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Naomi Mishima

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日本のお正月遊びで始業日を彩る グラッドストーン日本語学園

かるた取り(写真:グラッドストーン日本語学園)
かるた取り(写真:グラッドストーン日本語学園)

 2026年、午年の幕開けとともに、学園では子供たちが元気よく「明けましておめでとうございます」と新年の挨拶を交わし、2学期が始まりました。今年の1月の目当て「一年の計は元旦にあり」をテーマに、小学科では「毎日本を読む」「朝自分で起きる」「言葉ノートを早く終わらせる」などの目標を発表し、中学科や高等科では「漢字検定にチャレンジする」「日本文化を学ぶ」など、それぞれの抱負を語り合いました。

 その後、クラスごとにお正月遊びを行い、かるた取り・羽根つき・コマ回し・すごろく・福笑い・百人一首・書初めなど、日本の伝統的な遊びを体験。教室には子供たちの明るい笑い声が響きました。特に、学園オリジナルのBC州かるた取りでは、毎年の経験から素早く札を見つける子供たちの姿が印象的でした。福笑いでは、廊下まで笑い声が広がり、すごろくでは「おせち」「かがみもち」「かどまつ」など、お正月にちなんだ言葉を元気よく発表する様子が見られました。

 新年の伝統文化に触れ、子供たちにとって思い出に残る始業日となりました。

羽根つき遊び(写真:グラッドストーン日本語学園)
羽根つき遊び(写真:グラッドストーン日本語学園)
書初め(写真:グラッドストーン日本語学園)
書初め(写真:グラッドストーン日本語学園)
書初め作品(写真:グラッドストーン日本語学園)
書初め作品(写真:グラッドストーン日本語学園)
福笑いを楽しむ(写真:グラッドストーン日本語学園)
福笑いを楽しむ(写真:グラッドストーン日本語学園)

(寄稿:グラッドストーン日本語学園)

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喪失と創作をめぐる静かな愛の物語『Hamnet(邦題:ハムネット)』(クロエ・ジャオ監督)

Jessie Buckley stars as Agnes and Joe Alwyn as Bartholomew in director Chloé Zhao’s HAMNET Credit Agata Grzybowska / © 2025 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
Jessie Buckley stars as Agnes and Joe Alwyn as Bartholomew in director Chloé Zhao’s HAMNET Credit Agata Grzybowska / © 2025 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

 年が明け、映画界はいよいよ賞レースのシーズンに入りました。クロエ・ジャオ監督最新作『Hamnet』は、トロント国際映画祭(TIFF)観客賞をはじめ、ゴールデングローブ賞の作品賞と主演女優賞を獲得し、今年最も注目されている一本です。ジェシー・バックリーの圧巻の演技と、自然の美しさが心に沁みる、静かで力強い感動作となっています。

あらすじ

 マギー・オファーレルの同名小説を原作に、シェイクスピアの『ハムレット』誕生の背景を描きます。舞台は16世紀イングランド。自然と共に生き、直感的な感覚を持つアグネス(ジェシー・バックリー)と、言葉と演劇の世界に身を置く夫ウィリアム(ポール・メスカル)は、慎ましくも確かな愛情に満ちた家庭を築いていました。しかし、幼い息子ハムネット(ジャコビ・ジュプ)の死によって、二人の日常は大きく揺らぎます。本作は、喪失の悲しみの中で再生の兆しを見つけていく夫婦の姿を丁寧に描いていきます。

Director Chloé Zhao with actors Paul Mescal and Jessie Buckley with on the set of their film HAMNET, Credit: Agata Grzybowska / © 2025 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
Director Chloé Zhao with actors Paul Mescal and Jessie Buckley with on the set of their film HAMNET, Credit: Agata Grzybowska / © 2025 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

 この映画を観て強く心に残ったのは、「悲しみをどう生きていくのか」という問いでした。アグネスは、喪失の痛みを抱えたまま、それでも日々の生活を丁寧につないでいきます。その姿はとても静かで、だからこそ胸に迫ります。一方のウィリアムは、悲しみから少し距離を取り、創作という手段を通して息子の死と向き合おうとします。二人の在り方は対照的ですが、どちらも必死に生きようとする姿だと感じました。

 やがて『ハムレット』という作品が生まれ、失われた命に永遠の意味が与えられたとき、すれ違っていた二人の心が静かに重なっていく。その瞬間に、言葉にならない救いを見た気がします。この映画は、悲しみそのものを消すことはできなくても、「物語」が人を生かし、支え得るのだということを、そっと教えてくれているようでした。

 アグネスに関する史料は少なく、その生涯については多くが知られていません。それでも、シェイクスピアより年上であったことや、別居期間が長かったことなどから、二人の関係は必ずしも良好ではなかったのではないか、という説も伝えられています。しかし、この映画を観ていると、シェイクスピアの作品に見られるスピリチュアルな感性には、アグネスの影響が大きかったのだと思わずにはいられません。歴史上最も有名な劇作家の陰でひっそりと生き、愛していた彼女の存在に思いを馳せるとともに、彼女の存在に光を当てた原作も、ぜひ読んでみたくなりました。

Paul Mescal stars as William Shakespeare in director Chloé Zhao’s HAMNET, Credit: Agata Grzybowska / © 2025 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
Paul Mescal stars as William Shakespeare in director Chloé Zhao’s HAMNET, Credit: Agata Grzybowska / © 2025 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

 『Hamnet』は、喪失を克服する物語ではなく、悲しみと共に生き続ける厳しさと、その中に宿るかすかな希望を描いています。派手なシーンはありませんが、アグネスに寄り添いながら迎える終盤のクライマックスは、さまざまな感情が渦巻き、圧巻の一言です。ジェシー・バックリー、ポール・メスカル、そして子役のジャコビ・ジュプとノア・ジュプ、皆の演技が素晴らしかったです。

 余談ですが、
TIFFで鑑賞した際、「シェイクスピア?あまり興味ない」と話していた人たちも、最後には皆、涙を流していたことを付け加えておきます。

 バンクーバーではCineplex系で上映中です。

Lalaのシネマワールド
映画に魅せられて

バンクーバー在住の映画・ドラマ好きライターLalaさんによる映画に関するコラム。
旬の映画や話題のドラマだけでなく、さまざまな作品を紹介します。第1回からはこちら

Lala(らら)
バンクーバー在住の映画・ドラマ好きライター
大好きな映画を観るためには広いカナダの西から東まで出かけます
良いストーリーには世界を豊にるす力があると信じてます
みなさん一緒に映画観ませんか!?

第32回 愛を、争いに変えないために 今、できる終活 ~Let’s 海外終活~

終活は新しい大人のマナー

叶多範子

新しい年を迎え、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
年のはじまりは、これからの人生と、大切な人との関係を、そっと見つめ直すタイミングでもあります。

今日は新年のはじまりに、私にとって少し印象的だった出来事をひとつ、シェアさせてください。

昨年12月30日、アメリカでコーチングをされている方とじっくり言葉を交わす機会がありました。その対話の中で、私自身がずっと伝えたかったのに、うまく言葉にできずにいた思いが、ようやく一文になったのです。

終活は、
愛を、争いに変えないために、
今、あなたができること。

これまで私は、終活を「愛」や「思いやり」という言葉で表現してきました。
ただ、どこか抽象的で、本当に伝えたい核心に、もう一歩届いていない感覚もありました。

この一文は、私がこれまで見てきた数えきれない実例と、自身の経験が重なって生まれた言葉です。新しい年、この言葉を胸に、また一つずつ、丁寧に伝えていこうと思っています。

さて、ここから少し、大切なお話をします。

「面倒と思えているうちは、まだ余裕がある」。

この言葉は、年齢を重ねた方からの相談を聞いていると、実感する場面がとても多くあります。 特に、エンディングノートについては、そう感じることが少なくありません。

なぜ、年齢を重ねるほどエンディングノートが書きにくくなるのでしょうか?

理由は、とてもシンプルです。
体力と気力が、確実に落ちていくから。

考える
決める
選ぶ
振り返る

これらはすべて、想像以上にエネルギーを使います。

若い頃は無意識にできていたことが、年齢とともに少しずつ負担になっていく。

それなのに、
「ちゃんと考えなきゃ」
「家族に迷惑をかけないようにしなきゃ」
と思うほど、心と体が拒否反応を起こしてしまうのです。

そして「面倒」が、いつの間にか「しんどい」に変わり、結果として、手をつけられないまま時間だけが過ぎてしまう。

書いた方がいいのは分かっている。
でも、体力も気力も残っていない。
そんな状態に、多くの方が陥ります。

ここで、よく聞かれる質問があります。
70代や80代からでは、もう手遅れなのでしょうか。

正直に言うと、これは人によります。

自分で書けない
書く意欲がわかない。

そんな場合は、周りの人が手伝う、という選択肢もあります。

エンディングノートは、無理なら完成させなくてもいい。途中でもいい。空白があってもいい。

ただ、最低限の情報や、してほしいこと、してほしくないこと、それだけは残しておく。

私は遺言・相続専門の弁護士アシスタントとして、この「ほんの少し」が何も用意されていなかったことで、困り、苦しまれたご家族をこれまで数多く見てきました。

これは誇張でも、脅しでもありません。
私自身が現場で見てきた事実であり、率直な実感です。

だから私は、「全部、完璧にやりきりましょう」とはお伝えしていません。

「やれる元気があるうちに、少しでも書いておきましょう」
そうお伝えしています。

完璧でなくていい。未来の自分や家族が、「やっておいてよかった」と思える程度で十分です。

新しい年が、あなたと、あなたの大切な人にとって、少しでも安心につながる一年になりますように。

*ご感想・ご質問は、メールにてお気軽にどうぞ。voice@shukatsu.ca

本コラムは終活に関する一般的な情報提供を目的としています。内容には十分配慮しておりますが、必要に応じてご自身での確認や、専門家へのご相談をおすすめします。なお、本コラムをもとに行動されたことによる不利益については、免責とさせていただきます。

「Let’s海外終活~終活は新しい大人のマナー」の第1回からのコラムはこちらから。

叶多範子(かなだ・のりこ)

グローバルライフデザイナー/海外終活アドバイザー。カナダ・バンクーバー在住。

カナダで親しい友人を突然亡くした経験から、「準備があることで、まわりの負担が減り、安心して暮らせる」ことを痛感。現在も相続専門の弁護士アシスタントとして実務に携わりながら、海外で暮らす日本人が将来の不安を少しずつ整理できるよう寄り添いながら活動している。

エンディングノートを通じて、終活を“死の準備”ではなく、これからの自分の人生を整える“私活(わたしかつ)”として紹介している。

家族はカナダ人の夫、2人の息子、愛猫1匹。
ホームページ:https://www.shukatsu.ca

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「車社会」~投稿千景~

エドサトウ

 アメリカのトランプ大統領が発令した高い関税が大きな問題となったのは2025年の春のこと、アメリカでよく売れている日本車も大きな影響を受けた。

 日本のT社などは、今頃はドイツの車を抜いて、世界のトップクラスの売り上げだから、大変なことであろう。しかも、時代は小氷河期に向かいつつあると言う時代に、低温に弱いと言われている電気エネルギーの自動車に舵を切ろうとしているから、ガソリン車は少々難しい時代に入ってきたという感じである。

 過日、宇沢弘文氏の1994年の「自動車の社会的費用再論」を読めば、そろそろ自家用車などの生産を減少させても良いのではないかと思われた。

 1907年頃のバンクーバー市の記録フイルムを見れば、路面電車は走っているものの、街の大通りを走っているのは、車ではなく馬車ばかりであるから、大きな人身事故はなかったであろうと思われる。

 今頃、日本では車の事故の多い月は千件以上の事故があるというから、一年にすれば、かなり多くの人がケガをしたりして亡くなっている社会の中にあって、車の運用の在り方を変えてゆかねばと思える。

 「自動車の社会的費用の構成は、(人も含む)自然環境の破壊である。」と宇沢氏の論文にある。さらに「自動車の社会的費用として最後にあげなければならないのは、自動車の生産性、それにともなう地球的規模の環境破壊の問題である。ーーー」などなど、さらに「人間的魅力を備えた都市はまず何よりも歩くことを前提としてつくられなければならない。学校、病院、商店などすべて、公共機関をつかって利用できるように設計される。ジェイコブス的な街路は、道幅は広くなく、曲がっていて一つ一つのブロックが短い。しかも、十字路的な交差点では、T字路を基本としてーー」とある。

 バンクーバーの街に車が登場し始めたのは、記録フイルムによれば1950年頃のようである。それから75年過ぎようとして、AIのロボット社会になろうという時代に、車の事故のない時代、人が悲しむことのない社会を考えなければなるまい。

投稿千景
視点を変えると見え方が変わる。エドサトウさん独特の視点で世界を切り取る連載コラム「投稿千景」。
これまでの当サイトでの「投稿千景」はこちらからご覧いただけます。
https://www.japancanadatoday.ca/category/column/post-ed-sato/

「カナダ“乗り鉄”の旅」第32回 目玉の“走るレストラン”、高級ホテルとは正反対の流儀とは シリーズ「カナディアン」【6】

VIA鉄道カナダの夜行列車「カナディアン」の食堂車内(2024年8月12日、大塚圭一郎撮影)
VIA鉄道カナダの夜行列車「カナディアン」の食堂車内(2024年8月12日、大塚圭一郎撮影)

大塚圭一郎

 カナダの西部ブリティッシュ・コロンビア(BC)州バンクーバーと、国内最大都市の東部オンタリオ州トロントの約4466キロを4泊5日で結ぶVIA鉄道カナダの看板列車「カナディアン」の目玉となっているのが“走るレストラン”こと食堂車だ。高級ホテルのレストランの「常識」とは180度異なる運営をしており、意外にもそれが隠れた魅力となっている。

「カナディアン」の食堂車の予約票(2024年8月14日、大塚圭一郎撮影)
「カナディアン」の食堂車の予約票(2024年8月14日、大塚圭一郎撮影)

 【食堂車】主に長距離列車に連結しており、乗客に食事を提供する車両。乗客の食事用のテーブルと座席、調理用の台所と配ぜん設備を備えていることが多い。アメリカの鉄道車両メーカーだった旧プルマンが1968年に製造した「デルモニコ」が、全室を食堂車にした客車の先駆けとされる。アメリカの全米鉄道旅客公社(アムトラック)の夜行列車には食堂車をつないでいる。VIA鉄道カナダでも「カナディアン」のほかに、東部のケベック州モントリオールとノバスコシア州ハリファックスをつなぐ夜行列車「オーシャン」にも連結している。

 日本ではJR東日本の豪華寝台列車「トランスイート四季島」、JR西日本の「トワイライトエクスプレス瑞風(みずかぜ)」、JR九州の「ななつ星in九州」などに連結している。かつては東海道・山陽新幹線の一部列車や、長距離を走る特急列車などにも備えていた。

▽パーティーの来客のようにもてなす

 「カナディアン」は2両のディーゼル機関車が、旧型ステンレス製客車を引いている。2024年8月12日にバンクーバーのパシフィックセントラル駅を出発したトロント行きの列車は夏休みの繁忙期とあって計22両という長大な編成で、食堂車が2両連結されていた。

「カナディアン」に連結された食堂車の外観(2024年8月14日、大塚圭一郎撮影)
「カナディアン」に連結された食堂車の外観(2024年8月14日、大塚圭一郎撮影)

 利用できるのは最上級クラス「プレスティージ寝台車クラス」と、次いで料金が高い「寝台車プラスクラス」の乗客で、料金に食事代が含まれている。プレスティージ寝台車クラスの利用者はアルコール飲料も無料で注文できるのに対し、寝台車プラスクラスの場合は追加料金が必要だ。VIA鉄道の職員にチップについて尋ねると「食事のたびに支払う必要はないが、担当してくれたウェイターか、ウェイトレスに下車前に寸志を封筒に入れて渡すと喜ばれると思う」と助言されたので、そうした。

 客室の位置によって2両の食堂車のどちらかに割り当てられ、私たちは後ろから4両目に連結された車両だった。車内はテーブルごとに4席、計48席を備えている。車内の仕切りのガラスには鳥のイラストが装飾されているなど、気品が漂う空間だ。

 横長の窓からの車窓を眺めながら、シェフが併設された台所で調理したばかりの料理に舌鼓を打つ時間は格別で、列車旅ならではのぜいたくな時が流れる。

 VIA鉄道は食堂車について「楽しさと満足感を得られることを保証する」と太鼓判を押す。2023年12月に息子とともにトロントからバンクーバーまでの全線を乗り通した前回は、食堂車を担当するベテランのサービスコーディネーター、ショーン・ピジョンさんが「私は全ての利用者を、パーティーの来客のように歓迎し、もてなしている」と教えてくれた。

 もてなす手法が、VIA鉄道の食堂車の魅力を倍加させる“スパイス”として利いているのだ。しかし、それは実は「高級ホテルのレストランの常識に反する」(ホテルマン)というものだった。

▽クライマックスはいつ?

 2024年8月に再びカナディアンに乗車した際は、息子に加えて妻も伴った家族3人の総出となった。私の関心の的は「あの絶品の料理がいつ供されるのか」ということだった。それは23年12月にトロントからバンクーバーへ向かった際、“最後の晩餐”となった4日目の夕食の選択肢にあったメーンディッシュだった。

 それは、生後12カ月未満の仔羊の骨付きのロース肉を調理したラムチョップだ。世界中で鉄道旅行を楽しんできたという男性も「カナディアンのラムチョップは食堂車で食べた中で最高だった」と絶賛するほどの美味だった。

 トロントからバンクーバーへ向かう「VIA1」と名付けた1番列車でラムチョップが用意されたのは4日目の夕食で、BC州を走行中のことだった。

 これに対し、今回乗り込んだ反対方向のバンクーバー発の列車「VIA2」は、ラムチョップが前回提供されたBC州の区間がいきなりやって来る。その場合、初日の夕食で味わえることになる。

 一方、もしも“最後の晩餐”に取っておいているのならば、オンタリオ州を走る4日目の夕食に待ち受けているはずだ。その場合、ラムチョップの出番はいつになるのかと首を長くして待っていた私と息子は肩を落とすことになる。今回は途中のカナダ中部マニトバ州ウィニペグで下車するため、ラムチョップにはありつけないことになるからだ。

 果たして初日の夕食のメニューは何か。それが気になりながらバンクーバーを出発した2024年8月12日、予約時刻の午後7時に食堂車へ足を踏み入れた。4人掛けのテーブルに3人で着席し、渡されたメニューのページを繰った。

 願いが通じ、なんとラムチョップが入っていた。何とウェルカムドリンクならぬ“ウェルカムディナー”で早くもクライマックスが訪れた展開だ。味はもちろん、期待通りの素晴らしさだった。

「カナディアン」の食堂車でラムチョップを味わう筆者(2024年8月12日)
「カナディアン」の食堂車でラムチョップを味わう筆者(2024年8月12日)

 他にはケイジャンのスパイスを利かせて焼いたサケ、カナダの特産品のメープルシロップで味付けしたローストチキン、そしてベジタリアン用の料理が用意された。妻はサケを選び、「とてもおいしい」と満足そうだった。

▽「ブランチ」の定義に新説!?

 1日目にしてヤマ場を迎えた食堂車での体験は、2日目に帳尻を合わせてきた。この日は朝食ではなく昼食を兼ねた「ブランチ」という設定で、午前9時半から午後1時までの好きな時間に訪れる仕組みだ。

 反対方向の列車に乗り込んでいた2023年12月の前回乗車時も、西部アルバータ州の有名保養地のジャスパーを通る4日目だけブランチだった。このときはオープン直後の午前9時半にブランチのオムレツを食したため、午後9時に予約していた夕食まで半日近くの間が空いた。

 夕食で同席したアルバータ州エドモントン在住の心理カウンセラーの女性は「朝食が早くて昼食はなかったので、展望車両に置いてあったビスケットを食べてしのいだわ」とぼやいた。私も首を縦に振って「息子と私も同じ状況でした」と話した。

 すると、同席したジャスパーに住むカナダ国立公園局(パークス・カナダ)元職員の男性は「へー、そうなんだ」とどこ吹く風と言わんばかりの様子だ。女性が「あなたはどうしたの?」と質問すると、男性は「『ブランチ』と言っているのだから、そういう時はブレックファスト(朝食)とランチ(昼食)の2回行けばいいんだよ」と得意げに答えた。

 女性が「つまり朝と昼の2回食堂車に来て、どちらもブランチのメニューを注文したということ?」と確認すると、男性は「そういうこと。1回目は朝食のために午前9時半に来て、2回目は昼食を取るために午後1時に再訪したんだ」と説明した。

 男性は「別に注意されることもなかったよ。だって、映画『ロード・オブ・ザ・リング』では『2回目の朝食はないの?』という台詞が出てくるじゃないか!」と笑いながら解説した。

 確かにロード・オブ・ザ・リングでは、道中にピピンがアラゴルンに「朝食は?」と尋ね、アラゴルンが「食べただろ?」と返すと、ピピンが「1回だけしか食べてない。2回目の朝食は?」と食い下がる場面がある。

 男性の〝告白〟は、思わぬ相手にも伝わっていた。隣のテーブルの乗客が平らげたケーキの皿を下げようとしていたウェイターが、こちらに視線を送りながら「よろしければ2個目のケーキはいかがですか?」と声を張り上げたのだ。

 「2回目の朝食」を皮肉られたことに気づいた男性はすかさず「それは僕のアイデアだぞ!」と返し、皆で大笑いした。

▽「ホテルマンの常識」と異なる流儀

 このときの夕食で相席になった心理カウンセラーの女性も、パークス・カナダ元職員の男性も全くの初対面だった。ウェイターが4人掛けのテーブルに私たち親子と女性、男性を案内して同じテーブルになった。これは「相席にはしないのが常識」(ホテルマン)という高級ホテルのレストランでは見られない光景だ。

 食堂車を担当するピジョンさんは「食事の機会に新たな出会いが生まれるといいとの思いから、できるだけ同じテーブルに他の人と同席してもらっている」と教えてくれた。食堂車を利用するのは最上級のプレスティージ寝台車クラスの利用者と、次いで値が張る寝台車プラスクラスの乗客だけに、社交的で旅慣れた利用者が多い。

 したがって、ウェイターまたはウェイトレスから「相席でお願いします」と言われれば快諾し、互いにあいさつして会話を楽しむ場面が多く見られる。

 心理カウンセラーの女性も「知らない人たちと出会えるのがこの列車の楽しいところだわ」と語り、パークス・カナダ元職員の男性も、私たち親子もうなずいた。

 別の時の昼食では韓国人の親子と相席になり、「僕は日本のアニメのファンなんだ」という子どもの豊富な知識量に舌を巻いた。

 こうしてひとたび同席した人たちとは列車内で顔を合わせるとあいさつをしたり、会話をしたりするようになる。「パーティーの来客のように歓迎し、もてなしている」(ピジョンさん)という言葉通り、パーティーのように食事の席でも知己を広げ、交流できるように仕掛けられているのだ。

▽裏ワザを繰り出すチャンス到来!?

「カナディアン」に乗車した2日目の2024年8月13日、食堂車に提供されたブランチのメニュー(大塚圭一郎撮影)
「カナディアン」に乗車した2日目の2024年8月13日、食堂車に提供されたブランチのメニュー(大塚圭一郎撮影)

 さて、「2回目の朝食」という裏ワザを耳打ちされて迎えた2024年8月のブランチはどうしたのか。さすがに3人連れでブランチ時間帯に2度訪れると目立つのに加え、他の乗客の分や、乗務員のまかない飯が足りなくなっては申し訳ないので自粛した。

 ところが、公式な形で1日に3食を味わうことは可能だったのだ。2日目となる8月13日は午前6時半~8時という限られた時間に食堂車へ足を運ぶと、普段よりも簡素ながら朝食を出してもらえた。

 提供されるのはオートミールとシリアルに加え、ヨーグルトまたはトースト、マフィンの付け合わせだった。私たちは午前8時前に食堂車を訪れ、付け合わせにはトーストを選んだ。

 続いて3時間後の午前11時に再び足を運び、ブランチをいただいた。メニューは5択で、卵料理とハッシュドブラウンのハッシュドブラウンポテトなどを盛り合わせた「トランスコンチネンタル」、オムレツ、チキンポットパイ、パスタ料理、ビーガン向けのハッシュドブラウンと野菜、豆腐を組み合わせた料理が用意されていた。

ブランチのチキンポットパイ(2024年8月13日、大塚圭一郎撮影)
ブランチのチキンポットパイ(2024年8月13日、大塚圭一郎撮影)

 私は選んだチキンポットパイを食しながら、元パークス・カナダ職員の男性がドヤ顔でブランチ時間帯に2回訪問したことを明かした8カ月前の情景を思い浮かべた。そして、心の中でこう叫んだ。

 「今度こそ『2回目の朝食』にありつけたよ!」

共同通信社元ワシントン支局次長で「VIAクラブ日本支部」会員の大塚圭一郎氏が贈る、カナダにまつわる鉄道の魅力を紹介するコラム「カナダ “乗り鉄” の旅」。第1回からすべてのコラムは以下よりご覧いただけます。
カナダ “乗り鉄” の旅

大塚圭一郎(おおつか・けいいちろう)
共同通信社経済部次長・「VIAクラブ日本支部」会員

1973年、東京都生まれ。97年に国立東京外国語大学外国語学部フランス語学科を卒業し、社団法人(現一般社団法人)共同通信社に入社。2013~16年にニューヨーク支局特派員、20~24年にワシントン支局次長を歴任し、アメリカに通算10年間住んだ。24年9月から現職。国内外の運輸・旅行・観光分野や国際経済などの記事を多く執筆しており、VIA鉄道カナダの公式愛好家団体「VIAクラブ日本支部」会員として鉄道も積極的に利用しながらカナダ10州を全て訪れた。

 優れた鉄道旅行を選ぶ賞「鉄旅(てつたび)オブザイヤー」(http://www.tetsutabi-award.net/)の審査員を2013年度から務めている。共同通信と全国の新聞でつくるニュースサイト「47NEWS(よんななニュース)」や「Yahoo!ニュース」などに掲載されている連載『鉄道なにコレ!?』と鉄道コラム「汐留鉄道倶楽部」(https://www.47news.jp/column/railroad_club)を執筆し、「共同通信ポッドキャスト」(https://digital.kyodonews.jp/kyodopodcast/railway.html)に出演。
 本コラム「カナダ“乗り鉄”の旅」や、旅行サイト「Risvel(リスヴェル)」のコラム「“鉄分”サプリの旅」(https://www.risvel.com/column_list.php?cnid=22)も連載中。
 共著書に『わたしの居場所』(現代人文社)、『平成をあるく』(柘植書房新社)などがある。東京外大の同窓会、一般社団法人東京外語会(https://www.gaigokai.or.jp/)の広報委員で元理事。

日系カナダ人物語「記憶を次世代へ」:堀井昭さん「差別はいつでもどこでも起きる」

Dr. Akira Horii/堀井昭さん
Dr. Akira Horii/堀井昭さん

堀井昭さん

1931年10月、ブリティッシュ・コロンビア州バンクーバー市生まれ
1942年ブリティッシュ・コロンビア州イースト・リルエットに移動、1949年にバンクーバー市に戻る
元医師、両親は和歌山県出身

日系人への差別がなかったストラスコナ小学校時代

 「子ども時代はバンクーバーで育って、当時は差別なんて知りませんでした」と話し始めた。バンクーバーに住んでいた多くの日系人がそうだったように、ホリイさんもストラスコナ小学校に通った。

 当時の小学校ではイギリス系の生徒には上流階級意識があり、中国系、イタリア系、ユダヤ系の生徒たちをそれぞれ差別的に呼んでいたという。それでも「私たちを『ジャップ』と呼んでいるのは聞いたことがなかったですね」。生徒数の約50%は日系2世だったと思うと語る。『ジャップ』とは日本人を差別的に呼ぶ言葉だ。

 当時、ヨーロッパで第2次世界大戦が始まり、イギリスで困っている子どもたちにくつ下やキルトを送るため授業では先生がくつ下の編み方やキルトの作り方を教えていたという。

 「(太平洋)戦争前はハッピーな子どもでした。差別が何かも知りませんでしたしね」

人生が一変した真珠湾攻撃

 ハッピーな子ども時代を一変させたのは1941年12月7日、日本軍によるアメリカ・ハワイ州真珠湾攻撃だった。「世界が一変しました」。同日カナダが日本に宣戦布告。「日系カナダ人にとって天地がひっくり返る出来事でした」。

 ホリイさんが10歳の時だった。なにもかも突然に起きた。「突然学校を辞めなくてはいけなくなりました。パールハーバーまでは私はストラスコナ小学校のグレード5(5年生)で、アレキサンダー通りのバンクーバー日本語学校の5年生でした」。ストラスコナ小学校に通っていた日系カナダ人の生徒約630人が去らなくてはならなかった。学校の生徒数は半分に減ったという。

 それから日系カナダ人コミュニティに起こったことを説明した。

 カナダ政府は日本に起源を持つ全ての日系カナダ人をブリティッシュ・コロンビア(BC)州沿岸から100マイル(160キロメートル)以東へ移動することを強制。家屋、自動車、ビジネス、漁船などの財産は差し押さえられた。その中にはホリイさんの父親が所有していた漁船も含まれていた。健康な18歳から45歳までの男性はロードキャンプで働くことを強いられ、BC州内のホープ・プリンストン、レベルストーク・シカモス、ブルーリバー・イエローヘッドの3カ所に送られた。ロードキャンプ行きを拒否した者は移民局の建物の中に隔離される。また、ロードキャンプで抵抗した者はオンタリオ州の捕虜収容所(Prison of War)に送られた。

 カナダ政府がBC州内に用意した収容地は10カ所。最大規模だったのはタシメグリーンウッドスローカンシティ、レモンクリーク、ポポフ、ベイファームローズベリー、ニューデンバー、サンドン、カスロー。サンドンには仏教徒が多く送られ、高い山に挟まれた谷間の街で冬の環境があまりにも劣悪なため、のちにニューデンバーに移ったと説明した。これら10カ所は「政府から補助金がでる強制収容所でした」。

 1942年1月14日にカナダ政府が日系カナダ人を「敵性外国人」とし同年2月から収容所送りを開始するも、これら10カ所の収容所は準備が間に合わず、多くがバンクーバー市のヘイスティングス・パークに集められた。尿やフンの臭いのする馬小屋での生活を強いられ、長い場合には「9月や10月頃までそこで生活していた人もいたと聞いています」。

 その他に「自分たちで生計を立てて暮らす収容地がありました」。自立型収容地で、BC州内に5カ所。イーストリルエット、ブリッジ・リバー、ミントシティ、マックギリブレイ・フォールズ。政府からの補助金は一切ないため自分たちで生活しなければならない。ただ家族一緒に移動できた。

イーストリルエットでの生活

 「私の両親は自立型収容地に行くことにしました」。鉄道でコールハーバーからスココミッシュに行き、そこからパシフィック・グレート・イースタン・レールウェイ(PGE、現在のBCレール)、で移動した。当時はスココミッシュがPGEの最南端駅だったと記憶している。乗り換えてから一晩明けるとリルエットの町に着いた。「朝、目が覚めると山に囲まれていました。『こんな所に住むのかぁ』と思いましたね。でもまあ、リルエットという小さな町で住むのも悪くないかと考え直しました」。しかし「驚いたことに」と続けて、そこからさらにトラックに乗せられて4マイル(約6.5キロ)走って着いたのはフレーザー川を渡った「イースト・リルエットという場所でした」。

East Lillooet

 父親やそこに移動してきた男性たちは春になるとタール紙を使った小屋の建設を始めた。母親はホリイさんを筆頭に5人の子どもを抱えていた。「飲み水も、電気もなくて、差別のため仕事もありませんでした」。日系人はリルエットの町に入ることすら許されていなかったという。

 それでも生活のために色々と工夫した。飲み水は購入した。生活用水はフレーザー川からの水をろ過する装置を作って賄った。食料は野菜を自分たちで栽培した。冬季でも保存できるジャガイモやタマネギ、「ゴボウも作ってましたね」と笑う。食用に鶏も飼育、卵も取れた。時には先住民からサーモンを買うこともあった。「母はサーモンを缶詰にしていました」。各家には「お風呂」も作った。こうして自立した生活を送った。

 イーストリルエットに移動してきた男性は多くが元漁師だったため、生活のためにできることが限られた。そこで「救世主となったのがハニー(メープルリッジ)で農家をしていたトクタロウ・ツユキさんでした」。ツユキさんによるとリルエット地方の気候は暑くて乾燥しているのでトマト作りに最適だという。そこで共同でトマトの栽培を始めた。収穫したトマトはニューウエストミンスターに送っていたが、そのうちに町にトマトの缶詰工場を作るとそこで加工した。「そうやって7年間生き延びました」。

 苦しい生活環境だったが、男性たちは子どものために小学校を建てた。「でも教師がいなかったので高校を卒業していた人ならだれでも小学校の先生を務めました」。ただすでに高校生だった10代の若者は高校を卒業することができなかった。移動してきた当時はリルエットの学校には行けなかったからだ。

 しかし1946年までには通えるようになっていた。ホリイさんもリルエットの高校へ通い、4マイルを自転車で通学したという。冬の寒さが厳しいリルエットで「寒い日は道路が凍っていましたし、学校に着いた頃には口も凍っていました」。

 高校に通いながら家計を助けるためにアルバイトもした。町の新聞社で働いたり、父のトマト農園や缶詰工場でも働いた。「長男が家を助けるのは当たり前でした」。

 それから高校3年になってカナダ人の友人とUBCハイスクール・コンファレンスに参加するためにバンクーバーに戻った時のこと。学校代表として行くにもかかわらず警察の許可証が必要だったという。「自分が生まれた町に行くのにRCMP(連邦警察)の許可証を取らなければなりませんでした」。BC州沿岸付近にいることすら許されなかったのだ。「カナダ人の友人と二人で映画を見たあと、宿泊場所だったその友人のいとこの家に帰る途中、イースト・ヘイスティングス通りを歩いていると警察官に呼び止められました。私が日本人だと分かったんだと思います」。「ここで何をしている」と聞かれた。「リルエットからの許可証を見せました。バンクーバーに来るための特別な許可証でした」。1948年12月のバンクーバーはまだ日系人に冷たかった。

 そしてリルエットの高校を1949年に卒業した。

漁師をしながらUBC医学部を卒業

 1949年4月1日に強制収容政策は終了し、日系カナダ人は自由に移動できるようになった。同年に高校を卒業したホリイさんはブリティッシュコロンビア大学(UBC)に入学する。「両親が大学進学を許してくれました」。でも大学にお金がかかることは分かっている。「大学の寮に入っていましたけど、大学までは路面電車代10セントを節約するためにヒッチハイクをして通いました」。

 授業は通常5コースのところを6コース取った。「リルエットから出てきた田舎者の1年生はウブでした」と笑う。化学、物理、生物のラボもあった。「試験を受けて1年目を終えた時、よくやったなぁと思いました」。

 しかし父親の仕事を手伝うために1年で休学した。「父親はすごく漁師に戻りたがっていました」。1950年から父親を手伝って漁師となった。BC州北部のプリンス・ルーパート辺りでサーモン漁を始めた。漁師生活は2年間続いた。稼いだ収入は両親に渡した。やはりここでも長男として家族を助けるのは当然と考えていた。そうして家族は1951年にようやくバンクーバーに戻った。

 2年間の休学をへて1952年にUBCに復学した。相変わらず6コースを取ったという。夏には父を助けるために漁師として働いた。1957年まで漁師は続けた。

 1955年に大学を卒業し、友人から「医学部を受けてみないか」と誘われ申請したら「驚いたことに受理されました」と笑う。医学部時代には横隔膜下膿瘍で生死をさまよう経験をした。大学医学部の教授のおかげで一命を取り止めたが1年間を棒に振った。それでも1960年に卒業。それから2週間後には結婚し、フォルクスワーゲンで新婚旅行代わりにアメリカ北部を横断しトロントへ。トロント・ウエスタン病院で1年間インターンとして働いた。

医師時代に出会った日系一世の話

 強制収容前のバンクーバー。ホリイさんは家族の長男ということで、甘やかされることもあったという。例えば、パウエル通りの日本人街で、バンクーバー仏教会の前にあった小さな菓子屋にときどき連れて行ってもらっていた。「マツモト夫婦がやっていた店でした。そこで、あんぱんを買ってもらってました」。通っているうちにマツモト夫妻と仲良くなったが、強制収容時はどこに行っていたのか知らなかった。

 そして1961年医師として働き始めた頃、患者となったマツモト夫妻と再会した。その時に初めて、夫のマツモトさんが第1次世界大戦にカナダ兵として参加した退役軍人だったことを聞いた。「兵隊姿の写真は背が高くて、ハンサムで、強そうで。キンゴ・マツモトさんという名前でした」。

 日系カナダ人は第1次世界大戦にカナダ兵として222人が参加。BC州では差別が激しかったため入隊できず、アルバータ州まで行って入隊した。そのうち54人が戦死。バンクーバー市スタンレーパークには当時の日系コミュニティが建てた日系カナダ人戦没者慰霊碑がある。

 第1次世界大戦でカナダ兵として戦い、帰ってきた日系カナダ人には市民権が与えられた。「最初、カナダ政府は拒否したのですが、1931年に与えられました。東洋人としては初めての市民権でした」。しかし、「1941年12月、日本との戦争が始まるとマツモトさんも『敵性外国人』とされ、市民権もはく奪され、強制収容されました」。第1次世界大戦で戦った全ての日系カナダ人が同じ扱いを受けた。

 マツモトさんはヨーロッパで戦った時に毒ガスを吸っていたため肺を病んでいたという。「皮肉ですよね」。カナダのために命を懸けた国民への政府の仕打ちを皮肉った。

日系カナダ人強制収容と差別

「強制収容と差別について話すことに関心を持ち始めたのはずっと後になってからです」。医師時代は日本語ができる医師Dr. Aki Horiiとして親しまれ、多くの日系1世の患者を診た。いまは小学校や高校、大学、カレッジなどで経験談や差別について話している。

 ホリイさんは日系カナダ人に対するカナダ政府の対応は差別的な議員の言動が理由だったと話す。連邦、BC州、バンクーバー市、全ての政府に日系人に対する差別を公言する議員がいた。中でも国会議員からの言葉は特に影響が強かったという。

 当時のバンクーバー・サン紙に掲載されていた議員らの差別的な言葉を引用して、それがどれほどひどいものだったかを語った。「ジャップがブリティッシュ・コロンビア州に戻ることを決して許してはならない」「政府の計画は一刻も早くBCからこれらの人々(日系カナダ人)を追い出すことだ。私は公人として残された限りの時間を費やして個人的な意思を持ってこれを行う。彼らがここに二度と帰ってくることのないように」「ロッキーから太平洋まで一人のジャップも入れてはならない」

 そして、日本軍の真珠湾攻撃は日系カナダ人を追い出すための単なる口実だったことを論じるバンクーバー・サン紙2015年3月付の特集記事を紹介した。それは、1942年の同じ週の歴史として掲載されている。要約すると、東洋からの移民が来て以来50年の間、BC州は日本人の受け入れに反対してきた。しかし連邦政府がそれを阻止してきた。だが、このたびすばらしい軍事的理由で日本人を内陸部に移動させることができた。戦争を利用して問題を解決できたことは喜ばしい、と述べている。

 ホリイさんは「これを読むと戦争は当時日系カナダ人を追い出すための口実だったことがよく分かります」と力を込める。それは1945年8月15日に第2次世界大戦が終わっても続いた。1945年カナダ政府はBC州に住む日系カナダ人にロッキー山脈より東に移動するか、日本に帰るかの二者択一を迫った。約4,000人が日本へ行き、「多くの人はアルバータ州やサスカチュワン州に行きました」。

 差別はいつどこでも起きると話す。それは心に傷を残す。「かつて、医師たちのミーティング中に、ある医師が『ジャップ』という単語を何度も使ったんです」と自身の経験を語った。「それから1カ月、眠ることができなくて」。次のミーティングでそのことを告げるとその医師は謝ったという。

 「差別は最も予期しないところで起きるものなんだよ、と生徒たちには伝えているよ」と静かに語った。

(取材 三島直美)

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「お笑いの発想を絵本に」絵本作家 田中光さんバンクーバーでワークショップ

自作絵本を持って。田中光さん。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
自作絵本を持って。田中光さん。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 絵本作家の田中光さんが今年6月にバンクーバーを訪問。子どもたちを対象としたワークショップを開催した。

 2019年に出版した初めての絵本「ぱんつさん」(ポプラ社)が第25回日本絵本賞(全国学校図書館協議会主催)を受賞。その後も数冊を出版している。

 絵本作家以外にも、お笑い芸人、ギャク漫画家の顔も持つ田中さんに、バンクーバーで話を聞いた。

バンクーバーでのワークショップ開催

 今年6月29日にバンクーバー市で子どもを対象としたワークショップを開催した。田中さんによる絵本の読み聞かせや、テーマを選んで自由に絵を描いて発表してもらうなど、アクティブなイベントとなった。

 ワークショップには光浦靖子さんも参加。子どもたちの積極的で自由過ぎる発想に田中さんも感心しきりだった。

ワークショップについて

 「カナダに住んでいる子どもたちのテンションだったり、『私もやりたい、私もやりたい』という感じが強かったのにびっくりしました。すごく楽しく良いイベントになったと思います。子どもたちが『なんか作りたい』って言ってくれたので、すごくやって良かったなと思います」

造語をテーマに絵を描く

 ワークショップでは、田中さんがあらかじめ用意しておいた「単語」が書かれた紙を2枚選び、紙に書かれた単語を組み合わせて、これまでに聞いたことがない「造語」について子どもたちに絵を描いてもらうという企画があった。「シャイなすいか」「耳があるチョコレート」「すごく長いいちご」などの造語が出来上がり、子どもたち独特の感性でそれを絵で表現する。

造語からインスピレーションを受けて描いた自身の絵を子どもたちに見せる田中光さん(左)、一緒にイベントを盛り上げた光浦靖子さん(中央)、カメラを操作するウィトレッド太朗さん(右)。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
造語からインスピレーションを受けて描いた自身の絵を子どもたちに見せる田中光さん(左)、一緒にイベントを盛り上げた光浦靖子さん(中央)、カメラを操作するウィトレッド太朗さん(右)。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 この企画には田中さんなりの理由があった。

 「改めてものを見るってことが結構ないと思うんです。例えば「泳ぐリンゴ」という言葉ができたとする。ここで改めてリンゴのことを考える。その時にリンゴの特徴を多分みんな一回頭の中でぐるぐるっと回して、いろんな角度からリンゴを見るんです。赤い、酸っぱい、甘い。過去にリンゴを食べてお腹を壊した子がいたら『お腹を壊した』とか。連想されるものがたくさんあると思うんです。切ってしばらく置いとくとちょっと黒くなっていっちゃうとか。この、リンゴの特徴をいろんな角度から見るっていうことが結構大事だと思っていて。

 これって多分将来的に子どもたちが大人になった時も、大人もそうですけど、一つ問題が起こった時に『もうダメや』ってなるんじゃなくて、ちょっと目線をずらして、こう見たら『意外とこうやったらいけるやん』とか、多角的に物を見れるような能力ができたらいいなと思って。一回考えてみようっていう感じにしてるんです。

 見たこともない、初めて今日出来上がった言葉『泳ぐリンゴ』を考えてみる。いろんな角度から『泳ぐ』ってことは沈むんかな?リンゴは浮くんかな?塩水やったらちょっと黒くなりにくいんかな?とか。頭の中でそれをいろんな角度から見る。

 これは大人も結構いろんなことに応用できることだと思うので、そういう部分ができたらいいなと思ってます」

 子どもたちの発想ははるかに自分の想像を超えていたという田中さん。「自由ですよね。カナダの子どもたちはパワフルでしたね。『こんなものの見方してるんや?』とか発見がありました。結構何人かぶっ飛んだ子もいましたよね。おもしろいなと思って。絶対にポテトしか描かない子どもとか(笑)。カナダの子どもたちは『ペンがない』『もっと紙ほしい』みたいな。すっごい前のめりで。『描きたい』『なんか作りたい』っていう気持ちがいっぱいあって、うぁってなってたんで、これはすごく良かったなと思って。そういう衝動が生まれただけでよかった。光浦さん、ありがとうございます!っていう感じでした」

 子どもたちに絵を描いてもらう提案は光浦さんからだったという。当初はそれほど積極的に子どもたちに絵を描いてもらう予定ではなかったと話す。最初は田中さんや光浦さんが子どもたちからもらった言葉をヒントに絵を描いて、その子に描いた絵を渡していた。しかし光浦さんから「子どもたちにも描いてもらおう」と会場で提案された。

 子どもたちは田中さんや光浦さんがいる場所に近い所で床に座って二人を見ていた。「僕が絵を描いてるところをのぞきに来たり、ちょっかいかけに来てもいいしと思って前に座ってもらいました。多分、いすに1時間もじっと子どもたちは座っていられないと思いましたし」。結果的にそれが子どもたちに絵を描いてもらう提案で生きた。「良いイベントになりました。最初思い描いてた状態とは違いましたけど、それが良かった。色々とこんなやり方もあるんだと思って、めちゃくちゃ勉強になりました」

絵本について

自身の絵本を使って読み聞かせをする田中さん。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
自身の絵本を使って読み聞かせをする田中さん。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 ワークショップの前半では読み聞かせもあった。自身の絵本を画面で見せながら読んでいく。文字が少なく、絵が主体の絵本には想像力がかき立てられるようだ。田中さんは子どもたちに話しかけながら、双方向の読み聞かせとなった。

 「僕の絵本は文字が少ないんです。だから『これこうなってて』みたいなコミュニケーションを取りながら、家で読んでいただく場合も一緒に読めるんです。その言葉、そのストーリーに余白があると言いますか、こうなってこうなるっていうのを決めてないので。お父さん、お母さんたちが、好き勝手に物語を足してもいいですし、セリフを勝手に足してもいいですし、そういう余白をちょっと残してるというような感じです。

 色々コミュニケーションツールになると思ったんですよ、絵本自体が。親子で『これどうなってんやろ?』みたいな。そうなるといいなと思いながら、なるべく意味を減らそうとは思ってます。

 内容はあまりストーリーもつけずに、僕は、変な世界の現象だけを描きたいなっていう感じなんです。意味を説明もしたくないし、無意味なものを作りたいっていうところでやってます。絵本でちょっとパンクをしたかったという感じでしょうかね。

 基本絵本の作りが『いないいないばあ』なんです。一番シンプルな、子どもが最初に触れるお笑いってこれじゃないですか、『いないいないばあ』。だから『猫いる?いる!』だけの繰り返しにして、そこの段積みというか、どんどんエスカレートさせていって、それで、今はなかなか紙で本を買うことも少ないというのが世界的になってると思うんすけど、子どもたちが紙の本をめくる楽しさみたいなものがここに生まれるとは思ってるので。隠しておいて『いないいないばあ』って、紙だからできる動きだし、これを好きだなと思ってくれたらいいなとは思ってます」

バンクーバーでワークショップを開くきっかけ

 「そもそもがちょっとカナダに遊びに来たかっただけなんです。で、1回来てみたかったので、せっかく来るならっていうことで知り合いからこういうワークショップできるんじゃないかと提案してもらったのがきっかけです」

 今回は、バンクーバー市ガスタウンにあるギフトショップ「Gifts and Things」オーナー佐藤さんと日本カナダ商工会議所副会長のウィトレッド太朗さんがサポートした。田中さんが佐藤さんたちと出会うきっかけは、ひょうたんアーティストのあらぽんさんだったと話す。

 「あらぽんっていうひょうたんアートをしている人がいるんですけど、事務所は違うけど芸人の後輩にあたるんです。あらぽんと僕はCM出演がきっかけで仲良くなって。それで佐藤さんを紹介していただいて。カナダでこういうお仕事されてる方ですって。会わせてもらってお話してるうちに『カナダ行きます、僕!』ってなって」

 佐藤さんによると、出会って半年くらいでバンクーバー訪問が実現したという。「佐藤さん、太朗さんはじめ、色々な方に本当に助けていただいて。1人で来てたら絶対できないイベントなので、言葉も話せないし、すごく助かって。ありがたいです」

お笑い芸人、ギャグ漫画家、絵本作家

 「(京都の)美術の大学で、版画学科に行ってて、1年で中退して吉本興業に入って、それからずっと10年ぐらい漫才とかやってて、絵を描き始めたって感じです。

 どっちで食べていくかは悩みながらだったんです。絵で食べていこうか、芸人で食べていこうか。出身が関西なんでお笑いもすごいしたいなと。漫才とかすごいおもしろいの作れるけどな俺とか、変な勘違いをしながらやってて。絵は意外と年を取ってからでも描けそうやなと思ったけど、お笑いは年取ったらなかなかスタートするのが難しいと思うので、先にお笑いやっとこうと思って、大学辞めて、吉本興業入って、みたいな感じです」

絵本作家になるきっかけ

 「きっかけというほどのきっかけはなくて」という田中さん。ギャグ漫画を描いていた時に、仕事関係で仲の良い人と一緒に親戚のおじさんも誘ってコンサートに行ったという。コンサートの後、「居酒屋で飲んでて、『今何やってるんですか?』って親戚の人に聞かれて、ギャグマンガとか書いてるんですよって見せたら『絵本とか書いてみます?』って。その人がポプラ社の方だったんです。『え、いいんすか?』『いいですよ』ぐらいで始まったんです」

 記念すべき1冊目「ぱんつさん」が日本絵本賞を受賞。「それで『じゃ次も出してください』となって。その後もたくさん出させていただけるようになって、あれよあれよと気がつけば絵本作家になってたんです」

 今は芸人活動はやっていないという。「あんまり人前が得意じゃないなっていうのに気づいたので(笑)。家で絵を描いてる方が性に合ってるなぁって、感じですね」

 それでも絵本の発想はお笑いからだと言う。

 「大喜利ってあるじゃないですか?その場の瞬発力でお題に対して何かを言う。1個に対していっぱい答え考えて書くっていうのを、本当にもう多分20何年やっているので、そこはやっぱ強くなりましたね。すぐ作れます。ただ、描くのが面倒くさいなってなっちゃうことはありますけど。

 思いつくのは早いんですよ、『こんなんやりたいな』って。寿司だったら寿司にタイヤがついてたらどういう状況が生まれるかな、みたいなのを、とりあえずバーッと思いつく限りiPhoneのメモ帳に書いちゃって。『これつまらんから取ろう』『これとこれ繋げたらおもしろいよな』『これとこれ意味が似てるから1個取ろう』とかを、バーッと頭の中で組み立てて。それで、ページ数決まってるんで32ページに収まるようにして。それから大体さっくり絵を描いてっていう感じですね。

 お笑いでネタを作っていたので、ネタを作る時の経験が生かされてると思います」

今後の絵本作家としての目標

 「自分の絵本を日本から脱したいなという気持ちはあります。ギャグマンガとか、お笑いは海外に出にくいと思うんです。文化が違うし、お笑いも違うし、笑うポイントも違うし。アメリカだったらスタンダップコメディが基本だったりしますし。ボケ・ツッコミみたいな文化もないですし。なかなかお笑いが海外に出せなかったんですよね。

 これを絵本で、お笑いじゃない状態にして。発想はお笑いから作っているんですけど、お笑いじゃないような顔をして出していけば、うっすら芸術と勘違いしてくれる人がいるんじゃないかと思って。

 日本以外でも受け入れられるようなものができるとすごく楽しいだろうなと。僕の世界もきっと広がると思います」

バンクーバーの印象について

イベント終了後に参加者の求めに応じて記念撮影や絵本に自筆の絵とサインをする田中さん。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
イベント終了後に参加者の求めに応じて記念撮影や絵本に自筆の絵とサインをする田中さん。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 「僕が来たこのタイミングが、夜が長い時期だったので、これは日本にいたら体感できない部分で『おもしろいな』って。夜9時ぐらいでも明るいから、すごい昼間からお酒飲んでるような気持ちでふらふらしていられるのは贅沢ですよね。

 あと自然と人工物、文化のバランスっていうのが、どっちもいいです。町として元気もあるし、バンクーバーはいいなと思いました。自然も多いし、きれいですもんね。とても景色もいいですし」という話す。合法化されている大麻のにおいも少し気になったと本音も語った。

 バンクーバーで絵本にできるようなインスピレーションがあったか聞くと気になったのはトーテムポール。「あの形って色使いも含めておもしろいから、トーテムポールとは言わずとも、何かを積むっていうのは、積んでるわけじゃないけど、動物がこう積み上がってるいるように見える形は、おもしろいかもしれないです。本だったらだるま落としみたいなことがあると思いますね」と語った。

読者プレゼント

 田中光さんが絵とサインを入れた絵本を2名様(各1冊)にプレゼントします。ご希望の方は件名に「田中光さん絵本希望」と明記して、田中さんへのメッセージや記事への感想を寄せてご応募ください。応募先はpromo@japancanadatoday.ca、締め切りは2026年1月31日
 たくさんのご応募お待ちしております。

 当選者の方には2月初旬に連絡いたします。郵送となりますので、当選者はカナダ国内に限らせていただきます。当選者には、氏名・住所・電話番号をお聞きます。あらかじめご了承ください。

訂正:読者プレゼント締め切りは2026年12月31日ではなく、2026年1月31日です。ご希望の方は早めにご応募ください。

(取材 三島直美)

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山野内勘二駐カナダ特命全権大使より新年のごあいさつ

 日加トゥデイ読者の皆様、明けましておめでとうございます。明けましておめでとうございます。令和8年を迎え、新年の御挨拶を申し上げます。

 今年は午年です。天高く駆け上がる駿馬の如く、力強くしなやかに飛躍に満ちた一年となりますよう祈念しております。

 昨年は、カナダにとって激動の年でありました。1月のトルドー(前)首相の退陣表明に始まり、3月のカーニー氏の新首相就任、議会解散に続いて、4月の総選挙、5月のカーニー新政権の発足、6月のG7カナナスキス・サミットの開催のほか、年間を通じ、春・秋計2回のG7外相会合を含む計7つのG7関係閣僚会合やビジネスサミット(B7)等の計6つのエンゲージメント・グループ会合を開催する等、各分野で確実な成果を上げつつ、激動の年を確かな歩みで駆け抜けました。とりわけ印象に残っているのは、カーニー新政権が発足して僅か1か月で開催したG7カナナスキス・サミットです。カーニー首相の見事な采配ぶりに加え、議長サマリーのほか、重要鉱物アクション・プランやAI、量子等7つの首脳声明を発出したことは大変大きな外交成果であったと思います。カナダのG7議長国としてのリーダシップと貢献に改めて敬意を表したいと思います。 

 日本とカナダの二国間関係に目を転じますと、G7カナナスキス・サミットにおける日加首脳会談に続き、APECにおける日加首脳会談、G7ナイアガラ外相会合における日加外相会談等、ハイレベルの意思疎通が切れ目なく緊密に行われているほか、経済や安全保障の分野で新たな協力の展望を拓く、いくつかの重要な動きがありました。

 まず、6月末には、待望のBC州のLNGカナダプロジェクトによるLNG生産が開始され、日本を含むアジア地域への出荷が開始されました。年間1,400万トンのLNG生産能力を有するカナダ最大規模のLNGプロジェクトで、日本への輸送時間が約10日間であるなど、我が国及びインド太平洋地域のエネルギー安全保障にとってゲーム・チェンジャーと言える存在です。カーニー政権が推進する「主要プロジェクト」に選定された「LNGカナダ・フェーズ2」の実現に大いに期待すると共に、カーニー政権の「エネルギー超大国」構想にも注目していきたいと思います。

 7月には、情報保護協定の署名が行われました。国際社会は時代を画する変化に直面し、信頼関係にある国との間で機密性の高い情報を交換する重要性が高まる中、日加間の情報交換を促進する本協定を基に、安全保障分野における関係がより一層拡大・深化することに期待しています。また、日加防衛装備品・技術移転協定についても早期の署名を実現させ、強靭で信頼性のあるグローバルな防衛サプライチェーンの構築を含む防衛産業分野での協力強化が一層進むことを期待しています。

 9月には、史上初となる航空自衛隊F-15戦闘機によるカナダ訪問が実現し、日加空軍種協力の新たな一歩となりました。今回の訪問では、両空軍種による戦術面の意見交換や共同訓練に関する議論が活発に行われ、相互理解と信頼が大きく深まりました。カナダ側からは航空自衛隊の運用能力や機動力に対する高い評価が寄せられ、今後の協力拡大への強い期待が示されました。この歴史的な訪問をきっかけに、日加防衛関係の更なる発展に期待したいと思います。

 12月には、経団連カナダ委員会による9年ぶりのカナダ訪問が実現し、オタワでは、カーニー首相を始め、アナンド外務大臣、ホジソン・エネルギー・天然資源大臣、ジョリー産業大臣、シャンパーニュ財務大臣、シドゥ国際貿易大臣及び連邦議会加日議連執行部との意見交換の機会に恵まれました。カーニー政権が重視する貿易の多角化や大型インフラプロジェクトの推進、エネルギー輸出の政策課題等、更なる連携強化に繋がる有意義な意見交換ができました。また、経団連とカナダ・ビジネス評議会との協力覚書への署名が行われ、日加ビジネス協力の新たな枠組みが立ち上がったことは心強く、更なる前進に期待したいと思います。

 民間交流に関しても多くの進展がありました。大阪・関西万博を契機に、多くのカナダの方が訪日し、訪日人数が前年比20%増の70万人に届く勢いとも側聞しております(2025年12月現在)。カナダの「再生」をコンセプトとしたパビリオンでは、拡張現実(AR)を駆使した没入型の体験を通じて、カナダの自然美、多様性、歴史と革新性等を表現したほか、カナダの食や活気溢れるパフォーマンス等をショーケースし、多くの訪問客を魅了しました。

 9月には北米初の北米国際よさこい祭りがアルバータ州レスブリッジ市で開催され、私も参加し、よさこいをきっかけとした日系コミュニティを超えた様々な人々との繋がり、また、繋がることで見えてくる新たな希望を肌で感じることができました。同祭りの翌日、レスブリッジ市で開催されたNAJC(全カナダ日系人協会)年次総会にも参加させていただきました。テーマは「繋がり」。日系人コミュニティの連携が引き続き強化され、更なる希望が育まれることに期待しています。

 10月から11月にかけては、カナダ唯一のMLBチーム「トロント・ブルージェイズ」が32年ぶりにワールドシリーズに出場しました。私も連日「ジェイズ」のユニフォームを纏い、オタワから同僚や地元の方々と共に熱い歓声を送りました。ドジャーズには惜敗を期しましたが、「ジェイズ」の今年の活躍を確信しています。

 カナダにおいては、1988年の開始以来、累計1万人を超える青年が参加し、日加間の民間交流に寄与しているJETプログラムについても、引き続き大切にしていきたいと考えています。

 紙面の都合上、日加関係の全ての進展をここに記すことはできませんが、様々な形で日加関係の増進に日々御尽力されておられる皆様の御活動に心から敬意を表したいと思います。日本とカナダは、厳しい地政学的な状況にあって、自由、民主主義、人権、法の支配といった基本的価値を共有するインド太平洋を隔てた隣国、信頼できる同志国、重要な戦略的パートナーであります。二国間あるいはインド太平洋における様々な取組を着実に前進させ、日加関係を更なる高みに引き上げるべく、より一層力強く努力してまいります。本年も変わらぬ御支援をよろしくお願い申し上げます。                                    

(了)

髙橋良明在バンクーバー日本国総領事より新年のごあいさつ

新年のご挨拶

「日加トゥデイ」の読者の皆様、
新年あけましておめでとうございます。
皆様におかれましては、健やかに新春をお迎えのことと、心よりお慶び申し上げます。

私が在バンクーバー日本国総領事として着任してから、一年二か月が経過しました。この間、当地の皆様から温かいご支援とご協力を賜りましたことに、改めて深く感謝申し上げます。

昨年は、日本とカナダの関係が着実に深化した一年でした。ブリティッシュ・コロンビア州キティマット港から日本向けのLNGが初めて出荷され、すでに日本の家庭やビジネスを支えていることと思います。また、六月には、BC州のイービー首相が経済ミッションを率いて訪日されるなど、官民を挙げた交流も一層活発化しました。こうした動きを背景に、日加関係は今後ますます緊密なものとなっていくことが期待されます。

また、私が働くバンクーバーには多数の在留邦人の方々が暮らしており、活発で結束力のあるコミュニティとして、日頃から総領事館の活動を支えていただいています。昨年七月に実施された参議院議員通常選挙における在外投票では、各国における日本の在外公館の中でも有数の投票数が記録されるなど、皆様のご協力に改めて感謝申し上げる次第です。

本年も、カナダ西海岸に所在する日本の総領事館として、当地における日本の存在感を高め、日加関係のさらなる深化に貢献できるよう努めてまいります。皆様の変わらぬご理解とご支援をお願い申し上げるとともに、本年が皆様にとりまして実り多き一年となりますことを、心よりお祈り申し上げます。

在バンクーバー日本国総領事 髙橋良明

「冬至の日*駿河の海に富士ひかる」

カナダde着物

第78話
*里帰りで着物を学ぶ*

 いよいよ、今年の二十四節気も冬至を迎えました。

 世界中では、依然として紛争や戦争が続き、心を痛める出来事が後を絶ちません。
 日々報じられるニュースに、不安を感じることも多かったのではないでしょうか。

 そのような中でも、私たちはそれぞれの場所で日常を重ね、人とのつながりや、学び、ささやかな喜びに支えられながら、この一年を歩んできたように思います。

 冬至は、一年で最も夜が長い日であると同時に、ここから再び光が増していく節目でもあります。

 どうかこの冬至が、皆さまにとって心を静め、次の季節への希望を見出すひとときとなりますように。
 寒さ厳しき折、くれぐれもご自愛ください。

「Peace, Love, and Passion」Manto Artworks
「Peace, Love, and Passion」Manto Artworks

 晩秋の日本へ里帰りをしています。

 駿河湾を囲むように私の故郷静岡県はありますので、東京へ向かう時も大阪へ向かう時も、どちらかの肩側に駿河湾を横にし、お天気がいい日には、雪を覆う富士山を見ながら目的地へ向かうようになります。
 今年の秋は、珍しく肌寒い日もあり、富士山はうっすらと雪化粧、青空とのコントラストが美しい姿を見せてくれました。

「晩秋の富士山」コナともこ
「晩秋の富士山」コナともこ

 静岡の自宅とグループホームに暮らす両親は、会うたびに少しずつ体が小さくなっていきます。 小柄な私でさえ、自分のほうが成長しているのではないかと錯覚してしまうほどです。

 それでも、好奇心旺盛な二人は、デイサービスやホームで行われるさまざまなアクティビティに積極的に参加しています。
 母は俳句や書道に親しみ、父は毎日新聞に目を通し、いつまでも時代の流れを感じていたいという思いがあるのでしょう。

 日本人は、季節を楽しみ、外からの文化を柔軟に取り入れながら、日々の暮らしを楽しむことを大切にしてきました。

 そのため、シニア向けのアクティビティも非常に充実しており、カナダに住む私たちも、ぜひ見習ってみたいものです。

「季節を楽しむ日本の食文化、秋の和菓子、米寿のお祝いに金目鯛の煮付けをリクエストする母」コナともこ
「季節を楽しむ日本の食文化、秋の和菓子、米寿のお祝いに金目鯛の煮付けをリクエストする母」コナともこ

*今日の着物*Today’s Kimono*
「里帰りで着物を学ぶ:きもののヒミツ 友禅のうまれるところ」

 私が静岡に到着した折、ちょうど静岡市美術館で、きものの特別展覧会が開催されていました。
 これはぜひ見たいと思い、早速、幼なじみと一緒に出かけることにしました。

 彼女は、春の里帰りの際にも私に付き合ってくれた友人で、着物や帯の制作にも携わる、共通の“着物好き”でもあります。
 作品を見る目も確かで、展示を前に交わす会話は尽きることがありませんでした。

 京都と静岡の二都市のみで開催されたこの展覧会は、友禅の老舗・千穂のコレクションを中心に構成され、近世の着物や当時流行した雛形本、友禅染裂、染め型、さらには人間国宝によるきもの作品などが紹介されていました。
 デザインが生み出される背景や、制作者の創意に迫る内容は、「きもののヒミツ」と題され、見応えのあるものでした。

「静岡市美術館にて”きもののヒミツ 友禅のうまれるところ”展覧会にて」 コナともこ
「静岡市美術館にて”きもののヒミツ 友禅のうまれるところ”展覧会にて」 コナともこ

 真っ白な館内に並ぶ、豪華絢爛なきものの数々。
 日本刺繍の繊細さや洗練されたデザインは、百年以上前のものとは思えず、今なお新しささえ感じさせます。

 一反の布に込められた技と美意識、そして時代を超えて受け継がれてきた感性に触れながら、着物が単なる衣服ではなく、日本の文化や精神を映し出す存在であることを、改めて実感しました。

 幼なじみと静かに作品を見つめながら過ごした時間は、心豊かなひとときとなりました。

「着物の撮影はできませんでした。美術館のショップには着物に関する専門書が並んでいました。」コナともこ
「着物の撮影はできませんでした。美術館のショップには着物に関する専門書が並んでいました。」コナともこ

*今年最後のご挨拶*My last greeting of the year*

 今年も残すところ、あとわずかとなりました。皆さまにとりまして、どのような一年だったでしょうか。

 本年も、和の学校@東漸寺ならびに東漸寺では、日本文化を通じて、季節の行事やさまざまな教室、ワークショップを開催してまいりました。日本を離れて暮らしていても、学び、楽しめることはたくさんありますね。

 そこで得た知識や経験を生かし、カナダの皆さんへ日本文化を紹介する「大使」としてのご活躍も期待しております。大それたことをしなくても、日々の暮らしの中に和の文化を取り入れて過ごすことは、十分に意義のあることだと思います。

 どうぞ皆さま、良いお年をお迎えくださいませ。

コナ ともこ
(和の学校@東漸寺 主宰)

「Rainbow & I」Manto Artworks
「Rainbow & I」Manto Artworks

*参照*

暦生活
https://www.543life.com

静岡市美術館
https://shizubi.jp/

展覧会「きもののヒミツ:友禅の生まれるところ」
https://shizubi.jp/exhibition/20251025_kimono/251025_01.php

「着物語り」
コナともこさんが着物の魅力をバンクーバーから発信する連載コラム。毎月四季折々の着物やカナダで楽しむ着こなしなどを紹介します。
2020年8月から連載開始。第1回からのコラムはこちらから

コナともこ
アラ還の自称着物愛好家。日本文化の伝道師に憧れ日々お稽古に励んでおります。
14年前からコキットラム市の東漸寺で「和の学校」を主宰。日本文化を親子で学び継承する活動をしております。

年間を通じて季節の行事に加え、お寺での初参り、七五三祝い、十歳祝い、元服祝い、二十歳祝い、結婚式、生前葬、お葬式などの設えと装いのお手伝いもさせていただいております。

*詳しくはコナともこ までお問い合わせ下さい。tands410@gmail.com
東漸寺は非営利団体で、和の学校の収益は東漸寺の活動やお寺の維持の為に使われています。

カナダ人の夫+社会人と大学生の3人娘がおり、バンクーバー近郊在住。

和の学校ホームページ https://wanogakkou.jimdofree.com/
インスタグラム https://www.instagram.com/wa_no_gakkou_tozenji/
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東漸寺Tozenji Temple https://tozenjibc.ca/

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「東漸寺🌸春🌸2024」Manto Artworks
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