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Naomi Mishima

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第51回衆議院議員総選挙 在外公館での投票が1月28日から開始予定

国会議事堂。File photo by Japan Canada Today
国会議事堂。File photo by Japan Canada Today

 衆議院が1月23日(日本時間)に解散されたため、第51回衆議院議員総選挙が実施される。公示は2026年1月27日(日本時間)。これに伴い在外公館での投票は1月28日から開始予定。

 投票期間は1月28日(水)~2月1日(土)、投票時間は午前9時30分~午後5時(投票期間・時間は各在外公館に確認)。

 投票には、在外選挙人証とパスポートなどの身分証明書が必要。在外公館での投票以外にも、郵便による投票、日本国内での投票も選択できる。在外選挙人証は事前に取得しておく必要がある。在外公館での投票日当日に取得はできない。

 衆議院小選挙区間の格差を2倍未満に是正する関連法令の改正により衆議院小選挙区の区割りが改定され、2024年に実施された第50回の選挙から新しい小選挙区の区割りが適用されている。前回選挙に参加していないなど変更を確認していない場合は自身の選挙区を確認する。対象となるのは以下の25都道府県。

 北海道、宮城県、福島県、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県、岐阜県、静岡県、愛知県、滋賀県、大阪府、兵庫県、和歌山県、島根県、岡山県、広島県、山口県、愛媛県、福岡県、長崎県。

 また、2023年2月17日から最高裁判官国民審査法の一部を改正する法律が施行されたため、今回の衆議院議員選挙でも日本国外に居住している国民も最高裁判官国民審査の在外投票ができるようになり、第27回最高裁判所裁判官国民審査も同時に行われる。

 日本国内の投票日は2月8日。

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和歌山県美浜町から語り部ジュニア7名が来加、カナダ移民の歴史を英語でプレゼンテーション

NPO法人 日ノ岬・アメリカ村スタッフの引率のもと来加した「和歌山語り部ジュニア」の皆さん
NPO法人 日ノ岬・アメリカ村スタッフの引率のもと来加した「和歌山語り部ジュニア」の皆さん

新年が明けて間もない1月8日(木)、日本・カナダ商工会議所(JCCOC)が重点事業の一つとして取り組む姉妹都市支援事業の、2026年最初のイベントが開催された。

ブリティッシュコロンビア(BC)州には、日本と姉妹都市提携を結ぶ都市が複数存在するが、今回のイベントは和歌山市とリッチモンド市の歴史的なつながりを背景としている。

19世紀後期、現在の和歌山県美浜町(三尾村)出身の工野儀兵衛氏が先駆者となり、多くの和歌山県出身者がカナダへ移住。バンクーバー郊外のスティーブストン(現リッチモンド市内)周辺で鮭漁業の発展に大きく貢献した。さらに、帰国した人々はカナダで得た近代的な生活様式や価値観を日本へ持ち帰り、地域社会に新たな影響をもたらした。

こうした日加の国際的な歴史を次世代へ語り継ぐ活動を行っているのが、NPO法人 日ノ岬・アメリカ村「和歌山語り部ジュニア」プロジェクトである。

イベント冒頭では、日本・カナダ商工会議所のサミー会長が挨拶に立ち、両都市の歴史的背景を紹介。JCCOCが過去に、工野儀兵衛氏のご子孫である高井利夫氏(兵庫県姫路市)のご支援のもと、両都市の友情の証としてBC州先住民文化の象徴であるトーテムポールおよび工野儀兵衛氏の胸像を寄贈した経緯にも触れ、当時のエピソードを交えながら、日加両国のさらなる絆の深化への期待を語った。

日本・カナダ商工会議所 サミー会長
日本・カナダ商工会議所 サミー会長

また会場には、工野儀兵衛氏のカナダ在住のご子孫であるゲリー・クノ氏がご家族とともに来場し、今回の交流会に寄せて、未来への希望を込めたコメントを寄せてくださった。

ゲリー・クノさん(左)とご家族
ゲリー・クノさん(左)とご家族

さらに、祖父母が美浜町出身で、日本とカナダをつなぐ文化交流の拠点として、町に残されていたご実家を寄贈されたハイディ・ムラオ氏、キース・ムラオ氏も応援に駆けつけ、会場は温かな歓迎ムードに包まれた。

ハイディ・ムラオ(写真右)さんとキース・ムラオさん(写真中央)
ハイディ・ムラオ(写真右)さんとキース・ムラオさん(写真中央)

続いて、NPO法人 日ノ岬・アメリカ村の柳本文弥氏が登壇し、これまでの支援への感謝を述べるとともに、「語り部ジュニア」プロジェクトが、海外へ歴史を発信するだけでなく、地元の子どもたち自身が地域の歴史や魅力を学ぶことで郷土愛を育み、将来的な地域活性化や人口流出の抑制につなげることを目的としている点を強調した。

語り部ジュニアによる英語プレゼンテーションの様子
語り部ジュニアによる英語プレゼンテーションの様子

そしていよいよ、語り部ジュニアによるプレゼンテーションがスタート。

今回は10歳から16歳までの7名が登壇し、美浜町とカナダ移民の歴史、そして工野儀兵衛氏の功績について、約30分間にわたり英語で堂々と発表した。彼らは毎週、部活動の合間を縫って日曜日に集まり練習を重ねており、英語のスクリプトも自ら考え上げたという。

語り部ジュニアによる英語プレゼンテーションの様子
語り部ジュニアによる英語プレゼンテーションの様子

なお、同日イベント前には、語り部ジュニア一行が在バンクーバー日本国総領事館を表敬訪問し、岡垣首席領事および齋藤領事に挨拶を行った。両領事はその後、本イベントおよびJCCOCが企画した歓迎会にもご出席くださり、次世代による日加交流の取り組みに温かい激励の言葉を贈られた。

岡垣首席領事
岡垣首席領事

歓迎会では日本食が振る舞われ、語り部ジュニアたちはJCCOCの役員・会員と和やかに談笑しながら、食事と交流のひとときを楽しんだ。

JCCOC役員と交流する語り部ジュニア
JCCOC役員と交流する語り部ジュニア

本イベントは、次世代を担う子どもたちが自らの言葉で日加の歴史を語り、過去から未来へとつながる交流の意義を改めて感じさせる機会となった。語り部ジュニアの真摯な姿勢と努力は、地域の歴史を継承しながら国境を越えた絆を育む、希望ある一歩として参加者の心に深く刻まれた。

投稿:日本・カナダ商工会議所
文責:鈴木 香絵
撮影:吉川 英治

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「ゴードン・ライトフット」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第43回

はじめに

 音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、遅ればせながら、新年明けましておめでとうございます。

 2026年がスタートして早くも3週間が経ちました。新年早々のトランプ政権のベネズエラへの軍事攻撃と大統領拘束は、世界に衝撃を与えました。一気にお屠蘇気分が醒めた人も多いと思います。我々は歴史の転換点に生きているのではないかと感じる今日この頃です。後世の歴史家が2026年1月をどのように位置付けるのか興味が尽きません。

 それはさて置き、日々の生活は続きます。陰に陽に国際情勢の影響を被りながらも、2026年が、読者の皆様にとって健やかな年となるように祈念しつつ、皆様の更なる御活躍と御健勝を願っております。

 新年のご挨拶はこれぐらいにして、音楽です。

 今月は、カナダの伝説的シンガー・ソングライター、ゴードン・ライトフットです。彼が2023年5月1日に逝去した際には、カナダ最大の新聞グローブ&メール紙が特集を組みました。ジャスティン・トルドー首相も公式コメントを発出しました。曰く「カナダの最も偉大なシンガー・ソングライターの一人で、その訃報を深い悲しみをもって受け止めている。彼の作品はカナダの精神を捉え、国の音楽的伝統を形成した。カナダの音楽的遺産として永遠に残るであろう。」

 正に、カナダの国民的な歌手が追悼される様子を目の当たりにしました。

最初の出会い

 私がゴードン・ライトフットという名前を知ったのは、長崎県の地方都市・佐世保の中学1年生の頃でした。当時は、多くの同級生と同様に「オールナイト・ニッポン」や「こんばんは、落合恵子です」等の深夜放送に完璧にハマってしまいました。午前1時から始まる「オールナイト・ニッポン」を聞くと、翌朝は、睡眠不足で大変でしたが、深夜放送で流れてくる洋楽(現在は死語ですね)に胸が震えました。そんな洋楽アーティストの一人がゴードン・ライトフットでした。

 彼の代表曲“心に秘めた想い(原題: If You Could Read My Mind)”は、田舎の中学生をノックアウトしました。SONY製のTHE11という当時最新の3バンド・ラジオで聴く異国の歌は今も胸の奥で鳴っています。実は、歌詞は全く分かりませんでした。仮に英語が出来ていたとしても、恋愛の機微や男女の想いのすれ違いのニュアンス等は全く理解できなかったに違いありません。ですが、アコースティック・ギターが奏でるアルペジオの響きと語りかけるような歌声、何よりも美しい旋律に魅了されたのを鮮明に憶えています。それにしても、英語の微妙なニュアンスを示す素敵な邦題ですね。最近は、原題を単にカタカナ表記するものばかり。当時の洋楽ディレクターは偉かったですね。

 と言うものの、中学生の頃は、ゴードン・ライトフットがカナダ人ということは全く知りませんでした。というか、洋楽のアーティストの国籍には、ビートルズとサイモン&ガーファンクルを除いて、無頓着な田舎の少年だったのです。

 そして、高校生になる頃には、私の関心はよりハードでプログレッシブなロックに移っていきました。ジャズも聴き始めました。フォーク・ミュージックを基調とするゴードン・ライトフットのようなシンガー・ソングライターの音楽からは離れて行きました。

ゴードン・ライトフット再発見

 齢を重ね、様々な音楽体験を経て、ゴードン・ライトフットを再発見したのは、私がオタワに着任してからです。正直に言えば、カナダは8000km余の国境で接する米国の圧倒的な影響下にあるに違いないと私は思い込んでいました。しかし、着任直後から、米国とは異なるカナダの文化やスタイルを実感するようになりました。そんな中で、改めてゴードン・ライトフットの音楽に触れた訳です。

 放蕩息子の帰還ではありませんが、刺激溢れる前衛の音楽を浴びた後で聴くゴードン・ライトフットのナチュラルな音楽は胸に沁みました。虚飾もギミックも無い素顔の歌。しなやかさと優しさの中に潜む力を感じさせます。カナダという国の個性が彼の歌に滲み出ているようです。

 その頃の最新音盤が「ソロ」でした。前作「ハーモニー」から16年ぶりの新譜で、20枚目のスタジオ録音盤。ちょうど新型コロナの感染爆発が拡まった2020年3月にリリースされました。81歳のゴードン・ライトフットが現在進行形で刻まれています。全10曲は全て自身の作詞作曲で、表題どおり生ギターだけの弾き語りです。シンプルこの上ありません。若い頃の声と比べれば、加齢によるスモーキーな濁りはありますが、明瞭なバリトンの美声は十分に維持されています。何よりも、ライトフット節と呼ぶべき、美しい旋律が健在です。最近の音楽業界では、リズムを強調したラップ・ミュージック全盛という感がありますが、ここには本物の歌が息づいています。

 しかし、誠に残念ながら、最新盤「ソロ」が遺作となってしまいました。

訃報と弔辞

 2023年5月1日、ゴードン・ライトフット逝去は、多くのファンに深い悲しみを与えました。自然死と発表されたので、彼の寿命だったのかもしれません。ですが、84歳にして現役で、コンサート・ツアーも予定されていました。天国に召されるには若過ぎました。

 そして、訃報に接して、多くの大物ミュージシャンが心のこもったメッセージを発出しました。ゴードン・ライトフットの音楽が如何に素晴らしく人々の胸に沁みていたのかを如実に伝えています。

「セルフポートレイト」ボブ・ディラン
「セルフポートレイト」ボブ・ディラン

 ボブ・ディランは「ライトフットの曲に嫌いな曲なんて思いつかないね。かれの曲を聴くたびに、永遠に続けばいいのにと思うような感じだ…ライトフットは長い間、俺にとって師匠(mentor)だった。たぶん今もそうだと思うよ」と自身のウェブサイトで表明しています。実際、他人の曲をカバーすることの殆どないディランですが、1970年の傑作「セルフポートレイト」には、ライトフットの曲“Early Morning Rain”を収録しています。

 ビリー・ジョエルは、自身のインスタグラムに“If You Could Read My Mind”をピアノで弾き語っている動画をあげ、追悼の意を示しています。古今東西の名曲は、如何なる編曲で奏でられても素晴らしいものです。ビリー・ジョエルのヴァージョンは、曲の骨格を見事に浮き彫りにし、美しさを際立たせています。ピアノの名手のジョエルならではです。フレッド・シュルアーズ著「イノセントマンーービリー・ジョエル100時間インタヴューズ」には、ゴードン・ライトフットの歌唱法から影響を受けたことが記されています。また、やんちゃな若き日のアシッド・トリップで、激しくラリった後で、ゴードン・ライトフットを聴いて心の安寧を取り戻した旨の記述もあります。かつてラジオ番組で、ライトフットに会いたいとも語っています。

 また、同郷のシンガー・ソングライター達も胸に残るコメントをしています。ニール・ヤングは「カナダは偉大な詩人を失った」と述べました。ジョニ・ミッチェルもライトフットを「ソングライターの中のソングライター」と評し、彼の曲の物語性と旋律美に敬意を表しました。ブライアン・アダムスは「私たち全員の道を切り拓いた」と強調しました。

 実は、ブライアン・アダムスのこのコメントは、シンガー・ソングライターの世代についての極めて的確な指摘です。と言うのも、ゴードン・ライトフットは、1960年代後半から顕著な活躍を示す一連のシンガー・ソングライター達よりも数年早く誕生し、いち早く音楽活動を開始し、道を切り拓いたパイオニアだからです。

音楽の旅路〜前哨戦

 ゴードン・ライトフットは、1938年11月、オンタリオ州南部のシムコー湖畔の街オリリアに誕生しました。ここは、4000年前から先住民のヒューロン族やイロコイ族が暮らしていました。いわば、カナダの心の故郷とも言うべき街です。両親はスコットランド移民の家系で、クリーニング店を経営していました。

 そして、母親ジェシーが未だ幼かったゴードン少年の素質を見抜いたといいます。地元の聖パウロ合同教会の聖歌隊に入ると、音楽監督を勤めていたレイ・ウィリアム師から音楽の基礎を教わります。当時を振り返って、ライトフットは、心の内に湧き上がる様々な感情を如何に歌に反映させるかについて実に多くの事を学んだ旨述べています。三つ子の魂百までということでしょうか。

 そして、ライトフットは聖歌隊で活躍します。地元のラジオ局の番組でオペラやオペレッタの楽曲を歌うようになります。12歳の頃のことです。変声期前のボーイソプラノでコンクールに出場し、見事に優勝しました。その副賞がトロントの音楽の殿堂マッセイ・ホール(連載第18回参照)でのコンサート出演でした。ライトフットは、その生涯でマッセイ・ホールで170回も公演していますが、これが初のマッセイ・ホール体験です。

 母親の眼力はさすがです。その後、ピアノ、ギター、ドラム等の楽器も独学でマスターしていきます。やがて、聖歌隊の世界だけでは満足できなくなります。19世紀の米国の作曲家、ステファン・フォスターの音楽に傾倒していきます。フォーク・ソングやカントリー・ミュージックを歌うようになります。高校生になる頃には、避暑地として有名なオンタリオ州ムスコカ(2010年のG8サミットも開催された街)でも観光客を前に様々な場で歌うようになります。

 高校を卒業すると、ライトフットはロサンゼルスのウエストレイク音楽院に進学します。ここでは、ジャズ、作曲、編曲を専攻しました。ライトフットの音楽の幅が一段と拡大します。そして、いよいよ、職業的音楽家への道が拓きます。

飛翔

 2年間のロサンゼルス留学を終えて、ライトフットはトロントに戻ります。1960年のことです。本当は音楽業界の中心ロサンゼルスで名乗りをあげたかったに違いありません。ある種、夢破れた傷心の帰郷だったのかもしれません。しかし、ライトフットは、苦さも甘さも学んだ上で、地元トロントで歌手として本格的な活動を開始します。最初はフォーク/カントリー系のコーラス・グループに参加して頭角を顕します。地元レーベルからシングル盤もリリースします。が、この段階ではトロント圏内の新人でした。

 転機は、1963年に訪れます。1年間にわたり、ロンドンに遠征し、BBCテレビのカントリー番組のホストを勤めます。その間、人気デュオ、イアン&シルビアに自作曲を提供しソングライターとしての評判を高めていきます。特に“Early Morning Rain”は、カナダ・チャートで首位になります。ピーター・ポール&マリーのヴァージョンも米国でスマッシュ・ヒットします。エルビス・プレスリーらへも楽曲提供していくことになります。知る人ぞ知るカナダの才能が開花していきます。但し、花開いたのは米国でした。ボブ・ディランの敏腕マネージャーとして知られたアルバート・グロスマンこそライトフットの巨大な才能の発見者でした。

 1966年1月、遂に記念すべきデビュー盤「ライトフット!」がリリースされます。実は、この音盤は1964年にニューヨークで録音されていたものの御蔵入り状態だったのです。が、グロスマンの働きで、ライトフットがニューポート・フォーク祭で演奏し、人気TV番組ジョニー・カーソン・ショーにも出演したことで、音盤リリースに至ったのです。御蔵入りしていたとは言え、その内容は今聴いても古臭くありません。収録された全14曲のうち11曲はライトフットの自作曲です。上述の“Early Morning Rain”も聴けます。

カナダの精神を刻む音楽

 1967年4月、第2弾「The Way I Feel」がリリースされました。特に、注目すべきは“Canadian Railroad Trilogy”です。この曲は、CBC(言わばカナダのNHK)から委嘱された特別な曲です。1967年はカナダ建国100周年の記念すべき年ということで、それに相応しい歴史を描写する希望と誇りに溢れる力強い曲が出来上がった訳です。6分22秒という長尺です。日本の27倍の広大な国土が東西は大西洋岸から太平洋岸に広がり、北は北極海に面する若い国家カナダの統合を象徴するのが鉄道のネットワークでした。1885年に大陸横断鉄道が完結しました。ライトフットは、そんなカナダ建国と鉄道の絆を歌い上げたのです。CBCが100周年に際して委嘱した音楽家がライトフットであったという事実は、ライトフットが真に国民的な歌手だということを端的に示しています。カナダの精神を刻む音楽です。必聴です。

結語

 ゴードン・ライトフットが没して既に3年近くが経過しました。世に『去る者日々に疎し』と言います。しかし、如何に歳月を経ても風化することのない本質というものがあります。カナダの心情と歴史を描き人々の心に深く沁みるライトフットの歌は永遠です。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

36 ☆ 丙午の「丙」とは・・・?

日本語教師  矢野修三

 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。今年は午年、多くの方と馬が合い、何事もウマくいきますように、本年もよろしくお願いいたします。  

 なおその上、今年は丙午(ひのえうま)である。この「ひのえうま」と聞いて、「あらー」と反応する人はそれなりのお年の方であり、若者世代は「なにそれー」。でも60年に一度やってくる、いわく付きの年なので、ニュースなどにも取り上げられ、気になっている方も多いのでは。

 この「丙午(ひのえうま)」を理解するには、「十干・十二支」の知識が必要である。はるか昔、古代中国で、年や時間、方位や占いなどに作られたもので、日本には飛鳥時代ごろ伝わったとされ、時代とともに、日本文化として定着し、江戸時代ごろから一般庶民にも大いに親しまれたようである。

 先ず、十干(じっかん)だが、これは「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」である。しかし我がおじさん世代でも、甲・乙・丙・丁ぐらいは学校で習った記憶はあるが、他の漢字は読むことも難しい。因みに、甲は音読み「こう」で、訓読みは「きのえ」。丙は音読みが「へい」で、訓読みが「ひのえ」。最後の「癸」は「き」と「みずのと」だが、ほぼ馴染みなし。

 一方、十二支(じゅうにし)は年賀状などでお馴染みの「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」であるが、これも若干ややこしい。これが作られた古き中国において、漢字など分からない一般大衆も馴染めるように、十二支の漢字に、身近な動物を「ねずみ」から順番に、それぞれの漢字に割り当てたとのこと。それゆえ、例えば、今年の「午」と動物の「馬」は全く関係なし。でも動物の「馬」がこの「午」に割り当てられたので、十二支の上では「午=馬」の特別な関係になり、日本式読み方は両方「うま」である。

 この「十干」と「十二支」が組み合わさって、暦が成立した。甲子(こうし・きのえね)から始まり、癸亥(きがい・みずのとい)まで60通り、すなわち60年で生まれた年に戻る、いわゆる「還暦」である。つまり、干支(えと)とは十干(じっかん)の「干」と十二支の「支」であり、今年西暦2026年がこの丙午(ひのえうま)の年である。

 実は、江戸時代に八百屋お七という女性の放火騒動があり、気性が激しく、災いを招くなどの俗信が広まり、このお七が丙午生まれだったようで、丙午の年に女の子を生んではダメ、こんな迷信が近代でも根強く残り、1906年や1966年の丙午の年は出生数がかなり落ち込んだのは事実。さて、2026年はどうなるか・・・。

 ともあれ、正式な干支(えと)とは「十干・十二支」であり、明治ごろまでは、ちゃんと両方使っていた。例えば1868年の戊辰戦争は「戊辰(ぼしん・つちのえたつ)」の年であり、1924年は「甲子」の年で、この年に出来た野球場を「甲子園」と命名した。なるほど。ついでに、我が干支は甲申(こうしん・きのえさる)なり。

 しかし、昭和に入り、「十干」はややこしく、だんだん使われなくなり、干支といえば十二支だけになってしまった。当然、「丙午」などお呼びでなく、そんな迷信を信じる若者カップルなど、恐らくいないであろう。令和の「丙午」、むしろ、ウマく出生数が増えることを願いたい。

「ことばの交差点」
日本語を楽しく深掘りする矢野修三さんのコラム。日常の何気ない言葉遣いをカナダから考察。日本語を学ぶ外国人の視点に日本語教師として感心しながら日本語を共に学びます。第1回からのコラムはこちら

矢野修三(やの・しゅうぞう)
1994年 バンクーバーに家族で移住(50歳)
YANO Academy(日本語学校)開校
2020年 教室を閉じる(26年間)
現在はオンライン講座を開講中(日本からも可)
・日本語教師養成講座(卒業生2900名)
・外から見る日本語講座(目からうろこの日本語)    
メール:yano94canada@gmail.com
ホームページ:https://yanoacademy.ca

日本語教師として37年、81歳になって
初めて、平仮名「あいうえお」の
素晴らしさ、奥深さを悟りましたよ。

愛情、いっぱいで、生まれ
あ  い     う

笑顔で、終える。
え   お

素晴らしきかな「あいうえお」

<マッサージのお知らせ>

ランガラ大学のRMTプログラムで学びながら、当校のクリニックでインターンシップを行っているMari Hと申します。マッサージに興味のある方は、日々の疲れを癒しに是非いらしてください。

4月までの施術日が更新されました!

1月は28日と31日が施術日となります。

ご予約は以下のサイトからお願いいたします。
https://langara.janeapp.com/locations/m11-and-l2-broadway-plaza-building/book#/staff_member/733

料金

一般:40ドル(土曜日のみ30ドル)
学生·シニア·医療関係者の方:25ドル

新春*キッズ茶会2026 和の学校@東漸寺

新年あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

コキットラム市の東漸寺にて「和の学校」を開講してから、今年で15年目を迎えます。これまで多くのご家族の皆さまと、日本文化を通じたさまざまな活動をご一緒させていただきました。

日本文化に精通された講師の皆さま、熱心に支えてくださるボランティアの皆さま、そして東漸寺にご縁のある皆さまに、心より感謝申し上げます。

開講当初より大切にしてまいりました「日本文化を通して、子どもたちに日本の良さを伝える」という想いは、これからも変わることなく続けていきたいと考えております。

さて、本年最初のイベントとして「人日の節句*節分に向けて」キッズ茶会 を企画いたしました。

ご興味をお持ちのお友達や生徒さんがいらっしゃいましたら、ぜひお気軽にご参加いただけましたら幸いです。

コナともこ
和の学校@東漸寺主宰

開催日時 : 1月25日(日曜日)<第1席> 午前10時〜
会場: 東漸寺 Tozenji(209 Jackson St, Coquitlam, BC V3K 4C1)

料金:
キッズ茶会(完全予約制) $3/お子様おひとり(対象年齢:3歳〜12歳) $5/おひとり(13歳以上〜大人)

お着物体験(完全予約制) $5/お子様おひとり(対象年齢:3歳〜12歳) $10/おひとり(13歳以上〜大人)

※お茶券・着物レンタルは数に限りがございますので、お早めにお申し込みください。

<茶会、着物体験のお申し込み、お支払い>
お申し込み・お問い合わせ 和の学校@東漸寺(TOZENJI)tands410@gmail.com  

お支払い方法
現金、イートランスファー(e-mail)、小切手で承っております。 和の学校@東漸寺 コナともこ tands410@gmail.com

和の学校ホームページ https://wanogakkou.jimdofree.com/
インスタグラム https://www.instagram.com/wa_no_gakkou_tozenji/
フェイスブック https://www.facebook.com/profile.php?id=100069272582016

東漸寺Tozenji Temple https://tozenjibc.ca/

コナともこ
Facebook https://www.facebook.com/tomoko.kona.98
Instagram https://www.instagram.com/konatomoko/?hl

日本のお正月遊びで始業日を彩る グラッドストーン日本語学園

かるた取り(写真:グラッドストーン日本語学園)
かるた取り(写真:グラッドストーン日本語学園)

 2026年、午年の幕開けとともに、学園では子供たちが元気よく「明けましておめでとうございます」と新年の挨拶を交わし、2学期が始まりました。今年の1月の目当て「一年の計は元旦にあり」をテーマに、小学科では「毎日本を読む」「朝自分で起きる」「言葉ノートを早く終わらせる」などの目標を発表し、中学科や高等科では「漢字検定にチャレンジする」「日本文化を学ぶ」など、それぞれの抱負を語り合いました。

 その後、クラスごとにお正月遊びを行い、かるた取り・羽根つき・コマ回し・すごろく・福笑い・百人一首・書初めなど、日本の伝統的な遊びを体験。教室には子供たちの明るい笑い声が響きました。特に、学園オリジナルのBC州かるた取りでは、毎年の経験から素早く札を見つける子供たちの姿が印象的でした。福笑いでは、廊下まで笑い声が広がり、すごろくでは「おせち」「かがみもち」「かどまつ」など、お正月にちなんだ言葉を元気よく発表する様子が見られました。

 新年の伝統文化に触れ、子供たちにとって思い出に残る始業日となりました。

羽根つき遊び(写真:グラッドストーン日本語学園)
羽根つき遊び(写真:グラッドストーン日本語学園)
書初め(写真:グラッドストーン日本語学園)
書初め(写真:グラッドストーン日本語学園)
書初め作品(写真:グラッドストーン日本語学園)
書初め作品(写真:グラッドストーン日本語学園)
福笑いを楽しむ(写真:グラッドストーン日本語学園)
福笑いを楽しむ(写真:グラッドストーン日本語学園)

(寄稿:グラッドストーン日本語学園)

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喪失と創作をめぐる静かな愛の物語『Hamnet(邦題:ハムネット)』(クロエ・ジャオ監督)

Jessie Buckley stars as Agnes and Joe Alwyn as Bartholomew in director Chloé Zhao’s HAMNET Credit Agata Grzybowska / © 2025 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
Jessie Buckley stars as Agnes and Joe Alwyn as Bartholomew in director Chloé Zhao’s HAMNET Credit Agata Grzybowska / © 2025 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

 年が明け、映画界はいよいよ賞レースのシーズンに入りました。クロエ・ジャオ監督最新作『Hamnet』は、トロント国際映画祭(TIFF)観客賞をはじめ、ゴールデングローブ賞の作品賞と主演女優賞を獲得し、今年最も注目されている一本です。ジェシー・バックリーの圧巻の演技と、自然の美しさが心に沁みる、静かで力強い感動作となっています。

あらすじ

 マギー・オファーレルの同名小説を原作に、シェイクスピアの『ハムレット』誕生の背景を描きます。舞台は16世紀イングランド。自然と共に生き、直感的な感覚を持つアグネス(ジェシー・バックリー)と、言葉と演劇の世界に身を置く夫ウィリアム(ポール・メスカル)は、慎ましくも確かな愛情に満ちた家庭を築いていました。しかし、幼い息子ハムネット(ジャコビ・ジュプ)の死によって、二人の日常は大きく揺らぎます。本作は、喪失の悲しみの中で再生の兆しを見つけていく夫婦の姿を丁寧に描いていきます。

Director Chloé Zhao with actors Paul Mescal and Jessie Buckley with on the set of their film HAMNET, Credit: Agata Grzybowska / © 2025 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
Director Chloé Zhao with actors Paul Mescal and Jessie Buckley with on the set of their film HAMNET, Credit: Agata Grzybowska / © 2025 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

 この映画を観て強く心に残ったのは、「悲しみをどう生きていくのか」という問いでした。アグネスは、喪失の痛みを抱えたまま、それでも日々の生活を丁寧につないでいきます。その姿はとても静かで、だからこそ胸に迫ります。一方のウィリアムは、悲しみから少し距離を取り、創作という手段を通して息子の死と向き合おうとします。二人の在り方は対照的ですが、どちらも必死に生きようとする姿だと感じました。

 やがて『ハムレット』という作品が生まれ、失われた命に永遠の意味が与えられたとき、すれ違っていた二人の心が静かに重なっていく。その瞬間に、言葉にならない救いを見た気がします。この映画は、悲しみそのものを消すことはできなくても、「物語」が人を生かし、支え得るのだということを、そっと教えてくれているようでした。

 アグネスに関する史料は少なく、その生涯については多くが知られていません。それでも、シェイクスピアより年上であったことや、別居期間が長かったことなどから、二人の関係は必ずしも良好ではなかったのではないか、という説も伝えられています。しかし、この映画を観ていると、シェイクスピアの作品に見られるスピリチュアルな感性には、アグネスの影響が大きかったのだと思わずにはいられません。歴史上最も有名な劇作家の陰でひっそりと生き、愛していた彼女の存在に思いを馳せるとともに、彼女の存在に光を当てた原作も、ぜひ読んでみたくなりました。

Paul Mescal stars as William Shakespeare in director Chloé Zhao’s HAMNET, Credit: Agata Grzybowska / © 2025 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
Paul Mescal stars as William Shakespeare in director Chloé Zhao’s HAMNET, Credit: Agata Grzybowska / © 2025 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

 『Hamnet』は、喪失を克服する物語ではなく、悲しみと共に生き続ける厳しさと、その中に宿るかすかな希望を描いています。派手なシーンはありませんが、アグネスに寄り添いながら迎える終盤のクライマックスは、さまざまな感情が渦巻き、圧巻の一言です。ジェシー・バックリー、ポール・メスカル、そして子役のジャコビ・ジュプとノア・ジュプ、皆の演技が素晴らしかったです。

 余談ですが、
TIFFで鑑賞した際、「シェイクスピア?あまり興味ない」と話していた人たちも、最後には皆、涙を流していたことを付け加えておきます。

 バンクーバーではCineplex系で上映中です。

Lalaのシネマワールド
映画に魅せられて

バンクーバー在住の映画・ドラマ好きライターLalaさんによる映画に関するコラム。
旬の映画や話題のドラマだけでなく、さまざまな作品を紹介します。第1回からはこちら

Lala(らら)
バンクーバー在住の映画・ドラマ好きライター
大好きな映画を観るためには広いカナダの西から東まで出かけます
良いストーリーには世界を豊にるす力があると信じてます
みなさん一緒に映画観ませんか!?

第32回 愛を、争いに変えないために 今、できる終活 ~Let’s 海外終活~

終活は新しい大人のマナー

叶多範子

新しい年を迎え、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
年のはじまりは、これからの人生と、大切な人との関係を、そっと見つめ直すタイミングでもあります。

今日は新年のはじまりに、私にとって少し印象的だった出来事をひとつ、シェアさせてください。

昨年12月30日、アメリカでコーチングをされている方とじっくり言葉を交わす機会がありました。その対話の中で、私自身がずっと伝えたかったのに、うまく言葉にできずにいた思いが、ようやく一文になったのです。

終活は、
愛を、争いに変えないために、
今、あなたができること。

これまで私は、終活を「愛」や「思いやり」という言葉で表現してきました。
ただ、どこか抽象的で、本当に伝えたい核心に、もう一歩届いていない感覚もありました。

この一文は、私がこれまで見てきた数えきれない実例と、自身の経験が重なって生まれた言葉です。新しい年、この言葉を胸に、また一つずつ、丁寧に伝えていこうと思っています。

さて、ここから少し、大切なお話をします。

「面倒と思えているうちは、まだ余裕がある」。

この言葉は、年齢を重ねた方からの相談を聞いていると、実感する場面がとても多くあります。 特に、エンディングノートについては、そう感じることが少なくありません。

なぜ、年齢を重ねるほどエンディングノートが書きにくくなるのでしょうか?

理由は、とてもシンプルです。
体力と気力が、確実に落ちていくから。

考える
決める
選ぶ
振り返る

これらはすべて、想像以上にエネルギーを使います。

若い頃は無意識にできていたことが、年齢とともに少しずつ負担になっていく。

それなのに、
「ちゃんと考えなきゃ」
「家族に迷惑をかけないようにしなきゃ」
と思うほど、心と体が拒否反応を起こしてしまうのです。

そして「面倒」が、いつの間にか「しんどい」に変わり、結果として、手をつけられないまま時間だけが過ぎてしまう。

書いた方がいいのは分かっている。
でも、体力も気力も残っていない。
そんな状態に、多くの方が陥ります。

ここで、よく聞かれる質問があります。
70代や80代からでは、もう手遅れなのでしょうか。

正直に言うと、これは人によります。

自分で書けない
書く意欲がわかない。

そんな場合は、周りの人が手伝う、という選択肢もあります。

エンディングノートは、無理なら完成させなくてもいい。途中でもいい。空白があってもいい。

ただ、最低限の情報や、してほしいこと、してほしくないこと、それだけは残しておく。

私は遺言・相続専門の弁護士アシスタントとして、この「ほんの少し」が何も用意されていなかったことで、困り、苦しまれたご家族をこれまで数多く見てきました。

これは誇張でも、脅しでもありません。
私自身が現場で見てきた事実であり、率直な実感です。

だから私は、「全部、完璧にやりきりましょう」とはお伝えしていません。

「やれる元気があるうちに、少しでも書いておきましょう」
そうお伝えしています。

完璧でなくていい。未来の自分や家族が、「やっておいてよかった」と思える程度で十分です。

新しい年が、あなたと、あなたの大切な人にとって、少しでも安心につながる一年になりますように。

*ご感想・ご質問は、メールにてお気軽にどうぞ。voice@shukatsu.ca

本コラムは終活に関する一般的な情報提供を目的としています。内容には十分配慮しておりますが、必要に応じてご自身での確認や、専門家へのご相談をおすすめします。なお、本コラムをもとに行動されたことによる不利益については、免責とさせていただきます。

「Let’s海外終活~終活は新しい大人のマナー」の第1回からのコラムはこちらから。

叶多範子(かなだ・のりこ)

グローバルライフデザイナー/海外終活アドバイザー。カナダ・バンクーバー在住。

カナダで親しい友人を突然亡くした経験から、「準備があることで、まわりの負担が減り、安心して暮らせる」ことを痛感。現在も相続専門の弁護士アシスタントとして実務に携わりながら、海外で暮らす日本人が将来の不安を少しずつ整理できるよう寄り添いながら活動している。

エンディングノートを通じて、終活を“死の準備”ではなく、これからの自分の人生を整える“私活(わたしかつ)”として紹介している。

家族はカナダ人の夫、2人の息子、愛猫1匹。
ホームページ:https://www.shukatsu.ca

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「車社会」~投稿千景~

エドサトウ

 アメリカのトランプ大統領が発令した高い関税が大きな問題となったのは2025年の春のこと、アメリカでよく売れている日本車も大きな影響を受けた。

 日本のT社などは、今頃はドイツの車を抜いて、世界のトップクラスの売り上げだから、大変なことであろう。しかも、時代は小氷河期に向かいつつあると言う時代に、低温に弱いと言われている電気エネルギーの自動車に舵を切ろうとしているから、ガソリン車は少々難しい時代に入ってきたという感じである。

 過日、宇沢弘文氏の1994年の「自動車の社会的費用再論」を読めば、そろそろ自家用車などの生産を減少させても良いのではないかと思われた。

 1907年頃のバンクーバー市の記録フイルムを見れば、路面電車は走っているものの、街の大通りを走っているのは、車ではなく馬車ばかりであるから、大きな人身事故はなかったであろうと思われる。

 今頃、日本では車の事故の多い月は千件以上の事故があるというから、一年にすれば、かなり多くの人がケガをしたりして亡くなっている社会の中にあって、車の運用の在り方を変えてゆかねばと思える。

 「自動車の社会的費用の構成は、(人も含む)自然環境の破壊である。」と宇沢氏の論文にある。さらに「自動車の社会的費用として最後にあげなければならないのは、自動車の生産性、それにともなう地球的規模の環境破壊の問題である。ーーー」などなど、さらに「人間的魅力を備えた都市はまず何よりも歩くことを前提としてつくられなければならない。学校、病院、商店などすべて、公共機関をつかって利用できるように設計される。ジェイコブス的な街路は、道幅は広くなく、曲がっていて一つ一つのブロックが短い。しかも、十字路的な交差点では、T字路を基本としてーー」とある。

 バンクーバーの街に車が登場し始めたのは、記録フイルムによれば1950年頃のようである。それから75年過ぎようとして、AIのロボット社会になろうという時代に、車の事故のない時代、人が悲しむことのない社会を考えなければなるまい。

投稿千景
視点を変えると見え方が変わる。エドサトウさん独特の視点で世界を切り取る連載コラム「投稿千景」。
これまでの当サイトでの「投稿千景」はこちらからご覧いただけます。
https://www.japancanadatoday.ca/category/column/post-ed-sato/

「カナダ“乗り鉄”の旅」第32回 目玉の“走るレストラン”、高級ホテルとは正反対の流儀とは シリーズ「カナディアン」【6】

VIA鉄道カナダの夜行列車「カナディアン」の食堂車内(2024年8月12日、大塚圭一郎撮影)
VIA鉄道カナダの夜行列車「カナディアン」の食堂車内(2024年8月12日、大塚圭一郎撮影)

大塚圭一郎

 カナダの西部ブリティッシュ・コロンビア(BC)州バンクーバーと、国内最大都市の東部オンタリオ州トロントの約4466キロを4泊5日で結ぶVIA鉄道カナダの看板列車「カナディアン」の目玉となっているのが“走るレストラン”こと食堂車だ。高級ホテルのレストランの「常識」とは180度異なる運営をしており、意外にもそれが隠れた魅力となっている。

「カナディアン」の食堂車の予約票(2024年8月14日、大塚圭一郎撮影)
「カナディアン」の食堂車の予約票(2024年8月14日、大塚圭一郎撮影)

 【食堂車】主に長距離列車に連結しており、乗客に食事を提供する車両。乗客の食事用のテーブルと座席、調理用の台所と配ぜん設備を備えていることが多い。アメリカの鉄道車両メーカーだった旧プルマンが1968年に製造した「デルモニコ」が、全室を食堂車にした客車の先駆けとされる。アメリカの全米鉄道旅客公社(アムトラック)の夜行列車には食堂車をつないでいる。VIA鉄道カナダでも「カナディアン」のほかに、東部のケベック州モントリオールとノバスコシア州ハリファックスをつなぐ夜行列車「オーシャン」にも連結している。

 日本ではJR東日本の豪華寝台列車「トランスイート四季島」、JR西日本の「トワイライトエクスプレス瑞風(みずかぜ)」、JR九州の「ななつ星in九州」などに連結している。かつては東海道・山陽新幹線の一部列車や、長距離を走る特急列車などにも備えていた。

▽パーティーの来客のようにもてなす

 「カナディアン」は2両のディーゼル機関車が、旧型ステンレス製客車を引いている。2024年8月12日にバンクーバーのパシフィックセントラル駅を出発したトロント行きの列車は夏休みの繁忙期とあって計22両という長大な編成で、食堂車が2両連結されていた。

「カナディアン」に連結された食堂車の外観(2024年8月14日、大塚圭一郎撮影)
「カナディアン」に連結された食堂車の外観(2024年8月14日、大塚圭一郎撮影)

 利用できるのは最上級クラス「プレスティージ寝台車クラス」と、次いで料金が高い「寝台車プラスクラス」の乗客で、料金に食事代が含まれている。プレスティージ寝台車クラスの利用者はアルコール飲料も無料で注文できるのに対し、寝台車プラスクラスの場合は追加料金が必要だ。VIA鉄道の職員にチップについて尋ねると「食事のたびに支払う必要はないが、担当してくれたウェイターか、ウェイトレスに下車前に寸志を封筒に入れて渡すと喜ばれると思う」と助言されたので、そうした。

 客室の位置によって2両の食堂車のどちらかに割り当てられ、私たちは後ろから4両目に連結された車両だった。車内はテーブルごとに4席、計48席を備えている。車内の仕切りのガラスには鳥のイラストが装飾されているなど、気品が漂う空間だ。

 横長の窓からの車窓を眺めながら、シェフが併設された台所で調理したばかりの料理に舌鼓を打つ時間は格別で、列車旅ならではのぜいたくな時が流れる。

 VIA鉄道は食堂車について「楽しさと満足感を得られることを保証する」と太鼓判を押す。2023年12月に息子とともにトロントからバンクーバーまでの全線を乗り通した前回は、食堂車を担当するベテランのサービスコーディネーター、ショーン・ピジョンさんが「私は全ての利用者を、パーティーの来客のように歓迎し、もてなしている」と教えてくれた。

 もてなす手法が、VIA鉄道の食堂車の魅力を倍加させる“スパイス”として利いているのだ。しかし、それは実は「高級ホテルのレストランの常識に反する」(ホテルマン)というものだった。

▽クライマックスはいつ?

 2024年8月に再びカナディアンに乗車した際は、息子に加えて妻も伴った家族3人の総出となった。私の関心の的は「あの絶品の料理がいつ供されるのか」ということだった。それは23年12月にトロントからバンクーバーへ向かった際、“最後の晩餐”となった4日目の夕食の選択肢にあったメーンディッシュだった。

 それは、生後12カ月未満の仔羊の骨付きのロース肉を調理したラムチョップだ。世界中で鉄道旅行を楽しんできたという男性も「カナディアンのラムチョップは食堂車で食べた中で最高だった」と絶賛するほどの美味だった。

 トロントからバンクーバーへ向かう「VIA1」と名付けた1番列車でラムチョップが用意されたのは4日目の夕食で、BC州を走行中のことだった。

 これに対し、今回乗り込んだ反対方向のバンクーバー発の列車「VIA2」は、ラムチョップが前回提供されたBC州の区間がいきなりやって来る。その場合、初日の夕食で味わえることになる。

 一方、もしも“最後の晩餐”に取っておいているのならば、オンタリオ州を走る4日目の夕食に待ち受けているはずだ。その場合、ラムチョップの出番はいつになるのかと首を長くして待っていた私と息子は肩を落とすことになる。今回は途中のカナダ中部マニトバ州ウィニペグで下車するため、ラムチョップにはありつけないことになるからだ。

 果たして初日の夕食のメニューは何か。それが気になりながらバンクーバーを出発した2024年8月12日、予約時刻の午後7時に食堂車へ足を踏み入れた。4人掛けのテーブルに3人で着席し、渡されたメニューのページを繰った。

 願いが通じ、なんとラムチョップが入っていた。何とウェルカムドリンクならぬ“ウェルカムディナー”で早くもクライマックスが訪れた展開だ。味はもちろん、期待通りの素晴らしさだった。

「カナディアン」の食堂車でラムチョップを味わう筆者(2024年8月12日)
「カナディアン」の食堂車でラムチョップを味わう筆者(2024年8月12日)

 他にはケイジャンのスパイスを利かせて焼いたサケ、カナダの特産品のメープルシロップで味付けしたローストチキン、そしてベジタリアン用の料理が用意された。妻はサケを選び、「とてもおいしい」と満足そうだった。

▽「ブランチ」の定義に新説!?

 1日目にしてヤマ場を迎えた食堂車での体験は、2日目に帳尻を合わせてきた。この日は朝食ではなく昼食を兼ねた「ブランチ」という設定で、午前9時半から午後1時までの好きな時間に訪れる仕組みだ。

 反対方向の列車に乗り込んでいた2023年12月の前回乗車時も、西部アルバータ州の有名保養地のジャスパーを通る4日目だけブランチだった。このときはオープン直後の午前9時半にブランチのオムレツを食したため、午後9時に予約していた夕食まで半日近くの間が空いた。

 夕食で同席したアルバータ州エドモントン在住の心理カウンセラーの女性は「朝食が早くて昼食はなかったので、展望車両に置いてあったビスケットを食べてしのいだわ」とぼやいた。私も首を縦に振って「息子と私も同じ状況でした」と話した。

 すると、同席したジャスパーに住むカナダ国立公園局(パークス・カナダ)元職員の男性は「へー、そうなんだ」とどこ吹く風と言わんばかりの様子だ。女性が「あなたはどうしたの?」と質問すると、男性は「『ブランチ』と言っているのだから、そういう時はブレックファスト(朝食)とランチ(昼食)の2回行けばいいんだよ」と得意げに答えた。

 女性が「つまり朝と昼の2回食堂車に来て、どちらもブランチのメニューを注文したということ?」と確認すると、男性は「そういうこと。1回目は朝食のために午前9時半に来て、2回目は昼食を取るために午後1時に再訪したんだ」と説明した。

 男性は「別に注意されることもなかったよ。だって、映画『ロード・オブ・ザ・リング』では『2回目の朝食はないの?』という台詞が出てくるじゃないか!」と笑いながら解説した。

 確かにロード・オブ・ザ・リングでは、道中にピピンがアラゴルンに「朝食は?」と尋ね、アラゴルンが「食べただろ?」と返すと、ピピンが「1回だけしか食べてない。2回目の朝食は?」と食い下がる場面がある。

 男性の〝告白〟は、思わぬ相手にも伝わっていた。隣のテーブルの乗客が平らげたケーキの皿を下げようとしていたウェイターが、こちらに視線を送りながら「よろしければ2個目のケーキはいかがですか?」と声を張り上げたのだ。

 「2回目の朝食」を皮肉られたことに気づいた男性はすかさず「それは僕のアイデアだぞ!」と返し、皆で大笑いした。

▽「ホテルマンの常識」と異なる流儀

 このときの夕食で相席になった心理カウンセラーの女性も、パークス・カナダ元職員の男性も全くの初対面だった。ウェイターが4人掛けのテーブルに私たち親子と女性、男性を案内して同じテーブルになった。これは「相席にはしないのが常識」(ホテルマン)という高級ホテルのレストランでは見られない光景だ。

 食堂車を担当するピジョンさんは「食事の機会に新たな出会いが生まれるといいとの思いから、できるだけ同じテーブルに他の人と同席してもらっている」と教えてくれた。食堂車を利用するのは最上級のプレスティージ寝台車クラスの利用者と、次いで値が張る寝台車プラスクラスの乗客だけに、社交的で旅慣れた利用者が多い。

 したがって、ウェイターまたはウェイトレスから「相席でお願いします」と言われれば快諾し、互いにあいさつして会話を楽しむ場面が多く見られる。

 心理カウンセラーの女性も「知らない人たちと出会えるのがこの列車の楽しいところだわ」と語り、パークス・カナダ元職員の男性も、私たち親子もうなずいた。

 別の時の昼食では韓国人の親子と相席になり、「僕は日本のアニメのファンなんだ」という子どもの豊富な知識量に舌を巻いた。

 こうしてひとたび同席した人たちとは列車内で顔を合わせるとあいさつをしたり、会話をしたりするようになる。「パーティーの来客のように歓迎し、もてなしている」(ピジョンさん)という言葉通り、パーティーのように食事の席でも知己を広げ、交流できるように仕掛けられているのだ。

▽裏ワザを繰り出すチャンス到来!?

「カナディアン」に乗車した2日目の2024年8月13日、食堂車に提供されたブランチのメニュー(大塚圭一郎撮影)
「カナディアン」に乗車した2日目の2024年8月13日、食堂車に提供されたブランチのメニュー(大塚圭一郎撮影)

 さて、「2回目の朝食」という裏ワザを耳打ちされて迎えた2024年8月のブランチはどうしたのか。さすがに3人連れでブランチ時間帯に2度訪れると目立つのに加え、他の乗客の分や、乗務員のまかない飯が足りなくなっては申し訳ないので自粛した。

 ところが、公式な形で1日に3食を味わうことは可能だったのだ。2日目となる8月13日は午前6時半~8時という限られた時間に食堂車へ足を運ぶと、普段よりも簡素ながら朝食を出してもらえた。

 提供されるのはオートミールとシリアルに加え、ヨーグルトまたはトースト、マフィンの付け合わせだった。私たちは午前8時前に食堂車を訪れ、付け合わせにはトーストを選んだ。

 続いて3時間後の午前11時に再び足を運び、ブランチをいただいた。メニューは5択で、卵料理とハッシュドブラウンのハッシュドブラウンポテトなどを盛り合わせた「トランスコンチネンタル」、オムレツ、チキンポットパイ、パスタ料理、ビーガン向けのハッシュドブラウンと野菜、豆腐を組み合わせた料理が用意されていた。

ブランチのチキンポットパイ(2024年8月13日、大塚圭一郎撮影)
ブランチのチキンポットパイ(2024年8月13日、大塚圭一郎撮影)

 私は選んだチキンポットパイを食しながら、元パークス・カナダ職員の男性がドヤ顔でブランチ時間帯に2回訪問したことを明かした8カ月前の情景を思い浮かべた。そして、心の中でこう叫んだ。

 「今度こそ『2回目の朝食』にありつけたよ!」

共同通信社元ワシントン支局次長で「VIAクラブ日本支部」会員の大塚圭一郎氏が贈る、カナダにまつわる鉄道の魅力を紹介するコラム「カナダ “乗り鉄” の旅」。第1回からすべてのコラムは以下よりご覧いただけます。
カナダ “乗り鉄” の旅

大塚圭一郎(おおつか・けいいちろう)
共同通信社経済部次長・「VIAクラブ日本支部」会員

1973年、東京都生まれ。97年に国立東京外国語大学外国語学部フランス語学科を卒業し、社団法人(現一般社団法人)共同通信社に入社。2013~16年にニューヨーク支局特派員、20~24年にワシントン支局次長を歴任し、アメリカに通算10年間住んだ。24年9月から現職。国内外の運輸・旅行・観光分野や国際経済などの記事を多く執筆しており、VIA鉄道カナダの公式愛好家団体「VIAクラブ日本支部」会員として鉄道も積極的に利用しながらカナダ10州を全て訪れた。

 優れた鉄道旅行を選ぶ賞「鉄旅(てつたび)オブザイヤー」(http://www.tetsutabi-award.net/)の審査員を2013年度から務めている。共同通信と全国の新聞でつくるニュースサイト「47NEWS(よんななニュース)」や「Yahoo!ニュース」などに掲載されている連載『鉄道なにコレ!?』と鉄道コラム「汐留鉄道倶楽部」(https://www.47news.jp/column/railroad_club)を執筆し、「共同通信ポッドキャスト」(https://digital.kyodonews.jp/kyodopodcast/railway.html)に出演。
 本コラム「カナダ“乗り鉄”の旅」や、旅行サイト「Risvel(リスヴェル)」のコラム「“鉄分”サプリの旅」(https://www.risvel.com/column_list.php?cnid=22)も連載中。
 共著書に『わたしの居場所』(現代人文社)、『平成をあるく』(柘植書房新社)などがある。東京外大の同窓会、一般社団法人東京外語会(https://www.gaigokai.or.jp/)の広報委員で元理事。

日系カナダ人物語「記憶を次世代へ」:堀井昭さん「差別はいつでもどこでも起きる」

Dr. Akira Horii/堀井昭さん
Dr. Akira Horii/堀井昭さん

堀井昭さん

1931年10月、ブリティッシュ・コロンビア州バンクーバー市生まれ
1942年ブリティッシュ・コロンビア州イースト・リルエットに移動、1949年にバンクーバー市に戻る
元医師、両親は和歌山県出身

日系人への差別がなかったストラスコナ小学校時代

 「子ども時代はバンクーバーで育って、当時は差別なんて知りませんでした」と話し始めた。バンクーバーに住んでいた多くの日系人がそうだったように、ホリイさんもストラスコナ小学校に通った。

 当時の小学校ではイギリス系の生徒には上流階級意識があり、中国系、イタリア系、ユダヤ系の生徒たちをそれぞれ差別的に呼んでいたという。それでも「私たちを『ジャップ』と呼んでいるのは聞いたことがなかったですね」。生徒数の約50%は日系2世だったと思うと語る。『ジャップ』とは日本人を差別的に呼ぶ言葉だ。

 当時、ヨーロッパで第2次世界大戦が始まり、イギリスで困っている子どもたちにくつ下やキルトを送るため授業では先生がくつ下の編み方やキルトの作り方を教えていたという。

 「(太平洋)戦争前はハッピーな子どもでした。差別が何かも知りませんでしたしね」

人生が一変した真珠湾攻撃

 ハッピーな子ども時代を一変させたのは1941年12月7日、日本軍によるアメリカ・ハワイ州真珠湾攻撃だった。「世界が一変しました」。同日カナダが日本に宣戦布告。「日系カナダ人にとって天地がひっくり返る出来事でした」。

 ホリイさんが10歳の時だった。なにもかも突然に起きた。「突然学校を辞めなくてはいけなくなりました。パールハーバーまでは私はストラスコナ小学校のグレード5(5年生)で、アレキサンダー通りのバンクーバー日本語学校の5年生でした」。ストラスコナ小学校に通っていた日系カナダ人の生徒約630人が去らなくてはならなかった。学校の生徒数は半分に減ったという。

 それから日系カナダ人コミュニティに起こったことを説明した。

 カナダ政府は日本に起源を持つ全ての日系カナダ人をブリティッシュ・コロンビア(BC)州沿岸から100マイル(160キロメートル)以東へ移動することを強制。家屋、自動車、ビジネス、漁船などの財産は差し押さえられた。その中にはホリイさんの父親が所有していた漁船も含まれていた。健康な18歳から45歳までの男性はロードキャンプで働くことを強いられ、BC州内のホープ・プリンストン、レベルストーク・シカモス、ブルーリバー・イエローヘッドの3カ所に送られた。ロードキャンプ行きを拒否した者は移民局の建物の中に隔離される。また、ロードキャンプで抵抗した者はオンタリオ州の捕虜収容所(Prison of War)に送られた。

 カナダ政府がBC州内に用意した収容地は10カ所。最大規模だったのはタシメグリーンウッドスローカンシティ、レモンクリーク、ポポフ、ベイファームローズベリー、ニューデンバー、サンドン、カスロー。サンドンには仏教徒が多く送られ、高い山に挟まれた谷間の街で冬の環境があまりにも劣悪なため、のちにニューデンバーに移ったと説明した。これら10カ所は「政府から補助金がでる強制収容所でした」。

 1942年1月14日にカナダ政府が日系カナダ人を「敵性外国人」とし同年2月から収容所送りを開始するも、これら10カ所の収容所は準備が間に合わず、多くがバンクーバー市のヘイスティングス・パークに集められた。尿やフンの臭いのする馬小屋での生活を強いられ、長い場合には「9月や10月頃までそこで生活していた人もいたと聞いています」。

 その他に「自分たちで生計を立てて暮らす収容地がありました」。自立型収容地で、BC州内に5カ所。イーストリルエット、ブリッジ・リバー、ミントシティ、マックギリブレイ・フォールズ。政府からの補助金は一切ないため自分たちで生活しなければならない。ただ家族一緒に移動できた。

イーストリルエットでの生活

 「私の両親は自立型収容地に行くことにしました」。鉄道でコールハーバーからスココミッシュに行き、そこからパシフィック・グレート・イースタン・レールウェイ(PGE、現在のBCレール)、で移動した。当時はスココミッシュがPGEの最南端駅だったと記憶している。乗り換えてから一晩明けるとリルエットの町に着いた。「朝、目が覚めると山に囲まれていました。『こんな所に住むのかぁ』と思いましたね。でもまあ、リルエットという小さな町で住むのも悪くないかと考え直しました」。しかし「驚いたことに」と続けて、そこからさらにトラックに乗せられて4マイル(約6.5キロ)走って着いたのはフレーザー川を渡った「イースト・リルエットという場所でした」。

East Lillooet

 父親やそこに移動してきた男性たちは春になるとタール紙を使った小屋の建設を始めた。母親はホリイさんを筆頭に5人の子どもを抱えていた。「飲み水も、電気もなくて、差別のため仕事もありませんでした」。日系人はリルエットの町に入ることすら許されていなかったという。

 それでも生活のために色々と工夫した。飲み水は購入した。生活用水はフレーザー川からの水をろ過する装置を作って賄った。食料は野菜を自分たちで栽培した。冬季でも保存できるジャガイモやタマネギ、「ゴボウも作ってましたね」と笑う。食用に鶏も飼育、卵も取れた。時には先住民からサーモンを買うこともあった。「母はサーモンを缶詰にしていました」。各家には「お風呂」も作った。こうして自立した生活を送った。

 イーストリルエットに移動してきた男性は多くが元漁師だったため、生活のためにできることが限られた。そこで「救世主となったのがハニー(メープルリッジ)で農家をしていたトクタロウ・ツユキさんでした」。ツユキさんによるとリルエット地方の気候は暑くて乾燥しているのでトマト作りに最適だという。そこで共同でトマトの栽培を始めた。収穫したトマトはニューウエストミンスターに送っていたが、そのうちに町にトマトの缶詰工場を作るとそこで加工した。「そうやって7年間生き延びました」。

 苦しい生活環境だったが、男性たちは子どものために小学校を建てた。「でも教師がいなかったので高校を卒業していた人ならだれでも小学校の先生を務めました」。ただすでに高校生だった10代の若者は高校を卒業することができなかった。移動してきた当時はリルエットの学校には行けなかったからだ。

 しかし1946年までには通えるようになっていた。ホリイさんもリルエットの高校へ通い、4マイルを自転車で通学したという。冬の寒さが厳しいリルエットで「寒い日は道路が凍っていましたし、学校に着いた頃には口も凍っていました」。

 高校に通いながら家計を助けるためにアルバイトもした。町の新聞社で働いたり、父のトマト農園や缶詰工場でも働いた。「長男が家を助けるのは当たり前でした」。

 それから高校3年になってカナダ人の友人とUBCハイスクール・コンファレンスに参加するためにバンクーバーに戻った時のこと。学校代表として行くにもかかわらず警察の許可証が必要だったという。「自分が生まれた町に行くのにRCMP(連邦警察)の許可証を取らなければなりませんでした」。BC州沿岸付近にいることすら許されなかったのだ。「カナダ人の友人と二人で映画を見たあと、宿泊場所だったその友人のいとこの家に帰る途中、イースト・ヘイスティングス通りを歩いていると警察官に呼び止められました。私が日本人だと分かったんだと思います」。「ここで何をしている」と聞かれた。「リルエットからの許可証を見せました。バンクーバーに来るための特別な許可証でした」。1948年12月のバンクーバーはまだ日系人に冷たかった。

 そしてリルエットの高校を1949年に卒業した。

漁師をしながらUBC医学部を卒業

 1949年4月1日に強制収容政策は終了し、日系カナダ人は自由に移動できるようになった。同年に高校を卒業したホリイさんはブリティッシュコロンビア大学(UBC)に入学する。「両親が大学進学を許してくれました」。でも大学にお金がかかることは分かっている。「大学の寮に入っていましたけど、大学までは路面電車代10セントを節約するためにヒッチハイクをして通いました」。

 授業は通常5コースのところを6コース取った。「リルエットから出てきた田舎者の1年生はウブでした」と笑う。化学、物理、生物のラボもあった。「試験を受けて1年目を終えた時、よくやったなぁと思いました」。

 しかし父親の仕事を手伝うために1年で休学した。「父親はすごく漁師に戻りたがっていました」。1950年から父親を手伝って漁師となった。BC州北部のプリンス・ルーパート辺りでサーモン漁を始めた。漁師生活は2年間続いた。稼いだ収入は両親に渡した。やはりここでも長男として家族を助けるのは当然と考えていた。そうして家族は1951年にようやくバンクーバーに戻った。

 2年間の休学をへて1952年にUBCに復学した。相変わらず6コースを取ったという。夏には父を助けるために漁師として働いた。1957年まで漁師は続けた。

 1955年に大学を卒業し、友人から「医学部を受けてみないか」と誘われ申請したら「驚いたことに受理されました」と笑う。医学部時代には横隔膜下膿瘍で生死をさまよう経験をした。大学医学部の教授のおかげで一命を取り止めたが1年間を棒に振った。それでも1960年に卒業。それから2週間後には結婚し、フォルクスワーゲンで新婚旅行代わりにアメリカ北部を横断しトロントへ。トロント・ウエスタン病院で1年間インターンとして働いた。

医師時代に出会った日系一世の話

 強制収容前のバンクーバー。ホリイさんは家族の長男ということで、甘やかされることもあったという。例えば、パウエル通りの日本人街で、バンクーバー仏教会の前にあった小さな菓子屋にときどき連れて行ってもらっていた。「マツモト夫婦がやっていた店でした。そこで、あんぱんを買ってもらってました」。通っているうちにマツモト夫妻と仲良くなったが、強制収容時はどこに行っていたのか知らなかった。

 そして1961年医師として働き始めた頃、患者となったマツモト夫妻と再会した。その時に初めて、夫のマツモトさんが第1次世界大戦にカナダ兵として参加した退役軍人だったことを聞いた。「兵隊姿の写真は背が高くて、ハンサムで、強そうで。キンゴ・マツモトさんという名前でした」。

 日系カナダ人は第1次世界大戦にカナダ兵として222人が参加。BC州では差別が激しかったため入隊できず、アルバータ州まで行って入隊した。そのうち54人が戦死。バンクーバー市スタンレーパークには当時の日系コミュニティが建てた日系カナダ人戦没者慰霊碑がある。

 第1次世界大戦でカナダ兵として戦い、帰ってきた日系カナダ人には市民権が与えられた。「最初、カナダ政府は拒否したのですが、1931年に与えられました。東洋人としては初めての市民権でした」。しかし、「1941年12月、日本との戦争が始まるとマツモトさんも『敵性外国人』とされ、市民権もはく奪され、強制収容されました」。第1次世界大戦で戦った全ての日系カナダ人が同じ扱いを受けた。

 マツモトさんはヨーロッパで戦った時に毒ガスを吸っていたため肺を病んでいたという。「皮肉ですよね」。カナダのために命を懸けた国民への政府の仕打ちを皮肉った。

日系カナダ人強制収容と差別

「強制収容と差別について話すことに関心を持ち始めたのはずっと後になってからです」。医師時代は日本語ができる医師Dr. Aki Horiiとして親しまれ、多くの日系1世の患者を診た。いまは小学校や高校、大学、カレッジなどで経験談や差別について話している。

 ホリイさんは日系カナダ人に対するカナダ政府の対応は差別的な議員の言動が理由だったと話す。連邦、BC州、バンクーバー市、全ての政府に日系人に対する差別を公言する議員がいた。中でも国会議員からの言葉は特に影響が強かったという。

 当時のバンクーバー・サン紙に掲載されていた議員らの差別的な言葉を引用して、それがどれほどひどいものだったかを語った。「ジャップがブリティッシュ・コロンビア州に戻ることを決して許してはならない」「政府の計画は一刻も早くBCからこれらの人々(日系カナダ人)を追い出すことだ。私は公人として残された限りの時間を費やして個人的な意思を持ってこれを行う。彼らがここに二度と帰ってくることのないように」「ロッキーから太平洋まで一人のジャップも入れてはならない」

 そして、日本軍の真珠湾攻撃は日系カナダ人を追い出すための単なる口実だったことを論じるバンクーバー・サン紙2015年3月付の特集記事を紹介した。それは、1942年の同じ週の歴史として掲載されている。要約すると、東洋からの移民が来て以来50年の間、BC州は日本人の受け入れに反対してきた。しかし連邦政府がそれを阻止してきた。だが、このたびすばらしい軍事的理由で日本人を内陸部に移動させることができた。戦争を利用して問題を解決できたことは喜ばしい、と述べている。

 ホリイさんは「これを読むと戦争は当時日系カナダ人を追い出すための口実だったことがよく分かります」と力を込める。それは1945年8月15日に第2次世界大戦が終わっても続いた。1945年カナダ政府はBC州に住む日系カナダ人にロッキー山脈より東に移動するか、日本に帰るかの二者択一を迫った。約4,000人が日本へ行き、「多くの人はアルバータ州やサスカチュワン州に行きました」。

 差別はいつどこでも起きると話す。それは心に傷を残す。「かつて、医師たちのミーティング中に、ある医師が『ジャップ』という単語を何度も使ったんです」と自身の経験を語った。「それから1カ月、眠ることができなくて」。次のミーティングでそのことを告げるとその医師は謝ったという。

 「差別は最も予期しないところで起きるものなんだよ、と生徒たちには伝えているよ」と静かに語った。

(取材 三島直美)

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