ホーム 著者 からの投稿 Naomi Mishima

Naomi Mishima

Naomi Mishima
1779 投稿 0 コメント

日系カナダ人物語「記憶を次世代へ」:堀井昭さん「差別はいつでもどこでも起きる」

Dr. Akira Horii/堀井昭さん
Dr. Akira Horii/堀井昭さん

堀井昭さん

1931年10月、ブリティッシュ・コロンビア州バンクーバー市生まれ
1942年ブリティッシュ・コロンビア州イースト・リルエットに移動、1949年にバンクーバー市に戻る
元医師、両親は和歌山県出身

日系人への差別がなかったストラスコナ小学校時代

 「子ども時代はバンクーバーで育って、当時は差別なんて知りませんでした」と話し始めた。バンクーバーに住んでいた多くの日系人がそうだったように、ホリイさんもストラスコナ小学校に通った。

 当時の小学校ではイギリス系の生徒には上流階級意識があり、中国系、イタリア系、ユダヤ系の生徒たちをそれぞれ差別的に呼んでいたという。それでも「私たちを『ジャップ』と呼んでいるのは聞いたことがなかったですね」。生徒数の約50%は日系2世だったと思うと語る。『ジャップ』とは日本人を差別的に呼ぶ言葉だ。

 当時、ヨーロッパで第2次世界大戦が始まり、イギリスで困っている子どもたちにくつ下やキルトを送るため授業では先生がくつ下の編み方やキルトの作り方を教えていたという。

 「(太平洋)戦争前はハッピーな子どもでした。差別が何かも知りませんでしたしね」

人生が一変した真珠湾攻撃

 ハッピーな子ども時代を一変させたのは1941年12月7日、日本軍によるアメリカ・ハワイ州真珠湾攻撃だった。「世界が一変しました」。同日カナダが日本に宣戦布告。「日系カナダ人にとって天地がひっくり返る出来事でした」。

 ホリイさんが10歳の時だった。なにもかも突然に起きた。「突然学校を辞めなくてはいけなくなりました。パールハーバーまでは私はストラスコナ小学校のグレード5(5年生)で、アレキサンダー通りのバンクーバー日本語学校の5年生でした」。ストラスコナ小学校に通っていた日系カナダ人の生徒約630人が去らなくてはならなかった。学校の生徒数は半分に減ったという。

 それから日系カナダ人コミュニティに起こったことを説明した。

 カナダ政府は日本に起源を持つ全ての日系カナダ人をブリティッシュ・コロンビア(BC)州沿岸から100マイル(160キロメートル)以東へ移動することを強制。家屋、自動車、ビジネス、漁船などの財産は差し押さえられた。その中にはホリイさんの父親が所有していた漁船も含まれていた。健康な18歳から45歳までの男性はロードキャンプで働くことを強いられ、BC州内のホープ・プリンストン、レベルストーク・シカモス、ブルーリバー・イエローヘッドの3カ所に送られた。ロードキャンプ行きを拒否した者は移民局の建物の中に隔離される。また、ロードキャンプで抵抗した者はオンタリオ州の捕虜収容所(Prison of War)に送られた。

 カナダ政府がBC州内に用意した収容地は10カ所。最大規模だったのはタシメグリーンウッドスローカンシティ、レモンクリーク、ポポフ、ベイファームローズベリー、ニューデンバー、サンドン、カスロー。サンドンには仏教徒が多く送られ、高い山に挟まれた谷間の街で冬の環境があまりにも劣悪なため、のちにニューデンバーに移ったと説明した。これら10カ所は「政府から補助金がでる強制収容所でした」。

 1942年1月14日にカナダ政府が日系カナダ人を「敵性外国人」とし同年2月から収容所送りを開始するも、これら10カ所の収容所は準備が間に合わず、多くがバンクーバー市のヘイスティングス・パークに集められた。尿やフンの臭いのする馬小屋での生活を強いられ、長い場合には「9月や10月頃までそこで生活していた人もいたと聞いています」。

 その他に「自分たちで生計を立てて暮らす収容地がありました」。自立型収容地で、BC州内に5カ所。イーストリルエット、ブリッジ・リバー、ミントシティ、マックギリブレイ・フォールズ。政府からの補助金は一切ないため自分たちで生活しなければならない。ただ家族一緒に移動できた。

イーストリルエットでの生活

 「私の両親は自立型収容地に行くことにしました」。鉄道でコールハーバーからスココミッシュに行き、そこからパシフィック・グレート・イースタン・レールウェイ(PGE、現在のBCレール)、で移動した。当時はスココミッシュがPGEの最南端駅だったと記憶している。乗り換えてから一晩明けるとリルエットの町に着いた。「朝、目が覚めると山に囲まれていました。『こんな所に住むのかぁ』と思いましたね。でもまあ、リルエットという小さな町で住むのも悪くないかと考え直しました」。しかし「驚いたことに」と続けて、そこからさらにトラックに乗せられて4マイル(約6.5キロ)走って着いたのはフレーザー川を渡った「イースト・リルエットという場所でした」。

East Lillooet

 父親やそこに移動してきた男性たちは春になるとタール紙を使った小屋の建設を始めた。母親はホリイさんを筆頭に5人の子どもを抱えていた。「飲み水も、電気もなくて、差別のため仕事もありませんでした」。日系人はリルエットの町に入ることすら許されていなかったという。

 それでも生活のために色々と工夫した。飲み水は購入した。生活用水はフレーザー川からの水をろ過する装置を作って賄った。食料は野菜を自分たちで栽培した。冬季でも保存できるジャガイモやタマネギ、「ゴボウも作ってましたね」と笑う。食用に鶏も飼育、卵も取れた。時には先住民からサーモンを買うこともあった。「母はサーモンを缶詰にしていました」。各家には「お風呂」も作った。こうして自立した生活を送った。

 イーストリルエットに移動してきた男性は多くが元漁師だったため、生活のためにできることが限られた。そこで「救世主となったのがハニー(メープルリッジ)で農家をしていたトクタロウ・ツユキさんでした」。ツユキさんによるとリルエット地方の気候は暑くて乾燥しているのでトマト作りに最適だという。そこで共同でトマトの栽培を始めた。収穫したトマトはニューウエストミンスターに送っていたが、そのうちに町にトマトの缶詰工場を作るとそこで加工した。「そうやって7年間生き延びました」。

 苦しい生活環境だったが、男性たちは子どものために小学校を建てた。「でも教師がいなかったので高校を卒業していた人ならだれでも小学校の先生を務めました」。ただすでに高校生だった10代の若者は高校を卒業することができなかった。移動してきた当時はリルエットの学校には行けなかったからだ。

 しかし1946年までには通えるようになっていた。ホリイさんもリルエットの高校へ通い、4マイルを自転車で通学したという。冬の寒さが厳しいリルエットで「寒い日は道路が凍っていましたし、学校に着いた頃には口も凍っていました」。

 高校に通いながら家計を助けるためにアルバイトもした。町の新聞社で働いたり、父のトマト農園や缶詰工場でも働いた。「長男が家を助けるのは当たり前でした」。

 それから高校3年になってカナダ人の友人とUBCハイスクール・コンファレンスに参加するためにバンクーバーに戻った時のこと。学校代表として行くにもかかわらず警察の許可証が必要だったという。「自分が生まれた町に行くのにRCMP(連邦警察)の許可証を取らなければなりませんでした」。BC州沿岸付近にいることすら許されなかったのだ。「カナダ人の友人と二人で映画を見たあと、宿泊場所だったその友人のいとこの家に帰る途中、イースト・ヘイスティングス通りを歩いていると警察官に呼び止められました。私が日本人だと分かったんだと思います」。「ここで何をしている」と聞かれた。「リルエットからの許可証を見せました。バンクーバーに来るための特別な許可証でした」。1948年12月のバンクーバーはまだ日系人に冷たかった。

 そしてリルエットの高校を1949年に卒業した。

漁師をしながらUBC医学部を卒業

 1949年4月1日に強制収容政策は終了し、日系カナダ人は自由に移動できるようになった。同年に高校を卒業したホリイさんはブリティッシュコロンビア大学(UBC)に入学する。「両親が大学進学を許してくれました」。でも大学にお金がかかることは分かっている。「大学の寮に入っていましたけど、大学までは路面電車代10セントを節約するためにヒッチハイクをして通いました」。

 授業は通常5コースのところを6コース取った。「リルエットから出てきた田舎者の1年生はウブでした」と笑う。化学、物理、生物のラボもあった。「試験を受けて1年目を終えた時、よくやったなぁと思いました」。

 しかし父親の仕事を手伝うために1年で休学した。「父親はすごく漁師に戻りたがっていました」。1950年から父親を手伝って漁師となった。BC州北部のプリンス・ルーパート辺りでサーモン漁を始めた。漁師生活は2年間続いた。稼いだ収入は両親に渡した。やはりここでも長男として家族を助けるのは当然と考えていた。そうして家族は1951年にようやくバンクーバーに戻った。

 2年間の休学をへて1952年にUBCに復学した。相変わらず6コースを取ったという。夏には父を助けるために漁師として働いた。1957年まで漁師は続けた。

 1955年に大学を卒業し、友人から「医学部を受けてみないか」と誘われ申請したら「驚いたことに受理されました」と笑う。医学部時代には横隔膜下膿瘍で生死をさまよう経験をした。大学医学部の教授のおかげで一命を取り止めたが1年間を棒に振った。それでも1960年に卒業。それから2週間後には結婚し、フォルクスワーゲンで新婚旅行代わりにアメリカ北部を横断しトロントへ。トロント・ウエスタン病院で1年間インターンとして働いた。

医師時代に出会った日系一世の話

 強制収容前のバンクーバー。ホリイさんは家族の長男ということで、甘やかされることもあったという。例えば、パウエル通りの日本人街で、バンクーバー仏教会の前にあった小さな菓子屋にときどき連れて行ってもらっていた。「マツモト夫婦がやっていた店でした。そこで、あんぱんを買ってもらってました」。通っているうちにマツモト夫妻と仲良くなったが、強制収容時はどこに行っていたのか知らなかった。

 そして1961年医師として働き始めた頃、患者となったマツモト夫妻と再会した。その時に初めて、夫のマツモトさんが第1次世界大戦にカナダ兵として参加した退役軍人だったことを聞いた。「兵隊姿の写真は背が高くて、ハンサムで、強そうで。キンゴ・マツモトさんという名前でした」。

 日系カナダ人は第1次世界大戦にカナダ兵として222人が参加。BC州では差別が激しかったため入隊できず、アルバータ州まで行って入隊した。そのうち54人が戦死。バンクーバー市スタンレーパークには当時の日系コミュニティが建てた日系カナダ人戦没者慰霊碑がある。

 第1次世界大戦でカナダ兵として戦い、帰ってきた日系カナダ人には市民権が与えられた。「最初、カナダ政府は拒否したのですが、1931年に与えられました。東洋人としては初めての市民権でした」。しかし、「1941年12月、日本との戦争が始まるとマツモトさんも『敵性外国人』とされ、市民権もはく奪され、強制収容されました」。第1次世界大戦で戦った全ての日系カナダ人が同じ扱いを受けた。

 マツモトさんはヨーロッパで戦った時に毒ガスを吸っていたため肺を病んでいたという。「皮肉ですよね」。カナダのために命を懸けた国民への政府の仕打ちを皮肉った。

日系カナダ人強制収容と差別

「強制収容と差別について話すことに関心を持ち始めたのはずっと後になってからです」。医師時代は日本語ができる医師Dr. Aki Horiiとして親しまれ、多くの日系1世の患者を診た。いまは小学校や高校、大学、カレッジなどで経験談や差別について話している。

 ホリイさんは日系カナダ人に対するカナダ政府の対応は差別的な議員の言動が理由だったと話す。連邦、BC州、バンクーバー市、全ての政府に日系人に対する差別を公言する議員がいた。中でも国会議員からの言葉は特に影響が強かったという。

 当時のバンクーバー・サン紙に掲載されていた議員らの差別的な言葉を引用して、それがどれほどひどいものだったかを語った。「ジャップがブリティッシュ・コロンビア州に戻ることを決して許してはならない」「政府の計画は一刻も早くBCからこれらの人々(日系カナダ人)を追い出すことだ。私は公人として残された限りの時間を費やして個人的な意思を持ってこれを行う。彼らがここに二度と帰ってくることのないように」「ロッキーから太平洋まで一人のジャップも入れてはならない」

 そして、日本軍の真珠湾攻撃は日系カナダ人を追い出すための単なる口実だったことを論じるバンクーバー・サン紙2015年3月付の特集記事を紹介した。それは、1942年の同じ週の歴史として掲載されている。要約すると、東洋からの移民が来て以来50年の間、BC州は日本人の受け入れに反対してきた。しかし連邦政府がそれを阻止してきた。だが、このたびすばらしい軍事的理由で日本人を内陸部に移動させることができた。戦争を利用して問題を解決できたことは喜ばしい、と述べている。

 ホリイさんは「これを読むと戦争は当時日系カナダ人を追い出すための口実だったことがよく分かります」と力を込める。それは1945年8月15日に第2次世界大戦が終わっても続いた。1945年カナダ政府はBC州に住む日系カナダ人にロッキー山脈より東に移動するか、日本に帰るかの二者択一を迫った。約4,000人が日本へ行き、「多くの人はアルバータ州やサスカチュワン州に行きました」。

 差別はいつどこでも起きると話す。それは心に傷を残す。「かつて、医師たちのミーティング中に、ある医師が『ジャップ』という単語を何度も使ったんです」と自身の経験を語った。「それから1カ月、眠ることができなくて」。次のミーティングでそのことを告げるとその医師は謝ったという。

 「差別は最も予期しないところで起きるものなんだよ、と生徒たちには伝えているよ」と静かに語った。

(取材 三島直美)

関連記事

***

***

「お笑いの発想を絵本に」絵本作家 田中光さんバンクーバーでワークショップ

自作絵本を持って。田中光さん。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
自作絵本を持って。田中光さん。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 絵本作家の田中光さんが今年6月にバンクーバーを訪問。子どもたちを対象としたワークショップを開催した。

 2019年に出版した初めての絵本「ぱんつさん」(ポプラ社)が第25回日本絵本賞(全国学校図書館協議会主催)を受賞。その後も数冊を出版している。

 絵本作家以外にも、お笑い芸人、ギャク漫画家の顔も持つ田中さんに、バンクーバーで話を聞いた。

バンクーバーでのワークショップ開催

 今年6月29日にバンクーバー市で子どもを対象としたワークショップを開催した。田中さんによる絵本の読み聞かせや、テーマを選んで自由に絵を描いて発表してもらうなど、アクティブなイベントとなった。

 ワークショップには光浦靖子さんも参加。子どもたちの積極的で自由過ぎる発想に田中さんも感心しきりだった。

ワークショップについて

 「カナダに住んでいる子どもたちのテンションだったり、『私もやりたい、私もやりたい』という感じが強かったのにびっくりしました。すごく楽しく良いイベントになったと思います。子どもたちが『なんか作りたい』って言ってくれたので、すごくやって良かったなと思います」

造語をテーマに絵を描く

 ワークショップでは、田中さんがあらかじめ用意しておいた「単語」が書かれた紙を2枚選び、紙に書かれた単語を組み合わせて、これまでに聞いたことがない「造語」について子どもたちに絵を描いてもらうという企画があった。「シャイなすいか」「耳があるチョコレート」「すごく長いいちご」などの造語が出来上がり、子どもたち独特の感性でそれを絵で表現する。

造語からインスピレーションを受けて描いた自身の絵を子どもたちに見せる田中光さん(左)、一緒にイベントを盛り上げた光浦靖子さん(中央)、カメラを操作するウィトレッド太朗さん(右)。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
造語からインスピレーションを受けて描いた自身の絵を子どもたちに見せる田中光さん(左)、一緒にイベントを盛り上げた光浦靖子さん(中央)、カメラを操作するウィトレッド太朗さん(右)。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 この企画には田中さんなりの理由があった。

 「改めてものを見るってことが結構ないと思うんです。例えば「泳ぐリンゴ」という言葉ができたとする。ここで改めてリンゴのことを考える。その時にリンゴの特徴を多分みんな一回頭の中でぐるぐるっと回して、いろんな角度からリンゴを見るんです。赤い、酸っぱい、甘い。過去にリンゴを食べてお腹を壊した子がいたら『お腹を壊した』とか。連想されるものがたくさんあると思うんです。切ってしばらく置いとくとちょっと黒くなっていっちゃうとか。この、リンゴの特徴をいろんな角度から見るっていうことが結構大事だと思っていて。

 これって多分将来的に子どもたちが大人になった時も、大人もそうですけど、一つ問題が起こった時に『もうダメや』ってなるんじゃなくて、ちょっと目線をずらして、こう見たら『意外とこうやったらいけるやん』とか、多角的に物を見れるような能力ができたらいいなと思って。一回考えてみようっていう感じにしてるんです。

 見たこともない、初めて今日出来上がった言葉『泳ぐリンゴ』を考えてみる。いろんな角度から『泳ぐ』ってことは沈むんかな?リンゴは浮くんかな?塩水やったらちょっと黒くなりにくいんかな?とか。頭の中でそれをいろんな角度から見る。

 これは大人も結構いろんなことに応用できることだと思うので、そういう部分ができたらいいなと思ってます」

 子どもたちの発想ははるかに自分の想像を超えていたという田中さん。「自由ですよね。カナダの子どもたちはパワフルでしたね。『こんなものの見方してるんや?』とか発見がありました。結構何人かぶっ飛んだ子もいましたよね。おもしろいなと思って。絶対にポテトしか描かない子どもとか(笑)。カナダの子どもたちは『ペンがない』『もっと紙ほしい』みたいな。すっごい前のめりで。『描きたい』『なんか作りたい』っていう気持ちがいっぱいあって、うぁってなってたんで、これはすごく良かったなと思って。そういう衝動が生まれただけでよかった。光浦さん、ありがとうございます!っていう感じでした」

 子どもたちに絵を描いてもらう提案は光浦さんからだったという。当初はそれほど積極的に子どもたちに絵を描いてもらう予定ではなかったと話す。最初は田中さんや光浦さんが子どもたちからもらった言葉をヒントに絵を描いて、その子に描いた絵を渡していた。しかし光浦さんから「子どもたちにも描いてもらおう」と会場で提案された。

 子どもたちは田中さんや光浦さんがいる場所に近い所で床に座って二人を見ていた。「僕が絵を描いてるところをのぞきに来たり、ちょっかいかけに来てもいいしと思って前に座ってもらいました。多分、いすに1時間もじっと子どもたちは座っていられないと思いましたし」。結果的にそれが子どもたちに絵を描いてもらう提案で生きた。「良いイベントになりました。最初思い描いてた状態とは違いましたけど、それが良かった。色々とこんなやり方もあるんだと思って、めちゃくちゃ勉強になりました」

絵本について

自身の絵本を使って読み聞かせをする田中さん。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
自身の絵本を使って読み聞かせをする田中さん。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 ワークショップの前半では読み聞かせもあった。自身の絵本を画面で見せながら読んでいく。文字が少なく、絵が主体の絵本には想像力がかき立てられるようだ。田中さんは子どもたちに話しかけながら、双方向の読み聞かせとなった。

 「僕の絵本は文字が少ないんです。だから『これこうなってて』みたいなコミュニケーションを取りながら、家で読んでいただく場合も一緒に読めるんです。その言葉、そのストーリーに余白があると言いますか、こうなってこうなるっていうのを決めてないので。お父さん、お母さんたちが、好き勝手に物語を足してもいいですし、セリフを勝手に足してもいいですし、そういう余白をちょっと残してるというような感じです。

 色々コミュニケーションツールになると思ったんですよ、絵本自体が。親子で『これどうなってんやろ?』みたいな。そうなるといいなと思いながら、なるべく意味を減らそうとは思ってます。

 内容はあまりストーリーもつけずに、僕は、変な世界の現象だけを描きたいなっていう感じなんです。意味を説明もしたくないし、無意味なものを作りたいっていうところでやってます。絵本でちょっとパンクをしたかったという感じでしょうかね。

 基本絵本の作りが『いないいないばあ』なんです。一番シンプルな、子どもが最初に触れるお笑いってこれじゃないですか、『いないいないばあ』。だから『猫いる?いる!』だけの繰り返しにして、そこの段積みというか、どんどんエスカレートさせていって、それで、今はなかなか紙で本を買うことも少ないというのが世界的になってると思うんすけど、子どもたちが紙の本をめくる楽しさみたいなものがここに生まれるとは思ってるので。隠しておいて『いないいないばあ』って、紙だからできる動きだし、これを好きだなと思ってくれたらいいなとは思ってます」

バンクーバーでワークショップを開くきっかけ

 「そもそもがちょっとカナダに遊びに来たかっただけなんです。で、1回来てみたかったので、せっかく来るならっていうことで知り合いからこういうワークショップできるんじゃないかと提案してもらったのがきっかけです」

 今回は、バンクーバー市ガスタウンにあるギフトショップ「Gifts and Things」オーナー佐藤さんと日本カナダ商工会議所副会長のウィトレッド太朗さんがサポートした。田中さんが佐藤さんたちと出会うきっかけは、ひょうたんアーティストのあらぽんさんだったと話す。

 「あらぽんっていうひょうたんアートをしている人がいるんですけど、事務所は違うけど芸人の後輩にあたるんです。あらぽんと僕はCM出演がきっかけで仲良くなって。それで佐藤さんを紹介していただいて。カナダでこういうお仕事されてる方ですって。会わせてもらってお話してるうちに『カナダ行きます、僕!』ってなって」

 佐藤さんによると、出会って半年くらいでバンクーバー訪問が実現したという。「佐藤さん、太朗さんはじめ、色々な方に本当に助けていただいて。1人で来てたら絶対できないイベントなので、言葉も話せないし、すごく助かって。ありがたいです」

お笑い芸人、ギャグ漫画家、絵本作家

 「(京都の)美術の大学で、版画学科に行ってて、1年で中退して吉本興業に入って、それからずっと10年ぐらい漫才とかやってて、絵を描き始めたって感じです。

 どっちで食べていくかは悩みながらだったんです。絵で食べていこうか、芸人で食べていこうか。出身が関西なんでお笑いもすごいしたいなと。漫才とかすごいおもしろいの作れるけどな俺とか、変な勘違いをしながらやってて。絵は意外と年を取ってからでも描けそうやなと思ったけど、お笑いは年取ったらなかなかスタートするのが難しいと思うので、先にお笑いやっとこうと思って、大学辞めて、吉本興業入って、みたいな感じです」

絵本作家になるきっかけ

 「きっかけというほどのきっかけはなくて」という田中さん。ギャグ漫画を描いていた時に、仕事関係で仲の良い人と一緒に親戚のおじさんも誘ってコンサートに行ったという。コンサートの後、「居酒屋で飲んでて、『今何やってるんですか?』って親戚の人に聞かれて、ギャグマンガとか書いてるんですよって見せたら『絵本とか書いてみます?』って。その人がポプラ社の方だったんです。『え、いいんすか?』『いいですよ』ぐらいで始まったんです」

 記念すべき1冊目「ぱんつさん」が日本絵本賞を受賞。「それで『じゃ次も出してください』となって。その後もたくさん出させていただけるようになって、あれよあれよと気がつけば絵本作家になってたんです」

 今は芸人活動はやっていないという。「あんまり人前が得意じゃないなっていうのに気づいたので(笑)。家で絵を描いてる方が性に合ってるなぁって、感じですね」

 それでも絵本の発想はお笑いからだと言う。

 「大喜利ってあるじゃないですか?その場の瞬発力でお題に対して何かを言う。1個に対していっぱい答え考えて書くっていうのを、本当にもう多分20何年やっているので、そこはやっぱ強くなりましたね。すぐ作れます。ただ、描くのが面倒くさいなってなっちゃうことはありますけど。

 思いつくのは早いんですよ、『こんなんやりたいな』って。寿司だったら寿司にタイヤがついてたらどういう状況が生まれるかな、みたいなのを、とりあえずバーッと思いつく限りiPhoneのメモ帳に書いちゃって。『これつまらんから取ろう』『これとこれ繋げたらおもしろいよな』『これとこれ意味が似てるから1個取ろう』とかを、バーッと頭の中で組み立てて。それで、ページ数決まってるんで32ページに収まるようにして。それから大体さっくり絵を描いてっていう感じですね。

 お笑いでネタを作っていたので、ネタを作る時の経験が生かされてると思います」

今後の絵本作家としての目標

 「自分の絵本を日本から脱したいなという気持ちはあります。ギャグマンガとか、お笑いは海外に出にくいと思うんです。文化が違うし、お笑いも違うし、笑うポイントも違うし。アメリカだったらスタンダップコメディが基本だったりしますし。ボケ・ツッコミみたいな文化もないですし。なかなかお笑いが海外に出せなかったんですよね。

 これを絵本で、お笑いじゃない状態にして。発想はお笑いから作っているんですけど、お笑いじゃないような顔をして出していけば、うっすら芸術と勘違いしてくれる人がいるんじゃないかと思って。

 日本以外でも受け入れられるようなものができるとすごく楽しいだろうなと。僕の世界もきっと広がると思います」

バンクーバーの印象について

イベント終了後に参加者の求めに応じて記念撮影や絵本に自筆の絵とサインをする田中さん。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
イベント終了後に参加者の求めに応じて記念撮影や絵本に自筆の絵とサインをする田中さん。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 「僕が来たこのタイミングが、夜が長い時期だったので、これは日本にいたら体感できない部分で『おもしろいな』って。夜9時ぐらいでも明るいから、すごい昼間からお酒飲んでるような気持ちでふらふらしていられるのは贅沢ですよね。

 あと自然と人工物、文化のバランスっていうのが、どっちもいいです。町として元気もあるし、バンクーバーはいいなと思いました。自然も多いし、きれいですもんね。とても景色もいいですし」という話す。合法化されている大麻のにおいも少し気になったと本音も語った。

 バンクーバーで絵本にできるようなインスピレーションがあったか聞くと気になったのはトーテムポール。「あの形って色使いも含めておもしろいから、トーテムポールとは言わずとも、何かを積むっていうのは、積んでるわけじゃないけど、動物がこう積み上がってるいるように見える形は、おもしろいかもしれないです。本だったらだるま落としみたいなことがあると思いますね」と語った。

読者プレゼント

 田中光さんが絵とサインを入れた絵本を2名様(各1冊)にプレゼントします。ご希望の方は件名に「田中光さん絵本希望」と明記して、田中さんへのメッセージや記事への感想を寄せてご応募ください。応募先はpromo@japancanadatoday.ca、締め切りは2026年1月31日
 たくさんのご応募お待ちしております。

 当選者の方には2月初旬に連絡いたします。郵送となりますので、当選者はカナダ国内に限らせていただきます。当選者には、氏名・住所・電話番号をお聞きます。あらかじめご了承ください。

訂正:読者プレゼント締め切りは2026年12月31日ではなく、2026年1月31日です。ご希望の方は早めにご応募ください。

(取材 三島直美)

合わせて読みたい関連記事

山野内勘二駐カナダ特命全権大使より新年のごあいさつ

 日加トゥデイ読者の皆様、明けましておめでとうございます。明けましておめでとうございます。令和8年を迎え、新年の御挨拶を申し上げます。

 今年は午年です。天高く駆け上がる駿馬の如く、力強くしなやかに飛躍に満ちた一年となりますよう祈念しております。

 昨年は、カナダにとって激動の年でありました。1月のトルドー(前)首相の退陣表明に始まり、3月のカーニー氏の新首相就任、議会解散に続いて、4月の総選挙、5月のカーニー新政権の発足、6月のG7カナナスキス・サミットの開催のほか、年間を通じ、春・秋計2回のG7外相会合を含む計7つのG7関係閣僚会合やビジネスサミット(B7)等の計6つのエンゲージメント・グループ会合を開催する等、各分野で確実な成果を上げつつ、激動の年を確かな歩みで駆け抜けました。とりわけ印象に残っているのは、カーニー新政権が発足して僅か1か月で開催したG7カナナスキス・サミットです。カーニー首相の見事な采配ぶりに加え、議長サマリーのほか、重要鉱物アクション・プランやAI、量子等7つの首脳声明を発出したことは大変大きな外交成果であったと思います。カナダのG7議長国としてのリーダシップと貢献に改めて敬意を表したいと思います。 

 日本とカナダの二国間関係に目を転じますと、G7カナナスキス・サミットにおける日加首脳会談に続き、APECにおける日加首脳会談、G7ナイアガラ外相会合における日加外相会談等、ハイレベルの意思疎通が切れ目なく緊密に行われているほか、経済や安全保障の分野で新たな協力の展望を拓く、いくつかの重要な動きがありました。

 まず、6月末には、待望のBC州のLNGカナダプロジェクトによるLNG生産が開始され、日本を含むアジア地域への出荷が開始されました。年間1,400万トンのLNG生産能力を有するカナダ最大規模のLNGプロジェクトで、日本への輸送時間が約10日間であるなど、我が国及びインド太平洋地域のエネルギー安全保障にとってゲーム・チェンジャーと言える存在です。カーニー政権が推進する「主要プロジェクト」に選定された「LNGカナダ・フェーズ2」の実現に大いに期待すると共に、カーニー政権の「エネルギー超大国」構想にも注目していきたいと思います。

 7月には、情報保護協定の署名が行われました。国際社会は時代を画する変化に直面し、信頼関係にある国との間で機密性の高い情報を交換する重要性が高まる中、日加間の情報交換を促進する本協定を基に、安全保障分野における関係がより一層拡大・深化することに期待しています。また、日加防衛装備品・技術移転協定についても早期の署名を実現させ、強靭で信頼性のあるグローバルな防衛サプライチェーンの構築を含む防衛産業分野での協力強化が一層進むことを期待しています。

 9月には、史上初となる航空自衛隊F-15戦闘機によるカナダ訪問が実現し、日加空軍種協力の新たな一歩となりました。今回の訪問では、両空軍種による戦術面の意見交換や共同訓練に関する議論が活発に行われ、相互理解と信頼が大きく深まりました。カナダ側からは航空自衛隊の運用能力や機動力に対する高い評価が寄せられ、今後の協力拡大への強い期待が示されました。この歴史的な訪問をきっかけに、日加防衛関係の更なる発展に期待したいと思います。

 12月には、経団連カナダ委員会による9年ぶりのカナダ訪問が実現し、オタワでは、カーニー首相を始め、アナンド外務大臣、ホジソン・エネルギー・天然資源大臣、ジョリー産業大臣、シャンパーニュ財務大臣、シドゥ国際貿易大臣及び連邦議会加日議連執行部との意見交換の機会に恵まれました。カーニー政権が重視する貿易の多角化や大型インフラプロジェクトの推進、エネルギー輸出の政策課題等、更なる連携強化に繋がる有意義な意見交換ができました。また、経団連とカナダ・ビジネス評議会との協力覚書への署名が行われ、日加ビジネス協力の新たな枠組みが立ち上がったことは心強く、更なる前進に期待したいと思います。

 民間交流に関しても多くの進展がありました。大阪・関西万博を契機に、多くのカナダの方が訪日し、訪日人数が前年比20%増の70万人に届く勢いとも側聞しております(2025年12月現在)。カナダの「再生」をコンセプトとしたパビリオンでは、拡張現実(AR)を駆使した没入型の体験を通じて、カナダの自然美、多様性、歴史と革新性等を表現したほか、カナダの食や活気溢れるパフォーマンス等をショーケースし、多くの訪問客を魅了しました。

 9月には北米初の北米国際よさこい祭りがアルバータ州レスブリッジ市で開催され、私も参加し、よさこいをきっかけとした日系コミュニティを超えた様々な人々との繋がり、また、繋がることで見えてくる新たな希望を肌で感じることができました。同祭りの翌日、レスブリッジ市で開催されたNAJC(全カナダ日系人協会)年次総会にも参加させていただきました。テーマは「繋がり」。日系人コミュニティの連携が引き続き強化され、更なる希望が育まれることに期待しています。

 10月から11月にかけては、カナダ唯一のMLBチーム「トロント・ブルージェイズ」が32年ぶりにワールドシリーズに出場しました。私も連日「ジェイズ」のユニフォームを纏い、オタワから同僚や地元の方々と共に熱い歓声を送りました。ドジャーズには惜敗を期しましたが、「ジェイズ」の今年の活躍を確信しています。

 カナダにおいては、1988年の開始以来、累計1万人を超える青年が参加し、日加間の民間交流に寄与しているJETプログラムについても、引き続き大切にしていきたいと考えています。

 紙面の都合上、日加関係の全ての進展をここに記すことはできませんが、様々な形で日加関係の増進に日々御尽力されておられる皆様の御活動に心から敬意を表したいと思います。日本とカナダは、厳しい地政学的な状況にあって、自由、民主主義、人権、法の支配といった基本的価値を共有するインド太平洋を隔てた隣国、信頼できる同志国、重要な戦略的パートナーであります。二国間あるいはインド太平洋における様々な取組を着実に前進させ、日加関係を更なる高みに引き上げるべく、より一層力強く努力してまいります。本年も変わらぬ御支援をよろしくお願い申し上げます。                                    

(了)

髙橋良明在バンクーバー日本国総領事より新年のごあいさつ

新年のご挨拶

「日加トゥデイ」の読者の皆様、
新年あけましておめでとうございます。
皆様におかれましては、健やかに新春をお迎えのことと、心よりお慶び申し上げます。

私が在バンクーバー日本国総領事として着任してから、一年二か月が経過しました。この間、当地の皆様から温かいご支援とご協力を賜りましたことに、改めて深く感謝申し上げます。

昨年は、日本とカナダの関係が着実に深化した一年でした。ブリティッシュ・コロンビア州キティマット港から日本向けのLNGが初めて出荷され、すでに日本の家庭やビジネスを支えていることと思います。また、六月には、BC州のイービー首相が経済ミッションを率いて訪日されるなど、官民を挙げた交流も一層活発化しました。こうした動きを背景に、日加関係は今後ますます緊密なものとなっていくことが期待されます。

また、私が働くバンクーバーには多数の在留邦人の方々が暮らしており、活発で結束力のあるコミュニティとして、日頃から総領事館の活動を支えていただいています。昨年七月に実施された参議院議員通常選挙における在外投票では、各国における日本の在外公館の中でも有数の投票数が記録されるなど、皆様のご協力に改めて感謝申し上げる次第です。

本年も、カナダ西海岸に所在する日本の総領事館として、当地における日本の存在感を高め、日加関係のさらなる深化に貢献できるよう努めてまいります。皆様の変わらぬご理解とご支援をお願い申し上げるとともに、本年が皆様にとりまして実り多き一年となりますことを、心よりお祈り申し上げます。

在バンクーバー日本国総領事 髙橋良明

「冬至の日*駿河の海に富士ひかる」

カナダde着物

第78話
*里帰りで着物を学ぶ*

 いよいよ、今年の二十四節気も冬至を迎えました。

 世界中では、依然として紛争や戦争が続き、心を痛める出来事が後を絶ちません。
 日々報じられるニュースに、不安を感じることも多かったのではないでしょうか。

 そのような中でも、私たちはそれぞれの場所で日常を重ね、人とのつながりや、学び、ささやかな喜びに支えられながら、この一年を歩んできたように思います。

 冬至は、一年で最も夜が長い日であると同時に、ここから再び光が増していく節目でもあります。

 どうかこの冬至が、皆さまにとって心を静め、次の季節への希望を見出すひとときとなりますように。
 寒さ厳しき折、くれぐれもご自愛ください。

「Peace, Love, and Passion」Manto Artworks
「Peace, Love, and Passion」Manto Artworks

 晩秋の日本へ里帰りをしています。

 駿河湾を囲むように私の故郷静岡県はありますので、東京へ向かう時も大阪へ向かう時も、どちらかの肩側に駿河湾を横にし、お天気がいい日には、雪を覆う富士山を見ながら目的地へ向かうようになります。
 今年の秋は、珍しく肌寒い日もあり、富士山はうっすらと雪化粧、青空とのコントラストが美しい姿を見せてくれました。

「晩秋の富士山」コナともこ
「晩秋の富士山」コナともこ

 静岡の自宅とグループホームに暮らす両親は、会うたびに少しずつ体が小さくなっていきます。 小柄な私でさえ、自分のほうが成長しているのではないかと錯覚してしまうほどです。

 それでも、好奇心旺盛な二人は、デイサービスやホームで行われるさまざまなアクティビティに積極的に参加しています。
 母は俳句や書道に親しみ、父は毎日新聞に目を通し、いつまでも時代の流れを感じていたいという思いがあるのでしょう。

 日本人は、季節を楽しみ、外からの文化を柔軟に取り入れながら、日々の暮らしを楽しむことを大切にしてきました。

 そのため、シニア向けのアクティビティも非常に充実しており、カナダに住む私たちも、ぜひ見習ってみたいものです。

「季節を楽しむ日本の食文化、秋の和菓子、米寿のお祝いに金目鯛の煮付けをリクエストする母」コナともこ
「季節を楽しむ日本の食文化、秋の和菓子、米寿のお祝いに金目鯛の煮付けをリクエストする母」コナともこ

*今日の着物*Today’s Kimono*
「里帰りで着物を学ぶ:きもののヒミツ 友禅のうまれるところ」

 私が静岡に到着した折、ちょうど静岡市美術館で、きものの特別展覧会が開催されていました。
 これはぜひ見たいと思い、早速、幼なじみと一緒に出かけることにしました。

 彼女は、春の里帰りの際にも私に付き合ってくれた友人で、着物や帯の制作にも携わる、共通の“着物好き”でもあります。
 作品を見る目も確かで、展示を前に交わす会話は尽きることがありませんでした。

 京都と静岡の二都市のみで開催されたこの展覧会は、友禅の老舗・千穂のコレクションを中心に構成され、近世の着物や当時流行した雛形本、友禅染裂、染め型、さらには人間国宝によるきもの作品などが紹介されていました。
 デザインが生み出される背景や、制作者の創意に迫る内容は、「きもののヒミツ」と題され、見応えのあるものでした。

「静岡市美術館にて”きもののヒミツ 友禅のうまれるところ”展覧会にて」 コナともこ
「静岡市美術館にて”きもののヒミツ 友禅のうまれるところ”展覧会にて」 コナともこ

 真っ白な館内に並ぶ、豪華絢爛なきものの数々。
 日本刺繍の繊細さや洗練されたデザインは、百年以上前のものとは思えず、今なお新しささえ感じさせます。

 一反の布に込められた技と美意識、そして時代を超えて受け継がれてきた感性に触れながら、着物が単なる衣服ではなく、日本の文化や精神を映し出す存在であることを、改めて実感しました。

 幼なじみと静かに作品を見つめながら過ごした時間は、心豊かなひとときとなりました。

「着物の撮影はできませんでした。美術館のショップには着物に関する専門書が並んでいました。」コナともこ
「着物の撮影はできませんでした。美術館のショップには着物に関する専門書が並んでいました。」コナともこ

*今年最後のご挨拶*My last greeting of the year*

 今年も残すところ、あとわずかとなりました。皆さまにとりまして、どのような一年だったでしょうか。

 本年も、和の学校@東漸寺ならびに東漸寺では、日本文化を通じて、季節の行事やさまざまな教室、ワークショップを開催してまいりました。日本を離れて暮らしていても、学び、楽しめることはたくさんありますね。

 そこで得た知識や経験を生かし、カナダの皆さんへ日本文化を紹介する「大使」としてのご活躍も期待しております。大それたことをしなくても、日々の暮らしの中に和の文化を取り入れて過ごすことは、十分に意義のあることだと思います。

 どうぞ皆さま、良いお年をお迎えくださいませ。

コナ ともこ
(和の学校@東漸寺 主宰)

「Rainbow & I」Manto Artworks
「Rainbow & I」Manto Artworks

*参照*

暦生活
https://www.543life.com

静岡市美術館
https://shizubi.jp/

展覧会「きもののヒミツ:友禅の生まれるところ」
https://shizubi.jp/exhibition/20251025_kimono/251025_01.php

「着物語り」
コナともこさんが着物の魅力をバンクーバーから発信する連載コラム。毎月四季折々の着物やカナダで楽しむ着こなしなどを紹介します。
2020年8月から連載開始。第1回からのコラムはこちらから

コナともこ
アラ還の自称着物愛好家。日本文化の伝道師に憧れ日々お稽古に励んでおります。
14年前からコキットラム市の東漸寺で「和の学校」を主宰。日本文化を親子で学び継承する活動をしております。

年間を通じて季節の行事に加え、お寺での初参り、七五三祝い、十歳祝い、元服祝い、二十歳祝い、結婚式、生前葬、お葬式などの設えと装いのお手伝いもさせていただいております。

*詳しくはコナともこ までお問い合わせ下さい。tands410@gmail.com
東漸寺は非営利団体で、和の学校の収益は東漸寺の活動やお寺の維持の為に使われています。

カナダ人の夫+社会人と大学生の3人娘がおり、バンクーバー近郊在住。

和の学校ホームページ https://wanogakkou.jimdofree.com/
インスタグラム https://www.instagram.com/wa_no_gakkou_tozenji/
フェイスブック https://www.facebook.com/profile.php?id=100069272582016

東漸寺Tozenji Temple https://tozenjibc.ca/

コナともこ
Facebook https://www.facebook.com/tomoko.kona.98
Instagram https://www.instagram.com/konatomoko/?hl

「東漸寺🌸春🌸2024」Manto Artworks
「東漸寺🌸春🌸2024」Manto Artworks

カナダで活躍する日本人薬剤師の物語 若子直也さん

 皆さん、こんにちは。

 2025年も残すところあと1週間となりました。今年は新しい試みとして、カナダで活躍する日本人薬剤師の皆さんを紹介してきました。多文化社会のカナダでは、さまざまな言語や価値観が混ざり合って暮らしていますが、やはり日本語で相談できる薬剤師の存在はとても心強いものです。

 また、私としては嬉しいことに、このコラムを日本から読んでくださり、実際に「カナダで薬剤師になりました」という方もいらっしゃると聞きました。

 YouTubeのような動画が主流の時代に、こうして活字を通してカナダ西海岸の日本人薬剤師の姿を伝えられること、そして国境を越えて日本人の患者さんと薬剤師のネットワークが広がっていくことを、とても素敵に感じます。

 さて今回は、ブリティッシュコロンビア州ビクトリアで薬局を運営されている薬剤師の若子直也(わかご なおや)さんをご紹介します。

若子直也さん
若子直也さん

 名古屋出身の若子さんは、もともとは薬剤師ではなく、サイエンティスト(科学者)を志していました。自宅近くに製薬大手ファイザー社の研究所があったことがきっかけで、当時としては比較的新しい分野だった分子生物学の世界に興味を持ったといいます。

 私や若子さんが学生だった頃の分子生物学の教科書は、他の科目に比べるとずいぶん薄いものでした。それでも、目には見えないながらも生命の根幹を形づくる学問として、そして薬物治療への応用が未知数であることにも惹かれ、若子さんはその可能性に夢中になっていきました。

 京都大学で薬学を学んでいた学生時代、そして大学院生として研究に打ち込んでいた頃の若子さんは、まさに“研究漬け”の日々を送っていました。昼夜を問わず実験に追われ、ライフワークバランスを失うほどの忙しさ。次第に「このままでいいのだろうか」と疑問を抱くようになったといいます。

 就職活動の際には、薬剤師としては少し異色の弁理士事務所の試験を受け、見事合格。それでも、どの資格が自立した生活につながるのかを考えたとき、若子さんが選んだのは薬剤師の道でした。

 薬剤師免許を取得し、大学院で修士号を修めた後、薬局勤務を経験。そこで直面したのは、薬を渡すことが中心で、患者さんとじっくり向き合う時間がほとんどないという、日本の薬局が抱える現実でした。当時は医薬分業が進められていたものの、実際の現場では薬の準備や監査など、対物業務に多くの時間を費やす状況に、強い違和感を覚えたといいます。

 次に目を向けたのは海外でした。留学経験があったわけではありませんが、学生時代にヨーロッパ旅行を経験しており、「もともと海外には興味があったんです」と若子さんは振り返ります。

 英語は「なんとかなる」と思いながらも、語学学校や短期留学のような“ホップ・ステップ・ジャンプ”というプロセスを経ず、日本から直接、トロント大学の外国人薬剤師向けブリッジングプログラムに入り、カナダの薬剤師国家試験の受験に備えました。

 当時はインターネットこそありましたが、今のように情報が充実していたわけではありません。ホームステイも語学学校も経ずに、いきなりカナダでの生活を始めるのは容易なことではなかったでしょう。それでも若子さんは、常に逆算思考で行動します。「カナダで薬剤師として働くにはライセンスが必要。ライセンスを取るためには試験があり、そのための勉強がある」。必要なステップを順に整理し、着実に準備を進めていきました。

 特にOSCE(実技試験)では、まず薬学英会話を重点的に磨き、その他の課題は後回しにすることで突破。常に合理的な戦略が功を奏しました。文化の違いに戸惑うことはほとんどなかったそうですが、これは単なる要領の良さではなく、柔軟に生き抜ける順応力の賜物だと思います。

 カナダでの最初の職場は、ビクトリアにあるPure Pharmacyの小さな薬局。その後、London Drugs、Rexall、Walmart(いずれもビクトリア市内)を経て、現在はPharmasave Westside Villageでマネージャーとして勤務しています。

 マネージャーとして一番大変なのは、リーダーシップとのこと。チームにはインド系・中東系など多様なバックグラウンドのスタッフが在籍し、労働倫理や時間感覚も人それぞれ。「みんなが同じ方向を向いて動いてくれるようにするのが、一番の課題です」。とはいえ、大きなトラブルはなし。「考え方が違うからこそ学びがあるんです」と、若子さんは前向きに語ります。

 「以前勤務した薬局で課されたメディケーションレビューの件数のノルマも苦手で」と苦笑する若子さん。しかも、メディケーションレビューの価値は、これまで考えられてきたよりも低いのではないか、そして今後は報酬体系の見直しが必要になるだろうと冷静に分析。現場を見つめるまなざしは、常に現実的です。

 一方で、ワクチン接種や薬剤師による処方(Minor Ailment)など、カナダの臨床薬剤師ならではの仕事にはやりがいを感じているそうです。職能の範囲には限界もありますが、必要に応じてドクターへの紹介も行います。「まだシステムとしては粗い部分もありますが、十分に患者さんの役には立っています」と話してくれました。

 若子さんと話していると、常に先見の明を感じます。今後、AI(人工知能)が薬局業務にどのように取り入れられていくのかを尋ねてみました。

 「AIが薬局業務に入ってきたとき、思考プロセスが言語化されやすくなると思います。でも、AIで置き換えられない部分はたくさんあります。特に『どうやって患者さんに薬剤師に相談してもらうか』という誘導は、人間にしかできません。人の流れをどう作るか。それを考えるのが、これからの薬剤師の仕事です。とのこと。若子さんは、AIと人の共存を見据えています。

 現在の薬局では臨床業務にやりがいを感じつつ、10年後にはリタイアしてパートタイムで働きたいと話す若子さん。プライベートでは料理好きで、「食を通じて社会に貢献したい」との思いも。日本では医食同源という言葉をよく使い、栄養バランスの取れた食事の重要性を伝えていましたが、カナダでは食育という文化はまだあまり根付いていません。その分野に自分の知識を生かしたいと語ります。

 また旅行も大好きで、これまでシンガポール、中国、タイ、メキシコ、そして日本への里帰りも欠かしません。異国で文化の違いに触れることを大切にしながら、明晰な頭脳で未来を見据え、ライフワークバランスを大切にする若子さん。料理と穏やかな暮らしを愛するその姿は、どこかカナダという国の気質にぴったりと感じられました。

 読者の皆さま、そしてこのコラムにご登場くださった薬剤師の皆さん、2025年も大変お世話になりました。どうぞご自愛のうえ、楽しいクリスマスと素晴らしい新年をお迎えください。

*薬や薬局に関する一般的な質問・疑問等があれば、いつでも編集部にご連絡ください。編集部連絡先: contact@japancanadatoday.ca

佐藤厚(さとう・あつし)
新潟県出身。薬剤師(日本・カナダ)。 2008年よりLondon Drugsで薬局薬剤師。国際渡航医学会の医療職認定を取得し、トラベルクリニック担当。 糖尿病指導士。禁煙指導士。現在、UBCのFlex PharmDプログラムの学生として、学位取得に励む日々を送っている。 趣味はテニスとスキー(腰痛と要相談)

お薬についての質問や相談はこちらからお願い致します。https://forms.gle/Y4GtmkXQJ8vKB4MHA

全ての「また お薬の時間ですよ」はこちらからご覧いただけます。前身の「お薬の時間ですよ」はこちらから。

35 ☆「忙しい」は厄介なり

日本語教師  矢野修三

 早や、師走も終盤を迎え、またまた「今年も残り少なく・・・」、こんな挨拶をする時期になってしまった。まさに「光陰矢のごとし」。歳を重ねるにつれ、一年の歩みが駆け足のごとく通り過ぎていく思いを強めている。

 そして、忘年会のシーズンだが、かなり物忘れも進んでおり、あえて忘年会などする必要ない思いも強めているが、年末の風物詩であり、やらないと何となく落ち着かない。

 そこで、先ずは日本語大好きな上級者たちと年忘れ会を行なった。年の瀬の話題として「師走」や「忙しい」の語源や漢字の由来など説明しながら、とりあえず、乾杯。

 すると、T君から「忙しい」に関して厄介な質問を受けてしまった。「いそがしい」はよく使うので、分かりますが、この漢字、「せわしい」とも読むんですね。今まで聞いたことないですが、どんな違いがありますか。うーん。これは日本語教師泣かせの質問で、以前にも質問されて困った記憶がある。

 この「忙しい」だが、日本人でも、「せわしい」とはなかなか読めない。それは、「いそがしい」は常用漢字としての読み方だが、「せわしい」は常用外の読み方なので、公的な新聞などには使えず、ひらがな書きなので、あまり馴染みがないからであろう。

 もちろん、私的なメールやエッセイなどでの使用は問題ないが、送り仮名が同じであり、読み手とすれば、どっちで読むか、ややこしい。もし、「忙しい」と書いて「せわしい」と読んでもらいたい場合はルビを振るか、やはり、ひらがな書きが無難である。

 ところで、この「いそがしい」と「せわしい」の違いだが、日本人は、個人差もあろうが、何となく使い分けている。でも学校で習った記憶などなく、説明しようとすればなかなか難しく、日本語教師としてはとても厄介な言葉である。

 生徒には、なるべく簡単に、分かりやすく教えたいのだが、当方もはっきり理解しておらず、「いそがしい」は「やることが多くて時間がない」状態で、英語では「busy」であり、「せわしい」は「そわそわして落ち着きがない」状態、心で感じる忙しさなので、「restless」ぐらいかも。こんな説明が関の山である。

 でも、「心忙しい」は確かに、「心いそがしい」とは読まず、「心せわしい」であり、そのほうがぴったりする。やはり、「せわしい」は心で感じる慌ただしさを表しているのは間違いなし。

 さらに、「せわしない」が加わると、ますます厄介に。これは「せわしい」の否定形ではなく、逆に強めた感じで、話し言葉などに使われているようである。一度も使ったことないが・・・。

 このように、使い分けを説明するのは難しく、上級者には、先生もよく分からず、ごめんなさい。でも、こんなこと気にせず、日本語の奥深さを感じてくれればそれで十分ですよと、やや焦りながら、せわしなく、こんな情けない説明になってしまった。

 ここで一句 「年の瀬や せわしないから 世話しない」。 一応生徒には受けました。

 せわしくない、のんびりしたお正月をお迎えください。

「ことばの交差点」
日本語を楽しく深掘りする矢野修三さんのコラム。日常の何気ない言葉遣いをカナダから考察。日本語を学ぶ外国人の視点に日本語教師として感心しながら日本語を共に学びます。第1回からのコラムはこちら

矢野修三(やの・しゅうぞう)
1994年 バンクーバーに家族で移住(50歳)
YANO Academy(日本語学校)開校
2020年 教室を閉じる(26年間)
現在はオンライン講座を開講中(日本からも可)
・日本語教師養成講座(卒業生2900名)
・外から見る日本語講座(目からうろこの日本語)    
メール:yano94canada@gmail.com
ホームページ:https://yanoacademy.ca

日本語教師として37年、81歳になって
初めて、平仮名「あいうえお」の
素晴らしさ、奥深さを悟りましたよ。

愛情、いっぱいで、生まれ
あ  い     う

笑顔で、終える。
え   お

素晴らしきかな「あいうえお」

お正月イベント

日時:2026年1月3日(土)11:00-15:00

場所:日系文化センター・博物館 6688 Southoaks Crescent, Burnaby, BC

入場無料

家族や友達と一緒に、楽しい新年の思い出を作りましょう!

新年の抱負や願い事を筆に込める「書初め」をはじめ、日本のお正月文化を存分に体験できるイベントです。

書初め
新年の抱負や願い事を筆で書き、一年のスタートを切ります。

獅子舞(ししまい)
邪気を払い、福をもたらすと言われる迫力ある獅子舞の演舞をお楽しみいただけます。

ゲーム
将棋、囲碁、かるた、花札など、世代を超えて楽しめる日本の伝統的なゲームを用意しています。

フラダンスの体験ワークショップも自由にご参加ください。

飲食ブース
温かいおでん、大福もち、おにぎりとお味噌汁、沖縄そば、Japadogなど、軽食や飲み物をご用意しています。

大阪・関西万博カナダ館代表ローリー・ピーターズさんインタビュー「カナダの誇りを日本の人たちに示せた」

カナダ館のローリー・ピーターズ政府代表。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
カナダ館のローリー・ピーターズ政府代表。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 大阪湾の人工島・夢洲(ゆめしま、大阪市此花区)で4月13日に開幕した大阪・関西万博が10月13日に幕を閉じた。カナダ政府はカナダパビリオン(カナダ館)を出展。「再生」をコンセプトとして拡張現実(AR)を通じてカナダの魅力を発信した。

 閉幕まであと1週間となった10月7日にカナダ館で政府代表ローリー・ピーターズさんに話を聞いた。

カナダ館への来場者の反応について

カナダ館の前にある大きな「CANADA」の前で記念撮影。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
カナダ館の前にある大きな「CANADA」の前で記念撮影。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 「私はこのプロジェクトをこれまで2年半から3年にわたって率いてきた代表ですので、少し偏った見方になるかもしれません。でも、万博の終わりというのは振り返りの時期です。そして、実際に全てが終わった後にはさらに深く振り返ることになるでしょう。というのも、今はまだ真っ只中で、毎日何千人もの来場者を迎えているだけでなく、6カ月間にわたる非常に忙しいスケジュールのプログラムやイベントをまだ終えていないからです。

 この万博がいかに成功したか、そしてカナダがこの万博でいかに成功したかを示す良い例や実例がたくさんあります。パートナーへのインタビューや来場者へのアンケート、さらにはいくつかの賞の受賞を通じて、カナダにとってこの万博がどれほど成果のあるものだったかを裏付けることができました。

 1970年(大阪万博)は大阪や日本にとってだけでなく、カナダにとっても大きな節目でした。というのも、カナダは1967年のモントリオール万博で世界を驚かせたばかりで、1970年の大阪万博では非常に目立つ場所とスペースを与えられました。カナダへの期待と関心は非常に高く、それに応えることができました。1970年には、ソ連(現ロシア)に次いで2番目に多く訪問されたパビリオンとなり、当時のカナダの人口を上回る来場者数だったと理解しています。

 しかし、それはカナダの象徴的なイメージ以上のものを発見することが目的でした。そしてそれは、私がカナダ館でコミュニケーション&広報の役割を担った2005年の愛知万博でも目指したことです。その後も、1985年のつくば、沖縄、そして今回の2025年と、いくつかの専門万博で比較対象があり、一般的に言ってカナダは常に人気のあるパビリオンの一つです。人々はカナダを好み、カナダと日本の関係は常に人と人とのつながりに基づいて築かれてきました。

 カナダで学んだことがある人、住んだことがある人、ワーキングホリデーで滞在した人など、カナダと再びつながりたいと思っている人も多くいます。そしてそれは、2025年の今回にも当てはまります。来場者のレビューは非常に好意的です。

 拡張現実を通じたカナダ横断の詩的な旅に感動していただいていますし、テクノロジーや「ミステリーハンター」の体験にも同様に感銘を受けていただいています。そして、現地でホスティングスタッフとして活躍するカナダ人との交流にも感動されています。

出口手前の秋のカナダと赤毛のアン。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
出口手前の秋のカナダと赤毛のアン。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 さらに、プーティンショップでカナダの味を少し体験することも新鮮でおもしろく、多くの人を引きつけています。そして、来場者のフィードバックでは、他のパビリオンとの比較や対比を通じて、カナダを訪れてみたい、再訪したい、カナダで学びたい、あるいはカナダについてもっと前向きに、もっと現代的な視点で考えてみたいというインスピレーションを受けたという声が多く寄せられています。カナダの象徴的なイメージだけではない、新たな視点での関心が生まれています」

カナダから政府関係者も多く来場、カナダと日本をつなぐ場として

 「万博はグローバルなプラットフォームですが、近年では来場者のほとんどが開催国からの方々で、今回も92%以上が日本からの来場者だと聞いています。ですから、パビリオンやプログラムを設計する際には、例えばドバイ(万博)のように多様な通過者が訪れる場所よりも、日本での開催の方が少しやりやすい面があります。ドバイでは人口構成が非常に多様で、設計の難易度も異なります。今回の万博は、日加の2国間関係を強化し、カナダと日本のつながりを再確認することが主な目的ですが、同時にインド太平洋地域、つまり近隣地域におけるカナダの存在を広げるという視点も取り入れています。

 カナダのインド太平洋戦略をご存じかもしれませんが、この万博はその戦略の初期段階における象徴的な取り組みとして位置づけられています。ですから、今回の参加は日本の来場者、日本の関係者、日本企業、日本政府関係者とのつながりを築くことが中心であり、カナダの各州や準州もこの機会を活用したいと考えていました。このプロジェクトはカナダ外務省(Global Affairs Canada)と、国際貿易担当大臣および外務大臣の管轄のもとで推進されています。

パビリオン外側にあるステージ。多くのイベントがここで開催された。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
パビリオン外側にあるステージ。多くのイベントがここで開催された。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 私たちはこのプロジェクトを企画し、舞台を整えました。東京のカナダ大使館とも密接に連携し、彼らの優先事項が私たちの優先事項にもなるよう調整しました。いわば「テーブルを整え」、各州や準州、さらには姉妹都市などがこの空間を活用し、ネットワーク、交流や新たなパートナーシップ、友情の芽生えを促進できるようにしたのです。BC(ブリティッシュ・コロンビア)州のイービー州首相が率いる代表団は「BCウィーク」と呼ばれる1週間を担当し、イベントやアクティビティを展開しました。毎朝「太平洋を越えた健康体操」として、BC版ラジオ体操を行い、BC産ブルーベリースムージーも提供しました。また、地下のコラボレーションスペースでは重要なビジネス交流や会合も行われました。

 パビリオンでは、来場者にすばらしい体験を提供することはもちろんですが、同時に会議やビジネス、コラボレーションのための空間も設けており、学校や大学の学生グループ、各州・準州のビジネス代表団を招いています。

 産業界からも参加があり、エア・カナダは関係者向けのイベントを開催し、カナダのビーフ業界、ポーク業界や農業省もこの6カ月間のプラットフォームを活用しています。つまり、今回の万博は、人と人との交流やパブリック・ディプロマシー(公共外交)だけでなく、経済外交やカナダの豊かな地域的多様性の発信という側面も兼ね備えた取り組みとなっています。

 6カ月間にわたって開催されるという点で、期間・規模・スコープの面で世界に類を見ないイベントです。まさに「国家ブランディングの最高峰のプラットフォーム」とされており、一部では「国家ブランディングのオリンピック」と呼ばれることもあります。それほどまでに、各国が自国の魅力を発信する場として重要視されているのです」

カナダのテーマ、ジェンダー平等、多様性も再現

 「今回の万博の全体的なテーマは、持続可能な開発目標(SDGs)に焦点を当てています。というのも、2030年まであと5年しかなく、2030年は国連が定めたSDGsの達成期限だからです。そこで、「未来の持続可能な社会のデザイン」がテーマに選ばれました。そして、サブテーマとして「Saving Lives(いのちを救う)」「Empowering Lives(いのちに力を与える)」「Connecting Lives(いのちをつなぐ)」の3つが設定され、夢洲の万博会場もそれぞれのサブテーマに対応する3つのゾーンに分けられています。カナダ館は、「Empowering Lives(いのちに力を与える)」ゾーンに位置しており、フランス語訳では「inspiring lives(いのちを鼓舞する)」となっています。

 各参加国には、どのSDGsに焦点を当てるかを示すよう求められ、また、万博のテーマを反映する独自のテーマを設定するよう求められました。私たちは1970年の大阪万博を振り返り、当時のテーマ「発見(Discover Canada)」を思い出しました。最初は「再発見(Rediscovery)」も考えましたが、十分に意味があるとは感じられず、日本語・英語・フランス語のいずれにも通じる言葉を探した結果、「再生(Saisei)」というテーマにたどり着きました。

 「再生」には多層的な意味があり、たとえばVCRの「再生」のように1970年やそれ以前への巻き戻しという意味もありますし、再誕・再構築という意味もあります。私たちは過去から学び、それを土台にしながら、次世代を鼓舞することに焦点を当てたいと考えました。つまり、前の世代から何を学び、次の世代に何を託すか。SDGsの達成は、まさに次世代の手に委ねられているのです。

 そして、カナダの強みとは何かを考えたとき、多様性と創造性は間違いなくその一つです。社会的イノベーションや、世界を映し出す力もまたカナダの強みです。もちろん完璧ではなく、進行中の取り組みではありますが、特に現在のように包摂性や多様性が世界的に試されている時代において、カナダがそれをどれほどうまく実践しているかを示す絶好の機会となりました。

 ジェンダー平等もまた、私たちが強く打ち出したい価値の一つです。私自身がコミッショナー・ジェネラル(代表)を務めていることも注目される点です。万博のコミッショナー・ジェネラル(CG)やパビリオンのディレクターに女性が就任する例は増えてきていますが、まだ十分ではありません。今回、女性の建築家が設計を担当し、日本の施工チームも女性が中心となっていました。現場の施工管理者やプロジェクトマネージャーも女性で、クリエイティブチームには女性や先住民のアドバイザーも加わっています。文化プログラムでは、出演者の半数以上が女性であり、料理チームもジェンダーバランスが取れていて、(カナダの)全国の調理学校から集まっています。これらは全て、カナダがジェンダー平等と多様性を体現する社会であることを意図的に示すための取り組みです。

カナダ館の前にある大きな「CANADA」の前で記念撮影。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 この多様性の考え方は、時にさりげない形で表れますが、先週末のパフォーマンスはまさにその好例でした。(万博開催中の6カ月間で)130人以上のアーティストがカナダ全国から集まり、音楽やダンスのパフォーマンスを披露しました。

 その中で、ケリー・バド(Kelly Bado)というアーティストが出演しました。彼女はコートジボワール出身で、現在はマニトバ州ウィニペグに住んでいます。彼女のバンドメンバー2人は、フランス語を話すメティス(先住民)です。彼女たちは英語とフランス語で歌い、観客は「彼女はコートジボワール出身と言っているけれど、ここはカナダ館だ」と思いながら、肌の色を忘れてただ音楽を楽しんでいました。それはまさに「これがカナダだ」と感じさせるすばらしい実例でした。

 展示でも、地域の多様性が表現されています。州ごとではなく、地域ごとに構成されており、それぞれが融合しながらも独自の特徴を持っています。文化的な多様性も重要なメッセージですし、LGBTQ+への支援も示しています。カナダ国旗と並んでプライド旗を掲げ、「真実と和解」の旗も掲げました。

 先住民週間も設け、北海道のアイヌコミュニティ、ニュージーランドのマオリ、オーストラリアの先住民と連携しました。カナダがこの万博で高い人気と注目を集めているからこそ、私たちの強みを共有する絶好の機会となったのです」

最も印象に残っていることは?

 「印象的な出来事が毎日のようにあって、どれもすばらしいです。

 例えば昨日(10月6日)は2つのイベントがありました。一つはケベック州と関西・大阪の企業とのランチミーティングでした。6月にケベック州と大阪との間で覚書(MOU)を締結したのですが、通常、万博はビジネス契約の場ではありません。でも、パートナーシップの可能性を示すには絶好の機会です。今回は実際にそのMOUを実現させる場を設けることができました。MOUはただの署名で終わってしまうこともありますが、私たちはそれを「MODo(行動に移す覚書)」にしたかったんです。

 そして昨日、わずか3カ月でその第一歩となる交流が実現しました。企業同士が集まり、協業の可能性について話し合いました。ランチは若手の料理チームがケベック産の食材を使って準備し、日本でも購入できる商品を紹介しました。

 料理やワインの魅力も発信しました。昨日はBC州のオカナガン産ワインも提供しました。人と人をつなぐ場になったと思います。

 午後には、日本のパートナーとの連携を模索する活動もありました。会場には9つのテーマ館があり、そのひとつが河瀨直美監督の館(https://expo2025-inochinoakashi.com/)です。彼女はカンヌのパルムドール受賞監督で、「なら国際映画祭」のディレクターでもあります。以前から若手映画作家の育成プログラムについて話していて、私たちも若者の支援を重視しているので「何か一緒にやりましょう」と提案しました。そして昨日の午後、準備期間はほとんどなかったのですが、万博最終週に、地下の会議室で3本の映画を上映しました。一般の方やホスティングスタッフが参加し、「再生」の力を別の形で体感する機会となりました。

 そして、私にとってのハイライトは、万博開幕前日の4月12日です。開幕前に約70人のカナダ人と日本人が集まりました。1970年の大阪万博や1985年のつくば万博でホスティングスタッフを務めた方々です。実際の元スタッフは38〜39人で、家族や孫も同行していました。40年ぶりに再会する方もいて、感動的でした。

 東京のカナダ大使イアン・マッケイも、つくば万博の元ホスティングスタッフです。今回のホスティングスタッフプログラムのコーディネーターは、1985年当時の彼の同僚でした。この再会は2年半かけて準備されたもので、1970年のカナダ館の日本人スタッフも数人参加しました。

 ただの同窓会ではなく、新しいホスティングスタッフへの知識の継承の場でもありました。翌日から6カ月間の来場者対応に備える彼らに向けて、ティータイムを設けて交流しました。涙あり、音楽あり、笑いありの時間で、「再生」の象徴のような瞬間でした。

 他にも、カナダのナショナルデーも印象深いです。全国からアーティストを招き、伝統的なパンケーキ・ブレックファストを開催しました。あいにくの雨でしたが、私は「雨女」なんです(笑)、正午には晴れて、フェイスペインティングや音楽、パンケーキなど、カナダらしいお祝いムードに包まれました。

 各国がパレードを行うのですが、カナダはホスティングスタッフや運転手、清掃スタッフが旗を持って音楽に合わせて歌いながら行進しました。派手ではないけれど、楽しくて、誰でも参加できるカナダらしいパレードでした。

カナダ館から見る大屋根リング。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
カナダ館から見る大屋根リング。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 本当に、挙げきれないほどの思い出があります。日本での反応も非常に好意的で、来場者の皆さんに喜んでいただけてうれしいです。カナダからの来場者も予想以上に多く、特に開幕当初は驚きましたが、その後も続いています。

 通常、万博では自国民が最も厳しい批評家になるものですが、今回は「自分の国がこんなにすばらしく表現されている」と誇りに思ってくれる方ばかりでした。展示やプレゼンテーションに自分自身を重ねて見ていて、技術や創造性、多面的な表現に感動していました。

 このプロジェクトに関わったカナダの市民や納税者の皆さんが「自分たちがきちんと代表されている」と感じてくれたことが、私たちにとって何よりもうれしいことです。本当に、素晴らしい経験でした」

日本で開催された万博全てに参加してきたカナダ

 カナダが初めて日本の万博に参加したのは1970年に開催されたアジア初の万博「大阪万博」。「発見(Discovery)」をテーマにしたカナダ館の入場者数は2500万人以上で、当時のカナダの人口を超えていたという。最も人気のパビリオンの一つとして人々の記憶に刻まれている。

 その後も1975年沖縄国際海洋博(沖縄県)、1985年科学万博つくば(茨木県)、1990年大阪国際花と緑の博覧会(大阪府)、2005年愛・地球博(愛知県)に参加。地球博では約300万人が来館した。

 大阪・関西万博は10月14日に来場者数を発表。約2900万人(関係者340万人を含む)が訪れた。各パビリオンの公式な来館者数は発表されていないが、カナダ館は満足度の高い人気パビリオンとして報道各社が紹介している。

 10月12日には、The Bureau International des Expositions(BIE)によるBIEデー表彰式が行われ、「大阪・関西万博 2025 公式参加者アワード」を発表。カナダ館は、Exhibition Design部門独自パビリオン出展「タイプA」(1,500㎡以上)で、金賞中国、銀賞インドネシアに次ぐ銅賞を獲得した。BIEは、3週間を超えて開催される非商業的性格を持つ全ての国際博覧会(「万博」)を監督・規制する責任を持つ政府間機関。

 カナダ館は、川の氷が春に解けるときに氷の破片が集まって流れをせき止める自然現象「水路氷結」に由来する氷をイメージした外観と、氷が砕けて冬の終わりと春の訪れを告げ、川の水が解放されて流れ出し、大地の再生が始まりを表した床のデザインが美しいカナダを表している。

https://www.canadaexpo2025.ca/ja-jp

大屋根リングから見たカナダ館。「再生」をテーマにした美しいデザインのパビリオン。左の列は館内への入り口、右の列はプーティンなどが楽しめるレストランへの入り口。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
大屋根リングから見たカナダ館。「再生」をテーマにした美しいデザインのパビリオン。左の列は館内への入り口、右の列はプーティンなどが楽しめるレストランへの入り口。2025年10月7日、大阪市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

(取材 三島直美)

合わせて読みたい関連記事

岡田誠司氏インタビュー「40年の外交官時代を振り返り次世代に伝える」

スライドや写真を使って話す岡田誠司氏。2025年8月7日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/バンクーバー日本商工会
スライドや写真を使って話す岡田誠司氏。2025年8月7日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/バンクーバー日本商工会

 筑波大学大学院で客員教授として教壇に立つ岡田誠司氏。在バンクーバー日本国総領事として2013年から3年間、バンクーバーに滞在。在留邦人だけでなく日系カナダ人のコミュニティとも広く交流し、外交官という仕事を超えて親交を深めた。

 8月6日、バンクーバー日本商工会(懇話会)主催の講演会を前にバンクーバー市で話を聞いた。

42年間の外交官生活を振り返り、次世代に伝えられること

 岡田氏は1981年に外務省に入省。2013年から16年まで在バンクーバー日本国総領事、その後、在南スーダン日本国大使や在バチカン日本国大使を歴任。2023年に退職。現在は茨木県つくば市在住。明治大学経営企画担当常勤理事も務めている。

インタビューに応じる岡田誠司氏。2025年8月7日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/バンクーバー日本商工会
インタビューに応じる岡田誠司氏。2025年8月7日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/バンクーバー日本商工会

 「4月から筑波大学大学院で教え始めて、クラスに30人いますが、23人が外国人留学生で、日本人の学生は7人。だから本当にインターナショナルで色々な国の学生がいます。

 何をしているかというと要するに国際関係なんですが、国際関係の中でも実際の外交というのはどういう風に動いているのかという話をしています。私は日本の外交官でしたから、日本での話を中心にして、外交というのはどういう風に各国と行われているのかなどを話しています。

 大学で教えたいと思ったきっかけは、1981年から2023年まで42年間外務省にいたわけですが、その間にずっと色々な国を回って外交の仕事に携わってきたことを思い返すと、自分がいた42年の間に世界は良くなったんだろうかと振り返ってみて、実は必ずしもそうは言えない。むしろこれからの世界情勢というのは非常に心配ごとがたくさんある。

 そうすると自分は42年なり外交に携わってきたのですが、外交は1人でやるわけではないですが、結果として世の中が必ずしも良くなっていないということに対する思いはあります。

 そうであれば、それを次の世代を担う人たちに『何が良かったのか、何が良くなかったのか?』ということをきちんと伝えていかなくてはいけないかなという思いがあって大学で教えています」

「法の支配」が世界的に揺らいでいる

 バンクーバー総領事館の前任地はアフガニスタンで、中近東情勢にも詳しい岡田さんに現在の中近東を含む世界情勢について聞いた。

 「非常に懸念すべき材料がたくさんあって抽象的に大きな話で言うと、国際情勢を動かしていく基本的なルールがあるわけです。少なくとも自分が外務省に入って、ずっと日本は、今もそうですが、外交を動かしていく時の基本的なルールを守っています。

 それは、第2次世界大戦の反省に立って作られた色々なシステム、抽象的に言うと「“Rule of Law”法の支配」と言われるものです。この「国際法」をきちんとみんなで作って、その下でみんなで共存していきましょうっていうそういう大きな目的があって、それは国連の大きな目標の1つなんです。

 日本はそういう中で経済でも政治でもいわゆるRule of Lawを非常に重要視して、外交もしているわけですが、残念ながら、それが今大きな岐路に立っているっていうことです。中東の紛争もそうですし、アメリカを中心とする色々な経済の問題もそうなんですが、要するにみんなが寄って立つところの「国際法」を遵守してやっていきましょうっていう方向から大きく外れている。それが根本的な原因だと思います」

バンクーバー総領事時代の思い出

講演中の岡田誠司氏。2025年8月7日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/バンクーバー日本商工会
講演中の岡田誠司氏。2025年8月7日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/バンクーバー日本商工会

 2014年にバンクーバー総領事館が開館125周年を迎え、岡田氏は総領事として外務省に残る公文書を調べ、歴史を振り返るフォーラム「二つの歩み」を開催した。外交文書からひも解くバンクーバーでの外交と、当時の日系カナダ人コミュニティの歴史を並べて考察するという新しい視点からのバンクーバーの日系の歴史を戦前から現代まで1年で6回シリーズとして開催した。

 「バンクーバーだからこそできたっていうのは、日系コミュニティの人たちと一緒に日系人の歴史の検証です。6回のワークショップを開きました。

 バンクーバー総領事館は1889年にオープンしています。そして最初の総領事が来てから今もそうですけど、外交として行った仕事の記録を東京に全部送るんです。それが外交資料館に残っています。それで、私は1889年に領事館ができた時からの記録をずっと見返して、総領事館は何をやってきたのかっていう話をしました。

 一方で日系コミュニティは日系コミュニティの歴史がずっと続いているわけで、それを並べてみると色々な局面で色々なことがあったことが分かります。日系コミュニティで何かが起きた時に総領事館は何をやったのか、そういう話を紹介するワークショップでした。これは私自身も非常に勉強になったし、日系コミュニティの方々も普通そういう外交文書って直接見ることはないと思うので、新しい事実というか、そういうものがたくさん見つかって、おもしろかったですね」

 今回の講演では、戦前の総領事館が日系カナダ人の人たちの問題にどのようにかかわったのかを説明。日系カナダ人の問題だからと見放すのではなく直接的ではなくても間接的に手助けしたことを紹介した。また在任中には日韓の歴史問題がバーナビー市に持ち込まれたことや、ようやくBC州から日本に向けて始まったLNG(液化天然ガス)の輸出が当時は非常に難しい問題だったことについても語った。

ブリティッシュ・コロンビア州に流れ着いた東日本大震災によるがれき漂流問題

 2011年に起きた東日本大震災は大きな問題を起こした。その一つが、地震や津波で出た大量の「がれき」が太平洋を渡り北米西海岸に到着するという問題だった。日本政府はカナダ・アメリカに清掃支援金を支払うことを発表し、カナダには100万ドルが送られた。さまざまな団体が清掃作業を行ったが、バンクーバーでは震災の募金活動のために日本人の学生が中心となって作った団体「ジャパンラブ・プロジェクト」が清掃作業でも活躍した。2013年には清掃に関する報告会が総領事公邸で行われている。

 「東日本大震災が起きて2年ぐらいたったころに、その震災のがれきが(北米)西海岸に流れ着くということで、カナダも含めて結構大きな社会問題になったんです。そこには色々な誇張された情報もたくさんあったので、それはカナダに対しては正確な情報を伝えました。『放射線汚染されたがれきが来る』みたいな心配もあったわけです。結果的にはそういうことはないですと伝えました。それでもがれきが到着するのは事実ですからカナダ側には不安があったのかもしれません。

 あの時にうれしかったのは日本人の学生が協力して、率先して自分たちで清掃活動しようとグループで清掃に行ってくれたことです。それに私と妻も一緒に(トフィーノまで)行って清掃活動をしました。行ってみると大変で。ご承知のとおり、あちら(バンクーバー島南部西海岸側)へは道路アクセスが難しいので、みんなボートでぐるっと回って行って、回収したゴミもゾディアックみたいなボートに乗せて持ってこないと持ってこれない。結構大変でした」

若い世代への期待

 「先ほども言ったように国際情勢って必ずしも良くなっていないというか、むしろ流動化しています。そういう中で若い人たちにもグローバルな視点がとても大事だと思っています。そういう意味で、私は学生たちにはどんどん(海外へ)出て行って(日本の)外を見てもらう。(日本の)外を見ることは合わせて日本のこともよく分かるんです。そういう目を持って、これからのキャリアの中で生かせてもらえたらなと思っています。

 外交官として私は基本的にはどこに行っても同じようにしていました。私たちの仕事は、仕事という局面で見れば外交の基本になるのは情報です。相手の国は何を考えているのかということを正確になるべく多くの情報を得ること、合わせてこちらからの情報もきちんと発信して、日本はこういうことを考えてますよ、ということを言っているのが、外交の仕事なんです。

 そういう意味では色々な人たちに会って、色々な人たちからお話を聞いて、またこちらからも必要な情報を提供してっていうことなので、それはどこの国に行っても同じです。

 ただバンクーバーでは、いわゆる仕事という意味での日本だけではなくて、日系コミュニティの方々とか在留邦人の方々もたくさんいますし、そういう方との中で得る情報もたくさんありますから、そういう意味ではここでは本当に色々な方とお会いできて本当に楽しかったです」

バンクーバーのコミュニティに一言

 「私は2013年から16年までここに滞在させていただきましたけれども、非常にたくさんの方々とお会いできて、日加関係というお仕事上の関係だけではなくて、個人的な、友情というか、色々な方とそれが育まれたのは私にとって本当に代え難い場所でした。

 私たちは1つの国に3年ぐらいしかいないので、そういう関係は大体それで終わるんですけど、ここではそうではなくて、ここでできた色々な方と関係をずっと続けていけたらいいなと思っています。

 ですので私はずっと日本にいますので、日本に皆さんがお越しになることあれば日本でもまた再開して色々な話ができればと願っています」

バンクーバー総領事時代から親しくしていたブリティッシュ・コロンビア州元議員ラルストン氏(左)と岡田氏(中央)、髙橋良明バンクーバー総領事(右)。2025年8月7日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/バンクーバー日本商工会
バンクーバー総領事時代から親しくしていたブリティッシュ・コロンビア州元議員ラルストン氏(左)と岡田氏(中央)、髙橋良明バンクーバー総領事(右)。2025年8月7日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/バンクーバー日本商工会

(取材 三島直美)

合わせて読みたい関連記事

Today’s セレクト

最新ニュース