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シベリアから日本に来た「ポーランド孤児」(後編)「君が代」からたどる父の過去

ポール・ヴォイダクさん、在カナダ日本国大使館開催プレゼンテーションにて。2026年2月、オンタリオ州オタワ市(本人提供)
ポール・ヴォイダクさん、在カナダ日本国大使館開催プレゼンテーションにて。2026年2月、オンタリオ州オタワ市(本人提供)

 ブリティッシュ・コロンビア州タイー・レイクに住むポール・ヴォイダクさんは、父パヴェル・ヴォイダクの生涯に関し調査し、「シベリアからの脱出、記憶からの脱出」(2024年)を出版した。その中で、こう書いている。

–ある日、家に来た日本人の修理工が仕事を終えて帰ろうとしていると、父は直立不動の姿勢になり、日本の国歌「君が代」を歌い始めた。完璧に歌えた。日本語で1から10まで数えることもできた。父は誇らしげだった。

シベリアから日本に来た「ポーランド孤児」(前編)記録が語る父の過去

■日本で健康を取り戻した孤児たち

 1919年、ロシアで「ポーランド救済委員会」を組織したアンナ・ビエルキェヴィッチらは、シベリアで悲惨な状況にあったポーランド孤児たちの同国帰還を計画。日本政府・陸軍・海軍、日本赤十字社がこれを支援した。

 1920年7月から21年7月まで、ウラジオストクから5回の航海で375人が福井県敦賀港に到着。東京の福田会(ふくでんかい)育児院が無償で提供する宿舎に向かった。1922年には、さらに390人の孤児が同港に着く。大阪市がやはり無償で提供した大阪市立公民病院の付属看護婦寄宿舎に収容された。

 孤児たちは栄養失調でやせ細り、中にはチフス、コレラ、皮膚病を患っている子もいた。しかし、東京や大阪で受けた献身的な看護と栄養ある食事のおかげで健康を取り戻す。着物を着て、日本の子どもたちと遊び、遠足に行った。日本語を学びながら日本の文化に親しみ、ポーランドと日本の国歌も練習した。

 「孤児たちは日本滞在が平均わずか3カ月だったにもかかわらず、生涯にわたり日本での思い出を記憶していた。優しい看護、親切、安心感が、彼らの心に深い印象を残したからでしょう」とヴォイダクさんは話す。そして、ある出来事を振り返る。

 父パヴェルが45歳ごろのこと、家にきた日本人の修理工としばらく一緒にいた父は、その修理工の帰り際、突然「君が代」を歌い始めた。「驚きました。どんな言葉であろうと、父が歌うなんてそれまでなかったこと。父の心の奥深くで眠っていた日本での温かい思い出が、その日本人と接したことで目覚めたのでしょう」

■日本での思い出

 ヴォイダクさんは「シベリアからの脱出、記憶からの脱出」の中で、ポーランド孤児たちの日本での思い出の数々を紹介している。

 「とても低いテーブルで、木製の箸を使って食べた。どう使うのか最初は分からなかったが、すぐに上手に使えるようになった。日本の文化が好きになった」

 「初歩の日本語を習った。日本滞在は、まさに日本語の詩にあった『希望の夜明け』だった」

 「(病気から回復すると)着物を着せてもらい、草履をはいた。着物は、職業学校の女性たちが縫ってくれた。着物の袖にはお菓子やボール、なんでも入る。そのうち袖が重くなる」

 「靴職人が私たちの足のサイズを測った。翌日、全員に靴が配られた」

 「日本の国歌や亀についての歌を教えてもらった。今でも思い出す。もしもしかめよ、かめさんよ…」

■ポーランド大使、孤児ゆかりの場所を発見

 ポーランド孤児を受け入れた東京の福田会(ふくでんかい)は、仏教の高僧による発議で1876(明治9)年に創立され、日本初の児童養護施設を運営した。

 2010年、渋谷区広尾を歩いていた当時の駐日ポーランド大使ヤドヴィガ・ロドヴィチ=チェホフスカさんは、福田会の看板に目が留まった。日本語には精通している。ポーランド孤児の話については知っていた。「あの福田会のことだろうか」。確認しようと事務所に入り職員と話しているうちに、孤児たちについて書かれた古い新聞記事が発見された。

 福田会の園庭には、孤児たちを撮影した斜面が今も残っている。その写真のコピーが入った額を手にロドヴィチ=チェホフスカ元大使は、「今から100年以上も前、この斜面でポーランドの子どもたちが写ったことに感動する。孤児たちが日本で受けた親切はいつまでも人の心に響く」と語る。

ヤドヴィガ・ロドヴィチ=チェホフスカさん、福田会の園庭で撮ったポーランド孤児の写真コピー(左)と、同じ場所に立ったロドヴィチ=チェホフスカさんの写真(右、右端)が入った額をもって(ポーランド、スレユベク、2026年5月、高橋文撮影)
ヤドヴィガ・ロドヴィチ=チェホフスカさん、福田会の園庭で撮ったポーランド孤児の写真コピー(左)と、同じ場所に立ったロドヴィチ=チェホフスカさんの写真(右、右端)が入った額をもって(ポーランド、スレユベク、2026年5月、高橋文撮影)

■パヴェルとヴワディスワフ

 日本で体力を回復した孤児たちは、順次ポーランドに向かった。東京に滞在した375人は8グループに分かれ横浜からアメリカ経由で。大阪に滞在した390人は神戸からスエズ運河経由、イギリス・ロンドンに至り、1922年11月初旬、ポーランドに着いた。

 アメリカに向け出発する最初のグループ56人は、「ポーランド救済委員会」のユゼフ・ヤクブキェヴィッチに引率され、1920年9月28日、横浜から日本郵船・伏見丸に乗船。同年10月12日シアトル到着。

 伏見丸の乗船客名簿にヴォイダクさんが父パヴェルだと確信するヴワディスワフ・ヴォイダクの名前がある。

 ヤクブキェヴィッチは孤児たちから「お父さん」と呼ばれていた。ヴォイダクさんは父パヴェルから「子どものころ父親に連れられアメリカに行った」と聞いていたが、父親とはヤクブキェヴィッチのことだったのだろう。

 さらに、アメリカ到着後に作成されたヴワディスワフに関する記録では、雑誌「極東の叫び」のリストにある情報に加え(前編参照)、「この少年は話そうとしない」、出身地はロシアのノボミコワイェフスク、少年の父親はヴワディスワフ・ヴォイダクとある。これらの記述に関しヴォイダクさんは、この少年はハルビンで発見された時、持ち物に父親の名前が記されたものを持っていたのではないか。しかし、話そうとしないので本人の名前が判明せず、父親の名前がこの少年の名前として使われたのではないかと考える。そうだとすると、いつ、なぜヴワディスワフからパヴェルという名前になったのか。

■ドイツ軍にいた父

 ヴワディスワフはアメリカ到着後、シカゴとミルウォーキーの孤児院で1年3カ月ほど過ごし、その後、ポーランドに送られた。ドイツ国境近くの孤児院に着くと、そこからさらにドイツ系ポーランド人夫婦がもつ農園に移される。労働者として扱われ、納屋で寝た。冬だけ靴をはくことを許された。農園主に連れられ、収穫した作物を国境を越えドイツ側に売りにいくこともあった。

 このようにドイツ色の濃い環境で生きる間に、名前がポーランド名ヴワディスワフからドイツ名ポールと変わり、その後ポールのポーランド語での呼び方パヴェルになったのではないか。父がドイツ語を話せた理由も納得がいくとヴォイダクさんは言う。

 ドイツのポーランド侵攻で始まった第2次世界大戦の間、父はドイツで働いていた。そう母リッキーから聞いた。しかし、ドイツ軍がポーランド人を招集することは、ドイツ敗北が濃厚になるまではなかった。ドイツで働いていたというのは強制労働だったと考えられる。

 ヴォイダクさんは父のドイツ軍歴を調べようと、ドイツ連邦公文書館に問い合わせ、2020年、次のような内容を含む記録を受け取った。

 ポール・ヴォイダク、1912年7月27日(ドイツ語表記で)ノボミコワイェフスク生まれ、1944年1月召集、同年3月イタリアに配置。

 想像通りドイツ軍での父の名前は「ポール」。1944年であれば、ドイツ敗北は見えてきていた。

 先にイギリス国防省から入手していたポーランド軍歴には「パヴェル」とあった(前編参照)。1944年9月、ドイツ軍を離脱してポーランド軍に加わった時点でポーランド風にパヴェルとなったことが分かる。

 ドイツ軍への入隊は44年1月。戦争勃発の39年9月以降44年までドイツ国内で強制労働下にあったのであれば、41年リビアの「トブルクの戦い」に父はいなかったことになる。44年1月から5月までのイタリア「モンテ・カッシーノの戦い」にもいたかどうかは分からない。いたならばドイツ側だ。

 戦争初期からポーランド軍にいたと言っていたことや、名だたる戦いでの体験談は作り話だったのか。ヴォイダクさんは、「ショックを受け、打ちのめされた」と自著に書いている。

■記憶からの脱出

 「父は孤児院を転々とする理由を十分に理解していなかったに違いない。故郷や文化から引き離された孤児は、言語や文化的アイデンティティを失うことがある。自分がだれなのかという感覚が乏しく、自尊心も低くなる」とヴォイダクさんは説明する。

 子どものトラウマ(心的外傷)と記憶喪失に関する勉強をした。そして父パヴェルは、トラウマ後のストレス障害(PTSD)の状態にあったという分析に至る。

 シベリアで子ども時代に目撃したと思える両親の死。暴力や苦しみ。厳しい寒さや病気。パヴェルは精神的シックを受け、感情は混乱した。その結果、話すことができなくなった。心の中で、つらい過去の記憶を分離しようとする働きが起こり、自分の名前も両親についても語ることができなくなった。

 反対に、体験してもいない軍隊での話は、認識票にあったコンスタンティ・ムロテックの体験をあたかも自分のものとして記憶し語ったと思われる。ムロテックは、パヴェルが入隊した部隊に先にいて戦死した実在人物であったことをヴォイダクさんは後日知った。パヴェル自身は、ポーランド軍に属して以降、部隊の仲間からムロテックについて聞き、彼の軍歴を自分自身の体験として記憶した可能性がある。

 パヴェルは除隊となったイギリスで、オランダ出身の女性リッキーと出会い結婚。1948年、ヴォイダクさんが生まれる。一家は52年、カナダに移住。オンタリオ州で堅実な生活を営んだ。パヴェル、1984年11月逝去。

 ヴォイダクさんは、「日本での温かい思い出は、孤児たちがよい大人になるのに役立った」と、父の人生と重ね合わせる。パヴェルは花を育てるのが好きだった。特に菊が好きだった。「日本では菊が特別な意味を持っていることを習っただろうか」とヴォイダクさんは言い、自著「シベリアからの脱出、記憶からの脱出」の表紙にあるパヴェルの写真と菊の花の絵を見る。そして、「この本が、日本とポーランド、そしてカナダを結ぶ架け橋になってくれればうれしい」と結んだ。

(取材 髙橋文)

<関連サイト>

資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」敦賀ムゼウム
社会福祉法人 福田会 福田会について | 社会福祉法人 福田会 | 社会福祉法人 福田会
日本赤十字社 感染症と赤十字|特別企画|赤十字WEBミュージアム
在カナダ日本国大使館開催「日本が救済したシベリアのポーランド孤児に関するプレゼンテーション」日本が救済したシベリアのポーランド孤児に関するプレゼンテーション | 在カナダ日本国大使館

高橋 文(たかはしあや)

カナダ在住ジャーナリスト。カナダの文化・歴史に関する記事をカナダと日本の新聞に執筆。

第2次世界大戦中、リトアニアで外交官・杉原千畝から日本通過ビザを受給しカナダ・アメリカ・オーストラリアをはじめとする国々へ渡ったユダヤ難民と子孫らに関する調査・取材記事を多数執筆。カナダと日本での「杉原ビザ」関連の常設・企画展示に参画。関連シンポジウムやセミナー等で講演を行っている。

著書:
「太平洋を渡った杉原ビザ:カウナスからバンクーバーまで」(岐阜新聞社、2020年)
「命のビザで旅した子どもたち:暗やみから光さすほうへ」(同、2021年)

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シベリアから日本に来た「ポーランド孤児」(前編)記録が語る父の過去

ポール・ヴォイダクさん、「シベリアからの脱出、記憶からの脱出」表紙イメージのあるシャツを着て。2026年7月、ブリティッシュ・コロンビア州タイ―・レイク(本人提供)
ポール・ヴォイダクさん、「シベリアからの脱出、記憶からの脱出」表紙イメージのあるシャツを着て。2026年7月、ブリティッシュ・コロンビア州タイ―・レイク(本人提供)

 ポール・ヴォイダクさんは、ブリティッシュ・コロンビア州バンクーバー市で40年間、地質学者として働き、2011年に引退。現在、同州スマイザーズ市に近いタイ―・レイクに住んでいる。2024年、父パヴェル・ヴォイダクの生涯に関する「シベリアからの脱出、記憶からの脱出」を出版した。

 2026年7月、ポール・ヴォイダクさんにオンラインで話を聞いた。

■父の経歴

 ヴォイダクさんの両親がそれぞれの生い立ちについて話すとき、大きな違いがあった。母リッキーは、オランダのアムステルダムで両親と姉兄妹あわせて8人の家族で育ったこと、若い頃の思い出などを快活に話してくれた。反対に、ポーランド人の父パヴェルは自身の過去についてほとんど語らなかった。孤児院にいた、農場で住んだと話すことはあった。しかし、それらの名前も場所も言おうとしない。

 父に両親のことを聞くと、母親は汽車の事故で亡くなった。その後、父親も汽車の事故で亡くなったと言う。それ以上は言わない。しかし、子どもの頃、日本とアメリカに行ったことがあり、父親が連れていってくれたと話していた。

 不明なことが多かった父の経歴をたどろうと、調査を始めたのは2001年5月。父の没後17年がたっていた。家には、第2次世界大戦中、ポーランド軍で兵士として父が属していた部隊のバッジや、認識票のブレスレットが残っていた。しかし認識票に父の名前はない。コンスタンティ・ムロテックとなっている。敵に捕まった時のための偽の認識票と父は説明した。血液型だけが父と同じだ。リビアの「トブルクの戦い」や、イタリアの「モンテ・カッシーノの戦い」での体験については、臨場感あふれる口調で語ってくれたものだ。

 そういった思い出の品や話を手掛かりに調べていると、同大戦中、ソ連軍に捕まったポーランド軍兵士や彼らの家族がシベリアに抑留されていたことを知った。関連して、大戦以前には、シベリアにいたポーランド人の子どもたちが孤児となり、1920年から21年、日本とアメリカを経由してポーランドに帰国したという簡単な記述も目にした。父の子ども時代と年代があう。それに日本とアメリカに行ったことがあるという父の話とも共通する。「父は孤児の一人だったに違いない」。直観で確信した。

■記録が示す父の過去 

 同じ2001年の6月、ヴォイダクさんは、「極東の叫び」という雑誌(1924年刊)に掲載されたポーランド孤児救済に関する記事のコピーを得た。それは「ポーランド救済委員会」による詳細な報告で、東京で撮影された孤児たちの写真と、子どもたちに関するリストが含まれていた。それぞれの氏名・年齢・同委員会により子どもたちが発見された場所・両親の生存に関する情報・アメリカでの滞在先が載っている。

 リストに、ヴォイダク姓の気になる男児の情報がある。名前はヴワディスワフ・ヴォイダク、7歳、満州のハルビンで発見され、両親はいない、ウィスコンシン州ミルウォーキーとある。

 ヴォイダクさんの父の名前であるパヴェルではなく、ヴワディスワフであることは疑問だ。しかし、この男の子は父だと再び確信する。

 同じく2001年、ヴォイダクさんは、イギリス国防省に第2次世界大戦中の父のポーランド軍歴を問い合わせた。1939年9月に勃発した同大戦中、40年6月以降、ポーランド亡命政府はイギリス・ロンドンにあり、ポーランド軍はイギリス軍下となった。さらに父はイギリスで除隊になったからだ。2001年6月、同省から3つの驚くべき内容を含む記録が届いた。

 まず、父は1912年7月27日、ポーランドではなく、ロシアのノボミコワイェフスク(現ノボシビルスク)で生まれた。しかしこれは父がシベリアで孤児になったとするなら納得がいく。

 次に、父はヴォイダクさんの母であるリッキーとイギリスで結婚する前に、ポーランドで他の女性と結婚していた。これについてリッキーは既に知っていた。「便宜上の結婚」という。経済的援助のため、市民権取得のため、あるいは出産前に法律上の夫婦になるためなど、いくつか理由が考えられる。

 何よりも仰天したのは、1944年9月、父はドイツ軍を離脱してポーランド軍に加わっていた。ドイツ軍にいたとは、聞いたことがなかった。

 こういった事実を基に、ヴォイダクさんは数多くの書籍・インターネットを通して情報を集める。関係すると思われる場所にはカナダ国外でも足を運んだ。ポーランド孤児の子孫たちの集まりに積極的に参加して話を聞く。そして孤児たちの話をまとめ、父パヴェルにも起こったと考えられる状況を推定した。

■シベリアのポーランド孤児

 シベリアのポーランド孤児とは、ロシア革命(1917年)やそれに続く内戦による混乱で、シベリアに取り残されたポーランド人の子どもたちのこと。親は、1800年代にロシア帝国によりシベリアに流刑された政治犯、1800年代末から1900年代初頭にシベリア鉄道敷設に関連した技術者や労働者、第1次世界大戦中の1915年、ドイツ侵攻によりロシアへ退去を余儀なくされたポーランド人たち。

 革命を起こした急進派は、ポーランド人を反革命的とみなし、さげすんでいた。職を追われ、配給制となった食料や衣料を受け取ることができなくなったポーランド人は難民となる。流れる方角は東。

 革命や内戦が起こる前、シベリアには4万から5万人のポーランド人がいた。革命後、難民となり極東方面へ逃げたポーランド人は15万から20万人に膨れ上がった。(1) その混乱の中で、親が殺されたり、親からはぐれたりした子どもたちは、家もなく、飢餓・病気・危険にさらされながらシベリアに置き去りにされていた。ヴォイダクさんは、1918年から19年、当時6歳であった父パヴェルと彼の両親は、この災いの渦の中にいたと考える。

■シベリアからの脱出

 ロシア極東ウラジオストクに住むポーランド人政治活動家アンナ・ビエルキェヴィッチは、やはり同地で活動していた医師ユゼフ・ヤクブキェヴィッチらと、1919年、「ポーランド救済委員会」を組織。シベリア東部や満州のハルビンで浮浪する数多くのポーランド人の子どもたちの悲惨な状況を目の当たりにし、彼らをポーランドへ帰国させるための活動を始める。

 アンナ・ビエルキェヴィッチは、孤児たちについてこう書いている。

 「列車の数が足りないため、兵士たちは吹雪の中でも難民を列車から追い出すことがある。目撃者の一人は、ある列車の中をのぞきこんだところ、複数の遺体と、亡くなった母親の傍らで凍死している少年を目にしたと語った。親たちは自分たちの服を子どもたちにかけ、持っている食べ物を与え、子どもたちの身に何が起こるかも知らずに死んでいく。凍死した親たちの遺体が彼らの赤ん坊の間に横たわり、青ざめた顔には凍りついた涙が残されているのを彼は見た。数多くの子どもたちがさまよっていて…」(2)

 また、同委員会のユゼフ・ヤクブキェヴィッチは、次のように報告している。

 「私たちは、ロシア人や中国人の避難所に身を隠していたポーランド人の子どもたちを探し続けた。廃列車の中で住んでいる子どもたちもいれば、軍の兵舎に逃げ込んだ子どもたちもいた。近くにポーランド人がいると聞けば、私たちは足がふらつくまで歩き回って彼らを探し出した」(3)

 1920年4月、アンナ・ビエルキェヴィッチは、救援の協力者を求めてまず中国の上海へ向かった。しかし成果は得られなかった。同年6月中旬、北海道に渡りカトリック教会で協力を懇願したが即座に拒否された。そこで東京へ行き可能性をさぐる。戦争関連の省庁から外務省へとまわり孤児の窮状を説明。援助協力を嘆願すると、孤児たちを運んでくれるという。さらに、日本赤十字社を訪ねると全面的な支援を約束してくれた。こうして日本政府・陸軍・海軍と日本赤十字社の連携によるポーランド孤児救済が実現することになる。

 同年7月20日、ウラジオストクから日本陸軍の輸送船・筑前丸で最初の56人の孤児が出発。同23日に福井県敦賀港に到着した。

 敦賀港では、20年後の第2次世界大戦中、リトアニア駐在の領事代理・杉原千畝が発給した日本通過ビザ、いわゆる「命のビザ」を携えたポーランド国籍ユダヤ人を主とする数千人の難民が上陸。敦賀市ではこれらポーランド孤児とユダヤ難民に関する出来事を広く知ってもらおうと、資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」で紹介している。

(後編に続く)

資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」
資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」
同館前、ポーランド孤児とユダヤ難民の上陸地点をしるしたタイル(ともに2025年5月、高橋文撮影)
同館前、ポーランド孤児とユダヤ難民の上陸地点をしるしたタイル(ともに2025年5月、高橋文撮影)

(1) Paul Wojdak, Escape from Siberia, Escape from Memory, FriesenPress, 2024, p.67 / Teruo Matsumoto and Wieslaw Theiss, Siberian Children: Japan’s Aid for Polish Children, 1919-1921, Warsaw, Wydawnictwo Sejmowe, 2018, p. 178.

(2) Wojdak, Ibid., p.85 / Matsumoto and Theiss, Ibid., p.182-183.

(3) Wojdak, Ibid., p.84 / Matsumoto and Theiss, Ibid., p.179-180.

(取材 高橋文)

高橋 文(たかはしあや)

カナダ在住ジャーナリスト。カナダの文化・歴史に関する記事をカナダと日本の新聞に執筆。

第2次世界大戦中、リトアニアで外交官・杉原千畝から日本通過ビザを受給しカナダ・アメリカ・オーストラリアをはじめとする国々へ渡ったユダヤ難民と子孫らに関する調査・取材記事を多数執筆。カナダと日本での「杉原ビザ」関連の常設・企画展示に参画。関連シンポジウムやセミナー等で講演を行っている。

著書:
「太平洋を渡った杉原ビザ:カウナスからバンクーバーまで」(岐阜新聞社、2020年)
「命のビザで旅した子どもたち:暗やみから光さすほうへ」(同、2021年)

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建友会、ジャパンフェアでの募金をチルドレンズホスピタルに寄付

左から、建友会の牧田さん(役員)、BCチルドレンホスピタル担当者、建友会松原会長。2026年5月14日、バンクーバー市。写真提供 建友会
左から、建友会の牧田さん(役員)、BCチルドレンホスピタル担当者、建友会松原会長。2026年5月14日、バンクーバー市。写真提供 建友会
左から、建友会の牧田さん(役員)、BCチルドレンホスピタル担当者、建友会松原会長。2026年5月14日、バンクーバー市。写真提供 建友会
左から、建友会の牧田さん(役員)、BCチルドレンホスピタル担当者、建友会松原会長。2026年5月14日、バンクーバー市。写真提供 建友会

 建友会は5月14日、バンクーバー市のBCチルドレンズホスピタルを訪問し、765.21ドルを寄付した。

 寄付金は2026年4月11日、12日にバンデューセン植物園で行われたバンクーバー桜まつりの日系イベント「さくらデイズ・ジャパンフェア」で、同会のブース「風車体験コーナー」で募金箱を設置して集まった参加者からの寄付。同会は毎年ジャパンフェアに参加し、ブースで募金活動を継続。2024年は同年1月に起きた能登半島地震の被災者支援として寄付したが、毎年BCチルドレンズホスピタルに寄付している。

 今年のジャパンフェアも盛況で、毎年人気の風車体験コーナーにも多くの人が訪れた。建友会はホームページで「参加いただいた皆様、本当にありがとうございました」と募金活動協力への感謝を掲載している。

 建友会はバンクーバー地域の建築・建設関係者のコミュニティ。グレーターバンクーバーとその近郊を中心に活動する建築・建設及び周辺産業に従事する会員が互いに切磋琢磨し、幅広く深い技術力を持った集団に成長することと、会員それぞれの事業の発展を促す環境整備と相互協力を深めることを目的に、2012年11月に設立された。

左から、建友会の和田さん(役員)、BCチルドレンホスピタル担当者、建友会松原会長。2026年5月14日、バンクーバー市。写真提供 建友会
左から、建友会の和田さん(役員)、BCチルドレンホスピタル担当者、建友会松原会長。2026年5月14日、バンクーバー市。写真提供 建友会

(記事 三島直美)

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「パウエル祭50年」~投稿千景~

エドサトウ

 初夏に息子と日本を旅した際に、宿の実家から車で一時間もしない名古屋市東部に東山動物園があり、少しばかり小雨がぱらつく不安な天気の日であったが、出かけて一日、朝の開園から4時近くまで、園内を散策をした。

 その時に少し階段を登った高台の展望台の近くにカバのいる水槽公園で、水中に長く潜っているカバの動きを面白く興味深く眺めていて、「あんなに、長く息も吸わずに水の中にいれば、死んでしまうのに、カバはバカか?」と思えば、そうでもなく長生きをしている。

 調べてみると、カバは大きな肺の中に空気を留めたり、筋肉の中に酸素を効率よく蓄えられる特殊なたんぱく質を多く持っているために、最大5分から8分間、水中にもぐり続けることができるらしい。

 ぼくも大きな国カナダで夏、パウエル祭の座ダイコンの演劇活動をとおして元気をもらい、高齢化社会を元気に静かにバンクーバーで生きている。日本は猛暑の夏なのに、パウエル祭翌日のここの朝の気温16度ぐらいなのは、体が楽なのでカバのように長生きできるかもしれない?かばの寿命は人間でいえば80歳くらいまでいきるそうです。

 パウエル祭50周年、おめでとうございます。

2026年パウエル祭での座ダイコン。オープニングの一場面。
2026年パウエル祭での座ダイコン。オープニングの一場面。

投稿千景
視点を変えると見え方が変わる。エドサトウさん独特の視点で世界を切り取る連載コラム「投稿千景」。
これまでの当サイトでの「投稿千景」はこちらからご覧いただけます。
https://www.japancanadatoday.ca/category/column/post-ed-sato/

韓国代表スーパースター擁するLAFCとの西カンファレンス首位攻防は引き分け「勝ち点3を取れるように」とGK高丘

LAFCの攻撃を防ぐホワイトキャップス11。2026年8月1日、BCプレース。LAFC戦。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
LAFCの攻撃を防ぐホワイトキャップス11。2026年8月1日、BCプレース。LAFC戦。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
FWソンは常にGK高丘を脅かす...。2026年8月1日、BCプレース。LAFC戦。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
FWソンは常にGK高丘を脅かす…。2026年8月1日、BCプレース。LAFC戦。写真 斉藤光一/日加トゥデイ

 韓国代表スーパースター擁するLAFCとの西カンファレンス首位攻防戦は引き分けに終わった。FIFAワールドカップのため3カ月ホームから遠ざかっていたバンクーバー・ホワイトキャップス。この日BCプレースには4万人が詰めかけた。

8月1日(BCプレース:40,086)

バンクーバー・ホワイトキャップス 1-1 ロサンゼルスFC

 試合序盤から圧倒的に押していたホワイトキャップスだったが、37分、一瞬の隙をつかれLAFCソン・フンミンが決め先制する。ホワイトキャップスは後半も徹底的に攻めるがゴールに結びつかず。しかし76分、ミュラーがPKのチャンスに確実に決めて同点。試合はそのまま引き分けた。

MFミュラーのPKが決まる。今週はバンクーバーがプライドウィークだったため、この日はプライドゲームとして開催。ネットもポールのフラッグもプライドカラーに。2026年8月1日、BCプレース。LAFC戦。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
MFミュラーのPKが決まる。今週はバンクーバーがプライドウィークだったため、この日はプライドゲームとして開催。ネットもポールのフラッグもプライドカラーに。2026年8月1日、BCプレース。LAFC戦。写真 斉藤光一/日加トゥデイ

「ソンのゴールは一瞬の隙をつかれた」

 GK高丘陽平は「ほとんど自分たちがゲームを支配していた」と振り返った。しかしLAFCがずっと守りを強いられる中でカウンターを狙っているのが分かっていながら「一瞬の隙をつかれてしまった」と反省。良い選手が揃っているチーム相手にあのような場面も抑えることが大事と語った。

 ソレンセン監督は「全体としては良い試合だったと思うが、相手のすばらしいゴールでやられた感じはあった。ああいうゴールをどうやって止めるかっていうのはいつも話し合っていることではあるが」と高丘と同様の見解を示した。オフサイドになった幻のゴールも含め、試合序盤に何度もゴールチャンスがあったが、決めきれなかった。監督は相手の守りがよかったと語ったが、「選手にしてみれば良い試合運びをしているのに1点を追いかける展開になってストレスだったと思うが、焦らずにいいバランスでプレーできていた」と選手をねぎらった。

試合終盤の88分。GK高丘がLAFCソンと1対1に。2026年8月1日、BCプレース。LAFC戦。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
試合終盤の88分。GK高丘がLAFCソンと1対1に。2026年8月1日、BCプレース。LAFC戦。写真 斉藤光一/日加トゥデイ

 チームは7月後半にレギュラーシーズンが再開して以来、まだ勝ち星がない。この日は終始攻めていただけに勝ち点3がほしい試合だった。高丘も「勝ち切るチャンスもあったと思うので、決め切って勝ち点3を取れるチームにならなければ」と悔しがった。

 首位攻防が引き分けたため、順位は変わらず、勝ち点34で並ぶも試合数が少ないホワイトキャップスが西カンファレンス首位を堅持、LAFCは2位。3位には1ポイント差でサンノゼ・アースクエイクスが追い上げている。

3カ月ぶりのBCプレース、韓国ファンも多く

 ホワイトキャップスには4月25日以来のホームゲームとなった。BCプレースが6月11日から7月19日まで開催されたFIFAワールドカップのバンクーバー会場となったため、5月は全試合を、7月もレギュラーシーズン2試合をアウェイで戦った。

 久しぶりのホームゲームに「4万人くらい入って雰囲気も良かった」と高丘。ただ「人工芝が新しくなっていたので多少やりづらさはあった」と笑った。

 この日はW杯出場を終えたばかりの韓国代表ソン・フンミンがプレーするとあって、会場には多くの韓国ファンが詰めかけた。前半にソンがゴールを決めると会場から大歓声が起きた。

8月はリーグスカップ開幕で強硬な試合日程が続くも「準備はできている」と高丘

 W杯も終わりようやく再開したMLSレギュラーシーズンだが、8月はリーグスカップが開幕する。MLSとメキシコのリーガMXに所属する3カ国2リーグ36チームによるトーナメント。ホワイトキャップスは4日、7日とBCプレースで、11日にメキシコで試合がある。勝ち進むと8月25日以降に準々決勝が始まり、9月6日に3位決定戦、決勝が行われる。

 その合間を縫うようにMLSレギュラーシーズンの試合が予定され、8月は1日の試合も含めて8試合がある。9月も同様で、キャップスはカナディアン・チャンピオンズシップが2試合あり7試合が予定されている。リーグスカップで予選を突破すればさらに試合は増える。

 それでも高丘はW杯でチームがオフの時にリフレッシュしながら、「体を動かしながらコンディションはキープしていたのでいい感じで体は作れていると思います」とこれからの過密スケジュールに向け「準備はできている」と笑顔を見せた。

8月のホームゲームhttps://www.whitecapsfc.com/

8月4日 7:30pm アトランテ(メキシコ)リーグスカップ
8月7日 7:30pm フアレス(メキシコ)リーグスカップ
8月19日 7:30pm ヒューストン・ダイナモFC
8月22日 6:30pm FCダラス

LAFCの攻撃を防ぐホワイトキャップス11。2026年8月1日、BCプレース。LAFC戦。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
LAFCの攻撃を防ぐホワイトキャップス11。2026年8月1日、BCプレース。LAFC戦。写真 斉藤光一/日加トゥデイ

(取材 三島直美/写真 斉藤光一)

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“Stories of Japanese Canadians: Memories for the Future Generation” Mr. Jim Kojima

Mr. Jim Kojima/ジム・コジマさん
Mr. Jim Kojima/ジム・コジマさん
Mr. Jim Kojima/ジム・コジマさん
Mr. Jim Kojima/ジム・コジマさん

Carrying the teaching of His Judo Master: “For the Community”

Mr. Jim Kojima (Yuzuru Kojima)

Born in March 1938, Steveston, British Columbia
Moved to Lethbridge, Alberta in 1942, moved to Grand Forks in 1948, and returned to Steveston in 1951
Former president of Judo Canada
Grandparents originally from Gobo, Wakayama Prefecture

To a Farm in Lethbridge, Alberta

In 1942, when the Canadian government’s internment policy began, the Kojima family was forcibly relocated by train to Lethbridge, Alberta. Mr. Kojima was four years old at the time. After passing through many tunnels from Vancouver, the train first arrived in Calgary. “I remember my mother thought, ‘Well, Calgary doesn’t look like a bad place,'” he said.  But their journey continued, and their final destination was Lethbridge.

Lethbridge, a town located about 215 kilometres south of Calgary, is known for its harsh winters, with average temperatures around minus 10 degrees Celsius, sometimes dropping to minus 40. The area has a dry climate and is notorious for its strong winds.

He recalled, “When we got to the railway station, there was a bunch of farmers all lined up there, and when your name was mentioned, that’s the farm you went to.” The Kojima family—consisting of his parents, grandparents, one other grandfather, and himself—numbered six in total. Internment policies allowed families to stay together if they went to a farm.

“We lived in a chicken coop, and it was about a 10 by 12 (feet) chicken coop. And in the wintertime, the chicken coop’s eaves were open. So, snow would blow in from the roof, and my mother would stuff it up with clothes or paper or cardboard,” he explained. Despite the hard conditions, he said the Blair family, the farmer they stayed with, were “amazing human beings.” “If they killed (a) pig or a cow, they gave you the meat. They were very friendly,” he added. The Blairs had four sons, and Mr. Kojima grew up with them as though they were brothers. “I couldn’t speak a word of English in those days. I only spoke Japanese, but playing with kids, you learn to speak quickly.” They also attended school together.

The Blair family was very poor farmer, so Mr. Kojima’s parents often considered moving to another farm, but decided against it. Ultimately, they stayed for five years. “Japanese people are very loyal,” he reflected.

アルバータ州レスブリッジとブリティッシュ・コロンビア州グランドフォークス/Lethbridge, Alberta and Grand Forks, British Columbia
アルバータ州レスブリッジとブリティッシュ・コロンビア州グランドフォークス/Lethbridge, Alberta and Grand Forks, British Columbia

After 1947, the Kojima family moved to other farms. In December 1948, they relocated to Grand Forks, where an uncle lived. There was a community of Japanese Canadians who had also been displaced from Vancouver. By 1951, the family returned to Steveston.

Reflecting on farm life, Mr. Kojima recalled his father and other Japanese workers on sugar beet farms. In the winter, they worked at the sugar beet factory, but they were relegated to outside tasks and denied access to indoors, even for breaks or lunch. “In the wintertime, in 30 to 40 below weather, their lunch boxes were frozen, what they had in, it was frozen”, he said. “Somehow, I don’t remember listening to a lot of monku (complaints). They seem to suck it up somehow.”

Back to Steveston, Where Japanese Canadian Fishermen Were Needed

Mr. Kojima recalled that when his family returned to Steveston, Vancouver-based fishing companies were actively recruiting Japanese Canadian fishermen from across the country. “The fishing companies like BC Packers (British Columbia Packers Ltd.), Nelson Brothers (Nelson Bros. Fisheries Ltd.), and Great West (Great West Packing Co.), they went across Canada, recruiting Japanese to come back. Because the more Japanese they can get back, the more money the company’s going to make (because) they were good fishermen.”

At the time, these companies offered loans that would allow the fishermen to buy a house in the future. The fishermen never had any issue with that. “The fishing companies drew a lot of respect and trust in the Japanese fishermen,” he noted. The fishermen worked diligently, boosting the company profits. This arrangement was mutually beneficial and encouraged many Japanese Canadians to return to Steveston.

The Kojima family lived in company housing provided by Nelson Brothers until 1956, when they purchased a home and moved into it.

Trust in the Steveston Japanese Canadian Community Built by the Issei and Nisei

Steveston is essentially the only Japanese Canadian community district in Canada. Mr. Kojima reflects that its continued existence, even after the end of internment, is largely due to the contributions of the issei (first-generation) and nisei (second-generation) Japanese Canadians.

The history of Steveston is deeply intertwined with the history of Japanese Canadians. He highlights notable figures closely associated with Steveston, such as Manzo Nagano, the first recognized Japanese immigrant who arrived in 1877, as well as pioneers like Tomekichi Honma, Gihei Kuno, Thomas Shoyama, and Asayo Murakami. Their contributions extended beyond Steveston’s Japanese community, benefitting Canada as a whole.

Among their achievements, Mr. Kojima emphasizes the establishment of a hospital in Steveston in 1898 by the Japanese Canadian Fisherman Benevolent Association. This hospital was the first in Canada to adopt a universal healthcare system, and it served not only Japanese Canadians but also the local hakujin (white) community. “Caucasian women that were pregnant couldn’t make it in time for St. Paul’s (Hospital in Vancouver), they used the Japanese hospital”, he said. “So, some of my hakujin friends were born in the Japanese hospital.” The hospital became as a community resource for all, and served as a model for Canada’s current universal healthcare system, a contribution attributed mainly to Tommy Douglus and Thomas Shoyama.

After the war, plans to build a community centre in Steveston emerged. While the Issei hoped for a dedicated Japanese community centre, the Caucasians community also wanted such a facility. Ultimately, the two groups agreed to collaborate. Mr. Kojima respects the willingness of the issei pioneers to work with the broader community.

Conditions for this collaboration included building a judo room and allowing kendo practice in the gymnasium. The Japanese community contributed 15,000 dollars from Association. The centre opened in 1957. Additional taxes on Steveston residents covered the remaining costs, and the debt was fully paid off in 1977.

This cooperation led to the construction of the Martial Arts Centre, which opened on April 18, 1972. Supported by the hakujin community, it features a Japanese architectural design. “To me, the first thing that cemented the relationship between the Japanese and Caucasians was the building of the original Steveston Community Centre,” he adds.

When asked why the Steveston Japanese Canadian community has been so successful, Mr. Kojima said, “I think it’s the support of the City of Richmond. And, a lot of hakujin my age who grew up here have a strong passion and relationship with the Japanese.” This bond was reflected in the sister-city agreement between Richmond and Wakayama City in 1973. Despite challenges due to population differences, both cities worked hard to make the relationship official, and Wakayama’s mayor ultimately approving the agreement. Since 1975, high school students from both cities have exchanged visits. Today, this relationship is recognized by the Canadian government as one of Canada’s most active sister-city relationships.

“I think the Japanese were recognized as good citizens of Richmond and contributed to the city and the people. I just feel we’re well-respected by the community. And, everything we do, we tried to do for the benefit of everybody, not just (for the) Nikkei,” Mr. Kojima said. He emphasizes this trust earned from the city and the community “goes back to (the) Issei and Nisei. I think they paved the path for respect and the good manners that they had.”

Two Japanese Canadian Communities: Steveston and Vancouver

“Steveston history is somewhat different from Vancouver Japanese history,” Mr. Kojima explains, noting that about 75% of the Japanese immigrants in Steveston came from Wakayama Prefecture.

Steveston, located at the southwest tip of the City of Richmond and facing the Fraser River, lies just south of Vancouver. After Gihei Kuno arrived from Mio Village in Wakayama Prefecture in 1888, he invited fellow fishermen from the area, forming a fishing community primarily made up of Wakayama natives.

When the internment policy ended in 1949 and Japanese Canadians returned to Steveston, Mr. Kojima felt a “rift” between the Steveston and Vancouver Japanese Canadian communities. This divide became particularly evident during the establishment of the Japanese Canadian Cultural Centre (now the Nikkei National Museum & Cultural Centre).

In 1988, the Japanese Canadian redress movement culminated in a compensation agreement with the Canadian government. The funds from the agreement were used to build a cultural centre. While fundraising in Richmond, Mr. Kojima approached an elderly Issei and asked for support, explaining that the centre would be built in Burnaby. “He said, ‘Never! Before the war, the Japanese in Vancouver looked down on us.(戦争前にバンクーバーの日本人にバカにされた) Never!'” he recalled.  Mr. Kojima knew there was a rift between the communities but admitted, “I knew there was something there, but I didn’t realize how bad it was.” Despite this, he and others in the slightly older generation felt it was better to have the centre in the Vancouver area than in Toronto or Montreal.

Additionally, many Issei and Nisei opposed the idea of receiving individual compensation. Since many who experienced internment had already passed away, Mr. Kojima added, “Many of the fishermen said to me, ‘kitani okane (dirty money),’ I don’t want to, my friends have already passed away‘もう亡くなってから僕だけお金もらうの間違いや (It’s wrong for just me to receive the money after many already passed away).'” This sentiment was widely shared among the Japanese Canadian fishermen in Steveston.

“I just don’t feel that Richmond Japanese feel the same way as other groups,” Mr. Kojima said, expressing the sentiments of the issei generation at the time.

Carrying the Teaching of His Judo Master: “For the Community”

In 1953, Mr. Kojima’s judo journey began when his parents told him, “Judo is starting. You’re gonna go to judo.” At that time, there were 10 black-belt fishermen in Steveston. However, the environment was far from ideal—there were no judo uniforms or tatami mats, and everything was improvised. Nevertheless, 81 children started learning judo, and five of them, including Mr. Kojima, are still doing judo on the mat. “We’re all in our 80s. Three of us are in our 86, and two are 84,” he laughs.

Mr. Kojima earned his black belt in 1957. By the 1960s, he was serving as vice president of Judo Canada, and from 1988 to 1994, he was its president. In 1974, he became an international judo referee, officiating at the Olympics and world championships. He also served as referee director of the International Judo Federation for six years. Reflecting on his judo career, he said, “I was very fortunate. I think I rode the wave. And I just kept riding the wave, and my timing of going up the ladder was just perfect.” At key milestones, he would tell his progress to his sensei (master), who once told him, “If you ever do things for your own benefit, I make you quit. If you do it for everybody’s benefit, I will help you out any way I can.”

Steveston’s connection to Judo runs deep. In 1938, Jigoro Kano, the founder of judo, visited Vancouver. A calligraphy piece he wrote during his visit, bearing the three characters meaning 「達 必 力」 “work hard, persevere, and achieve your goal”(つとむればかならずたっす:“strive and you will achieve”), still hangs in the dojo (practice hall) of the Marshal Arts Centre.

In 1973, the Steveston Judo Club began an exchange program with Tokai University, one of the top judo clubs in Japan. “(It’s a) 51-year relationship with Tokai University and, we have every two years the third-year university judo group about 35 of them, come here for our judo tournament and stay in homestays and stay here a week,” he said. Former Japanese national team members like Yasuhiro Yamashita and Kosei Inoue have also visited in the past.

Mr. Kojima emphasizes the teachings of his sensei: “My judo teacher used to say to me when you’re young, you take everything you can from your teacher, from judo teacher, school teacher, everything you can from people, but someday you have to give back.” Encouraging exchanges among young people—whether through judo or sister city programs—is his way of passing on the values cherished by earlier generations of Japanese Canadians.

“The Japanese isseis and niseis, very few of them complained even after the war when we came back here. I’d go to a Japanese fisherman mending his nets, and I’d say, ‘Ojisan (Sir),speak to me, talk to me about before the war, during the war,’ and they said to me ‘Kojima-san, shikataganai (仕方がない: there was nothing we can do)’. What’s happened, happened. They said we have to look for the future for our children and our grandchildren. If we don’t do that, then we’re not doing what we should be doing. I really admire the Japanese isseis with that kind of attitude,” Mr. Kojima said.

He believes it’s important to pass this torch to the younger generation. That is his way of “giving back.” When speaking to high school students in Japan, he tells the “tamashi (spirit)” that the Issei and Nisei left in Steveston: “Work hard,” “Never give up,” “Hardly ever complain,” “Good manners,” and “Never did things to embarrass the Japanese race.” He explains Steveston’s Japanese Canadians tried to preserve Japanese traditions and culture through cooperation with the city and all its residents. They aim to teach the young people the same spirit, manners, respect, and pride of those who left Japan over a century ago.

Reflecting on history, he remarked, “I think of historical things, and I don’t think we should do it in such a way to be negative, to be positive for future generations.”

(Text: Naomi Mishima)

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日系カナダ人物語「記憶を次世代へ」:ジム・コジマさん「柔道の師の教え『コミュニティのために』を胸に」

Mr. Jim Kojima/ジム・コジマさん
Mr. Jim Kojima/ジム・コジマさん
Mr. Jim Kojima/ジム・コジマさん
Mr. Jim Kojima/ジム・コジマさん

ジム・コジマさん(本名:ユズル・コジマさん)

1938年3月、スティーブストン生まれ
1942年アルバータ州レスブリッジに強制移動、1946年にグランドフォークスへ移動、1951年にスティーブストンに戻る
元カナダ柔道協会会長、祖父母は和歌山県御坊出身

アルバータ州レスブリッジの農場へ

 カナダ政府の強制収容政策が始まった1942年、コジマさん一家はアルバータ州レスブリッジ市へと鉄道で移動した。コジマさんは当時4歳。バンクーバーからトンネルをいくつも抜けて着いたのはカルガリー市だった。「母が『カルガリーもそんなに悪くないかもね』と言っていたのを覚えています」。しかしそれからさらに列車に揺られて到着したのがレスブリッジだった。

 レスブリッジはカルガリーから南に約215キロメートルに位置する町。冬の寒さは平均で氷点下10度、厳しい時には氷点下40度にもなる乾燥地帯で、強風の日が多い地域としても知られている。

 「レスブリッジの駅に着くと、そこには農家がズラリと並んでいました。名前を呼ばれると、そこが自分たちの行き先の農家でした」。コジマ家は両親と祖父母、もう一人の祖父とコジマさんの6人だった。強制収容は収容先が農場の場合は家族一緒に移動できた。

 「住まいはニワトリ小屋でした。冬の時期はニワトリ小屋のひさしが開くと雪が舞い込んでくるので、母は服や紙や段ボールでふさいでいました」。そこの農家のブレア夫妻はとてもいい人だったと振り返る。「豚や牛を殺した時には肉を分けてくれたりして、とても親切でした」。夫妻には4人の息子がいて、兄弟のように育ったという。「(移動した)当時は英語は全く話せなくて、日本語しか話せませんでした。それでも一緒に遊んでいると子どもですからすぐに英語は習得したね」。学校にも一緒に通った。

 ただブレア夫妻はとても貧しい農家だったという。そのためコジマさんの両親は農家を移ろうとして何度も夫妻に告げようとしたが結局言い出せず5年滞在した。「日本人は義理堅いですからね」。

アルバータ州レスブリッジとブリティッシュ・コロンビア州グランドフォークス
アルバータ州レスブリッジとブリティッシュ・コロンビア州グランドフォークス

 1947年に別の農場に移った。1948年12月には叔父がいたグランドフォークスへ。ここにも強制収容でバンクーバーを追われた日系カナダ人のコミュニティがあった。そして、コジマさん一家は1951年にスティーブストンに戻る。

 農場での生活を振り返ったコジマさんは、シュガービート(テンサイ)農場で働いていた父親たちのことを語った。冬にはシュガービート工場で働くが、日系人は屋外での労働の上、昼食や休憩でも屋内に入れなかったという。「氷点下30度、40度の中、お弁当も凍っていたに違いないのに、日系人たちが文句を言っているのを聞いたことがありませんでした。なんとか我慢していたように思います」。

日系人漁師を必要としたスティーブストンへ

 コジマさんたちがスティーブトンに戻った当時は、バンクーバーの漁業会社がカナダ国内を回って日系人漁師をリクルートしていたと振り返る。「BCパッカーズ(ブリティッシュ・コロンビア・パッカーズ・リミテッド)、ネルソン・ブラザーズ(ネルソン・ブラザーズ・フィッシャリー・リミテッド)、グレート・ウエスト(グレート・ウエスト・パッキング・カンパニー)などの会社が、日系人漁師に戻ってくるようにリクルートしていました。日系人漁師が多いほど、会社にとって利益となることが分かっていたのでしょう。それだけ彼らが漁師として優秀だったというです」。

 当時、会社は日系人漁師をリクルートするため、将来的に家を購入するためのローンも用意していた。それは漁師たちにとっても悪い条件ではなかった。会社は「日系人漁師たちを非常に信用していました」。一生懸命働くし、それが会社にとっては利益になる。双方にとって都合がよかった。こうしてスティーブストンに日系人たちが戻ってきた。

 コジマ家はネルソン・ブラザーズ・フィッシャリーの社宅に1956年まで住み、それから家を購入して移り住んだ。

日系一世、二世が築いたスティーブストン日系コミュニティへの信頼

 スティーブストンは、今でもカナダで唯一と言っていい日系カナダ人コミュニティ地区。それを強制収容終了後にも実現できたのは日系一世、二世たちの功績が大きいとコジマさんは振り返る。

 スティーブストンの歴史は日系カナダ人の歴史でもある。1877年に日系移民第一号とされる永野万蔵が到着してから、本間留吉、工野儀兵衛、トーマス・ショーヤマ、村上アサヨと、スティーブストンにゆかりの深い先人たちをコジマさんは紹介した。その功績はスティーブストンの日系コミュニティにとどまらず、カナダ社会にも大きく貢献してきたと話す。

 中でも1898年に日系フィッシャーマン・ベネヴォレント・アソシエーションによってスティーブストンに設立された、カナダで初めての皆保険制度を取り入れた病院は、日系人だけでなく当時の「白人」コミュニティも利用したと説明する。「(バンクーバー市の)セントポール病院まで間に合わない場合は白人の女性も日系の病院を利用しました。私の白人の友達も日系の病院で生まれています」。日系人だけではなく地域の病院として機能していた。この日系病院は現在のカナダの皆保険制度の手本となっている。それはトミー・ダグラスとトーマス・ショーヤマの功績によるところが大きいと紹介した。

 また戦後スティーブストンにコミュニティセンターを設立するとき、日系のコミュニティセンターを希望していた一世たちだが、白人コミュニティも同様にセンターを希望していたため、協力してコミュニティセンターを設立することに同意した。コジマさんはこうした先人たちの協力姿勢を「尊敬する」と話す。条件として柔道部屋を作ること、剣道の練習時には体育館を使用できるようにすることを付けた。アソシエーションは15,000ドルを寄付、センターは1957年にオープンした。引き続き必要な残りの費用はスティーブストンの住民が追加税で負担。20年かけて1977年に完済した。この経験は1972年4月18日にオープンしたマーシャルアート(武道)センター設立にも生かされた。「日系人と白人との強い関係があったからこそ実現したと思います」と振り返る。

 スティーブストン日系コミュニティがうまくいっている理由について、リッチモンド市との良好な関係を挙げる。「私と同世代の多くの白人たちは日系との関係に強い情熱を持っています」。それは1973年のリッチモンド市と和歌山市との姉妹都市提携にも表れた。人口数の差などもありかなり難航したが、最終的には和歌山市長の決断で決定した。1975年からは高校生がお互いの都市を訪問している。今ではカナダで最も交流が盛んな姉妹都市としてカナダ政府にも認められていると胸を張る。

 「日系人はリッチモンド市に貢献する善良な市民として認識され、コミュニティからもリスペクトされていると思います。それは日系がやろうとすることは日系だけではなくコミュニティ全体に利益をもたらすからだと思います」。

 市やコミュニティからの信頼は「戦前の日系一世、二世らが築いてくれた道から来ていると思います」。

スティーブストンとバンクーバー、2つの日系コミュニティ

 「スティーブストンの歴史はバンクーバーの日系の歴史とは少し違うんです」。スティーブストンにいた日系人の約75%が和歌山県からの移民と話す。

 スティーブストンはバンクーバー市南隣のリッチモンド市の南西端に位置するフレーザー川に面する地域。1888年和歌山県三尾村から工野儀兵衛が来て以降、同地から漁師を呼び寄せ、和歌山県出身の漁師コミュニティとなった。

 1949年に強制収容政策が終了し、スティーブストンに日系人が戻ってきたが、バンクーバーの日系コミュニティとは「溝」があったと話す。それが顕著に表れたのが日系センター(現日系文化センター・博物館)設立時だったと振り返る。

 1980年代、日系カナダ人のリドレス運動はカナダ政府との補償合意で1988年に実を結んだ。その時に合意した基金で日系センターが建てられることになった。当時リッチモンドで日系センター建設のための寄付集めをしていたコジマさんは年配の日系一世に日系センターがバーナビー市に設立されるので協力しようと呼び掛けると「その人は『絶対嫌だ』と言ったんです。『戦争前にバンクーバーの日本人にバカにされた』、だから嫌だと」。バンクーバーのコミュニティと溝があるとは思っていたが「これほどまで深いとは思っていませんでした」。コジマさんや少し上の世代はトロントやモントリオールに建てられるなら、バンクーバーに建てられる方がいいとセンター建設に前向きだったと振り返る。

 日系コミュニティ間の溝はそれ以外にも、スティーブストンでは個人が補償金を受け取ることに反対していた一世や二世が多かったことでも分かったという。強制収容を経験した多くの人が亡くなった後だっただけに、「多くの漁師たちが私に言ったのは『汚いお金だ。友達が亡くなってから自分だけお金をもらうのは間違いだ』ということでした」。スティーブストンの多くの日系漁師たちがそう感じていたと言う。

 「リッチモンドの日系人たちは他のグループとは違う感じ方をしていました」と当時の一世たちの思いを代弁した。

柔道の師匠の教え「コミュニティのために」を胸に

 1953年「両親から、柔道が始まるからおまえも柔道を習いに行くぞ」と言われ、コジマさんの柔道人生が始まった。当時スティーブストンの漁師には黒帯が10人。しかし、環境は揃っていなかった。柔道着もなければ、畳もなかった。全てが即席だった。それでも子ども81人が習い始めた。そのうちコジマさんを含め5人は今でも元気で柔道をやっている。「もうみんな80代で、86歳が3人、84歳が2人です」と笑う。

 スティーブストンから始まったコジマさんの柔道歴は、1957年には黒帯となり、1960年代にはカナダ柔道協会の副会長、1988~94年まで会長を務めた。1974年、国際柔道審判となり、その後はオリンピックや世界大会の審判を務めた。国際柔道連盟の審判員理事も6年務めている。こうした柔道人生を「幸運だった」と振り返る。「タイミングが合ったので上手く波に乗った感じです」。そんな中でも節目には師匠に近況を報告した。その時に、「『自分だけの利益のためにやっていたならすぐに辞めさせていた』と言われました。でも『みんなのためにやるなら私のできることならなんでも手助けしてやる』と」。

 スティーブストンと柔道の関係は深い。1938年には柔道の祖、嘉納治五郎がバンクーバーを訪問。その際に書いた書「達 必 力(勤めれば必ず達す)」が道場に掛けられている。

 1973年にはスティーブストン柔道クラブは東海大学と交流をはじめ、「51年間交流が続いています。2年に一度は3年生35人くらいが来て、柔道大会やホームスティをしています」。元日本代表の山下泰弘さんや井上康生さんも訪れている。

 コジマさんは「師匠はいつも、『若いうちは師匠や学校の先生など多くの人から全てのことを吸収すればいいが、いつかそれは恩返しとして返さなければいけない』と言っていました」。

 柔道でも姉妹都市でも若い人の交流は大切だと語る。それは先人から受け継いだ日系人が大切にしていたものを若い世代へと引き継ぐコジマさんの「恩返し」でもある。

 「日系の一世・二世は戦争が終わってもほとんど愚痴を言いませんでした。漁師たちが網を補修しているところに行って『おじさん、戦争前や戦争中の話を聞かせてよ』と言っても、『コジマさん、仕方がないことだったんだよ』と言うだけでした。そして子どもや孫たちの将来のことを考えなければいけないと言っていました」。そういう一世たちの姿勢をコジマさんは「尊敬している」と語る。

 そしてトーチは若い世代へと引き継がなければいけないと。日本で高校生たちを前に講演した時は、日系一世・二世がスティーブストンに残した「魂」として、「一生懸命働く」「諦めない」「文句を言わない」「行儀よくする」「日本の恥になるようなことはしない」ということを伝えると話す。そして、スティーブストンでは市や市民と協力して日本の伝統や文化を守り、100年前に日本から来た日本人が残してくれた「魂」「マナー」「敬意」「プライド」を若者に伝えていると締めくくると笑う。「(日系人に起きた)歴史的な事柄は、ネガティブな形でだけで伝えるべきではなく、次の世代のためにそれはポジティブであるべきだと思います」と語った。

(記事 三島直美)

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カーニー首相、日本での女性の労働力貢献はサウジアラビア以下と発言

改修工事中のカナダ国会議事堂。オンタリオ州オタワ市。2025年4月3日。撮影 日加トゥデイ
改修工事中のカナダ国会議事堂。オンタリオ州オタワ市。2025年4月3日。撮影 日加トゥデイ

 サウジアラビアを訪問中のマーク・カーニー首相は7月9日、現地での記者会見で女性の労働力への貢献についてサウジアラビアが日本より高いと発言した。

 会見ではサウジアラビアとの2国間協議について、両国の関係改善と経済協力が重要と説明した。記者から、サウジアラビアの人権問題、特に女性への人権についてサウジアラビアは女性のステータスは最悪だとされていると聞かれたカーニー首相は、それについて自分が判断する立場にはないと回答したが、例えとして、サウジアラビアの女性の労働力への貢献は10~15年前は6~12%だったが現在ではインドや日本よりも高いと語り、女性の状況が大きく改善している例えとした。

 質問と回答はいずれもフランス語で、発言は英語通訳によるもの。「女性の労働力への貢献」の定義は不明で、明確な数字を示しての言及でもないため、日本の方が女性の労働力への貢献がサウジアラビアより低いという根拠は全くの不明。

 日本の内閣府男女共同参画局が発表している2024年の15~64歳の女性の就業率は74.1%、OECDが発表している労働力参加率は81.5%。一方サウジアラビアのゼネラルオーゾリティー・フォー・スタティスティックス(GASTAT)によると2024年の15歳以上の女性の就業率は31.8%、労働力参加率は36.0%となっている。

 記者会見はCPACウェブサイトから視聴できる。https://www.cpac.ca/headline-politics/episode/pm-carney-discusses-canada-saudi-arabia-relations–july-9-2026?id=aaf81cb9-5dc5-4e88-a0ef-96c11c0e8f88

(記事 三島直美)

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FIFAワールドカップ2026:スイスがバンクーバーで3連勝、コロンビアとの接戦を制してベスト8へ

激しく競り合うコロンビアのキャプテン、ロドリゲス(左)とスイスのキャプテン、シャカ。2026年7月7日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
激しく競り合うコロンビアのキャプテン、ロドリゲス(左)とスイスのキャプテン、シャカ。2026年7月7日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
圧倒的な数のコロンビアファンで会場は黄色一色に。2026年7月7日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
圧倒的な数のコロンビアファンで会場は黄色一色に。2026年7月7日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ

 バンクーバー市BCプレースで行われたFIFAワールドカップ決勝トーナメント2回戦ベスト16、スイス対コロンビア戦はPKまでもつれる接戦を制したスイスがベスト8へ駒を進めた。

BCプレースを埋め尽くしたコロンビアファン

 BCプレースが黄色に染まった。熱狂的なコロンビアファンで埋め尽くされた会場は、試合が始まる前からボルテージは最高潮に達していた。

激しく競り合うコロンビアのキャプテン、ロドリゲス(左)とスイスのキャプテン、シャカ。2026年7月7日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
激しく競り合うコロンビアのキャプテン、ロドリゲス(左)とスイスのキャプテン、シャカ。2026年7月7日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ

 コロンビア選手がゴールに近づくたびに大歓声が起こる中、13分には早速フリーキックのチャンス。キャプテン・ロドリゲスからシュートにつながるがGKコベルの好守にはばまれ得点ならず。21分にはプエルタがシュートを放つがまたもGKが立ちはだかった。

 その後も試合は一進一退の攻防が続く。後半に入り、コロンビアの猛攻が続くがスイスの堅い守りを破ることができない。シュート数ではコロンビアが圧倒的に上回る。試合は延長30分でも0-0と決着がつかずPK戦へ。

コロンビアのエースストライカー、ディアスへのスイスの激しいディフェンス。2026年7月7日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
コロンビアのエースストライカー、ディアスへのスイスの激しいディフェンス。2026年7月7日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ

 まずはコロンビアのキンテロが決める。この日初めてのゴールに歓声で会場が揺れる。続いてスイスのシャカのシュートはGKの手を弾いてネットへ。これで1-1。続いてコロンビアのサンチェスのシュートはバーに当たりゴールならず、スイス2番手が決めて1-2。しかし、コロンビア3番手が決めたのに対し、スイスのアカンジがネットの上を大きく超えて外し再び同点。ところがコロンビア4番手エルナンデスのシュートをスイスGKが止めてスイスが再び有利に。その後は両チームとも決めたため、手に汗握るPK戦をスイスが4-3で制し、120分の戦いが決着した。

 その瞬間、会場は埋め尽くしたコロンビアファンのため息に包まれた。スイスは6月25日のカナダ戦からBCプレースで3連勝、ベスト8進出を決めた。

PKを制し勝利を喜ぶスイス選手らとゴールネット前に呆然と座り込むコロンビアGKバルガス。2026年7月7日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
PKを制し勝利を喜ぶスイス選手らとゴールネット前に呆然と座り込むコロンビアGKバルガス。2026年7月7日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ

 コロンビアのロレンソ監督は試合後の会見で「得点できたらよかったけど」と切り出し、「タイトな試合になることは予想していた。最初の20分は試合を支配していた」と静かに語り、4分で会見を切り上げた。スイスのヤキン監督は「今回のW杯では全てが完ぺきに機能している」と試合内容を分析。大会初戦からチームが進化していると語り、今大会は歴史的な大会になると思っていたし、実際に世界トップチームの仲間入りを果たした、選手、スタッフ、そしてファンを称えたいと語った。

カナダでのW杯全日程が終了

 7月7日のスイス対コロンビアの試合はカナダでのW杯最終戦で、これで6月12日にトロントで開幕したカナダでの試合は全日程が終了した。ベスト8以上は全てアメリカで行われる。

 今回のカナダ・アメリカ・メキシコ3カ国による北中米大会で、カナダではトロントで6試合、バンクーバーで7試合が行われた。1次リーグでグループ1位になれば、開催国が自国でプレーできるような組み合わせになっていたが、アメリカ・メキシコがグループトップで通過したのに対して、カナダは6月25日、BCプレースでのスイス戦で引き分けでもトップ通過という好条件を生かせず1-2の惜敗。舞台をアメリカに移した。

2試合連続ゴールを決めているだけあり、スイスのマークも厳しいFWデービッド。2026年6月24日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
2試合連続ゴールを決めているだけあり、スイスのマークも厳しいFWデービッド。2026年6月24日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ

 代わって、カナダに勝利したスイスがバンクーバーで3連戦となり、3連勝でベスト8を勝ち取った。カナダがせめて引き分けていればという残念さは残ったが、それでも、バンクーバーでカナダ男子がW杯初勝利をあげ、初の決勝トーナメント進出を果たし、さらにロサンゼルスでのベスト32では南アフリカに勝って初のベスト16入りするなど、自国開催がもたらした好影響は大きかった。

 トロントではスーパースターのロナウド擁するポルトガルやドイツのヨーロッパ強豪国がファンを魅了し、バンクーバーではベスト8に残ったベルギーやサッカー熱狂国トルコ、エジプト、コロンビアが試合を行い、各国の熱狂的ファンがカナダのサッカー熱に火をつけた。会場最寄り駅サイエンスワールド駅からBCプレースまでの行進は、試合開始前のファンの儀式になった。

 カナダでの13試合は全て満員で、カナダ代表以外の試合でも、カナダ国内と世界から各国代表のファンが集まり、試合会場、ファンフェスティバル、歩行者天国、カナダサッカーハウスなど、ファンが集う場所では大きく盛り上がった。

 7月7日でカナダ国内の試合は終了したが、W杯は決勝の7月19日まで続く。トロントとバンクーバーでは、引き続き、ファンフェスティバルが19日まで開催されるほか、バンクーバーではサッカーファンの聖地となっているグランビルストリート歩行者天国が9月7日まで延長されることが決まった。

 移民の国カナダにとってカナダ代表の敗退やカナダ国内での試合終了が、W杯の終了ではない。あと10日、トロントで、バンクーバーで、ワールドカップを楽しめる。

(取材 三島直美/写真 斉藤光一)

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今年50周年パウエル祭8月1日・2日開催、日系センターではパウエル祭50周年記念展示会開催中

左から、日系センター博物館館長シェリー・カジワラさん、展示会キュレーター・モリタさん、パウエル祭発起人の一人・山城猛夫さん、パウエル祭協会事務局長ラティマーさん。2026年3月26日、バーナビー市。撮影 日加トゥデイ
左から、日系センター博物館館長シェリー・カジワラさん、展示会キュレーター・モリタさん、パウエル祭発起人の一人・山城猛夫さん、パウエル祭協会事務局長ラティマーさん。2026年3月26日、バーナビー市。撮影 日加トゥデイ

 バンクーバー夏の風物詩「パウエル祭」が今年は8月1日、2日に開催される。戦前に日本人街、通称パウエル街として栄えたパウエルストリートにあるオッペンハイマー公園を中心に、周辺の通りを通行止めにして開催される日系カナダ人の一大イベント。

 さらに今年は50周年という節目の年。日系文化センター・博物館では記念展示会「Return to Paueru Gai: 50 Years of Powell Street Festival Exhibition」が開催されている。

「Return to Paueru Gai: 50 Years of Powell Street Festival Exhibition(パウエル街への帰還:パウエル祭 50年の軌跡)」

 過去50年のパウエル祭でのさまざまな場面を写真や動画で振り返るこの展示会は、今年3月27日から日系センターで開催されている。

 カラサワミュージアムには白黒の懐かしい写真から現在までの途切れることなく続いてきたパウエル祭の活気ある場面が見られるほか、歴代ポスターも展示されている。会場入り口にはこれまでボランティアが使用してきた「ハチマキ」が飾られ、これまでの貢献に感謝し、七夕の五色の短冊のようにこれからも長くパウエル祭が続くことを願っているようだ。

展示会場カラサワミュージアムの入り口にはこれまでボランティアが使用してきたハチマキが天井から下げられている。2026年3月26日、バーナビー市。撮影 日加トゥデイ
展示会場カラサワミュージアムの入り口にはこれまでボランティアが使用してきたハチマキが天井から下げられている。2026年3月26日、バーナビー市。撮影 日加トゥデイ

 展示会のキュレーターはエミコ・モリタさん。展示会と同名の本も出版し、3月26日のオープニングレセプションでも紹介された。

 モリタさんは展示会について「こうしたいというビジョンはあったが私一人ではとても完成できなかった。それぞれに違った経験や技術を持つチームが一緒になって今回の展示会が完成しました。とても良い展示になったと思っています」と語った。写真は、カテゴリーごとに展示され、見る人に分かりやすいようになっている。

 参考にした資料にはバンクーバー新報のように日本語も多く、日本語が分かるスタッフに助けてもらったという。パウエル祭の始まりに当たっては、戦後に移住してきた日本人の存在も大きく、本の中でも紹介していると語った。

 「1990年にインターンとして関わった後、少し離れたが、パウエル祭に戻ってきて予想もしていなかった自分探しの旅となり、この仕事を通して自分を見つけた気がします」と語った。

写真の展示会場カラサワミュージアム内。テーマごとに分けられた展示となっている。2026年3月26日、バーナビー市。撮影 日加トゥデイ
写真の展示会場カラサワミュージアム内。テーマごとに分けられた展示となっている。2026年3月26日、バーナビー市。撮影 日加トゥデイ

 オープニングに参加したパウエル祭協会事務局長ソフィ・ヤマウチ・ラティマーさんは「フェスティバルにボランティアとしても参加した経験があり、50周年の記念の年に事務局長として関われて光栄に思っています」と話す。子どもの頃からパウエル祭には来ていて、綱引きに参加したり、風船やヨーヨーで遊んだりと「いっぱい思い出がありますけど、やっぱりフードですね」と笑う。

 50周年に事務局長として関わり、昔のことも学んでいるという。第1回開催の時には当時は第2回を開催しようとは思っていなかったらしいと説明する。「でもいま50周年を迎えて、私はパウエル祭があることが当たり前に育ってきました。だから、今度は次の世代のためにこのフェスティバルを持続的に続けられるようにがんばっていきたいと思います」と語った。

 「Return to Paueru Gai: 50 Years of Powell Street Festival Exhibition」は9月7日まで開催されている。https://powellstreetfestival.com/exhibition/

2026年パウエル祭は8月1日、2日

 今年のパウエル祭は8月1日と2日の2日間、バンクーバー市の旧日本人街で開催される。メイン会場はオッペンハイマー公園。11時にダイアモンドステージでの開会式で正式に幕を開ける。

 ステージでは来場者が参加できる「パウエル街音頭」があるほか、和太鼓演奏、ダンス、デモエリアでは、楽一バンクーバーの神輿、空手や合気道などの武道のデモンストレーションも予定されている。他にも会場は、アレキサンダー通りとジャクソン通りに設けられたストリートステージやバンクーバー日本語学校、バンクーバー仏教会、ファイアーホール劇場など今年も盛りだくさん。もちろん全てのアクティビティは無料。今年もフード屋台や日本の小物や着物を売るショップ、コミュニティのブースも多く出展。

 すでにスケジュールは公開され、パウエル祭協会の専用ホームページから見ることができる。https://powellstreetfestival.com/psf-50/

(取材 三島直美)

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スティーブストンサーモンフェスティバル、カナダデーをにぎやかに彩る

サーモンフェスティバルの開幕を告げるメインステージの開会式。2026年7月1日、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ
サーモンフェスティバルの開幕を告げるメインステージの開会式。2026年7月1日、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ

 今年で第79回となるサーモンフェスティバルが7月1日カナダデーに開催された。カナダの建国記念日とあって、カナダの国旗を振り、赤をまとった人であふれた。

 日系カナダ人とのつながりの深いブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市スティーブストンで毎年開催されるサーモンフェスティバル。戦前に移民してきた日本人がこの地でサーモン漁に従事し定住した地域として知られている。

 そのため、日本文化に関係するアクティビティも多く紹介されるが、今年はコミュニティセンターの大規模改築工事のため、武道などのパフォーマンスがないなど少し様相が違ったフェスティバルとなった。

開会式で日加関係を紹介

左から、開会式に参加した、実行委員会理事の一人ジム・コジマさん、髙橋良明総領事、日系レガシー協会代表スザンヌ・タバタさん。2026年7月1日、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ
左から、開会式に参加した、実行委員会理事の一人ジム・コジマさん、髙橋良明総領事、日系レガシー協会代表スザンヌ・タバタさん。2026年7月1日、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ

 開会式で司会を務めたリッチモンド市マルコム・ブロディ市長に紹介され、在バンクーバー日本国総領事館・髙橋良明総領事があいさつ。スティーブストンと日系人の歴史を振り返ると共に、日本とカナダの外交関係が2028年に100周年を迎えることを紹介すると、ステージの前に集まっていた人々から拍手が起きた。

 日系カナダ人とのつながりが深い地域で毎年行われる同フェスティバルには、多くの日系カナダ人がかかわっている。この日も実行委員会で理事を務める人々も開会式を見守った。

パレード、サーモンBBQ、日系カナダ人の史跡巡り

スティーブストン日系組も参加。2026年7月1日、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ
スティーブストン日系組も参加。2026年7月1日、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ

 当日はパレードも行われた。朝からかかっていた雲も晴れ、青空の下、多くの団体が参加した。日系関係では、スティーブストン仏教会、アッパレよさこいバンクーバー、バンクーバー桜會がスティーブストン日系組として参加したほか、楽一神輿なども行進し、盛り上げた。

 スティーブストン一帯が会場となるサーモンフェスティバル。戦前戦後と日系人が働いたガルフ・オブ・ジョージア缶詰工場や戦前に村上あさよさん家族が暮らしたムラカミハウスなども見学でき、他にも工野儀兵衛の功績を伝えるギャリーポイント公園の工野日本庭園や造船所跡のブリタニアシップヤードなど、日系の史跡を巡るいい機会にもなる。

おいしそうな香りを振りまくサーモンバーベキュー。2026年7月1日、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ
おいしそうな香りを振りまくサーモンバーベキュー。2026年7月1日、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ

 そしてもちろん欠かせないのはサーモンバーベキュー。薪で焼くサーモンの煙と香りに誘われていつも長蛇の列ができる。香ばしく焼かれた大きなサーモンに家族や友達と舌鼓を打ちながらフェスティバルを楽しむのが恒例だ。

 カナダへの誇りと日系人への敬意が詰まったスティーブストン・サーモンフェスティバル。今年も多くの人が楽しんだ。

カナダデーのパレードらしくメープルリーフが行進する。2026年7月1日、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ
カナダデーのパレードらしくメープルリーフが行進する。2026年7月1日、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ
スティーブストン・サーモンフェスティバルのマスコット、サミーも一緒にパレードに。2026年7月1日、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ
スティーブストン・サーモンフェスティバルのマスコット、サミーも一緒にパレードに。2026年7月1日、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ
楽一の神輿も。2026年7月1日、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ
楽一の神輿も。2026年7月1日、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ
日本文化紹介コーナーでは生花の展示も。2026年7月1日、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ
日本文化紹介コーナーでは生花の展示も。2026年7月1日、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ
サーモンラン・ステージも盛り上がる。2026年7月1日、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ
サーモンラン・ステージも盛り上がる。2026年7月1日、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ

(取材 三島直美)

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「いい旅アパホテル余話」~投稿千景~

エドサトウ

 エジプトでピラミッドが建造される頃、ナイルの川を行き交う舟に帆を張った6〜7人乗りの船ができたのは、紀元前2000年から1719年頃のことと説明にあった。

 それから2000年の歴史が流れて、日本では古墳時代となり、個人的にローマの影響もあったのではと想像する世界でも大きな仁徳天皇陵古墳ができたのである。それを可能にしたのは、交易のために日本まで絹を買いシルクロードをラクダの隊商でやってきた用心棒でもあり馬に乗り弓矢を持ったユダヤ人のグループでなかろうか?日本の埴輪にそれらしき人が見られるのはそのためかもしれない。

 二千年の歴史の空間は、アジアの片隅に暮らす縄文人に大きな変化を余儀なくしたのであろう。アレキサンダー大王の遠征のようにシルクロードから来たユダヤ人のグループは日本に新しい社会をもたらしたのかもしれない。

 さらに、古墳時代からほぼ2000年の現代、日本の大型プロジェクトの鉄道や地下トンネルなどが世界中で建設されているのを見れば、エジプトから古墳時代の流れが理解できるような気がする。

 余談であるが、この日本の技術を積極的に紹介したのは元総理大臣のA氏であったろう。そのことが大きな政治献金と裏金の問題に発展したようにも思える。

 二千年の歴史の流れで、仁徳天皇陵古墳ができたり、さらに現代のモダンな日本の文明ができたのであろう。日本文化でなく文明だという説もある。新しいものと古いものを合わせ持つ中道の思考に期待します。

古い歴史を持つ瀬戸の焼き物
古い歴史を持つ瀬戸の焼き物

投稿千景
視点を変えると見え方が変わる。エドサトウさん独特の視点で世界を切り取る連載コラム「投稿千景」。
これまでの当サイトでの「投稿千景」はこちらからご覧いただけます。
https://www.japancanadatoday.ca/category/column/post-ed-sato/

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