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Naomi Mishima

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祝*成人式2025~新成人の皆さまへ

ご成人、おめでとうございます。 心よりお祝い申しあげます。
東漸寺では、ご成人になられた皆さまのご健康とご健闘を願いまして、合同の法要を行います。
是非、ご家族お揃いでお越しくださいませ。

東漸寺

成人式合同法要:日時 1月19日(日曜日) お経読開始:午後1時半
住所:209 Jackson street Coquitlam,B.C. Canada V3K 4C1

早めにいらして本堂でお待ちください。
お名前のお読み上げをご希望の方は、事前にフルネームをお知らせください。

●日本の成人年齢が、2022年4月から18歳に引き下げられました。

東漸寺では、グローバルスタンダードに合わせまして、18歳、19歳、20歳の皆さまに対応させていただきます。
(日本での成人年齢につきましては参照をご覧ください。)

●合同の法要になります。お布施はお心入りとして$30〜donatiionをお願いしております。

表面に「お布施」裏面にお名前とご住所を書いて現金でご持参ください。
(お名前の読み上げをご希望の方は、受付にてお知らせください。$50~donatiionをお願いしております)

●和の学校@東漸寺では、着物レンタル、着付サービス及び写真撮影をさせていただきます。料金は別途となります。

お見積をご希望の方は、ともこまでお問い合わせくださいませ。 お問い合わせ、お申し込みは コナともこ 

和の学校@東漸寺 tands410@gmail.com 
ホームページ https://wanogakkou.jimdofree.com/

<Tozenji Temple>東漸寺関係

Japanese culutre school 和の学校@東漸寺Homepage https://wanogakkou.jimdofree.com

Japanese culutre school  和の学校@東漸寺Instagram https://www.instagram.com/wa_no_gakkou_tozenji

Japanese culutre school  和の学校@東漸寺Facebook https://www.facebook.com/profile.php?id=100069272582016

Tozenji東漸寺Homepage https://tozenjibc.ca

  <Kona Kimono Service>着物関係

コナ着物サービス
(小長谷朋子ピーターズ)

*着付教室*着物レンタル*着付け&和装ヘアーメイク*

e-mail tands410@gmail.com

Facebook https://www.facebook.com/tomoko.kona.98

Instagram https://www.instagram.com/konatomoko/?hl

Kimono column (Sorry only Japanese language)
毎月、季節と着物について綴っております。

https://www.japancanadatoday.ca/category/column/kona-kimono-story

ラインやメッセンジャーでも受け付けております。
LINE(ラインは修理中です)
朋子ライン QRコード.jpg
MESSENGER  
Tomoko Kona or Tomoko Konagaya Peters

《参照》
日本文化研究ブログ
【2024年】成人式はいつ・何をする?年齢は何歳?行かないと後悔する? – 日本文化研究ブログ https://jpnculture.net/seijinshiki/

JALTA主催第25回お話発表会のお知らせ

JALTA 日本語教育振興会は第25回お話発表会を行います。
JALTA所属の日本語学校から代表者が集まり日本語でスピーチを行います。
どうぞ応援にお越しください。そして温かい励ましの拍手を参加者に贈ってください。


日時:2月9日 日曜日  午後1時から
場所:バンクーバー日本語学校並びに日系人会館ホール
487 Alexander St. Vancouver, BC
入場:無料

自力整体 2025年1月~4月

ご自身の身体と向き合う時間、身体と対話する時間、そんな時間を持つことが、病気の予防・治療効果につながります

『最新の自力整体をお届け致します』

★日系センター対面Real教室   単発参加・初心者参加も大いに歓迎 !

◎金曜日クラス 1月10日(金) ・24日(金) AM10:30~11:30

19日(日)日曜日90分ゆっくりクラス AM11:30~13:00

◎金曜日クラス  2月7日(金) ・21日(金) AM10:30~11:30

16日(日)日曜日90分ゆっくりクラス AM11:30~13:00 

◎金曜日クラス 3月7日(金) ・21日(金)  AM10:30~11:30

16日(日)日曜日90分ゆっくりクラス AM11:30~13:00 

◎金曜日クラス 4月11(金) ・25日(金) AM10:30~11:30

20日(日)日曜日90分ゆっくりクラス AM11:30~13:00  

★Web教室 (好評配信中❢❢❢)  サンプル動画あります

(月)・(木)の夕方クラス

(木)・(土)の朝のクラス

(週1回、1回90分 休憩時間5分込み)

★Zoom配信ではなく、Web苦手な方も簡単❢ さらに効果的★

詳細・お問い合わせはお気軽に、、、
☎ 604‐448-8854
jirikiseitai.canada@gmail.com 
Webサイト https://jirikiseitai-canada.jimdofree.com/

「笑いヨガ」で初笑い ~笑いながら全身を鍛えよう~

謹んで新春をお祝い申し上げます。旧年中は、「日本語認知症サポート協会」の講演会等にご参加いただき、誠にありがとうございました。

今年のお正月も、ご家族やご友人と共に、楽しくお過ごしになられた事と思いますが、お腹の底から笑いましたか?

私たちは、大人になり歳を重ねるほど、笑わなくなります。子供は、1日におよそ400回も笑うのに、大人は10回から20回。その回数は、歳を重ねるほど減っていくそうです。

笑いを体操にした「笑いヨガ」。2025年も、これまで通り「オンライン de Café」にて続けていきます。免疫力の向上、血行促進、脳の働きの活性化、自律神経のバランス調整、リラックス効果、ストレス解消など、「笑いヨガ」には様々な健康効果がありますが、とにかく楽しく笑い、幸先良く一年をスタートしましょう。

奮ってご参加ください。

~  ~  ~  ~  ~  ~  詳細  ~  ~  ~  ~  ~  ~

「オンライン de Café
「笑いヨガ」で初笑い ~笑いながら全身を鍛えよう~

日時:  

カナダ: 2025年1月23日(木) 午後8時から午後9時

日本: 2025年1月24日(金) 午後1時から午後2時

会場:Zoom参加費: 無料

参加申し込み:https://forms.gle/r5qcGcs672hH3JKo7

申し込み締め切り:2025年1月21日(火)

お問い合わせ:orangecafevancouver@gmail.com

主催:日本語認知症サポート協会(Japanese Dementia Support Association)

*お申し込みいただいた方には、開催日前日までに、当日の参加方法をご案内いたします。

「カナダ“乗り鉄”の旅」第20回 異色の「トランプ」案件!?心温まるVIA鉄道カナダの命名劇

カナダの首都オタワ駅に停車中の、トロントと結ぶVIA鉄道カナダの列車(2024年2月21日、大塚圭一郎撮影)
カナダの首都オタワ駅に停車中の、トロントと結ぶVIA鉄道カナダの列車(2024年2月21日、大塚圭一郎撮影)

大塚圭一郎

 アメリカの前大統領の要職にありながら数多くの暴言を吐いて国民を「分断」させ、2020年の大統領選での敗北を受け入れずに連邦議会議事堂の襲撃事件を扇動したとして刑事被告人になったドナルド・トランプ氏が今月20日に復帰する。隣国カナダが「アメリカの51番目の州になるのは素晴らしいアイデアだ」と併合への意欲を示したり、地元先住民のたっての希望で改名されたアメリカ西部アラスカ州の北米大陸最高峰デナリ(標高6190メートル)を旧称の「マッキンリー」に戻す意向を表明したりと、相手の自尊心を平然と傷付ける傲岸不遜な姿勢にはただあきれるしかない。しかし、同じ「トランプ」つながりでも、VIA鉄道カナダの手にかかるとこれほどまでに心温まる命名劇へと一変する―。

【VIA鉄道カナダ】カナダの都市間旅客列車を運行する国営企業。本社は東部ケベック州モントリオール。現在は貨物鉄道に特化しているカナディアン・ナショナル鉄道(CN)とカナディアン・パシフィック・カンザス・シティー(CPKC)が切り離した旅客鉄道事業を引き継ぎ、1977年に発足した。カナダ10州のうち東部ニューファンドランド・ラブラドル州、プリンスエドワードアイランド州を除く8州を走る。慢性的な赤字で、2023年12月期決算の本業の損益を示す営業損益は5億1220万カナダドル(約562億円)の赤字だった。VIA鉄道カナダは貨物鉄道が保有する線路を借りて列車を走らせているため、優先される貨物列車のあおりを受けて遅れることが多い。

側線の名称が「チェルシー」に改名

 VIA鉄道の旅客収入の約8割を稼ぎ出している主力区間が「ケベックシティー―ウィンザー回廊」だ。カナダ東部のオンタリオ州のウィンザー、国内最大都市のトロント、首都オタワ、ケベック州モントリオール、ケベックシティーなどをつないでおり、VIA鉄道としては比較的多くの列車が走るため利便性が高い。

ブロックビルの駅名標(2024年2月21日、大塚圭一郎撮影)
ブロックビルの駅名標(2024年2月21日、大塚圭一郎撮影)

 とりわけトロント―オタワ間とトロント―モントリオール間の列車は中核で、これらの一部が停車するのがブロックビル駅(オンタリオ州)だ。駅の近くにあり、列車が待避する際に使われる側線の名称が2022年12月、近くの通りにちなんだ「スチュワート」から「チェルシー」へ改名された。側線の脇には、白地に黒い文字で「VIA Chelsea」と記した看板が立てられた。

 「チェルシー」は近くに住む女性、チェルシー・カデューさんの名前に由来する。カナダ放送協会(CBC)などによると、難病のスタージ・ウェーバー症候群を患っているチェルシーさんは治療を受けるためにトロントまで列車に乗っていた。それがきっかけに鉄道好きとなり、2010年ごろから父親に連れられてブロックビル駅の周辺を訪れ、VIA鉄道の列車を引っ張るディーゼル機関車を運転する機関士らとあいさつするのがほぼ日課となった。

ブロックビル駅前の様子(2024年2月21日、大塚圭一郎撮影)
ブロックビル駅前の様子(2024年2月21日、大塚圭一郎撮影)

 チェルシーさんが決まって持ち歩いているのがトランプだ。機関士にトランプの中からお気に入りのカードを選んでもらうと、チェルシーさんはそれを暗記した。そして機関士が列車を動かしてやって来た次の機会には、お気に入りのカードを高く掲げてあいさつするようになった。

 例えば「ジャック(J)とスペード」のカードが好きな機関士が運転する列車が近づいてきた場合、チェルシーさんは「Jとスペード」のカードを機関車の方に見せる。すると、自分の好きなカードを覚えてもらった機関士は喜び、警笛を鳴らして応じるという光景が日常化した。

列車無線から日々名前が

 難病を患っても前向きな気持ちを忘れず、笑顔で出迎え続けてきたチェルシーさんにVIA鉄道の機関士らは「特別な贈り物」を用意することを会社側に提案した。それが側線の改名で、会社側はこのアイデアを受け入れた。

 側線に命名されると、列車無線でも「チェルシーに入線」などと名前を日々呼ばれることになる。機関士らの善意を理解した会社側に対し、携わった機関士からは「これは大変なことで、会社側の決断に敬意を表する」との声が出た。

 2022年12月21日に現地で新たな看板の除幕式が開かれた。VIA鉄道のマイケル・ブランクリー鉄道事業担当副社長は「私たちは地域社会と周囲の人々の生活に良い影響を与えることを目指している」と説明し、機関士らとチェルシーさんとの交流はその模範例になっているとの認識を示した。

 一足早いクリスマスプレゼントを受け取った形のチェルシーさんは「ありがとう」と謝意を表明。「素晴らしい機関士の皆さんと会い、話していると本当にうれしくなる」と強調し、トランプを携えて機関士らの出迎えを続けると語った。

 機関士のマイク・オリファントさんは、チェルシーさんの姿を見ることが「私の行程のハイライトになっている」と笑みを浮かべた。そして「チェルシーさんは常にハッピーで、前向きなエネルギーであふれている。率直に言って、世界にはチェルシーさんのような人がもっと必要なんだ」と力説した。

アメリカでは元国務長官の名前を埋葬!?

 翻ってアメリカでは2024年4月に共和党所属の下院議員7人が、全日本空輸(ANA)の羽田空港と結ぶ直行便も発着している首都ワシントン近郊のワシントン・ダレス国際空港(バージニア州)を「ドナルド・J・トランプ国際空港」へ改名する法案を出した。

アメリカの首都ワシントンの近郊にあるワシントン・ダレス国際空港の旅客ターミナル(2024年2月20日、大塚圭一郎撮影)
アメリカの首都ワシントンの近郊にあるワシントン・ダレス国際空港の旅客ターミナル(2024年2月20日、大塚圭一郎撮影)

 ダレス空港はアイゼンハワー政権で国務長官を務めた故ジョン・ダレス氏の功績をたたえて名付けられている。ダレス氏に対する敬意の象徴を葬り、価値があるとは到底思えないトランプ氏のために“強奪”しようというのだから開いた口がふさがらない。トランプ氏の歓心を買おうとして法案を出した茶坊主議員も、改名案について「とても光栄だ」と交流サイト(SNS)に臆面もなく書き込んだトランプ氏も何と恥知らずで、何と浅ましく、何と卑しいことかと怒りを通り越してあきれるほかない。

 VIA鉄道のブロックビル駅の近くに設置された「VIA Chelsea」の看板は、「トランプ」つながりであってもダレス空港の改名法案とは対極的な真の友情と思いやり、そして心からの敬意が込められている。

 「アメリカ第一主義」を掲げて他国からの輸入品に高い関税を課すと脅し、経済力を行使してカナダを併合するという暴言でカナダ人の顔に泥を塗るトランプ氏が世界最大の経済大国のリーダーに返り咲く世界は「分断」が進み、閉塞感が高まるのではないかと深く憂慮せざるを得ない。

 そんな闇が浮き彫りになればなるほど、看板に記されたチェルシーさんの名前は輝きをさらに増していくことになりそうだ。そして、「世界にはチェルシーさんのような人がもっと必要なんだ」というオリファントさんのメッセージを世界に問いかけていくことになるのではないだろうか。

【筆者より】新年あけましておめでとうございます。本年も「カナダ“乗り鉄”の旅」をご愛読賜りますよう、どうぞよろしくお願いいたします。本稿に示された視点や見解は筆者個人のものであり、所属する組織や日加トゥデイを代表するものではありません。

共同通信社元ワシントン支局次長で「VIAクラブ日本支部」会員の大塚圭一郎氏が贈る、カナダにまつわる鉄道の魅力を紹介するコラム「カナダ “乗り鉄” の旅」。第1回からすべてのコラムは以下よりご覧いただけます。
カナダ “乗り鉄” の旅

大塚圭一郎(おおつか・けいいちろう)
共同通信社経済部次長・「VIAクラブ日本支部」会員

1973年、東京都生まれ。97年に国立東京外国語大学外国語学部フランス語学科を卒業し、社団法人(現一般社団法人)共同通信社に入社。2013~16年にニューヨーク支局特派員、20~24年にワシントン支局次長を歴任し、アメリカに通算10年間住んだ。24年9月から現職。国内外の運輸・旅行・観光分野や国際経済などの記事を多く執筆しており、VIA鉄道カナダの公式愛好家団体「VIAクラブ日本支部」会員として鉄道も積極的に利用しながらカナダ10州を全て訪れた。

 優れた鉄道旅行を選ぶ賞「鉄旅(てつたび)オブザイヤー」(http://www.tetsutabi-award.net/)の審査員を2013年度から務めている。共同通信と全国の新聞でつくるニュースサイト「47NEWS(よんななニュース)」や「Yahoo!ニュース」などに掲載されている連載『鉄道なにコレ!?』と鉄道コラム「汐留鉄道倶楽部」(https://www.47news.jp/column/railroad_club)を執筆し、「共同通信ポッドキャスト」(https://digital.kyodonews.jp/kyodopodcast/railway.html)に出演。
 本コラム「カナダ“乗り鉄”の旅」や、旅行サイト「Risvel(リスヴェル)」のコラム「“鉄分”サプリの旅」(https://www.risvel.com/column_list.php?cnid=22)も連載中。
 共著書に『わたしの居場所』(現代人文社)、『平成をあるく』(柘植書房新社)などがある。東京外大の同窓会、一般社団法人東京外語会(https://www.gaigokai.or.jp/)の広報委員で元理事。

日系カナダ人物語「記憶を次世代へ」:キクコ・タサカさん「日系コミュニティへの思い」

Ms. Kikuko Tasaka/キクコ・タサカさん
Ms. Kikuko Tasaka/キクコ・タサカさん

キクコ・タサカさん

1939年ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市スティーブストン生まれ
1942年グリーンウッドに移動、1958年頃にバンクーバーに戻る
父方は愛媛県、母方は和歌山県三尾村出身

グリーンウッドでの生活

 タサカさん一家は1942年にスティーブストンからグリーンウッドに移動した。父親は、強制収容前はスティーブストンで床屋をしていたという。「とても大きなすてきなビルだったけど、建ったあと移動させられたから」。タサカさんが3歳の時だった。

Greenwood

 グリーンウッドはブリティッシュ・コロンビア(BC)州中央南部、バンクーバーから東に約400キロメートルのアメリカとの国境に近いところに位置している。自己支援強制収容地の一つだが、他の収容地と異なり、強制移動させられる日系カナダ人を町として積極的に受け入れた。さらにカトリック教会のベネディクト・クイグリー神父やフランシスコ会の修道女も日系人の支援に大きな役割を果たしている。

 タサカさんは「悪いことは全然経験していないの」と話し始めた。グリーンウッドには大工が先に入り、ベッド、テーブル、イス、そして日本式風呂など生活に必要なものを作って準備していたと振り返る。

 ただ「最初の年は寒かったの。バンクーバーは暖かかったけど、グリーンウッドは山の中だからすごく寒かった」。寒さは、軍の古いブランケットやユニフォームを買ってきて活用してしのいだ。「そうやって過ごしたのね、何もなかったから」。

 それでもグリーンウッドでの生活は楽しかったという。学校もすぐに始まった。フランシスコ会の修道女が運営していた。「その学校もすごく良かったの。グレード8まであって。(就職のための)タイピングなども教えてくれたの」。

 町では日本の祭りもあった。「日本人は着物を着て、踊りもあった。日本人の人たちは芝居もしたりしてよかったよ」。町が積極的に日系人を受けて入れていたことで、日系人コミュニティができていた。

 「グリーンウッドの田舎に日本人が来てくれて白人の人たちは喜んでた。日本人が来てからカルチャーやいろんなことを教えてくれて、フェスティバルもしてくれて、いろんなことをしてくれたから、みんな良かったと喜んでた」。

 タサカさんの両親は強制収容が終了してもグリーンウッドから離れなかったという。「グリーンウッドみたいに良い町はないって言って喜んでね」。

バンクーバーでの差別を乗り越えて

 グリーンウッドで約15年暮らしたあとバンクーバーに戻ってきた。18歳くらいで仕事を探しにバンクーバーに戻る人は多かったと振り返る。「グリーンウッドに仕事がなかったから」。タサカさんもその一人だった。

 すでに1950年代後半になっていた。強制移動は1949年に終了。日系人は自由に移動ができた。それでもバンクーバーに戻ってきた当時の「差別だけは忘れられない」と言う。「こっち(バンクーバー)の人たちは私たちを下に見てたのね。みんなではなかったけど、いい人もいたけど。みんなで我慢した。我慢しかなかったのね。差別は本当に大変だった。差別されていると思ったら嫌だった。ひどい人もいたけど、しょうがなかった」。

 タサカさんは日系カナダ人二世の多くが日本語を使わないのは、差別も関係していると思うと話す。「みんな(バンクーバーに)帰ってきた時は日本語を使いたくなかった。なるべく英語を使って。差別されているから日本人って見せたくなかったのね。その時はしょうがなかったのね」。いま二世の人たちと話すと「日本語を使っていたらよかったって」。後悔している人もいると感じている。

 三世のタサカさんは流暢な日本語を話す。グリーンウッドでは日本語を使っていた。「親たちは英語ができないから日本語を使っていたの」。それにグリーンウッドでは日系人が多かったこともあり差別を感じなかった。「でもバンクーバーに帰ってきた時は社会が違ったから日本語を使えなかったの」。

 それでもバンクーバーでは同年代で自分たちのコミュニティを作り、時々集まって、ダンスパーティや祭りを楽しんだ。「悪くなかったよ、差別はあったけど。我慢してがんばりました」。当時の友達は60年たったいまでも続いているという。

日系コミュニティへの思い

 「いまでも私の中では(自分は)日本人だと思っている。どこにいても。もう三世になるのにね」。父方の祖父が1890年に愛媛県から移民。バンクーバーの対岸にあるバンクーバー島南部に近い島ソルトスプリングス・アイランドでビジネスをしていた。父親はソルトスプリングス・アイランド生まれ。母方の祖父は和歌山県三尾村出身。「私たち親から(日本の)良いところたくさんもらってるから。だからそれを絶対なくしたくないのね」。

 また日本から来る多くの日本人と関わっているタサカさんは「日本の人たちは、なんて言ったらいいのかな…英語で言うとKind、Considerate」、親切で思いやりがあると話す。カナダで生まれカナダで育ちカナダ人と多く付き合いがあるが、「なぜか分からないけど、日本の人たちとの付き合いの方が居心地いいの。そんなことを言ったら怒られるかもしれないけどね」と笑う。

 タサカさんは隣組でボランティア活動をしている。隣組は1970年代に当時英語が分からなかった一世や二世のシニアを助けるために設立された日本語ボランティア団体。いまでも、シニアを中心に日本語でのサービスを多く提供している。

 「きょう私はインタビューを日本語でしたかったの」。一つは日本語を話す勇気をなかなか持てない二世たちを応援する意味で、そしてもう一つは、日系収容で苦労した一世、二世たちのことを知らない日本からの人たちに直接日本語で伝えるため。

 「時々、一世、二世の人たちの苦労が分からない人たちがいるの。だから移民してきている日本の人たちにも知ってほしいの、一世たちが経験したことを」。1942年から始まったカナダ政府による日系カナダ人強制収容政策、日本の人にも知ってもらいたいと語った。

(記事 三島直美)

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“Stories of Japanese Canadians: Memories for the Future Generation” Ms. Kikuko Tasaka

Ms. Kikuko Tasaka/キクコ・タサカさん
Ms. Kikuko Tasaka/キクコ・タサカさん

“Valuing the Japanese Canadian Community”

Ms. Kikuko Tasaka

Born in 1939, Steveston, British Columbia
Moved to Greenwood in 1942, back to Vancouver in 1958
Paternal grandfather originally from Ehime Prefecture, maternal grandfather originally from Mio, Wakayama Prefecture

Life in Greenwood

The Tasaka family relocated from Steveston to Greenwood in 1942. Before the internment, Ms. Tasaka’s father was a barber in Steveston. “We had a big and nice building, but we were relocated shortly after it was built,” she said. Ms. Tasaka was three years old at the time.

Greenwood, located in the central-southern part of British Columbia, near the American border, and about 400 kilometres east of Vancouver, was one of the government-supported internment sites. Unlike other camps, Greenwood welcomed Japanese Canadians who were forcibly relocated from Vancouver. Franciscan Friar Benedict Quigley and Franciscan Sisters played significant roles in supporting the Japanese Canadian community there.

Greenwood

“I didn’t have any bad experiences at all in Greenwood,” Ms. Tasaka recalled. She noted that carpenters arrived in Greenwood ahead of the internees to build essential items like beds, tables, chairs, and even Japanese-style baths to prepare for their arrival.

However, there were challenges. “The place was cold in winter in the first year because Vancouver was warm. Greenwood was deep in the mountains, so it was really cold,” she remembered. To cope, they used discarded military blankets and uniforms they purchased. “That’s how we managed because we had nothing.”

Despite the initial hardships, Ms. Tasaka found life in Greenwood enjoyable. School began promptly, run by Franciscan nuns. “That school was very good. It went up to Grade 8, and they even taught us skills like typing for jobs,” she said.

The community also organized Japanese festivals. “People wore kimonos, and there was dancing. The Japanese Canadian community also put on plays, and it was really fun,” she added. They formed a strong community because the town accepted Japanese Canadians. “The hakujin (white) residents of Greenwood were happy to have Japanese Canadian people come. They were pleased because the Japanese shared their culture, taught various things, and organized festivals. Everyone was glad.”

Even after the internment ended, Ms. Tasaka’s parents chose not to leave Greenwood. “They were happy, saying there was no town as good as Greenwood,” she said.

Overcoming Discrimination in Vancouver

After living in Greenwood for about 15 years, Ms. Tasaka returned to Vancouver. She recalls that many people left Greenwood around the age of 18 to look for work. “There were no jobs in Greenwood,” she explained. She was one of them.

By then, it was the late 1950s. Although the internment officially ended in 1949 and Japanese Canadians were free to move as they pleased, Ms. Tasaka says she will never forget the discrimination she faced upon returning to Vancouver. “The people here looked down on us. Not everyone—there were good people, too—but we all had to endure it. We had no choice but to endure it. The discrimination was really tough. It was painful to feel discriminated against. Some people were terrible, but there was nothing we could do.”

She believes the widespread discrimination contributed to why many Nisei (second-generation Japanese Canadians) stopped using the Japanese language. “When everyone came back to Vancouver, they didn’t want to speak Japanese. They tried to use English as much as possible,” she said. “Because of the discrimination, they didn’t want to show they were Japanese. At the time, we had no choice.” Now, when she speaks with other Nisei, she senses some regret in their voices as they say, “I wish I had kept speaking Japanese.”

As Sansei (third-generation Japanese Canadian), Ms. Tasaka speaks fluent Japanese. She attributes this to her upbringing in Greenwood, where they spoke Japanese at home and within the community. “Our parents couldn’t speak English, so we used Japanese,” she adds. In Greenwood’s large Japanese Canadian community, she didn’t feel discrimination there. “But when we returned to Vancouver, society was different, and we couldn’t use Japanese.”

Despite the challenges, she and her peers formed their own community in Vancouver. They gathered occasionally and enjoyed dance parties and festivals. “It wasn’t so bad, despite the discrimination,” she said. “We endured and did our best.” She added that they are still friends after 60 years.

Valuing the Japanese Canadian Community

“I still think of myself as Japanese, no matter where I am—even though I’m already a third-generation Japanese Canadian,” Ms. Tasaka said. Her paternal grandfather immigrated from Ehime Prefecture in 1890. He ran a business on Salt Springs Island, near the southern part of Vancouver Island. Her father was born there. Her maternal grandfather came from Mio, a village in Wakayama Prefecture. “Our parents passed us so many good aspects of Japanese culture. I never want to lose that.”

Ms. Tasaka, who often interacts with people visiting from Japan, shared, “I don’t know how to put it…in English, I’d say they are ‘kind’ and ‘considerate.’” Although she was born and raised in Canada and engages with other Canadians, she admitted, “I don’t know why, but I feel more comfortable with Japanese people. Maybe I shouldn’t say that, but it’s true,” she added with a laugh.

She volunteers at the Tonari Gumi, a Japanese-language volunteer organization founded in the 1970s to help issei (first-generation) and nisei seniors who struggled with English. Today, Tonari Gumi continues to provide Japanese-language services, mainly for seniors.

“I wanted to do today’s interview in Japanese,” she said. One reason is to inspire the Nisei, who often lack confidence in speaking Japanese. Another reason is to share the experiences of the Issei and Nisei, who endured hardship during the internment, directly with people from Japan who may be unfamiliar with their stories.

“Sometimes, people don’t understand the struggles (the) Issei and Nisei faced. I want immigrants from Japan to know what the Issei went through,” she explained. She hopes people in Japan take note and learn what happened to Japanese Canadians during and after the war.

(Text: Naomi Mishima)

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日系カナダ人物語「記憶を次世代へ」:エド・ハヤシさん「日本とのつながりを大切に」

Mr. Ed Hayashi/エド・ハヤシさん
Mr. Ed Hayashi/エド・ハヤシさん

エド・ハヤシさん

1937年4月、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市スティーブストン生まれ
1942年アルバータ州テイバーに移動、1950年まで滞在
両親は滋賀県出身

スティーブストンからアルバータ州南部へ

 エド・ハヤシさんが家族と共にスティーブストンを離れたのは1942年。行先はブリティッシュ・コロンビア(BC)州右隣アルバータ州南部のテイバーだった。スティーブストンで生活していた時のこともアルバータ州に移動した時のことも覚えていないという。

Taber, Alberta
Taber, Alberta

 「その頃はまだ小さかったから当時のことは覚えていません。BC州を離れたことも覚えていないです」

 テイバーで両親はシュガービート(テンサイ)農園で働いた。なぜアルバータ州だったのか?カナダ政府の指定した収容所はBC州に多くあった。ハヤシさんは「当時両親には4人の子どもがいてみんな1歳違いでした」とハヤシさんを筆頭に弟妹が3人いたと話す。「両親は家族で一緒に暮らしたかったからアルバータを選んだんだと思います」。シュガービート農園は人手を必要としていた。農園への移動を選んだ場合は家族一緒に移動できた。

 ただ生活環境が悪いことに他の収容所と変わりはなかった。「住んでいたのは社宅でしたが、掘っ立て小屋でした。すごく寒かったです。断熱材も電気もありませんでした」。暖房は石炭ストーブだけだった。「石炭ストーブとは石炭を使って家を温めるストーブのことで、暖房はそれしかありませんでした。石炭ストーブで覚えているのは、寒い日に母が石を持ってきて、その石をストーブに入れて温めて。それを古いブランケットで包んでベッドの横に置くんです。そうやって足を温めていました」

 そのストーブに乗せて沸いていた湯は翌朝には氷が張っていたことを覚えている。「それだけ寒かったってことですね」。アルバータ州テイバーの冬季の最低気温は平均で氷点下10度前後、寒い時には氷点下40度になることもある。そんな中で電気も断熱材もない掘っ立て小屋で家族6人が暮らしていた。それでも、「いい経験だったよね」と苦しさは表情には出さない。

 大変なのは暖房だけではなかった。「食べる物もあまりなかった」と振り返る。「自分たちで育てていたものを食べました。冬の間も保存できるものを育てていたと思います。父はだいたい週に1回買い物に出かけていました」。食料を買い出しに行く町までは2~3マイル(3~6キロメートル)離れていた。そこまで父親は古いトラックで出かけた。「出されたものをなんでも食べていましたね。食べ物のことで文句なんて言いません。とにかくテーブルにある物を食べる。そういう生活でした。大変でしたね」

差別を感じなかった子ども時代

 強制収容政策の中にあっても学校には通っていた。ハヤシさん自身はグレード1~3(小学1年~3年にあたる)まで通ったという。弟や妹も一緒に通った。通学手段は馬車。「あの頃、学校には馬車で通っていたのを覚えてますね」と笑う。生活環境は厳しかったが子どもとしては「色々と楽しいことをして遊んでいました」。

 「白人の友達」もいたと話す。「まだ子どもだったので戦争のことはよく分かりませんでした。だから子どもなりに楽しく過ごしていました」。

 日曜学校(サンデースクール)にも通っていた。日曜学校とはキリスト教会で日曜日に開かれる学校のこと。「子どもの頃にはサンデースクールに行ってました。毎週日曜日に女性が自分の車で迎えに来てくれて、テイバーのサンデースクールに連れて行ってくれました。毎週日曜日が楽しみでしたね。イエスキリストについても多くを学びました」

 学校に通っていた子ども時代を振り返り、特に日系カナダ人に対する差別は感じなかったという。「子どもだったから、たぶん差別は特になかったんじゃないかと思います」

バンクーバーへ

 カナダ政府は「戦時特措法」を解除。1942年4月1日から日系カナダ人はようやく国内を自由に移動できるようになった。

 ハヤシ一家は1950年までアルバータ州テイバーで生活し、同年バンクーバーへ戻る。そして漁師に戻りたいと考えていた父親がウエストバンクーバー市のグレート・ノーザン・キャナリーで漁師の仕事を見つける。

 「家族で(アルバータ州テイバーから)バンクーバーに戻る時には戻るためのお金がありませんでした。そこで父は叔母からお金を借りてバンクーバーに戻る資金としました」。借りた金は漁師として働いて返済した。アルバータでも、戻ってきてからも、両親は苦労したと振り返る。

 ウエストバンクーバーでは社宅で暮らした。他にも日系人家族が住んでいたと記憶している。ハヤシさんはといえば当時12歳。ウエストバンクーバーの学校に通った。キャナリーから通学していた日系人は自分たち兄妹だけだったという。クラスは全て「白人」だった。それでも特に「差別は感じなかった」と語った。

 その後、学校を辞め大工養成学校に1年間通い3年間の修行を終えて大工として働き始めた。その頃は日系カナダ人の大工に対する差別を感じたという。当時は組合に加入していると仕事ができたことから1957年に組合に加入。大工の仕事を見つけるのが大変な時代だったと振り返った。大工仲間に日系カナダ人の友人もいたがお互いに強制収容時代のことを話すことはなかったと語った。

カナダ政府の日系人強制収容政策について

 ハヤシさんは「リドレス運動」には直接参加しなかった。教養のある人たちが活動していたこと、1988年頃のこと、21,000ドルを受け取ったことを覚えている。

 カナダが日系カナダ人に取った政策について聞くと「残念なことだ」と語った。「日系カナダ人は全てをなくしたと思う。家もなくなったし、働くための漁船もなくしました。たくさんの物をなくして、それは二度と自分たちの元に戻ってはきませんでした」

 そして隣組が主催したというソルトスプリングアイランドへのツアーに参加した時のことを話し始めた。1800年代後半に日本から来た男性の話だ。「ずいぶん前に隣組のソルトスプリングアイランドへのツアーに参加しました。日本から来た日本人男性は500エーカーの土地を買ったそうです。今だったらすごい価値になっていると思います。でも彼には1セントも戻ってくることはありませんでした。それって恥ずかしいことだと思いませんか?」

 1800年代後半にはソルトスプリングアイランドに日本人が移住していた。漁業や農業をして暮らしていた聞いているという。でも「彼は全てを失った。とても残念なこと」。

 ハヤシさん一家は戦前社宅に暮らしていたため没収される家は持っていなかったという。ただ漁船は没収された。もちろん強制収容政策が終わってもそれが戻ってくることはなかった。

日本とのつながりを大切に

 初めて日本へ行ったのは1985年。45歳の時だった。大工の仕事をするために訪日したという。当時日本で家を建ててくれる大工を探しているという日本人「鈴木さん」とバンクーバーで知り合った。「少しは日本語ができたから」と笑いながら「西宮で家を建てる気はないか?」と誘われたという。

 「それで考えました。いまバンクーバーに住んでいるけども日本に行けるまたとない機会がやってきた。旅費はただ、しかもお金になる仕事…。と、そこでバンクーバーでの仕事をいったん閉めて日本に行きました。初めての日本でした」。それから3カ月滞在した。その時立てた家は今でも兵庫県西宮市に立っている。

 初めての日本の印象を聞くと「日本の人はすごく丁寧で、いい人で、色々と助けてくれました。私は日系カナダ人だから上手な日本語はできないけど、それでも仲良くなりました」。

 日本とのつながりは今でも続いている。現在はバンクーバー市にある「隣組」でボランティア活動をしている。隣組は1974年に設立された日系ボランティア団体。日系カナダ人強制収容政策から開放された後、日本語を母国語とする当時すでにシニアとなっていた日系一世を助けることが目的だった。「ボランティアをするのは好きですね。シニアを助けられるし。自分もシニアだけど、まだ体は十分に動くから」と笑う。

 子どもの頃には「家では日本語だったから」と両親から習ったという日本語は隣組でさらに磨きがかかっている。

 「隣組ではほとんどの人が日本語を話すんです。だから私もそれを聞きながら、上手くなってきてると思います。話すのも聞き取るのも」。インタビューの合間にも所々に日本語がこぼれる。

 日本文化については「守っていくべきだと思いますね。私たちは日系人ですから、それは大事なことだと思います」。文化の中には日本人としての態度も含まれる。「日本人は丁寧だし、ほとんどの人は正直者。ほとんどというのがミソだけど、その気質は大切にしたいです。私たちは、人が良くて、正直者で、そして働き者として知られてますからね」

 一生懸命働くことは両親から引き継いだ。自分も大工になって一生懸命働いてきた。家族を持ち、家を持ち、成功した人生だと思うと振り返る。両親はアルバータでも、バンクーバーに戻ってからも、苦労したと思いを馳せる。

 自分の子どもたちにも強制収容時代のことは伝えている。「子どもたちも私たちが厳しい時代を過ごしたことは知っています」。

 日系カナダ人に起こった事実を伝えていくことは重要なことだ。そして日系人であることについて、「私は日系カナダ人であることに誇りを持っています。今の自分があることを幸せに思います」と語った。

(記事 三島直美)

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“Stories of Japanese Canadians: Memories for the Future Generation” Mr. Ed Hayashi

Mr. Ed Hayashi/エド・ハヤシさん
Mr. Ed Hayashi/エド・ハヤシさん

“Embracing Our Japanese Heritage”

Mr. Ed Hayashi

Born in April 1937, Steveston, Richmond, British Columbia
Moved to Taber, Alberta in 1942, stayed until 1950
Retired carpenter
Parents originally from Shiga Prefecture

From Steveston to Southern Alberta

Mr. Ed Hayashi and his family left Steveston in 1942. Their destination was Taber, in southern Alberta. Mr. Hayashi says he doesn’t remember much about living in Steveston or moving to Alberta.

Taber, Alberta

“I don’t remember because I was quite young at that time. So, I don’t remember leaving BC,” he said.

In Taber, his parents worked on a sugar beet farm. Why Alberta? Many of the government-supported internment camps were in BC, but Mr. Hayashi explained, “At that time, my parents had four kids. We were all one year apart.” He was the oldest, with three younger siblings. ” My parents want us to live together. And that’s why I think they chose to move to Taber, Alberta.” Sugar beet farms needed workers, and families who chose to relocate to the farms were allowed to move together.

However, the living conditions were not much better than in the internment camps. He recalled, “We lived in a company house. It was a shack. Now, those days were very cold and no insulation, no electricity.” The only source of heat was a coal stove. “It’s a stove where you have to put coal in and then heat the house. That’s all we had for heat. I remember very cold days, my mother used to have a rock, and put it on the stove and heat the rock up. And then use old blankets around the rock. And, put it beside the bed so we can keep our feet warm.”

He remembers that the water boiling on the stove would freeze over by the next morning. “That’s how cold it was,” he said. In winter, temperatures in Taber averaged around minus 10 degrees but could drop as low as minus 40. Despite those conditions, the six family members lived in a small shack without electricity or insulation. Even so, he added, “It’s a good experience of this,” with no trace of hardship on his face.

Heating wasn’t the only challenge. “There wasn’t much food,” he recalled. “We ate what we grow. I think we grew things that (would) last during the winter. My dad used to go maybe once a week shopping then. Everybody’s grocery there.” The nearest town for grocery shopping was 2 to 3 miles (about 3 to 6 kilometres) away, and his father would make the trip in an old truck. “We ate what we got. We’re not very fussed about food. We ate what was on the table. So that’s how we lived.”

A Childhood Without Feeling Discrimination

Even during the internment period, Mr. Hayashi attended school. He went from Grades 1 to 3, along with his younger siblings. They got to school by horse-drawn buggy. “I remember going to school on a horsing buggy those days,” he smiled. Although living conditions were harsh, as a child, “We enjoyed some of the things we played on the field.”

He even had a white friend. “We were small. We didn’t know too much about the war, you know? So, we had a good time, I guess in some ways,” he added.

He also attended Sunday school. “When we were small, we went to Sunday school,” he remembered. “Every Sunday, there used to be a lady that came to pick us up on her car. And take us to Sunday school in Taber, Alberta. So, we look forward to going to Sunday school. So, we learn more about Jesus Christ.”

Looking back on his school days, he doesn’t recall experiencing any particular discrimination against Japanese Canadians. “We were kids so I guess we didn’t have that much discrimination,” he reflected.

Back to Vancouver

In April 1949, after the Canadian government lifted the restriction, and Japanese Canadians were finally allowed to move freely in the country. The Hayashi family lived in Taber until 1950, when they returned to Vancouver. Mr. Hayashi’s father, who wanted to return to fishing, found a job at the Great Northern Cannery in West Vancouver.

“When we came back, in fact, we didn’t have no money to come back,” he said “So, my dad had to borrow money from his aunt to come back from Alberta to Vancouver.” His father repaid the borrowed money by working as a fisherman. Mr. Hayashi recalls that his parents faced hardships, both in Alberta and after returning to Vancouver.

In West Vancouver, they lived in a company house. He remembers that other Japanese Canadian families also lived there. At that time, Mr. Hayashi was 12 years old and attended school in West Vancouver. He and his siblings were the only Japanese Canadians attending from the cannery. All his classmates were white, but even so, he said he didn’t particularly feel any discrimination.

Later, he left school and attended a carpentry training program for a year. After completing three years of apprenticeship, he started working as a carpenter. During that time, he felt discrimination against Japanese Canadian carpenters. Since being a union member was essential for finding work, he joined in 1957. He recalls that it was a challenging time to find carpentry jobs. Although he had Japanese Canadian friends among his fellow carpenters, they never spoke about the internment period.

On the Canadian Government’s Internment Policy for Japanese Canadians

Mr. Hayashi did not directly participate in the “Redress Movement.” He remembers that well-educated individuals led the movement around 1988 and that he received $21,000 as part of the redress settlement.

When asked about the Canadian government’s internment policies toward Japanese Canadians, he said, “That’s a shame.” He added, ” I think Japanese Canadians lost everything. They lost their house. They lost your fishboat to where they work to make a living. They lost a lot, a lot of things that we never got back.”

He then shares a story about a tour he took to Salt Spring Island, organized by Tonari Gumi (Japanese Community Volunteers Association). He speaks about a Japanese man who had arrived in the late nineteenth century. “Tonari Gumi had a trip to Salt Spring Island on a tour, not very long ago and I went on that tour. And this Japanese man from Japan had 500 acres he bought. Now it’s worth a lot of money. And he never got a penny back. Isn’t that a shame?”

In the late nineteenth century saw Japanese immigrants settled on Salt Spring Island, making living through fishing and farming. But Mr. Hayashi added, “(They) lost everything. So that’s a shame.” Before the war, the Hayashi family lived in a company house, so they didn’t own a house that could be confiscated. However, their fishing boat was taken, and even after the internment ended, it was never returned.

Embracing Our Japanese Heritage

Mr. Hayashi’s first trip to Japan was in 1985, at the age of 47. He went to work as a carpenter. In Vancouver, he met a Japanese man named Mr. Suzuki, who was looking for someone to build a house in Japan. “I could speak a little Japanese,” he laughed, recalling how he was asked, “Would you be interested in building a house in Nishinomiya?”

He continued, “I start thinking myself, I’m living right now in Vancouver and got a good opportunity to go to Japan. A free trip and you get money coming from Japan. So, my job here closed down. I went to Japan. The free trip and make money at the same time and see Japan, what an opportunity.” He stayed for three months, and the house he built still stands in Nishinomiya, Hyogo Prefecture.

When asked about his first impression of Japan, he said, “Japanese people are very polite, you know, very polite people. And very nice and they try to help. I’m Japanese-Canadian. I don’t speak too good of Japanese. I got along.”

His connection with Japan continues to this day. He currently volunteers at “Tonari Gumi”, a Japanese Canadian volunteer organization in Vancouver founded in 1974. Its purpose is to assist the first-generation Japanese immigrants who, after being released from internment, were already seniors and spoke Japanese as their native language.

“I like to volunteer. I help seniors. I still help seniors. I’m senior myself. But, I’m still pretty active,” he chuckled.

He learned his Japanese from his parents. “I learned from my parents. We were talking at home so I picked it up.” It has been further polished through his work with Tonari Gumi. He added, “They speak mostly (Japanese). So, I picked it up and then I kind of get better. Every time I go out, I speak, you know, I can hear them speaking and I can understand what they are talking about.” Throughout the interview, Japanese phrases slip into his conversation.

As for Japanese culture, Mr. Hayashi believes it’s something to be preserved. “I think we should keep our culture. It’s very important that we’re still Japanese. We have culture. I think we should keep it up.” This includes the attitudes associated with being Japanese. “The Japanese people are very polite”, he continued. “And most of them are honest people. I’m saying most. And I like to keep it that way. We’re well known for good people, honest people, and hard-working people.”

Working hard is a value he inherited from his parents. He worked diligently as a carpenter, raised a family, owned a home, and considered his life a successful one. He often reflects on the hardships his parents endured, both in Alberta and after returning to Vancouver.

He has also shared the story of the internment period with his children. “They know what we went through. I talked to them.” He believes it is important to pass on the history of what happened to Japanese Canadians. Regardless of what he and his family went through, he said, “I’m still very proud to be a Japanese Canadian. I’m happy where I am.”

(Text: Naomi Mishima)

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