別なプロジェクトが「トロント国際バッハ・コンクール(Toronto International Bach Piano Competition)」でした。カナダ・バッハ協会の狙いは、バッハ作品に関する学術的な研究を深めると同時に演奏の質の向上にありました。技巧を競うというよりも、解釈の誠実さが重視されたコンクールでした。これは、とてもアンジェラ向きだったと言われています。

 アンジェラの演奏は、現代音楽の巨匠オリヴィエ・メシアンを筆頭とする審査員団から絶賛されました。特に次の3つの点です。①バッハの構造を知悉し、各声部が明確で、対位法が『見える』と評されました。②テンポも自然で、当時はバッハが舞曲として作曲していたことを改めて想起させたのです。③装飾音も極端に触れず節度をもって楽曲を彩りました。

 要するに、アンジェラは、過度に思いが込められたロマン主義的バッハでもなければ、乾いた学術的古楽主義的バッハでもない、独自のスタイルで演奏したのです。知る人ぞ知る存在だったアンジェラがバッハ弾きとしての特別な地位を得た瞬間です。この時から30年前の1955年に、カナダ人グレン・グールドが「ゴールドベルグ変奏曲」を引っ提げて彗星の如く登場したのを思い出させます。

 そして、コンクール優勝の副賞こそ、“美しい音”の原点でもある上述のドイツ・グラモフォンへの録音でした。1986年にリリースされたこの国際的デビュー盤には、審査員が絶賛したアンジェラの3つの資質が鮮やかに刻まれています。世界がアンジェラを聴き始めたのです。

バッハ全曲録音

 閑話休題ですが、エジソンが録音・再生装置を発明する以前は、音楽が奏でられている場に行かなければ音楽を聴くことはできませんでした。しかし、現在は、スマホ等で気軽に音楽を聴くことが出来ます。演奏する側も自主録音をSNSにアップして世に問うことが出来ます。便利な時代になりました。とは云え、ピアニストに限らず音楽家が世界水準の上質の音楽を奏でて、世界のリスナーに聴かせたいと本気で考えるならば、信頼のおけるレコード会社との契約が不可欠です。

 ここで重要なのは信頼です。では、信頼とは何でしょうか?音楽家が真に納得するクオリティーの録音を確保し、会社の持つ販売網を通じてリスナーに届けると同時に、会社として持続可能な利潤をあげ、音楽家にも充分な報酬を支払うということです。会社である以上、儲けなければなりません。しかし、音楽性を犠牲にして売れれば良いという訳ではありません。一方、音楽性にこだわり過ぎてもいけません。非常に微妙なバランスで成り立っているのです。

 で、アンジェラです。1994年、英国の独立系の雄、ハイぺリオン(Hyperion)社と専属契約を結びます。ハイぺリオン社は1980年創業の独立系で、その名はギリシア神話に登場する神々の1人ヒュペリーオーン(太陽神)に由来します。クラシック音楽専門で、大会社には決して出来ない企画に果敢に取り組んでいます。アンジェラとハイペリオンは、オルガン曲を除いて200曲を超えるバッハの鍵盤楽曲の全てを録音しました。快挙です。幼少期よりバッハには特別な愛着を感じて来たアンジェラにとっては最高の夢でしょう。そんな夢を抱くピアニストは数多いると思いますが、夢を実現するためには、途方もない探求と鍛錬が不可欠です。レコード会社からすれば、バッハ全曲録音を託すことの出来るピアニストはごく僅かです。ハイペリオンとアンジェラは相思相愛でした。1994年から2018年まで、24年間をかけて、オルガンを除く、バッハの鍵盤楽曲の全曲録音を行ったのです。ゴールドベルグ変奏曲、平均律クラヴィーア曲集、インベンションとパルティータ、フランス組曲、イギリス組曲、更には協奏曲集等です。

 同時並行的に、『バッハ・オッデセイ』と銘打った企画で、バッハの鍵盤楽曲の全曲演奏を各国のライブを積み重ねて達成しました。これは2016年の日本公演から始まったそうです。日本とカナダの素晴らしい文化交流の一つと言えるでしょう。

結語

 アンジェラ・ヒューイットは当代唯一の「バッハ弾き」としての名声を得て、演奏旅行で世界を飛び回っています。「バッハ弾き」と称されることは、大変な名誉なことだとアンジェラは言っています。バッハは音楽的素養と技術を極めて高いレベルで求められるし、それ以上の音楽は考えられないとも語っています。しかし、アンジェラのディスコグラフィーを見れば、決してバッハだけではありません。スカルラッティー、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン等々本当に多岐にわたります。最近は、ピアノ独奏に加え、オーケストラとの協奏曲や室内楽にも取り組んでいます。正に、天才は多彩にして多作を地で行っています。

 最後に、アンジェラは演奏家としてだけでなく湖畔の興行主としての活動も行っています。彼女はロンドンを拠点としていますが、2002年にイタリア中部のウンブリア州トラジメノ湖畔の町マジョーネに土地を購入しました。この町には15世紀に出来た由緒ある大聖堂と庭があります。その庭に一目惚れして、2005年から、毎夏にバッハを軸とした室内楽主体の音楽祭を開催しています。湖畔の静かな雰囲気がバッハの音楽に必要な集中力と呼吸と親密な雰囲気を与えてくれると云います。勿論、アンジェラも演奏しますが、主催者として音楽祭を盛り上げています。

 自由と多様性と包摂性がカナダの美徳です。オタワで生まれ育った神童が世界で大活躍しています。カナダ贔屓としては嬉しい限りです。上述のバッハ鍵盤全曲録音は、CD27枚組のボックス盤として遂に完成し、2026年1月にお目見えする予定です。待ち遠しいです。更に、その先にどんな音楽の桃源郷を見せてくれるのか、本当に楽しみです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

『影の帰還』の出版―The Return of a Shadowの日本語版―

The Return of a Shadowの日本語版『影の帰還』山岸邦夫著
The Return of a Shadowの日本語版『影の帰還』山岸邦夫著

物語の主人公、長田栄造は日本に残してきた家族にカナダから送金を続けてきたが、第二次世界大戦中に強制収容所へ送られ、自ら下した決断に苛まれながら余生を過ごすことになる。

本書『影の帰還』は日本とカナダをまたぐ主人公の感情の揺れを辿り、カナダの強制収容所の現実から、日本に残した家族の沈黙までの苦難な旅を飽くことなく描写してゆく。43年間会わなかったために栄造は家族にとって影であるが、妻の断片化した記憶と離反した子供たちの顔に向き合いながら、彼は義務感と家族への帰属への渇望との折り合いを探し求める長い旅路につく。

原典の英語版の著者は流れるような文体と深い歴史的共感をもって、アイデンティティ、離別、犠牲の代償というテーマを追求してゆく。これは二つの世界に挟まれ、最も偉大な旅とは自分自身への帰還であることを学ぶ男の優しくも胸が締めつけられる物語である。

英語版の原典は2018年に英国の出版社から刊行され、翌2019年に同国の国際文学賞、 Rubery International Book Award、の最終選考に残った作品。また同書は、トロント大学 、ブリティッシュ・コロンビア大学、 ヴィクトリア大学、および サイモン・フレイザー大学の各図書館が「貴重文献及び特別蒐集品」部門(大学により若干呼称が異なる)における永久所蔵版でもある。

『影の帰還』(山岸邦夫著)と題するこの訳本は、日本における北米文学の権威である上岡伸雄学習院大学教授による翻訳で、彩流社(東京)が今年刊行した。

カナダからはamazon.co.jp を通して購入可。

(寄稿 山岸邦夫)

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ひょうたんアーティストあらぽんさん、バンクーバーで展示会

作品を持つあらぽんさん。展示会場で。2025年9月1日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
作品を持つあらぽんさん。展示会場で。2025年9月1日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 ひょうたんアーティストとして活動しているあらぽんさんが今年9月にバンクーバーで展示会を開催した。会場はバンクーバー・ダウンタウンのアート展示スペース。5人での共同開催となったが、昨年11月の初訪問時に語っていたカナダでの展示会を1年たたないうちに実現した。

 一つひとつ夢を叶えていくあらぽんさんに展示会場で話を聞いた。

カナダでの展示に向けて日本で準備

 日本ではカナダでの展示会開催を前提に作品に取り組んでいたという。「カナダっぽい作品や、カナダをイメージする作品を作っていました」。テーマはカナダの自然。昨年バンクーバーを訪れた時のイメージや人から聞いたことを基に作品のイメージを作り上げていった。

バンクーバー市で人気のスタンレーパークをイメージして作った作品「Stanley Park」。2025年9月1日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
バンクーバー市で人気のスタンレーパークをイメージして作った作品「Stanley Park」。2025年9月1日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 「カナダの人って森とか海とか自然を大切にするという印象があって、海や森をテーマに多く作りました。それ以外では、カナダの人が好きそうな日本の柄で、今回は初めて和紙と絵具を混合して作ったんです」

 普段の作品では和紙と絵具を合わせて作るということはないという。「新しい挑戦でしたね」。ヒントは昨年のバンクーバーでのワークショップ。参加した子どもたちが、和紙の上から色を塗っていたのを見て、「もともと色が付いている和紙に色を付けるという発想は僕にはなかったのでアートでも使えるな」と昨年のインタビューで語っていた。

和紙とマーブリングを融合させた作品。2025年9月1日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
和紙とマーブリングを融合させた作品。2025年9月1日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 今回は「マーブリングした後に和紙で装飾した作品を作ってみました」と説明する。これまでのこだわりを捨て、なにか新しいものと考えた時に「混ぜちゃえばいいんだって。これでカナダの人で和が好きな人にも、マーブリングが好きな人にも、どっちにも刺さるかなって」。作品として上手くできたと自負する。

 そうして作った約20点を展示販売。展示会開催をドキドキしながら迎えた。

「自分のアートを選んで買ってくれたのはすごくうれしい」

 9月1日の展示会の前日、バンクーバーで開催されていた台湾フェスティバルでも販売を試みた。次の日の本番前の前哨戦だ。しかし「洗礼的な雰囲気でした。ヤバいこれ、みたいな。3時間で販売ゼロみたいな感じで、超心が折れまくってました」。

 そうして迎えた当日。「昨日の今日でもう大丈夫かなって、不安でした」。しかしふたを開けてみると「入場前からお客さんが待ってくれていて。今日はずっと人がいっぱい入っている状態で。皆さんの協力に感謝です」とうれしそうだ。今回もGifts and Thingsオーナー佐藤広樹さんやスタッフ、日本カナダ商工会議所がサポートした。

展示会場の様子。多くの人が作品を鑑賞していた。2025年9月1日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
展示会場の様子。多くの人が作品を鑑賞していた。2025年9月1日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 口コミで多くの人が来てくれたようだと話す。「人から教えてもらってきたよって人が多かったみたいです。『楽しかったよって言われたから来ました』とか言ってもらって」。展示会は1日のみの開催。「午前中に来た人が友達に伝えて、こうして(夕方に)来てくれているみたいで。本当にうれしいですね」と笑顔が弾けた。

 インタビュー中にも購入者が話をしたいからということで中断するほど。絵を買った人の中にはカナダの人も多かったという。

ひょうたんに込めた思い

 今回の展示から始めたというのが「メッセージボトル・シリーズ」。作品の中のひょうたんを海岸に流れ着いた「メッセージボトル」に見立て、「気持ちはいつか誰かに伝わるよって意味を込めています」と語る。

バンクーバーのガスタウンをイメージした作品。2025年9月1日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
バンクーバーのガスタウンをイメージした作品。2025年9月1日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 「海に来ている時って、10人いたら10通りの気持ちで来ていると思うんです。楽しい、うれしい、悲しいとか。その気持ちによって海の見え方も違っていると思います。ひょうたんは海に流れ着いたメッセージボトルをイメージしていて、それぞれ色々な気持ちで海に来ていると思うけど、メッセージボトルが海岸に届くように、うれしい気持ちも、悲しい気持ちも、いつかは誰かに届くよって」。

 そうして気持ちを込めて創作した作品を買ってくれる人がいるのは「むちゃくちゃうれしい」という。

 「色々なアートがある中で、自分のアートを選んでくれて、買ってくれて、それで飾って毎日見てくれるわけじゃないですか。自分の絵を見てそういう感覚になってくれたのはめちゃくちゃうれしいです。自分が思っていることが伝わっているんだなって、感じますね」

次はカナダで個展を

 昨年バンクーバーでワークショップを開いた時には次の目標は「カナダで個展を開く」だった。今回はクラウドファンディングを立ち上げて展示のための資金を集めたが目標額には少し足りなかったという。それでも個展とはならなかったが、展示会は実現できた。次はバンクーバーで個展を開きたいと話す。

 そしてもう一つ、自分の作品を評価してもらえるコンテストのようなイベントに出店したいという。それが何なのかはまだぼんやりとしか見えていないが、「こんな作品を作っている日本人がいるぞって分かるようなことを何かやってみたいなと思います」と語った。

 作品はいまも自身で育てたひょうたんを使っている。今年は夏が暑くひょうたんの出来にも影響したということだが、秋に収穫したひょうたんが来年の作品になるという。

 これまでひょうたんが縁でさまざまな夢を実現してきたあらぽんさん。次の目標に向けて、さらなる1歩を踏み出しているようだ。

小さいひょうたんを使った作品。2025年9月1日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
小さいひょうたんを使った作品。2025年9月1日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

(取材 三島直美)

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日系餅つき

2025年12月29日 (月)

11:00 – 15:00

入場無料

場所:日系文化センター・博物館(バーナビー)6688 Southoask Crescent, Burnaby, BC

年末恒例の伝統行事にぜひご家族やお友達といっしょにご参加ください。

  • お餅を販売します。
    • その場で食べられるつきたてのお餅
    • お持ち帰り用の冷凍餅
  • バンクーバー日系ガーデナーズ協会による臼と杵を使った餅つきのデモンストレーションを行います。11時15分頃から。
  • 大人も子供も餅つき体験できますので、ぜひ当日にお申込みください。
  • ステージ・パフォーマンスをお楽しみください。11時:ちび太鼓、12時半:彩月会、2時:沖縄太鼓
  • お食事・おやつ・飲み物を提供するベンダーが出店します。

このイベントはバンクーバー日系ガーデナーズ協会と、NNMCC活動補助グループの協力で行われます。

ウェブサイト https://centre.nikkeiplace.org/events/mochitsuki-2025/

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