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Naomi Mishima

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「カナダ“乗り鉄”の旅」第20回 異色の「トランプ」案件!?心温まるVIA鉄道カナダの命名劇

カナダの首都オタワ駅に停車中の、トロントと結ぶVIA鉄道カナダの列車(2024年2月21日、大塚圭一郎撮影)
カナダの首都オタワ駅に停車中の、トロントと結ぶVIA鉄道カナダの列車(2024年2月21日、大塚圭一郎撮影)

大塚圭一郎

 アメリカの前大統領の要職にありながら数多くの暴言を吐いて国民を「分断」させ、2020年の大統領選での敗北を受け入れずに連邦議会議事堂の襲撃事件を扇動したとして刑事被告人になったドナルド・トランプ氏が今月20日に復帰する。隣国カナダが「アメリカの51番目の州になるのは素晴らしいアイデアだ」と併合への意欲を示したり、地元先住民のたっての希望で改名されたアメリカ西部アラスカ州の北米大陸最高峰デナリ(標高6190メートル)を旧称の「マッキンリー」に戻す意向を表明したりと、相手の自尊心を平然と傷付ける傲岸不遜な姿勢にはただあきれるしかない。しかし、同じ「トランプ」つながりでも、VIA鉄道カナダの手にかかるとこれほどまでに心温まる命名劇へと一変する―。

【VIA鉄道カナダ】カナダの都市間旅客列車を運行する国営企業。本社は東部ケベック州モントリオール。現在は貨物鉄道に特化しているカナディアン・ナショナル鉄道(CN)とカナディアン・パシフィック・カンザス・シティー(CPKC)が切り離した旅客鉄道事業を引き継ぎ、1977年に発足した。カナダ10州のうち東部ニューファンドランド・ラブラドル州、プリンスエドワードアイランド州を除く8州を走る。慢性的な赤字で、2023年12月期決算の本業の損益を示す営業損益は5億1220万カナダドル(約562億円)の赤字だった。VIA鉄道カナダは貨物鉄道が保有する線路を借りて列車を走らせているため、優先される貨物列車のあおりを受けて遅れることが多い。

側線の名称が「チェルシー」に改名

 VIA鉄道の旅客収入の約8割を稼ぎ出している主力区間が「ケベックシティー―ウィンザー回廊」だ。カナダ東部のオンタリオ州のウィンザー、国内最大都市のトロント、首都オタワ、ケベック州モントリオール、ケベックシティーなどをつないでおり、VIA鉄道としては比較的多くの列車が走るため利便性が高い。

ブロックビルの駅名標(2024年2月21日、大塚圭一郎撮影)
ブロックビルの駅名標(2024年2月21日、大塚圭一郎撮影)

 とりわけトロント―オタワ間とトロント―モントリオール間の列車は中核で、これらの一部が停車するのがブロックビル駅(オンタリオ州)だ。駅の近くにあり、列車が待避する際に使われる側線の名称が2022年12月、近くの通りにちなんだ「スチュワート」から「チェルシー」へ改名された。側線の脇には、白地に黒い文字で「VIA Chelsea」と記した看板が立てられた。

 「チェルシー」は近くに住む女性、チェルシー・カデューさんの名前に由来する。カナダ放送協会(CBC)などによると、難病のスタージ・ウェーバー症候群を患っているチェルシーさんは治療を受けるためにトロントまで列車に乗っていた。それがきっかけに鉄道好きとなり、2010年ごろから父親に連れられてブロックビル駅の周辺を訪れ、VIA鉄道の列車を引っ張るディーゼル機関車を運転する機関士らとあいさつするのがほぼ日課となった。

ブロックビル駅前の様子(2024年2月21日、大塚圭一郎撮影)
ブロックビル駅前の様子(2024年2月21日、大塚圭一郎撮影)

 チェルシーさんが決まって持ち歩いているのがトランプだ。機関士にトランプの中からお気に入りのカードを選んでもらうと、チェルシーさんはそれを暗記した。そして機関士が列車を動かしてやって来た次の機会には、お気に入りのカードを高く掲げてあいさつするようになった。

 例えば「ジャック(J)とスペード」のカードが好きな機関士が運転する列車が近づいてきた場合、チェルシーさんは「Jとスペード」のカードを機関車の方に見せる。すると、自分の好きなカードを覚えてもらった機関士は喜び、警笛を鳴らして応じるという光景が日常化した。

列車無線から日々名前が

 難病を患っても前向きな気持ちを忘れず、笑顔で出迎え続けてきたチェルシーさんにVIA鉄道の機関士らは「特別な贈り物」を用意することを会社側に提案した。それが側線の改名で、会社側はこのアイデアを受け入れた。

 側線に命名されると、列車無線でも「チェルシーに入線」などと名前を日々呼ばれることになる。機関士らの善意を理解した会社側に対し、携わった機関士からは「これは大変なことで、会社側の決断に敬意を表する」との声が出た。

 2022年12月21日に現地で新たな看板の除幕式が開かれた。VIA鉄道のマイケル・ブランクリー鉄道事業担当副社長は「私たちは地域社会と周囲の人々の生活に良い影響を与えることを目指している」と説明し、機関士らとチェルシーさんとの交流はその模範例になっているとの認識を示した。

 一足早いクリスマスプレゼントを受け取った形のチェルシーさんは「ありがとう」と謝意を表明。「素晴らしい機関士の皆さんと会い、話していると本当にうれしくなる」と強調し、トランプを携えて機関士らの出迎えを続けると語った。

 機関士のマイク・オリファントさんは、チェルシーさんの姿を見ることが「私の行程のハイライトになっている」と笑みを浮かべた。そして「チェルシーさんは常にハッピーで、前向きなエネルギーであふれている。率直に言って、世界にはチェルシーさんのような人がもっと必要なんだ」と力説した。

アメリカでは元国務長官の名前を埋葬!?

 翻ってアメリカでは2024年4月に共和党所属の下院議員7人が、全日本空輸(ANA)の羽田空港と結ぶ直行便も発着している首都ワシントン近郊のワシントン・ダレス国際空港(バージニア州)を「ドナルド・J・トランプ国際空港」へ改名する法案を出した。

アメリカの首都ワシントンの近郊にあるワシントン・ダレス国際空港の旅客ターミナル(2024年2月20日、大塚圭一郎撮影)
アメリカの首都ワシントンの近郊にあるワシントン・ダレス国際空港の旅客ターミナル(2024年2月20日、大塚圭一郎撮影)

 ダレス空港はアイゼンハワー政権で国務長官を務めた故ジョン・ダレス氏の功績をたたえて名付けられている。ダレス氏に対する敬意の象徴を葬り、価値があるとは到底思えないトランプ氏のために“強奪”しようというのだから開いた口がふさがらない。トランプ氏の歓心を買おうとして法案を出した茶坊主議員も、改名案について「とても光栄だ」と交流サイト(SNS)に臆面もなく書き込んだトランプ氏も何と恥知らずで、何と浅ましく、何と卑しいことかと怒りを通り越してあきれるほかない。

 VIA鉄道のブロックビル駅の近くに設置された「VIA Chelsea」の看板は、「トランプ」つながりであってもダレス空港の改名法案とは対極的な真の友情と思いやり、そして心からの敬意が込められている。

 「アメリカ第一主義」を掲げて他国からの輸入品に高い関税を課すと脅し、経済力を行使してカナダを併合するという暴言でカナダ人の顔に泥を塗るトランプ氏が世界最大の経済大国のリーダーに返り咲く世界は「分断」が進み、閉塞感が高まるのではないかと深く憂慮せざるを得ない。

 そんな闇が浮き彫りになればなるほど、看板に記されたチェルシーさんの名前は輝きをさらに増していくことになりそうだ。そして、「世界にはチェルシーさんのような人がもっと必要なんだ」というオリファントさんのメッセージを世界に問いかけていくことになるのではないだろうか。

【筆者より】新年あけましておめでとうございます。本年も「カナダ“乗り鉄”の旅」をご愛読賜りますよう、どうぞよろしくお願いいたします。本稿に示された視点や見解は筆者個人のものであり、所属する組織や日加トゥデイを代表するものではありません。

共同通信社元ワシントン支局次長で「VIAクラブ日本支部」会員の大塚圭一郎氏が贈る、カナダにまつわる鉄道の魅力を紹介するコラム「カナダ “乗り鉄” の旅」。第1回からすべてのコラムは以下よりご覧いただけます。
カナダ “乗り鉄” の旅

大塚圭一郎(おおつか・けいいちろう)
共同通信社経済部次長・「VIAクラブ日本支部」会員

1973年、東京都生まれ。97年に国立東京外国語大学外国語学部フランス語学科を卒業し、社団法人(現一般社団法人)共同通信社に入社。2013~16年にニューヨーク支局特派員、20~24年にワシントン支局次長を歴任し、アメリカに通算10年間住んだ。24年9月から現職。国内外の運輸・旅行・観光分野や国際経済などの記事を多く執筆しており、VIA鉄道カナダの公式愛好家団体「VIAクラブ日本支部」会員として鉄道も積極的に利用しながらカナダ10州を全て訪れた。

 優れた鉄道旅行を選ぶ賞「鉄旅(てつたび)オブザイヤー」(http://www.tetsutabi-award.net/)の審査員を2013年度から務めている。共同通信と全国の新聞でつくるニュースサイト「47NEWS(よんななニュース)」や「Yahoo!ニュース」などに掲載されている連載『鉄道なにコレ!?』と鉄道コラム「汐留鉄道倶楽部」(https://www.47news.jp/column/railroad_club)を執筆し、「共同通信ポッドキャスト」(https://digital.kyodonews.jp/kyodopodcast/railway.html)に出演。
 本コラム「カナダ“乗り鉄”の旅」や、旅行サイト「Risvel(リスヴェル)」のコラム「“鉄分”サプリの旅」(https://www.risvel.com/column_list.php?cnid=22)も連載中。
 共著書に『わたしの居場所』(現代人文社)、『平成をあるく』(柘植書房新社)などがある。東京外大の同窓会、一般社団法人東京外語会(https://www.gaigokai.or.jp/)の広報委員で元理事。

日系カナダ人物語「記憶を次世代へ」:キクコ・タサカさん「日系コミュニティへの思い」

Ms. Kikuko Tasaka/キクコ・タサカさん
Ms. Kikuko Tasaka/キクコ・タサカさん

キクコ・タサカさん

1939年ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市スティーブストン生まれ
1942年グリーンウッドに移動、1958年頃にバンクーバーに戻る
父方は愛媛県、母方は和歌山県三尾村出身

グリーンウッドでの生活

 タサカさん一家は1942年にスティーブストンからグリーンウッドに移動した。父親は、強制収容前はスティーブストンで床屋をしていたという。「とても大きなすてきなビルだったけど、建ったあと移動させられたから」。タサカさんが3歳の時だった。

Greenwood

 グリーンウッドはブリティッシュ・コロンビア(BC)州中央南部、バンクーバーから東に約400キロメートルのアメリカとの国境に近いところに位置している。自己支援強制収容地の一つだが、他の収容地と異なり、強制移動させられる日系カナダ人を町として積極的に受け入れた。さらにカトリック教会のベネディクト・クイグリー神父やフランシスコ会の修道女も日系人の支援に大きな役割を果たしている。

 タサカさんは「悪いことは全然経験していないの」と話し始めた。グリーンウッドには大工が先に入り、ベッド、テーブル、イス、そして日本式風呂など生活に必要なものを作って準備していたと振り返る。

 ただ「最初の年は寒かったの。バンクーバーは暖かかったけど、グリーンウッドは山の中だからすごく寒かった」。寒さは、軍の古いブランケットやユニフォームを買ってきて活用してしのいだ。「そうやって過ごしたのね、何もなかったから」。

 それでもグリーンウッドでの生活は楽しかったという。学校もすぐに始まった。フランシスコ会の修道女が運営していた。「その学校もすごく良かったの。グレード8まであって。(就職のための)タイピングなども教えてくれたの」。

 町では日本の祭りもあった。「日本人は着物を着て、踊りもあった。日本人の人たちは芝居もしたりしてよかったよ」。町が積極的に日系人を受けて入れていたことで、日系人コミュニティができていた。

 「グリーンウッドの田舎に日本人が来てくれて白人の人たちは喜んでた。日本人が来てからカルチャーやいろんなことを教えてくれて、フェスティバルもしてくれて、いろんなことをしてくれたから、みんな良かったと喜んでた」。

 タサカさんの両親は強制収容が終了してもグリーンウッドから離れなかったという。「グリーンウッドみたいに良い町はないって言って喜んでね」。

バンクーバーでの差別を乗り越えて

 グリーンウッドで約15年暮らしたあとバンクーバーに戻ってきた。18歳くらいで仕事を探しにバンクーバーに戻る人は多かったと振り返る。「グリーンウッドに仕事がなかったから」。タサカさんもその一人だった。

 すでに1950年代後半になっていた。強制移動は1949年に終了。日系人は自由に移動ができた。それでもバンクーバーに戻ってきた当時の「差別だけは忘れられない」と言う。「こっち(バンクーバー)の人たちは私たちを下に見てたのね。みんなではなかったけど、いい人もいたけど。みんなで我慢した。我慢しかなかったのね。差別は本当に大変だった。差別されていると思ったら嫌だった。ひどい人もいたけど、しょうがなかった」。

 タサカさんは日系カナダ人二世の多くが日本語を使わないのは、差別も関係していると思うと話す。「みんな(バンクーバーに)帰ってきた時は日本語を使いたくなかった。なるべく英語を使って。差別されているから日本人って見せたくなかったのね。その時はしょうがなかったのね」。いま二世の人たちと話すと「日本語を使っていたらよかったって」。後悔している人もいると感じている。

 三世のタサカさんは流暢な日本語を話す。グリーンウッドでは日本語を使っていた。「親たちは英語ができないから日本語を使っていたの」。それにグリーンウッドでは日系人が多かったこともあり差別を感じなかった。「でもバンクーバーに帰ってきた時は社会が違ったから日本語を使えなかったの」。

 それでもバンクーバーでは同年代で自分たちのコミュニティを作り、時々集まって、ダンスパーティや祭りを楽しんだ。「悪くなかったよ、差別はあったけど。我慢してがんばりました」。当時の友達は60年たったいまでも続いているという。

日系コミュニティへの思い

 「いまでも私の中では(自分は)日本人だと思っている。どこにいても。もう三世になるのにね」。父方の祖父が1890年に愛媛県から移民。バンクーバーの対岸にあるバンクーバー島南部に近い島ソルトスプリングス・アイランドでビジネスをしていた。父親はソルトスプリングス・アイランド生まれ。母方の祖父は和歌山県三尾村出身。「私たち親から(日本の)良いところたくさんもらってるから。だからそれを絶対なくしたくないのね」。

 また日本から来る多くの日本人と関わっているタサカさんは「日本の人たちは、なんて言ったらいいのかな…英語で言うとKind、Considerate」、親切で思いやりがあると話す。カナダで生まれカナダで育ちカナダ人と多く付き合いがあるが、「なぜか分からないけど、日本の人たちとの付き合いの方が居心地いいの。そんなことを言ったら怒られるかもしれないけどね」と笑う。

 タサカさんは隣組でボランティア活動をしている。隣組は1970年代に当時英語が分からなかった一世や二世のシニアを助けるために設立された日本語ボランティア団体。いまでも、シニアを中心に日本語でのサービスを多く提供している。

 「きょう私はインタビューを日本語でしたかったの」。一つは日本語を話す勇気をなかなか持てない二世たちを応援する意味で、そしてもう一つは、日系収容で苦労した一世、二世たちのことを知らない日本からの人たちに直接日本語で伝えるため。

 「時々、一世、二世の人たちの苦労が分からない人たちがいるの。だから移民してきている日本の人たちにも知ってほしいの、一世たちが経験したことを」。1942年から始まったカナダ政府による日系カナダ人強制収容政策、日本の人にも知ってもらいたいと語った。

(記事 三島直美)

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“Stories of Japanese Canadians: Memories for the Future Generation” Ms. Kikuko Tasaka

Ms. Kikuko Tasaka/キクコ・タサカさん
Ms. Kikuko Tasaka/キクコ・タサカさん

“Valuing the Japanese Canadian Community”

Ms. Kikuko Tasaka

Born in 1939, Steveston, British Columbia
Moved to Greenwood in 1942, back to Vancouver in 1958
Paternal grandfather originally from Ehime Prefecture, maternal grandfather originally from Mio, Wakayama Prefecture

Life in Greenwood

The Tasaka family relocated from Steveston to Greenwood in 1942. Before the internment, Ms. Tasaka’s father was a barber in Steveston. “We had a big and nice building, but we were relocated shortly after it was built,” she said. Ms. Tasaka was three years old at the time.

Greenwood, located in the central-southern part of British Columbia, near the American border, and about 400 kilometres east of Vancouver, was one of the government-supported internment sites. Unlike other camps, Greenwood welcomed Japanese Canadians who were forcibly relocated from Vancouver. Franciscan Friar Benedict Quigley and Franciscan Sisters played significant roles in supporting the Japanese Canadian community there.

Greenwood

“I didn’t have any bad experiences at all in Greenwood,” Ms. Tasaka recalled. She noted that carpenters arrived in Greenwood ahead of the internees to build essential items like beds, tables, chairs, and even Japanese-style baths to prepare for their arrival.

However, there were challenges. “The place was cold in winter in the first year because Vancouver was warm. Greenwood was deep in the mountains, so it was really cold,” she remembered. To cope, they used discarded military blankets and uniforms they purchased. “That’s how we managed because we had nothing.”

Despite the initial hardships, Ms. Tasaka found life in Greenwood enjoyable. School began promptly, run by Franciscan nuns. “That school was very good. It went up to Grade 8, and they even taught us skills like typing for jobs,” she said.

The community also organized Japanese festivals. “People wore kimonos, and there was dancing. The Japanese Canadian community also put on plays, and it was really fun,” she added. They formed a strong community because the town accepted Japanese Canadians. “The hakujin (white) residents of Greenwood were happy to have Japanese Canadian people come. They were pleased because the Japanese shared their culture, taught various things, and organized festivals. Everyone was glad.”

Even after the internment ended, Ms. Tasaka’s parents chose not to leave Greenwood. “They were happy, saying there was no town as good as Greenwood,” she said.

Overcoming Discrimination in Vancouver

After living in Greenwood for about 15 years, Ms. Tasaka returned to Vancouver. She recalls that many people left Greenwood around the age of 18 to look for work. “There were no jobs in Greenwood,” she explained. She was one of them.

By then, it was the late 1950s. Although the internment officially ended in 1949 and Japanese Canadians were free to move as they pleased, Ms. Tasaka says she will never forget the discrimination she faced upon returning to Vancouver. “The people here looked down on us. Not everyone—there were good people, too—but we all had to endure it. We had no choice but to endure it. The discrimination was really tough. It was painful to feel discriminated against. Some people were terrible, but there was nothing we could do.”

She believes the widespread discrimination contributed to why many Nisei (second-generation Japanese Canadians) stopped using the Japanese language. “When everyone came back to Vancouver, they didn’t want to speak Japanese. They tried to use English as much as possible,” she said. “Because of the discrimination, they didn’t want to show they were Japanese. At the time, we had no choice.” Now, when she speaks with other Nisei, she senses some regret in their voices as they say, “I wish I had kept speaking Japanese.”

As Sansei (third-generation Japanese Canadian), Ms. Tasaka speaks fluent Japanese. She attributes this to her upbringing in Greenwood, where they spoke Japanese at home and within the community. “Our parents couldn’t speak English, so we used Japanese,” she adds. In Greenwood’s large Japanese Canadian community, she didn’t feel discrimination there. “But when we returned to Vancouver, society was different, and we couldn’t use Japanese.”

Despite the challenges, she and her peers formed their own community in Vancouver. They gathered occasionally and enjoyed dance parties and festivals. “It wasn’t so bad, despite the discrimination,” she said. “We endured and did our best.” She added that they are still friends after 60 years.

Valuing the Japanese Canadian Community

“I still think of myself as Japanese, no matter where I am—even though I’m already a third-generation Japanese Canadian,” Ms. Tasaka said. Her paternal grandfather immigrated from Ehime Prefecture in 1890. He ran a business on Salt Springs Island, near the southern part of Vancouver Island. Her father was born there. Her maternal grandfather came from Mio, a village in Wakayama Prefecture. “Our parents passed us so many good aspects of Japanese culture. I never want to lose that.”

Ms. Tasaka, who often interacts with people visiting from Japan, shared, “I don’t know how to put it…in English, I’d say they are ‘kind’ and ‘considerate.’” Although she was born and raised in Canada and engages with other Canadians, she admitted, “I don’t know why, but I feel more comfortable with Japanese people. Maybe I shouldn’t say that, but it’s true,” she added with a laugh.

She volunteers at the Tonari Gumi, a Japanese-language volunteer organization founded in the 1970s to help issei (first-generation) and nisei seniors who struggled with English. Today, Tonari Gumi continues to provide Japanese-language services, mainly for seniors.

“I wanted to do today’s interview in Japanese,” she said. One reason is to inspire the Nisei, who often lack confidence in speaking Japanese. Another reason is to share the experiences of the Issei and Nisei, who endured hardship during the internment, directly with people from Japan who may be unfamiliar with their stories.

“Sometimes, people don’t understand the struggles (the) Issei and Nisei faced. I want immigrants from Japan to know what the Issei went through,” she explained. She hopes people in Japan take note and learn what happened to Japanese Canadians during and after the war.

(Text: Naomi Mishima)

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日系カナダ人物語「記憶を次世代へ」:エド・ハヤシさん「日本とのつながりを大切に」

Mr. Ed Hayashi/エド・ハヤシさん
Mr. Ed Hayashi/エド・ハヤシさん

エド・ハヤシさん

1937年4月、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市スティーブストン生まれ
1942年アルバータ州テイバーに移動、1950年まで滞在
両親は滋賀県出身

スティーブストンからアルバータ州南部へ

 エド・ハヤシさんが家族と共にスティーブストンを離れたのは1942年。行先はブリティッシュ・コロンビア(BC)州右隣アルバータ州南部のテイバーだった。スティーブストンで生活していた時のこともアルバータ州に移動した時のことも覚えていないという。

Taber, Alberta
Taber, Alberta

 「その頃はまだ小さかったから当時のことは覚えていません。BC州を離れたことも覚えていないです」

 テイバーで両親はシュガービート(テンサイ)農園で働いた。なぜアルバータ州だったのか?カナダ政府の指定した収容所はBC州に多くあった。ハヤシさんは「当時両親には4人の子どもがいてみんな1歳違いでした」とハヤシさんを筆頭に弟妹が3人いたと話す。「両親は家族で一緒に暮らしたかったからアルバータを選んだんだと思います」。シュガービート農園は人手を必要としていた。農園への移動を選んだ場合は家族一緒に移動できた。

 ただ生活環境が悪いことに他の収容所と変わりはなかった。「住んでいたのは社宅でしたが、掘っ立て小屋でした。すごく寒かったです。断熱材も電気もありませんでした」。暖房は石炭ストーブだけだった。「石炭ストーブとは石炭を使って家を温めるストーブのことで、暖房はそれしかありませんでした。石炭ストーブで覚えているのは、寒い日に母が石を持ってきて、その石をストーブに入れて温めて。それを古いブランケットで包んでベッドの横に置くんです。そうやって足を温めていました」

 そのストーブに乗せて沸いていた湯は翌朝には氷が張っていたことを覚えている。「それだけ寒かったってことですね」。アルバータ州テイバーの冬季の最低気温は平均で氷点下10度前後、寒い時には氷点下40度になることもある。そんな中で電気も断熱材もない掘っ立て小屋で家族6人が暮らしていた。それでも、「いい経験だったよね」と苦しさは表情には出さない。

 大変なのは暖房だけではなかった。「食べる物もあまりなかった」と振り返る。「自分たちで育てていたものを食べました。冬の間も保存できるものを育てていたと思います。父はだいたい週に1回買い物に出かけていました」。食料を買い出しに行く町までは2~3マイル(3~6キロメートル)離れていた。そこまで父親は古いトラックで出かけた。「出されたものをなんでも食べていましたね。食べ物のことで文句なんて言いません。とにかくテーブルにある物を食べる。そういう生活でした。大変でしたね」

差別を感じなかった子ども時代

 強制収容政策の中にあっても学校には通っていた。ハヤシさん自身はグレード1~3(小学1年~3年にあたる)まで通ったという。弟や妹も一緒に通った。通学手段は馬車。「あの頃、学校には馬車で通っていたのを覚えてますね」と笑う。生活環境は厳しかったが子どもとしては「色々と楽しいことをして遊んでいました」。

 「白人の友達」もいたと話す。「まだ子どもだったので戦争のことはよく分かりませんでした。だから子どもなりに楽しく過ごしていました」。

 日曜学校(サンデースクール)にも通っていた。日曜学校とはキリスト教会で日曜日に開かれる学校のこと。「子どもの頃にはサンデースクールに行ってました。毎週日曜日に女性が自分の車で迎えに来てくれて、テイバーのサンデースクールに連れて行ってくれました。毎週日曜日が楽しみでしたね。イエスキリストについても多くを学びました」

 学校に通っていた子ども時代を振り返り、特に日系カナダ人に対する差別は感じなかったという。「子どもだったから、たぶん差別は特になかったんじゃないかと思います」

バンクーバーへ

 カナダ政府は「戦時特措法」を解除。1942年4月1日から日系カナダ人はようやく国内を自由に移動できるようになった。

 ハヤシ一家は1950年までアルバータ州テイバーで生活し、同年バンクーバーへ戻る。そして漁師に戻りたいと考えていた父親がウエストバンクーバー市のグレート・ノーザン・キャナリーで漁師の仕事を見つける。

 「家族で(アルバータ州テイバーから)バンクーバーに戻る時には戻るためのお金がありませんでした。そこで父は叔母からお金を借りてバンクーバーに戻る資金としました」。借りた金は漁師として働いて返済した。アルバータでも、戻ってきてからも、両親は苦労したと振り返る。

 ウエストバンクーバーでは社宅で暮らした。他にも日系人家族が住んでいたと記憶している。ハヤシさんはといえば当時12歳。ウエストバンクーバーの学校に通った。キャナリーから通学していた日系人は自分たち兄妹だけだったという。クラスは全て「白人」だった。それでも特に「差別は感じなかった」と語った。

 その後、学校を辞め大工養成学校に1年間通い3年間の修行を終えて大工として働き始めた。その頃は日系カナダ人の大工に対する差別を感じたという。当時は組合に加入していると仕事ができたことから1957年に組合に加入。大工の仕事を見つけるのが大変な時代だったと振り返った。大工仲間に日系カナダ人の友人もいたがお互いに強制収容時代のことを話すことはなかったと語った。

カナダ政府の日系人強制収容政策について

 ハヤシさんは「リドレス運動」には直接参加しなかった。教養のある人たちが活動していたこと、1988年頃のこと、21,000ドルを受け取ったことを覚えている。

 カナダが日系カナダ人に取った政策について聞くと「残念なことだ」と語った。「日系カナダ人は全てをなくしたと思う。家もなくなったし、働くための漁船もなくしました。たくさんの物をなくして、それは二度と自分たちの元に戻ってはきませんでした」

 そして隣組が主催したというソルトスプリングアイランドへのツアーに参加した時のことを話し始めた。1800年代後半に日本から来た男性の話だ。「ずいぶん前に隣組のソルトスプリングアイランドへのツアーに参加しました。日本から来た日本人男性は500エーカーの土地を買ったそうです。今だったらすごい価値になっていると思います。でも彼には1セントも戻ってくることはありませんでした。それって恥ずかしいことだと思いませんか?」

 1800年代後半にはソルトスプリングアイランドに日本人が移住していた。漁業や農業をして暮らしていた聞いているという。でも「彼は全てを失った。とても残念なこと」。

 ハヤシさん一家は戦前社宅に暮らしていたため没収される家は持っていなかったという。ただ漁船は没収された。もちろん強制収容政策が終わってもそれが戻ってくることはなかった。

日本とのつながりを大切に

 初めて日本へ行ったのは1985年。45歳の時だった。大工の仕事をするために訪日したという。当時日本で家を建ててくれる大工を探しているという日本人「鈴木さん」とバンクーバーで知り合った。「少しは日本語ができたから」と笑いながら「西宮で家を建てる気はないか?」と誘われたという。

 「それで考えました。いまバンクーバーに住んでいるけども日本に行けるまたとない機会がやってきた。旅費はただ、しかもお金になる仕事…。と、そこでバンクーバーでの仕事をいったん閉めて日本に行きました。初めての日本でした」。それから3カ月滞在した。その時立てた家は今でも兵庫県西宮市に立っている。

 初めての日本の印象を聞くと「日本の人はすごく丁寧で、いい人で、色々と助けてくれました。私は日系カナダ人だから上手な日本語はできないけど、それでも仲良くなりました」。

 日本とのつながりは今でも続いている。現在はバンクーバー市にある「隣組」でボランティア活動をしている。隣組は1974年に設立された日系ボランティア団体。日系カナダ人強制収容政策から開放された後、日本語を母国語とする当時すでにシニアとなっていた日系一世を助けることが目的だった。「ボランティアをするのは好きですね。シニアを助けられるし。自分もシニアだけど、まだ体は十分に動くから」と笑う。

 子どもの頃には「家では日本語だったから」と両親から習ったという日本語は隣組でさらに磨きがかかっている。

 「隣組ではほとんどの人が日本語を話すんです。だから私もそれを聞きながら、上手くなってきてると思います。話すのも聞き取るのも」。インタビューの合間にも所々に日本語がこぼれる。

 日本文化については「守っていくべきだと思いますね。私たちは日系人ですから、それは大事なことだと思います」。文化の中には日本人としての態度も含まれる。「日本人は丁寧だし、ほとんどの人は正直者。ほとんどというのがミソだけど、その気質は大切にしたいです。私たちは、人が良くて、正直者で、そして働き者として知られてますからね」

 一生懸命働くことは両親から引き継いだ。自分も大工になって一生懸命働いてきた。家族を持ち、家を持ち、成功した人生だと思うと振り返る。両親はアルバータでも、バンクーバーに戻ってからも、苦労したと思いを馳せる。

 自分の子どもたちにも強制収容時代のことは伝えている。「子どもたちも私たちが厳しい時代を過ごしたことは知っています」。

 日系カナダ人に起こった事実を伝えていくことは重要なことだ。そして日系人であることについて、「私は日系カナダ人であることに誇りを持っています。今の自分があることを幸せに思います」と語った。

(記事 三島直美)

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“Stories of Japanese Canadians: Memories for the Future Generation” Mr. Ed Hayashi

Mr. Ed Hayashi/エド・ハヤシさん
Mr. Ed Hayashi/エド・ハヤシさん

“Embracing Our Japanese Heritage”

Mr. Ed Hayashi

Born in April 1937, Steveston, Richmond, British Columbia
Moved to Taber, Alberta in 1942, stayed until 1950
Retired carpenter
Parents originally from Shiga Prefecture

From Steveston to Southern Alberta

Mr. Ed Hayashi and his family left Steveston in 1942. Their destination was Taber, in southern Alberta. Mr. Hayashi says he doesn’t remember much about living in Steveston or moving to Alberta.

Taber, Alberta

“I don’t remember because I was quite young at that time. So, I don’t remember leaving BC,” he said.

In Taber, his parents worked on a sugar beet farm. Why Alberta? Many of the government-supported internment camps were in BC, but Mr. Hayashi explained, “At that time, my parents had four kids. We were all one year apart.” He was the oldest, with three younger siblings. ” My parents want us to live together. And that’s why I think they chose to move to Taber, Alberta.” Sugar beet farms needed workers, and families who chose to relocate to the farms were allowed to move together.

However, the living conditions were not much better than in the internment camps. He recalled, “We lived in a company house. It was a shack. Now, those days were very cold and no insulation, no electricity.” The only source of heat was a coal stove. “It’s a stove where you have to put coal in and then heat the house. That’s all we had for heat. I remember very cold days, my mother used to have a rock, and put it on the stove and heat the rock up. And then use old blankets around the rock. And, put it beside the bed so we can keep our feet warm.”

He remembers that the water boiling on the stove would freeze over by the next morning. “That’s how cold it was,” he said. In winter, temperatures in Taber averaged around minus 10 degrees but could drop as low as minus 40. Despite those conditions, the six family members lived in a small shack without electricity or insulation. Even so, he added, “It’s a good experience of this,” with no trace of hardship on his face.

Heating wasn’t the only challenge. “There wasn’t much food,” he recalled. “We ate what we grow. I think we grew things that (would) last during the winter. My dad used to go maybe once a week shopping then. Everybody’s grocery there.” The nearest town for grocery shopping was 2 to 3 miles (about 3 to 6 kilometres) away, and his father would make the trip in an old truck. “We ate what we got. We’re not very fussed about food. We ate what was on the table. So that’s how we lived.”

A Childhood Without Feeling Discrimination

Even during the internment period, Mr. Hayashi attended school. He went from Grades 1 to 3, along with his younger siblings. They got to school by horse-drawn buggy. “I remember going to school on a horsing buggy those days,” he smiled. Although living conditions were harsh, as a child, “We enjoyed some of the things we played on the field.”

He even had a white friend. “We were small. We didn’t know too much about the war, you know? So, we had a good time, I guess in some ways,” he added.

He also attended Sunday school. “When we were small, we went to Sunday school,” he remembered. “Every Sunday, there used to be a lady that came to pick us up on her car. And take us to Sunday school in Taber, Alberta. So, we look forward to going to Sunday school. So, we learn more about Jesus Christ.”

Looking back on his school days, he doesn’t recall experiencing any particular discrimination against Japanese Canadians. “We were kids so I guess we didn’t have that much discrimination,” he reflected.

Back to Vancouver

In April 1949, after the Canadian government lifted the restriction, and Japanese Canadians were finally allowed to move freely in the country. The Hayashi family lived in Taber until 1950, when they returned to Vancouver. Mr. Hayashi’s father, who wanted to return to fishing, found a job at the Great Northern Cannery in West Vancouver.

“When we came back, in fact, we didn’t have no money to come back,” he said “So, my dad had to borrow money from his aunt to come back from Alberta to Vancouver.” His father repaid the borrowed money by working as a fisherman. Mr. Hayashi recalls that his parents faced hardships, both in Alberta and after returning to Vancouver.

In West Vancouver, they lived in a company house. He remembers that other Japanese Canadian families also lived there. At that time, Mr. Hayashi was 12 years old and attended school in West Vancouver. He and his siblings were the only Japanese Canadians attending from the cannery. All his classmates were white, but even so, he said he didn’t particularly feel any discrimination.

Later, he left school and attended a carpentry training program for a year. After completing three years of apprenticeship, he started working as a carpenter. During that time, he felt discrimination against Japanese Canadian carpenters. Since being a union member was essential for finding work, he joined in 1957. He recalls that it was a challenging time to find carpentry jobs. Although he had Japanese Canadian friends among his fellow carpenters, they never spoke about the internment period.

On the Canadian Government’s Internment Policy for Japanese Canadians

Mr. Hayashi did not directly participate in the “Redress Movement.” He remembers that well-educated individuals led the movement around 1988 and that he received $21,000 as part of the redress settlement.

When asked about the Canadian government’s internment policies toward Japanese Canadians, he said, “That’s a shame.” He added, ” I think Japanese Canadians lost everything. They lost their house. They lost your fishboat to where they work to make a living. They lost a lot, a lot of things that we never got back.”

He then shares a story about a tour he took to Salt Spring Island, organized by Tonari Gumi (Japanese Community Volunteers Association). He speaks about a Japanese man who had arrived in the late nineteenth century. “Tonari Gumi had a trip to Salt Spring Island on a tour, not very long ago and I went on that tour. And this Japanese man from Japan had 500 acres he bought. Now it’s worth a lot of money. And he never got a penny back. Isn’t that a shame?”

In the late nineteenth century saw Japanese immigrants settled on Salt Spring Island, making living through fishing and farming. But Mr. Hayashi added, “(They) lost everything. So that’s a shame.” Before the war, the Hayashi family lived in a company house, so they didn’t own a house that could be confiscated. However, their fishing boat was taken, and even after the internment ended, it was never returned.

Embracing Our Japanese Heritage

Mr. Hayashi’s first trip to Japan was in 1985, at the age of 47. He went to work as a carpenter. In Vancouver, he met a Japanese man named Mr. Suzuki, who was looking for someone to build a house in Japan. “I could speak a little Japanese,” he laughed, recalling how he was asked, “Would you be interested in building a house in Nishinomiya?”

He continued, “I start thinking myself, I’m living right now in Vancouver and got a good opportunity to go to Japan. A free trip and you get money coming from Japan. So, my job here closed down. I went to Japan. The free trip and make money at the same time and see Japan, what an opportunity.” He stayed for three months, and the house he built still stands in Nishinomiya, Hyogo Prefecture.

When asked about his first impression of Japan, he said, “Japanese people are very polite, you know, very polite people. And very nice and they try to help. I’m Japanese-Canadian. I don’t speak too good of Japanese. I got along.”

His connection with Japan continues to this day. He currently volunteers at “Tonari Gumi”, a Japanese Canadian volunteer organization in Vancouver founded in 1974. Its purpose is to assist the first-generation Japanese immigrants who, after being released from internment, were already seniors and spoke Japanese as their native language.

“I like to volunteer. I help seniors. I still help seniors. I’m senior myself. But, I’m still pretty active,” he chuckled.

He learned his Japanese from his parents. “I learned from my parents. We were talking at home so I picked it up.” It has been further polished through his work with Tonari Gumi. He added, “They speak mostly (Japanese). So, I picked it up and then I kind of get better. Every time I go out, I speak, you know, I can hear them speaking and I can understand what they are talking about.” Throughout the interview, Japanese phrases slip into his conversation.

As for Japanese culture, Mr. Hayashi believes it’s something to be preserved. “I think we should keep our culture. It’s very important that we’re still Japanese. We have culture. I think we should keep it up.” This includes the attitudes associated with being Japanese. “The Japanese people are very polite”, he continued. “And most of them are honest people. I’m saying most. And I like to keep it that way. We’re well known for good people, honest people, and hard-working people.”

Working hard is a value he inherited from his parents. He worked diligently as a carpenter, raised a family, owned a home, and considered his life a successful one. He often reflects on the hardships his parents endured, both in Alberta and after returning to Vancouver.

He has also shared the story of the internment period with his children. “They know what we went through. I talked to them.” He believes it is important to pass on the history of what happened to Japanese Canadians. Regardless of what he and his family went through, he said, “I’m still very proud to be a Japanese Canadian. I’m happy where I am.”

(Text: Naomi Mishima)

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日系カナダ人物語「記憶を次世代へ」:堀井昭さん「差別はいつでもどこでも起きる」

Dr. Akira Horii/堀井昭さん
Dr. Akira Horii/堀井昭さん

堀井昭さん

1931年10月、ブリティッシュ・コロンビア州バンクーバー市生まれ
1942年ブリティッシュ・コロンビア州イースト・リルエットに移動、1949年にバンクーバー市に戻る
元医師、両親は和歌山県出身

日系人への差別がなかったストラスコナ小学校時代

 「子ども時代はバンクーバーで育って、当時は差別なんて知りませんでした」と話し始めた。バンクーバーに住んでいた多くの日系人がそうだったように、ホリイさんもストラスコナ小学校に通った。

 当時の小学校ではイギリス系の生徒には上流階級意識があり、中国系、イタリア系、ユダヤ系の生徒たちをそれぞれ差別的に呼んでいたという。それでも「私たちを『ジャップ』と呼んでいるのは聞いたことがなかったですね」。生徒数の約50%は日系2世だったと思うと語る。『ジャップ』とは日本人を差別的に呼ぶ言葉だ。

 当時はヨーロッパで第2次世界大戦が始まり、イギリスで困っている子どもたちにくつ下やキルトを送るため授業では先生がくつ下の編み方やキルトの作り方を教えていたという。

 「(太平洋)戦争前はハッピーな子どもでした。差別が何かも知りませんでしたしね」

人生が一変した真珠湾攻撃

 ハッピーな子ども時代を一変させたのは1941年12月7日、日本軍によるアメリカ・ハワイ州真珠湾攻撃だった。「世界が一変しました」。同日カナダが日本に宣戦布告した。「日系カナダ人にとって天地がひっくり返る出来事でした」。

 ホリイさんが10歳の時だった。なにもかも突然に起きた。「突然学校を辞めなくてはいけなくなりました。パールハーバーまでは私はストラスコナ小学校のグレード5(5年生)で、アレキサンダー通りのバンクーバー日本語学校の5年生でした」。ストラスコナ小学校に通っていた日系カナダ人の生徒約630人が去らなくてはならなかった。学校の生徒数は半分に減ったという。

 それから日系カナダ人コミュニティに起こったことを説明した。

 カナダ政府は日本に起源を持つ全ての日系カナダ人をブリティッシュ・コロンビア(BC)州沿岸から100マイル(160キロメートル)以東へ移動することを強制。家屋、自動車、ビジネス、漁船などの財産は差し押さえられた。その中にはホリイさんの父親が所有していた漁船も含まれていた。健康な18歳から45歳までの男性はロードキャンプで働くことを強いられ、BC州内のホープ・プリンストン、レベルストーク・シカモス、ブルーリバー・イエローヘッドの3カ所に送られた。ロードキャンプ行きを拒否した者はオンタリオ州の捕虜収容所(Prison of War)に送られた。

 カナダ政府がBC州内に用意した収容地は10カ所。最大規模だったタシメグリーンウッドスローカンシティ、レモンクリーク、ポポフ、ベイファームローズベリー、ニューデンバー、サンドン、カスロー。サンドンには仏教徒が多く送られ、高い山に挟まれた谷間の街で冬の環境があまりにも劣悪なため、のちにニューデンバーに移ったと説明した。これら10カ所は「政府が支援している強制収容所でした」。

 1942年1月14日にカナダ政府が日系カナダ人を「敵性外国人」とし同年2月から収容所送りを開始するも、これら10カ所の収容所は準備が間に合わず、多くがバンクーバー市のヘイスティングス・パークに集められた。尿やフンの臭いのする馬小屋での生活を強いられ、長い場合には「9月や10月頃までそこで生活していた人もいたと聞いています」。

 その他に「自分たちで生計を立てて暮らす収容地がありました」。自立型収容地でBC州内に5カ所。イーストリルエット、ブリッジ・リバー、ミントシティ、マックギリブレイ・フォールズ。政府からの支援は一切ないため自分たちで生活しなければならない。ただ家族一緒に移動できた。

イーストリルエットでの生活

 「私の両親は自立型収容地に行くことにしました」。鉄道でコールハーバーからスココミッシュに行き、そこからパシフィック・グレート・イースタン・レールウェイ(PGE)、現在のBCレール、で移動した。当時はスココミッシュがPGEの最南端駅だったと記憶している。乗り換えてから一晩明けるとリルエットの町に着いた。「朝、目が覚めると山に囲まれていました。『こんな所に住むのかぁ』と思いましたね。でもまあ、リルエットという小さな町で住むのも悪くないかと考え直しました」。しかし「驚いたことに」と続けて、そこからさらにトラックに乗せられて4マイル(約6.5キロ)走って着いたのはフレーザー川を渡った「イーストリルエットという場所でした」。

East Lillooet

 父親やそこに移動してきた男性陣は春からタール紙を使った小屋の建設を始めた。母親はホリイさんを筆頭に5人の子どもを抱えていた。「飲み水も、電気もなくて、差別のため仕事もありませんでした」。日系人はリルエットの町に入ることすら許されていなかったという。

 それでも生活のために色々と工夫した。飲み水は購入した。生活用水はフレーザー川からの水をろ過する装置を作って賄った。食料は野菜を自分たちで栽培した。冬季でも保存できるジャガイモやタマネギ、「ゴボウも作ってましたね」と笑う。食用に鶏も飼育、卵も取れた。時には先住民からサーモンを買うこともあったという。「母はサーモンを缶詰にしていました」。各家には「お風呂」も作った。こうして自立した生活を送った。

 イーストリルエットに移動してきた男性は多くが漁師だったため、生活のためにできることが限られた。そこで「救世主となったのがハニー(メープルリッジ)で農家をしていたトクタロウ・ツユキさんでした」。ツユキさんによるとリルエット地方の気候は暑くて乾燥しているのでトマト作りに最適だという。そこで共同でトマトの栽培を始めた。収穫したトマトはニューウエストミンスターに送っていたが、そのうちに町にトマトの缶詰工場を作るとそこで加工した。「そうやって7年間イーストリルエットで生き延びました」。

 苦しい生活環境だったが、男性たちは子どものために小学校を建てた。「でも教師がいなかったので高校を卒業していた人ならだれでも小学校の先生を務めました」。ただすでに高校生だった10代の若者は高校を卒業することができなかった。移動してきた当時はリルエットの町の学校には行けなかったからだ。

 しかし1946年までには町の高校に通えるようになっていた。ホリイさんもリルエットの高校へ通い、4マイルを自転車で通学したという。冬の寒さが厳しいリルエットで「寒い日は道路が凍っていましたし、学校に着いた頃には口も凍っていました」。

 高校に通いながら家計を助けるためにアルバイトもした。町の新聞社で働いたり、父のトマト農園や缶詰工場でも働いた。「長男が家を助けるのは当たり前でした」。

 それから高校3年の時にカナダ人の友人とUBCハイスクール・コンファレンスに参加するためにバンクーバーに戻った時のことを話した。学校代表として行くにもかかわらず警察の許可証が必要だったという。「自分が生まれた町に行くのにRCMP(連邦警察)の許可証を取らなければいけませんでした。BC州沿岸付近にいることすら許されなかったのです。映画を見た帰りに二人で宿泊していた友人のいとこの家に帰る途中にイーストヘイスティングス通りを歩いていると警察官に呼び止められました。私が日本人だと分かったんだと思います」。ここで何をしていると聞かれた。「リルエットからの許可証を見せました。バンクーバーに来るための特別な許可証でした」。1948年12月のバンクーバーはまだ日系人に冷たかった。

 そしてリルエットの高校を1949年に卒業した。

漁師をしながらUBC医学部を卒業

 1949年4月1日に強制収容政策は終了し、日系カナダ人は自由に移動できるようになった。同年に高校を卒業したホリイさんはブリティッシュコロンビア大学(UBC)に入学する。「両親が大学進学を許してくれました」。でも大学にお金がかかることは分かっている。「大学の寮に入っていましたけど、大学までは路面電車代10セントを節約するためにヒッチハイクをして行きました」。

 授業は通常5コースのところを6コース取った。「リルエットから出てきた田舎者の1年生はウブでした」と笑う。化学、物理、生物のラボもあった。「試験を受けて1年目を終えた時、よくやったなぁと思いました」。

 しかし父親の仕事を手伝うために1年で休学した。「父親はすごく漁師に戻りたがっていました」。1950年から父親を手伝って漁師となった。BC州北部のプリンス・ルーパート辺りでサーモン漁を始めた。漁師生活は2年間続いた。稼いだ収入は両親に渡した。やはりここでも長男として家族を助けるのは当然と考えていた。そうして家族は1951年にようやくバンクーバーに戻ってきた。

 2年間の休学をへて1952年にUBCに復学した。相変わらず6コースを取ったという。夏には父を助けるために漁師として働いた。1957年まで漁師は続けた。

 1955年に大学を卒業し、友人から「医学部を受けてみないか」と誘われ申請したら「驚いたことに受理されました」と笑った。医学部時代には横隔膜下膿瘍で生死をさまよう経験をした。大学医学部の教授のおかげで一命を取り止めたが1年間を棒に振った。それでも1960年に卒業。それから2週間後には結婚し、フォルクスワーゲンで新婚旅行代わりにアメリカ北部を横断しトロントへ。トロント・ウエスタン病院で1年間インターンとして働いた。

医師時代に出会った日系一世の話

 強制収容前のバンクーバー。ホリイさんは長男だけに甘やかされたこともあったという。パウエル通りの日本人街でバンクーバー仏教会の前にあった小さな菓子屋に連れてもらっていた。「あんぱんを買ってもらってました。そこはマツモト夫婦がやっていた店でした」。通っているうちにマツモト夫妻と仲良くなったが、強制収容時はどこに行っていたのか知らなかった。

 そして1961年医師として働き始めた頃にマツモト夫妻が患者になったという。そこで初めて夫のマツモトさんが第1次世界大戦にカナダ兵として参加した退役軍人だったことを知った。「兵隊姿の写真は背が高くて、ハンサムで、強そうで。キンゴ・マツモトさんといいました」。

 日系カナダ人は第1次世界大戦にカナダ兵として222人が参加した。BC州では差別が激しかったため入隊できず、アルバータ州まで行って入隊した。そのうち54人が戦死した。バンクーバー市スタンレーパークには当時の日系コミュニティが建てた日系カナダ人戦没者慰霊碑がある。

 第1次世界大戦にカナダ兵として参加して帰ってきた日系カナダ人には市民権が与えられた。「最初はカナダ政府は拒否したのですが1931年に与えられました。東洋人としては初めての市民権でした」。それでも「1941年12月に日本との戦争が始まるとマツモトさんも『敵性外国人』とされ、市民権もはく奪され、強制収容されました」。第1次世界大戦で戦った全ての日系カナダ人が同じ扱いを受けた。

 マツモトさんはヨーロッパで戦った時に毒ガスを吸っていたため肺を病んでいたという。「皮肉ですよね」。カナダのために命を懸けた国民へカナダ政府の冷酷さを皮肉った。

日系カナダ人強制収容と差別

 「強制収容と差別を話すことについて関心を持ち始めたのは晩年になってからです」と言う。医師時代は日本語ができる医師Dr. Aki Horiiとして親しまれ、多くの日系1世の患者を担当した。いまは小学校や高校、大学、カレッジなどで経験談や差別について話している。

 ホリイさんは日系カナダ人に対するカナダ政府の対応は差別的な議員の言動が理由だったと話す。連邦、BC州、バンクーバー市、全ての政府に日系人に対する差別を公言する議員がいた。中でも国会議員は特に力を発揮したという。

 当時のバンクーバー・サン紙に掲載されていた議員らの差別的な言葉を引用して、それがどれほどひどいものだったかを語った。「ジャップがブリティッシュ・コロンビア州に戻ることを決して許してはならない」「政府の計画は一刻も早くBCからこれらの人々(日系カナダ人)を追い出すことだ。私は公人として残された限りの時間を費やして個人的な意思を持ってこれを行う。彼らがここに二度と帰ってくることのないように」「ロッキーから太平洋まで一人のジャップも入れてはならない」

 そして、日本軍の真珠湾攻撃は単なる日系カナダ人を追い出すための口実だったことを語るバンクーバー・サン紙の特集記事を紹介した。2015年3月付の記事は1942年この週の歴史として掲載されている。要約すると、東洋からの移民が来て50年の間、BC州は日本人の受け入れに反対してきたが連邦政府がそれを阻止してきた。しかしすばらしい軍事的理由で日本人を内陸部に移動させることができた。戦争を利用して問題を解決できたことは喜ばしい、となっている。

 ホリイさんは「これを読むと戦争は当時日系カナダ人を追い出すための口実だったことがよく分かります」と力を込める。それは1945年8月15日に第2次世界大戦が終わっても続いた。1945年カナダ政府はBC州に住む日系カナダ人にロッキー山脈より東に移動するか、日本に帰るかの二者択一を迫った。約4,000人が日本へ行き、「多くの人はアルバータ州やサスカチュワン州に行きました」。

 差別はいつどこでも起きると話す。それは心に傷を残す。「医師のミーティングで、ある医師が『ジャップ』という単語を何度も会話の中で使ったんです」と自身の経験を語った。「それから1カ月は眠ることができなくて」。次のミーティングでそのことを告げるとその医師は謝ったという。

 「差別は最も予期しないところで起きるものなんだよ、と生徒たちには伝えているよ」と静かに語った。

(取材 三島直美)

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“Stories of Japanese Canadians: Memories for the Future Generation” Dr. Akira Horii

Dr. Akira Horii/堀井昭さん
Dr. Akira Horii/堀井昭さん

“Discrimination Happens Anytime, Anywhere”

Dr. Akira Horii

Born in October 1931, Vancouver, British Columbia
Moved to East Lillooet, British Columbia in 1942, returned to Vancouver in 1949
Retired medical doctor
Parents from Wakayama Prefecture

A Time Without Discrimination Against Japanese Canadians at School

“My childhood was spent in Vancouver, and back then, I didn’t know what discrimination was,” Dr. Horii began. Like many other Japanese Canadians living in Vancouver, he attended Strathcona Elementary School.

At the school, British-origin students were known for a sense of superiority, often used derogatory terms for their Chinese, Italian, and Jewish classmates. However, “I never heard anyone call us ‘Japs,’” he recalled. He estimates that about 50% of the students were Nisei, or second-generation Japanese Canadians.

During that time, World War II had started in Europe. A teacher at the school taught students how to knit socks and make quilts for children suffering in Britain. “Before the (Asia-Pacific) war, I was just a happy kid. I didn’t even know what discrimination was,” he reflected.

The Attack on Pearl Harbor That Changed Everything

Dr. Horii’s carefree childhood was shattered on December 7, 1941, when the Japanese military attacked on Pearl Harbor in Hawaii. “The world changed. It turned upside down for Japanese Canadians.” he said. On the same day, Canada declared war on Japan.

Dr. Horii was 10 years old at that time. After the attack, everything changed suddenly. “All of a sudden, we had to quit school. Until Pearl Harbor, I was in Grade 5 in Lord Strathcona Elementary and Grade 5 at the Vancouver Japanese Language School on Alexander Street,” he said. Around 630 Japanese Canadian students were forced to leave Strathcona Elementary, cutting its enrollment in half.

He recounts the events that transpired within the Japanese Canadian community. The Canadian government mandated that all Japanese Canadians, regardless of citizenship, relocate from British Columbia’s coastal areas to locations at least 100 miles (160 kilometres) inland. Homes, cars, businesses, fishing boats, properties and other possessions were confiscated, including the fishing boat owned by Mr. Horii’s father. Able-bodied men aged 18 to 45 were forced into road labour camps at one of three sites in BC: Hope-Princeton, Revelstoke-Sicamous, or Blue River-Yellowhead. Those who refused road camp work were sent to prisoner-of-war camps in Ontario.

The Canadian government established ten internment camps in BC: Tashme, Greenwood, Slocan City, Lemon Creek, Popoff, Bay Farm, Rosebery, New Denver, Sandon, and Kaslo. Sandon, a remote valley town with harsh winters, housed a significant Buddhist population. Many internees later relocated to New Denver. “These ten sites were government-supported internment camps,” he explained.

On January 14, 1942, the Canadian government designated Japanese Canadians as “enemy aliens,” and by February of that year, the forced relocation to internment camps had begun. Since the ten designated camps were not ready, many people were initially sent to Vancouver’s Hastings Park, where they lived in horse stalls that reeked of urine and feces. “I’ve heard that some people stayed there as late as September or October,” he said.

In addition to government-supported camps, there were also “self-supporting sites” where people lived without government assistance. Four such communities existed in BC: East Lillooet, Bridge River, Minto City, and McGillivray Falls. These sites received no government aid, requiring residents to be self-sufficient. However, families were allowed to stay together in these locations.

Life in East Lillooet

Dr. Horii began, “My parents decided to move to a self-supporting internment site.” They traveled by ship from Coal Harbour to Squamish, where they transferred to the Pacific Great Eastern Railway (PGE), now known as BC Rail. He recalls that Squamish was the southernmost terminal of the PGE at the time. After the transfer, they arrived in Lillooet the following morning. “I got up in the morning, and, we were surrounded by mountains,” he said. “I thought, “I thought, ‘Oh, gee. This is where we’re going to live.’ And I thought maybe it won’t be so bad living in this little town called Lillooet.”

East Lillooet

However, he added, “to my surprise,” they were taken further by truck, crossing the Fraser River to a place called East Lillooet, about four miles (6.5 kilometres) away.

In the spring, his father and other men in the group began constructing tar-paper shacks. His mother, meanwhile, was busy caring for Dr. Horii and his four younger siblings. “There was no drinking water, no electricity, and no jobs because of discrimination,” he explained, as Japanese Canadians were even prohibited from entering the town of Lillooet.

Despite these hardships, families found ways to survive. Drinking water was purchased, and they built a filtration system to use water from the Fraser River for household needs. They grew vegetables such as potatoes, onions, and even burdock root (gobo). They raised chickens for eggs and sometimes bought salmon from Indigenous people. “My mother canned the salmon,” he added. Each family also built a bathhouse, allowing them to live self-sufficiently.

Many of the men relocated to East Lillooet had been fishermen, and there were few opportunities to earn a living. “The saviour for us was Tokutaro Tsuyuki, a farmer from Haney (Maple Ridge),” he said. Tsuyuki recognized that the hot, dry climate of the Lillooet region was ideal for growing tomatoes. The community began cultivating tomatoes collectively. Initially, the harvest was shipped to New Westminster, but they eventually established a tomato canning factory in the town. “That’s how we managed to survive in East Lillooet for seven years,” he added.

Life was difficult, but the men built a small elementary school for the children. “Since there weren’t any teachers, anyone who had graduated high school became a teacher for the younger kids,” he said. However, teenagers already in high school when they moved to East Lillooet couldn’t graduate initially because they weren’t allowed to attend the town’s high school.

By 1946, they were permitted to enroll in Lillooet’s high school. Dr. Horii attended, cycling the four miles to and from school daily. “In the coldest day of winter, the road was covered in ice, and when we get to the high school in town, our mouths will be covered in an ice, frost,” he recalled.

While attending high school, he worked part-time to help support his family, taking jobs at the town newspaper, on his father’s tomato farm, and at the canning factory. “It was only natural for the Japanese eldest son to help the family,” he said.

During his senior year, he returned to Vancouver to attend the UBC High School Conference with a Canadian classmate. Even as a school representative, he was required to obtain a police permit. “To come back to my birthplace Vancouver, I had to get RCMP permit. Because I’m not allowed on the coast,” he added. One evening, while walking on East Hastings Street after seeing a movie, a police officer stopped him. “I think he realized I was Japanese,” he recalled.  When asked what he was doing there, he showed the officer his permit. “I’ve got a special permit to come to Vancouver,” he said. In December 1948, Vancouver was still unwelcoming to Japanese Canadians.

In 1949, Dr. Horii graduated from Lillooet High School.

Graduating from UBC Medical School While Working as a Fisherman

On April 1, 1949, the internment policy ended, allowing Japanese Canadians to move freely. That same year, Dr. Horii graduated from high school and enrolled at the University of British Columbia (UBC). “My parents allowed me to go to university,” he said. However, he was keenly aware of the financial burden. “I stayed in a dormitory,” he added, “but to save the 10-cent streetcar fare, I hitchhiked to campus.”

He took six courses per term, even though the standard load was five. “As a freshman from rural Lillooet, I was pretty naive,” he admitted with a laugh. His demanding schedule included chemistry, physics, and biology labs. “When I finished my first year and passed the exams,” he said, “I was amazed that I did okay.’”

Despite this success, he took a leave of absence after his first year to help his father. “My father really wanted to return to fishing,” he explained. Beginning in 1950, Dr. Horii worked as a fisherman, joining his father in salmon fishing near Prince Rupert in northern British Columbia. For two years, he embraced the fisherman’s life, handing over his earnings his parents. As the eldest son, he felt it was his duty to support his family. By 1951, the family had returned to Vancouver.

After two years away, he resumed his studies at UBC in 1952, again taking six courses per term. During summers, he continued working as a fisherman to assist his father, which he did until 1957.

In 1955, he graduated from UBC and, on a friend’s suggestion, applied to medical school. “To my surprise, I was accepted,” he smiled. During medical school, he faced a life-threatening subphrenic abscess. Thanks to the intervention of a university medical professor, his life was saved, but he lost a year of studies. Undeterred, he graduated in 1960.

Two weeks later, he married, and the couple embarked on a honeymoon road trip across northern United States in a Volkswagen, heading to Toronto. There, he completed a one-year internship at Toronto Western Hospital.

A First-Generation Japanese Canadian’s Story

Before the internment, Vancouver was home to a vibrant Japanese community. As the eldest son, Dr. Horii admits he was sometimes spoiled. He fondly remembers visiting a small confectionery shop on Powell Street near the Vancouver Buddhist Temple. “I used to get anpan (sweet red bean buns) there,” he said. “The shop was run by a couple named Matsumoto.” The Horii family grew close to the Matsumotos, but they lost contact after the internment began.

In 1961, when he began practicing as a doctor, the Matsumotos became his patients. It was then he learned that Mr. Matsumoto had been a Canadian war veteran in World War I. “I saw a photograph of him in uniform—tall, handsome, and strong,” he explained. “His name was Kingo Matsumoto.”

During World War I, 222 Japanese Canadians served in the Canadian military despite facing severe discrimination in British Columbia. Many had to travel to Alberta to enlist, as they were barred from joining in BC. Of those who served, 54 lost their lives. A memorial for these fallen soldiers, built by the Japanese Canadian community, now stands in Vancouver’s Stanley Park.

Japanese Canadians who served in World War I were eventually granted Canadian citizenship. “At first, the Canadian government refused, but in 1931, they relented. It was the first time citizenship was granted to people of Asian descent,” he explained. However, this recognition was short-lived. “When war with Japan broke out in December 1941, Mr. Matsumoto was labelled an ‘enemy alien,’ stripped of his citizenship, and interned,” he added.

Like other Japanese Canadian veterans of World War I, Mr. Matsumoto endured unjust treatment. Having inhaled poison gas while fighting in Europe, he suffered from lung disease. “It’s ironic, isn’t it?” Dr. Horii said, reflecting on the bitter irony on how the Canadian government treated men who risked their lives for this country with such cold disregard.

On Japanese Canadian Internment and Discrimination

“More towards the end of my working career, I got interested in talking about the internment and racism,” said Dr. Horii. Known professionally as Dr. Aki Horii, he built a reputation as a physician fluent in Japanese, caring for many first-generation Japanese Canadian patients. Now, he speaks to elementary and high schools, universities, and colleges, sharing his experiences and shedding light on the realities of discrimination.

Mr. Horii explains that the Canadian government’s discriminatory actions against Japanese Canadians were fueled by the prejudiced statements and attitudes of politicians. Discrimination was openly endorsed by members of the federal government, the BC provincial government, and Vancouver city officials, with federal MPs wielding significant influence.

To illustrate the depth of prejudice, he cites discriminatory remarks made by politicians and published in the Vancouver Sun:

“Japs must never be allowed to return to British Columbia.”

“The government’s plan is to get these people (Japanese Canadians) out of BC as quickly as possible. I will spend every remaining moment as a public official ensuring this happens, so they will never come back here.”

“Not a single Jap should be allowed between the Rockies and the Pacific.”

Dr. Horii also references a 2015 Vancouver Sun article that examined the events of 1942. The article explained how the attack on Pearl Harbor was used as a pretext to forcibly remove Japanese Canadians from the BC coast. For decades, BC had opposed immigrants from Asia, but federal government had resisted taking sweeping measures. However, under the guise of wartime necessity, Japanese Canadians were forcibly relocated inland. The article highlighted that the war provided a convenient opportunity to resolve a long-standing “problem.”

“That tells you all that saying the editorial that they used the military, the war Japan, as an excuse to get rid of all the Japanese Canadians from the province of British Columbia,” Dr. Horii stated emphatically. The mistreatment continued even after the war ended on August 15, 1945. That year, the Canadian government gave Japanese Canadians living in BC an ultimatum: relocate east of the Rockies or face deportation to Japan. Approximately 4,000 chose deportation, while many others moved to Alberta or Saskatchewan.

Dr. Horii underscores that discrimination can occur anytime and anywhere, leaving deep and lasting scars. He shares a personal story: “At a doctors’ meeting, one physician repeatedly used the term ‘Jap’ during the conversation. I couldn’t sleep for a month afterward.” At the next meeting, he confronted the doctor, who apologized.

“Discrimination often arises in the most unexpected places,” he reflected quietly. “This is what I tell students when I share my story.”

(Text: Naomi Mishima)

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ベテランになっても学び続けます!

 2024年の12月はあっという間に過ぎ去り、気づけば新年を迎えていました。仕事に追われてコラムの締切をすっかり逃してしまった私ですが、それでも温かく受け入れてくださった日加トゥデイの三島様に感謝申し上げます。読者の皆様、2025年もどうぞよろしくお願いいたします。

 さて、2024年を振り返ると、私にとっては学びの多い一年でもありました。カナダで薬剤師として16年間に渡り同じ薬局に勤めてきた私が、ブリティッシュコロンビア大学(UBC)のFlexPharmDプログラムの一環として、2件の薬局での実習をする機会があったのです。

 「なぜベテラン薬剤師が実習生?」と思う方もいらっしゃるかもしれません。実際、私自身も「学位取得のためとはいえ、今さら他の薬局に行って新たに学ぶことがあるのだろうか?」と半信半疑でした。しかし、実際に体験してみると、なかなかどうして面白いではありませんか。

 まず1件目のノースバンクーバーにある食料品店内の薬局では若手薬剤師たちの薬学的管理スキルが印象的でした。最近の若い薬剤師の多くはPharmD(Doctor of Pharmacy:私が現在目指している学位)であり、薬物治療に関する実践的な教育をみっちりと受けています。彼らが学生時代に一生懸命取り組んだのと同様に、私は実習中に薬学的ケアプラン(薬学的管理を行うための詳細な計画書で、薬剤師が患者の薬物療法を最適化するために使用するもの)の作成に取り組みましたが、これがなかなか大変でした。患者さんの疾患の概要や薬物選択の根拠を詳細に書き出し、治療上の問題点を洗い出して解決策を提示する一連のプロセスを文章化するのは、予想以上に時間と労力が必要でした。

 今から17年前に、カナダで薬剤免許を取得するためにUBCのブリッジングプログラムに在籍していた頃、同様のケアプランの作成を少しかじったことはありましたが、最近のバージョンは要求レベルが高くなっており、とてもびっくりしました。

 また、この薬局では、薬学的ケアプランと直接的に関連するメディケーションレビューに力を入れていました。メディケーションレビューとは、複数の慢性疾患の治療薬を服用している患者さんを対象に、薬物治療に関する問題の有無をチェックするサービスです。このサービスは患者さんにとって無料ですが、薬局には州政府からのクリニカルサービスフィーが支払われます。そのため、薬局によってはメディケーションレビューに大きく力を入れているところもあります。

 このようなビジネスモデルの賛否はともかく、メディケーションレビューは正しく実施されれば、患者さんと薬剤師の双方にとって非常に有益です。たとえば、適切な薬が適量で処方されているか、薬を正しく服用できているか、副作用がないか、薬の効果が十分に現れているかといった点を確認することで、患者さんの薬物治療の効果と患者さんの健康状態を総合的にチェックすることができるのです。問題が見つかった場合には、処方医師へフィードバックを行うことで、薬物治療の質を向上させることができます。

 現実的には、このようなメディケーションレビューを、まとまった時間をとって体系的に行っている薬局は限られています。私の勤務するロンドンドラッグスでは、時間や人員の制約があるため、メディケーションレビューの件数は少ないのが現状で、同様の相談やリクエストが寄せられた際には、重要なポイントを簡潔に絞って対応する形をとっています。ただ、せっかく実習で身につけたスキルを使わないのはもったいないので、メディケーションレビューの件数を増やすように努力をしているところで、これは私の2025年の大きな目標です。

 2件目にお世話になったのは、ポートコキットラムにあるメディカルクリニックに隣接したこじんまりとした薬局でした。薬局に足を踏み入れた瞬間、「こんなに小さな薬局で実習をするなんて!」と戸惑いましたが、その後すぐに新たな事実を知ることになります。

 この薬局は通常の処方せん対応だけでなく、精神疾患を抱える患者さんが生活する複数のグループホームを担当していたのです。このような特化型サービスを提供する薬局では、単なる薬の配達にとどまらず、患者さんの生活全般を支える重要な役割を担っています。定期的に入居者と面談を行い、薬が正しく服用されているか、副作用や健康上の問題がないかを丁寧に確認します。薬の服用が困難な場合には、患者さんの状況に応じた服薬スケジュールを提案・調整することもあります。さらに、多くの薬を服用する患者さんが多いため、相互作用や副作用のリスクを慎重に管理する必要があります。このようなアプローチは、患者さんのQOL(生活の質)の向上に大きく寄与するだけでなく、医療費の削減にもつながるとされています。また、ホームの入居者と信頼関係を築き、意思疎通を図るためには高度なコミュニケーション能力が求められましたが、これは非常に貴重な経験となりました。

 ちなみに、コーストメンタルヘルス(Coast Mental Health、ウェブサイト:https://www.coastmentalhealth.com/)は、バンクーバーを拠点とする非営利団体で、精神疾患を抱える人々が適切な住まいや支援サービス、雇用や教育の機会を得ることで、地域社会での自立を支援しています。同団体は、コミュニティーホームやサポートハウジングプログラム、The Transitional Cottage Programなどの施設を運営しており、利用者自身もピアサポートやボランティア活動を通じて団体の運営に貢献しています。また、Coast Mental Health Foundationは資金調達を行い、利用者のために多様な自立支援プログラムを展開しています。精神疾患は遺伝や環境要因が絡む複雑な問題ですが、適切な支援を受ければ自立した生活が可能であることを実証しており、その活動は薬剤師として非常に勉強になったのは言うまでもありません。

 2025年にはいくつかの実習を予定しており、さらなる成長を目指して引き続き努力を重ねてまいります。また、本コラムに関するご質問やリクエストがございましたら、ぜひ日加トゥデイ編集部までお気軽にご連絡ください。

佐藤厚

*薬や薬局に関する一般的な質問・疑問等があれば、いつでも編集部にご連絡ください。編集部連絡先: contact@japancanadatoday.ca

佐藤厚(さとう・あつし)
新潟県出身。薬剤師(日本・カナダ)。 2008年よりLondon Drugsで薬局薬剤師。国際渡航医学会の医療職認定を取得し、トラベルクリニック担当。 糖尿病指導士。禁煙指導士。現在、UBCのFlex PharmDプログラムの学生として、学位取得に励む日々を送っている。 趣味はテニスとスキー(腰痛と要相談)

全ての「また お薬の時間ですよ」はこちらからご覧いただけます。前身の「お薬の時間ですよ」はこちらから。

「バンクーバー・ホワイトキャップス3年目、さらに上を目指して」GK高丘陽平選手インタビュー

試合後のインタビューの後に、高丘選手、懐かしいユニフォームデザインで。2024年5月4日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
試合後のインタビューの後に、高丘選手、懐かしいユニフォームデザインで。2024年5月4日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

 高丘陽平さんは2025年、MLS(メジャーリーグサッカー)バンクーバー・ホワイトキャップスFCで3年目を迎える。

 昨季のチームはプレーオフに進出したものの、1回戦で敗退。前シーズンと同じ成績だった。

 ただ高丘さん自身は充実した2年目を送ったと振り返る。2025年もホワイトキャップスでプレーすることが決まった高丘さんに話を聞いた。

2024年シーズンを振り返って

‐2024年シーズンで、自身でよくできたところ、課題が残ったところを振り返ってください。

 よくできたところで言えば、去年よりはチームのやり方だったり、キーパーコーチが求めてるものが理解できて、パフォーマンスも出せたと思います。今年(2024年)2年目なので慣れてきて、考えなくても自然に出てくるようなシチュエーションがいくつかあったので、そういった意味で変なストレスというのは去年よりもなくなってきました。チーム中でもきちんとリーダーシップを取ってプレーでチームを引っ張れるようにというのは思っていたので、そういう部分は多少ですけども良くなってるのかなと思います。

随所に好セーブを見せたGK高丘。2024年10月5日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
随所に好セーブを見せたGK高丘。2024年10月5日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

 課題的なところで言うと、課題は職業柄尽きないっていうか。相手がいるスポーツですし、点を防ぐのが最大の目的ですけど、相手はそれを決めようとしてくるわけで、色々なシチュエーションが毎回同じではないので、それを毎回瞬時に対応しないといけないので、そこの難しさはあります。その難しさが逆にゴールキーパーのおもしろさっていうか、そういったところを最善の準備をしながら、試合では想定していたこと以外のことが起こるので、そういうところのリアクションが非常に大事なのかなぁっていうのは、今年1年間やりながら感じてました。

‐北米リーグ2年目で成長したところは感じますか?

 相手の特徴だったり、自分のチームの他の選手の特徴っていうのが去年よりも分かってきた中で、語学の問題もありますけど、去年(2023年)よりも自分が伝えたいことをもうちょっとより細かく、意見交換が去年よりもスムーズになったと思います。

FW・WhiteとグータッチするGK高丘。2024年9月28日、BCプレース。Photo by Koichi Saito
FW・WhiteとグータッチするGK高丘。2024年9月28日、BCプレース。Photo by Koichi Saito

 (チームの)ディフェンダーの選手がどうしたかったのかとか聞きながら、相手に絶対こうしろよって押し付けることはしないので、選手のプレーを尊重しながら一緒に守ってくのが大事かなと思ってます。

 そこは去年よりもコミュニケーションの部分で成長した部分でもあると思いますし、2年目ということで、別のチームに移った環境に馴染むっていうのは日本の中でも移籍すると難しいものはありますけど、そういった中でチームメートも自分のキャラクターは分かってくれて、色々なことが去年よりもスムーズだったかなと思います。

MLSで吉田選手、山根選手と対戦

‐LAギャラクシーに吉田麻也選手、山根視来選手が加入し、日本人対決として注目されました。MLSの良さを日本のファンにも伝えたいと言っていた高丘さんにとって日本人対決でおもしろさを伝えられたと思いますか?

 そうですね。伝わってくれてればいいんですけど。アップルが独占配信ということで、日本のテレビから認知してもらうのは難しいので、ソーシャルメディアで発信していくしかないなと思っています。日本のファンはヨーロッパを見ると思いますけど、アメリカ(MLS)もエンターテインメントの一つとしておもしろいと思いますし、自分たちが活躍することで、日本の皆さんにもより知ってもらえると思っています。

試合終了後に話す高丘とLAギャラクシー山根。同じ横浜市出身で少年時代から知っている仲という。LAギャラクシー戦。2024年4月13日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
試合終了後に話す高丘とLAギャラクシー山根。同じ横浜市出身で少年時代から知っている仲という。LAギャラクシー戦。2024年4月13日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

 そういう意味では自分たちのパフォーマンスが大事だと思いますし、(吉田)麻也さんだったり、(山根)視来くんがMLSに入ってきてくれて、日本人対決でも注目してもらえるポイントが増えたので、いいなと思います。バンクーバーもLAも日本人のコミュニティが大きいので、そういったところでお互いに切磋琢磨していけたらなと思ってます。

‐海外で日本人と対戦するということに何か特別な思いはありますか。

 特別な思いというより、同じ日本人として上を目指している選手というか同士っていうか、相手に(日本人選手が)いるっていうのはそれだけでも刺激ですし。試合中は正直そんなことあんまり考えていなくて、自分がどうやってチームに貢献するかとか、いいプレーするかとか、そっちを考えています。でもファンの方がそういう目線で見てくれてるっていうのは分かりますし、そういった意味でお互いにいいプレーを見せられたらいいかなと思います。

吉田選手と高丘選手。LAギャラクシーがBCプレースを離れる直前に。2024年4月13日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
吉田選手と高丘選手。LAギャラクシーがBCプレースを離れる直前に。2024年4月13日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

2025年シーズンについて

-来年は3年目ですが、自分にゴールキーパーとしてどういうことを期待していますか。

 チームがうまくいかない時こそ、チームを助けられるようにというか。良い時にはみんな良いので、チームがちょっと苦しい時とかにきちんと止めきるところもそうですし、味方を安心させたり、数字に出づらいところも大事にしたいと思っています。1つのセーブで勝ち点が0になるか1になるか3になるか変わるので、そこをシーズン通して見た中で1つでも多くするっていうのが大事だと思います。

 それ以外のプレーでも当たり前のプレーは当たり前にすることもそうですし、難しいプレーを簡単にしているように見せるっていうのも良いゴールキーパーの大事な要素だと思うので本当に一つ一つのプレーを丁寧にやっていくことでしか、自分が求めてるものは達成できないし、そこは変わらず丁寧にやっていきたいなと思います。

-チームについて、来年は3年目ですが、入団1日目から良い雰囲気と言われてましたが、それは変わらないですか?

 そうですね。そこの印象は特に変わらないですね。ただ、もっと自分たちが強くなるためには言い合っていかなくてはいけない部分はあると思います。それが今年は去年よりも見えたので、良いサインだと思いますけど、まだまだもうちょっとお互いに求め合ってもいいのかなと思います。

随所に好セーブを見せるGK高丘。トロントFC戦。2024年4月6日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
随所に好セーブを見せるGK高丘。トロントFC戦。2024年4月6日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

‐バンクーバー2年目、日系コミュニティとの関りはどうでしたか?

 スタジアムにも日本人の方がたくさん来てくれて声をかけてくれるので、それはうれしいですし、子どもたちが、将来に、ホワイトキャップスでも、Jリーグでも、少しでも僕の姿を見て刺激をもらってくれればうれしいかなと思います。

-ファンに向けてひと言お願いします。

 レギュラーシーズンを一つでも上の順位で終わるというのは大事ですし、そこから進んでより上まで行くって考えた時にレギュラーシーズンを何位で終わるかっていうのは非常に大事なところだと感じました。そこは、去年、今年よりも来年は求めていきたいです。あとはスタジアムに来てもらって、なにか感じるものを僕たちは届けないといけないと思うので、いいものを届けれるように、チームとしても良いものを見せれるように、僕自身もやれることは全部やっていきたいと思います。

***

 バンクーバー・ホワイトキャップスFCは2024年シーズン終了後、バンニ・サーティニ監督を解任。2025年シーズンは新監督の下でスタートする。

 2025レギュラーシーズンの開幕戦はポートランドで2月23日、ポートランド・ティンバーズと対戦する。ホームでの開幕は3月2日、吉田麻也選手率いる2024年MLSカップ優勝チームのLAギャラクシーをBCプレースに迎える。

好セーブを見せ前半を無失点に抑えたGK高丘。LAギャラクシー戦。2024年4月13日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
好セーブを見せ前半を無失点に抑えたGK高丘。LAギャラクシー戦。2024年4月13日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

(記事 三島直美)

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髙橋良明在バンクーバー日本国総領事より新年のごあいさつ

(Tandem Photography & Films)
(Tandem Photography & Films)

謹んで新春のお慶びを申し上げます。

本年は、21世紀の4分の1という節目を迎え、私たちは新たな時代に入ろうとしております。ここ数年間の世界の様々な変化の中で、人々の交流が大きく回復していることは素晴らしいことで、特にカナダからの訪日者数の顕著な増加は、両国の未来への大きな希望の一つであると思います。

本年4月には、いよいよ大阪・関西万博が開幕します。カナダのパビリオンは、自然や季節の変化をモチーフとして、河川の氷結と氷解を模した外観とともに、その内部では、文化的多様性、開放性、持続可能な社会に関する取組みなどが紹介される予定と聞いており、大変楽しみにしています。

当館は、カナダ西岸でブリティッシュ・コロンビア州およびユーコンを管轄しており、今後も引き続き、太平洋を挟んだ隣人として、政治、経済、文化、そして人と人との絆を一層深めるために責任ある役割を果たして参りたいと存じます。
新しい年が皆様にとって実り多き素晴らしい一年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。

在バンクーバー総領事 髙橋良明
令和7年 元旦 

山野内勘二 駐カナダ大使より新年のごあいさつ

日加トゥデイ読者の皆さま、

 明けましておめでとうございます。

 皆さまにおかれましては、輝かしい新年をお迎えのこととお喜び申し上げます。

 2024年を振り返りますと、カナダでは女子柔道オリンピック選手のクリスタ出口選手がカナダ柔道界初の金メダルを獲得したほか、両国に目を向けると、人工知能(AI)の父と称されるカナダのジェフリー・ヒントン・トロント大学名誉教授がノーベル物理学賞を、日本原水爆被害者協議会(日本被団協)がノーベル平和賞をそれぞれ受賞するなど、喜ばしいニュースがありました。特に、クリスタ出口選手は、日本にも深い繋がりのある選手であり、その活躍に注目しておりました。また、2024年のカナダにおける世論調査によれば、カナダ国民にとって最も好感度が高い国は日本とのことです。日本大使として大変嬉しいニュースとして受け止めています。

 世界を見渡すと様々な厳しい事態が各地で発生しており、刻々と変化する世界情勢の中、日本とカナダは、自由、民主主義、人権、法の支配といった基本的価値を共有する極めて重要な二国間のパートナーとして、また、G7メンバーとして、緊密な協力を行ってきています。

 今日の日加関係は、外交、安全保障、政治、経済、文化交流の各分野において、協力の進展が確認されています。この1年間で首脳会談が3回実施され、インド太平洋情勢への対応や電気自動車やLNG等の経済分野での両国の連携強化を確認しました。また、両外相においても、相互の訪問を含め、頻繁に会談を行い、有意義な意見交換を重ねています。

 2023年9月の経済産業大臣のオタワ訪問時に行われた、蓄電池サプライチェーン及び量子・AI等の産業技術に関する協力覚書の署名を契機として、2024年は日本企業によるカナダでの投資も様々な動きが見られました。例えば、世界が2050年ネットゼロ社会の実現を目指す中での重要な取組として、旭化成を含むホンダのカナダにおける電気自動車に係わる包括的バリューチェーン構築構想は、カナダにとって史上最大規模の投資プロジェクトでもあり、非常に大きな存在感を示しています。

 2025年はカナダがG7議長国を務めますが、激動の国際社会において一層重要な役割を果たすことを期待しています。また、日本から首脳・閣僚を含む多くの関係者がカナダを訪れる機会にもなりますので、この機会を生かして、両国の様々な交流が更に深化することを期待しています。

 また、日本では2025年大阪・関西万博が開催されます。カナダは「再生」(Regeneration)をコンセプトとした、春の訪れをイメージした素敵なパビリオンを出展されます。パビリオン内ではカナダ人の温かさ、開放性、前向きな姿勢が表現され、カナダの革新性、多様性、創造性、持続可能な社会に関する取組を体験できるとのことです。カナダからの訪日観光客数は年々増加していますが、更に多くの方々に訪れていただき、ここから新たな日本とカナダのコラボレーションのきっかけが生まれ、日加関係が一層深まることに期待したいと思います。

 2025年においても、日本とカナダとの関係を更なる高い次元に引き上げられるよう、日本大使館としても、より一層力強く取り組んでまいります。

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