ホーム 著者 からの投稿 Naomi Mishima

Naomi Mishima

Naomi Mishima
1520 投稿 0 コメント

日系カナダ人物語「記憶を次世代へ」:堀井昭さん「差別はいつでもどこでも起きる」

Dr. Akira Horii/堀井昭さん
Dr. Akira Horii/堀井昭さん

堀井昭さん

1931年10月、ブリティッシュ・コロンビア州バンクーバー市生まれ
1942年ブリティッシュ・コロンビア州イースト・リルエットに移動、1949年にバンクーバー市に戻る
元医師、両親は和歌山県出身

日系人への差別がなかったストラスコナ小学校時代

 「子ども時代はバンクーバーで育って、当時は差別なんて知りませんでした」と話し始めた。バンクーバーに住んでいた多くの日系人がそうだったように、ホリイさんもストラスコナ小学校に通った。

 当時の小学校ではイギリス系の生徒には上流階級意識があり、中国系、イタリア系、ユダヤ系の生徒たちをそれぞれ差別的に呼んでいたという。それでも「私たちを『ジャップ』と呼んでいるのは聞いたことがなかったですね」。生徒数の約50%は日系2世だったと思うと語る。『ジャップ』とは日本人を差別的に呼ぶ言葉だ。

 当時はヨーロッパで第2次世界大戦が始まり、イギリスで困っている子どもたちにくつ下やキルトを送るため授業では先生がくつ下の編み方やキルトの作り方を教えていたという。

 「(太平洋)戦争前はハッピーな子どもでした。差別が何かも知りませんでしたしね」

人生が一変した真珠湾攻撃

 ハッピーな子ども時代を一変させたのは1941年12月7日、日本軍によるアメリカ・ハワイ州真珠湾攻撃だった。「世界が一変しました」。同日カナダが日本に宣戦布告した。「日系カナダ人にとって天地がひっくり返る出来事でした」。

 ホリイさんが10歳の時だった。なにもかも突然に起きた。「突然学校を辞めなくてはいけなくなりました。パールハーバーまでは私はストラスコナ小学校のグレード5(5年生)で、アレキサンダー通りのバンクーバー日本語学校の5年生でした」。ストラスコナ小学校に通っていた日系カナダ人の生徒約630人が去らなくてはならなかった。学校の生徒数は半分に減ったという。

 それから日系カナダ人コミュニティに起こったことを説明した。

 カナダ政府は日本に起源を持つ全ての日系カナダ人をブリティッシュ・コロンビア(BC)州沿岸から100マイル(160キロメートル)以東へ移動することを強制。家屋、自動車、ビジネス、漁船などの財産は差し押さえられた。その中にはホリイさんの父親が所有していた漁船も含まれていた。健康な18歳から45歳までの男性はロードキャンプで働くことを強いられ、BC州内のホープ・プリンストン、レベルストーク・シカモス、ブルーリバー・イエローヘッドの3カ所に送られた。ロードキャンプ行きを拒否した者はオンタリオ州の捕虜収容所(Prison of War)に送られた。

 カナダ政府がBC州内に用意した収容地は10カ所。最大規模だったタシメグリーンウッドスローカンシティ、レモンクリーク、ポポフ、ベイファームローズベリー、ニューデンバー、サンドン、カスロー。サンドンには仏教徒が多く送られ、高い山に挟まれた谷間の街で冬の環境があまりにも劣悪なため、のちにニューデンバーに移ったと説明した。これら10カ所は「政府が支援している強制収容所でした」。

 1942年1月14日にカナダ政府が日系カナダ人を「敵性外国人」とし同年2月から収容所送りを開始するも、これら10カ所の収容所は準備が間に合わず、多くがバンクーバー市のヘイスティングス・パークに集められた。尿やフンの臭いのする馬小屋での生活を強いられ、長い場合には「9月や10月頃までそこで生活していた人もいたと聞いています」。

 その他に「自分たちで生計を立てて暮らす収容地がありました」。自立型収容地でBC州内に5カ所。イーストリルエット、ブリッジ・リバー、ミントシティ、マックギリブレイ・フォールズ。政府からの支援は一切ないため自分たちで生活しなければならない。ただ家族一緒に移動できた。

イーストリルエットでの生活

 「私の両親は自立型収容地に行くことにしました」。鉄道でコールハーバーからスココミッシュに行き、そこからパシフィック・グレート・イースタン・レールウェイ(PGE)、現在のBCレール、で移動した。当時はスココミッシュがPGEの最南端駅だったと記憶している。乗り換えてから一晩明けるとリルエットの町に着いた。「朝、目が覚めると山に囲まれていました。『こんな所に住むのかぁ』と思いましたね。でもまあ、リルエットという小さな町で住むのも悪くないかと考え直しました」。しかし「驚いたことに」と続けて、そこからさらにトラックに乗せられて4マイル(約6.5キロ)走って着いたのはフレーザー川を渡った「イーストリルエットという場所でした」。

East Lillooet

 父親やそこに移動してきた男性陣は春からタール紙を使った小屋の建設を始めた。母親はホリイさんを筆頭に5人の子どもを抱えていた。「飲み水も、電気もなくて、差別のため仕事もありませんでした」。日系人はリルエットの町に入ることすら許されていなかったという。

 それでも生活のために色々と工夫した。飲み水は購入した。生活用水はフレーザー川からの水をろ過する装置を作って賄った。食料は野菜を自分たちで栽培した。冬季でも保存できるジャガイモやタマネギ、「ゴボウも作ってましたね」と笑う。食用に鶏も飼育、卵も取れた。時には先住民からサーモンを買うこともあったという。「母はサーモンを缶詰にしていました」。各家には「お風呂」も作った。こうして自立した生活を送った。

 イーストリルエットに移動してきた男性は多くが漁師だったため、生活のためにできることが限られた。そこで「救世主となったのがハニー(メープルリッジ)で農家をしていたトクタロウ・ツユキさんでした」。ツユキさんによるとリルエット地方の気候は暑くて乾燥しているのでトマト作りに最適だという。そこで共同でトマトの栽培を始めた。収穫したトマトはニューウエストミンスターに送っていたが、そのうちに町にトマトの缶詰工場を作るとそこで加工した。「そうやって7年間イーストリルエットで生き延びました」。

 苦しい生活環境だったが、男性たちは子どものために小学校を建てた。「でも教師がいなかったので高校を卒業していた人ならだれでも小学校の先生を務めました」。ただすでに高校生だった10代の若者は高校を卒業することができなかった。移動してきた当時はリルエットの町の学校には行けなかったからだ。

 しかし1946年までには町の高校に通えるようになっていた。ホリイさんもリルエットの高校へ通い、4マイルを自転車で通学したという。冬の寒さが厳しいリルエットで「寒い日は道路が凍っていましたし、学校に着いた頃には口も凍っていました」。

 高校に通いながら家計を助けるためにアルバイトもした。町の新聞社で働いたり、父のトマト農園や缶詰工場でも働いた。「長男が家を助けるのは当たり前でした」。

 それから高校3年の時にカナダ人の友人とUBCハイスクール・コンファレンスに参加するためにバンクーバーに戻った時のことを話した。学校代表として行くにもかかわらず警察の許可証が必要だったという。「自分が生まれた町に行くのにRCMP(連邦警察)の許可証を取らなければいけませんでした。BC州沿岸付近にいることすら許されなかったのです。映画を見た帰りに二人で宿泊していた友人のいとこの家に帰る途中にイーストヘイスティングス通りを歩いていると警察官に呼び止められました。私が日本人だと分かったんだと思います」。ここで何をしていると聞かれた。「リルエットからの許可証を見せました。バンクーバーに来るための特別な許可証でした」。1948年12月のバンクーバーはまだ日系人に冷たかった。

 そしてリルエットの高校を1949年に卒業した。

漁師をしながらUBC医学部を卒業

 1949年4月1日に強制収容政策は終了し、日系カナダ人は自由に移動できるようになった。同年に高校を卒業したホリイさんはブリティッシュコロンビア大学(UBC)に入学する。「両親が大学進学を許してくれました」。でも大学にお金がかかることは分かっている。「大学の寮に入っていましたけど、大学までは路面電車代10セントを節約するためにヒッチハイクをして行きました」。

 授業は通常5コースのところを6コース取った。「リルエットから出てきた田舎者の1年生はウブでした」と笑う。化学、物理、生物のラボもあった。「試験を受けて1年目を終えた時、よくやったなぁと思いました」。

 しかし父親の仕事を手伝うために1年で休学した。「父親はすごく漁師に戻りたがっていました」。1950年から父親を手伝って漁師となった。BC州北部のプリンス・ルーパート辺りでサーモン漁を始めた。漁師生活は2年間続いた。稼いだ収入は両親に渡した。やはりここでも長男として家族を助けるのは当然と考えていた。そうして家族は1951年にようやくバンクーバーに戻ってきた。

 2年間の休学をへて1952年にUBCに復学した。相変わらず6コースを取ったという。夏には父を助けるために漁師として働いた。1957年まで漁師は続けた。

 1955年に大学を卒業し、友人から「医学部を受けてみないか」と誘われ申請したら「驚いたことに受理されました」と笑った。医学部時代には横隔膜下膿瘍で生死をさまよう経験をした。大学医学部の教授のおかげで一命を取り止めたが1年間を棒に振った。それでも1960年に卒業。それから2週間後には結婚し、フォルクスワーゲンで新婚旅行代わりにアメリカ北部を横断しトロントへ。トロント・ウエスタン病院で1年間インターンとして働いた。

医師時代に出会った日系一世の話

 強制収容前のバンクーバー。ホリイさんは長男だけに甘やかされたこともあったという。パウエル通りの日本人街でバンクーバー仏教会の前にあった小さな菓子屋に連れてもらっていた。「あんぱんを買ってもらってました。そこはマツモト夫婦がやっていた店でした」。通っているうちにマツモト夫妻と仲良くなったが、強制収容時はどこに行っていたのか知らなかった。

 そして1961年医師として働き始めた頃にマツモト夫妻が患者になったという。そこで初めて夫のマツモトさんが第1次世界大戦にカナダ兵として参加した退役軍人だったことを知った。「兵隊姿の写真は背が高くて、ハンサムで、強そうで。キンゴ・マツモトさんといいました」。

 日系カナダ人は第1次世界大戦にカナダ兵として222人が参加した。BC州では差別が激しかったため入隊できず、アルバータ州まで行って入隊した。そのうち54人が戦死した。バンクーバー市スタンレーパークには当時の日系コミュニティが建てた日系カナダ人戦没者慰霊碑がある。

 第1次世界大戦にカナダ兵として参加して帰ってきた日系カナダ人には市民権が与えられた。「最初はカナダ政府は拒否したのですが1931年に与えられました。東洋人としては初めての市民権でした」。それでも「1941年12月に日本との戦争が始まるとマツモトさんも『敵性外国人』とされ、市民権もはく奪され、強制収容されました」。第1次世界大戦で戦った全ての日系カナダ人が同じ扱いを受けた。

 マツモトさんはヨーロッパで戦った時に毒ガスを吸っていたため肺を病んでいたという。「皮肉ですよね」。カナダのために命を懸けた国民へカナダ政府の冷酷さを皮肉った。

日系カナダ人強制収容と差別

 「強制収容と差別を話すことについて関心を持ち始めたのは晩年になってからです」と言う。医師時代は日本語ができる医師Dr. Aki Horiiとして親しまれ、多くの日系1世の患者を担当した。いまは小学校や高校、大学、カレッジなどで経験談や差別について話している。

 ホリイさんは日系カナダ人に対するカナダ政府の対応は差別的な議員の言動が理由だったと話す。連邦、BC州、バンクーバー市、全ての政府に日系人に対する差別を公言する議員がいた。中でも国会議員は特に力を発揮したという。

 当時のバンクーバー・サン紙に掲載されていた議員らの差別的な言葉を引用して、それがどれほどひどいものだったかを語った。「ジャップがブリティッシュ・コロンビア州に戻ることを決して許してはならない」「政府の計画は一刻も早くBCからこれらの人々(日系カナダ人)を追い出すことだ。私は公人として残された限りの時間を費やして個人的な意思を持ってこれを行う。彼らがここに二度と帰ってくることのないように」「ロッキーから太平洋まで一人のジャップも入れてはならない」

 そして、日本軍の真珠湾攻撃は単なる日系カナダ人を追い出すための口実だったことを語るバンクーバー・サン紙の特集記事を紹介した。2015年3月付の記事は1942年この週の歴史として掲載されている。要約すると、東洋からの移民が来て50年の間、BC州は日本人の受け入れに反対してきたが連邦政府がそれを阻止してきた。しかしすばらしい軍事的理由で日本人を内陸部に移動させることができた。戦争を利用して問題を解決できたことは喜ばしい、となっている。

 ホリイさんは「これを読むと戦争は当時日系カナダ人を追い出すための口実だったことがよく分かります」と力を込める。それは1945年8月15日に第2次世界大戦が終わっても続いた。1945年カナダ政府はBC州に住む日系カナダ人にロッキー山脈より東に移動するか、日本に帰るかの二者択一を迫った。約4,000人が日本へ行き、「多くの人はアルバータ州やサスカチュワン州に行きました」。

 差別はいつどこでも起きると話す。それは心に傷を残す。「医師のミーティングで、ある医師が『ジャップ』という単語を何度も会話の中で使ったんです」と自身の経験を語った。「それから1カ月は眠ることができなくて」。次のミーティングでそのことを告げるとその医師は謝ったという。

 「差別は最も予期しないところで起きるものなんだよ、と生徒たちには伝えているよ」と静かに語った。

(取材 三島直美)

関連記事

***

***

“Stories of Japanese Canadians: Memories for the Future Generation” Dr. Akira Horii

Dr. Akira Horii/堀井昭さん
Dr. Akira Horii/堀井昭さん

“Discrimination Happens Anytime, Anywhere”

Dr. Akira Horii

Born in October 1931, Vancouver, British Columbia
Moved to East Lillooet, British Columbia in 1942, returned to Vancouver in 1949
Retired medical doctor
Parents from Wakayama Prefecture

A Time Without Discrimination Against Japanese Canadians at School

“My childhood was spent in Vancouver, and back then, I didn’t know what discrimination was,” Dr. Horii began. Like many other Japanese Canadians living in Vancouver, he attended Strathcona Elementary School.

At the school, British-origin students were known for a sense of superiority, often used derogatory terms for their Chinese, Italian, and Jewish classmates. However, “I never heard anyone call us ‘Japs,’” he recalled. He estimates that about 50% of the students were Nisei, or second-generation Japanese Canadians.

During that time, World War II had started in Europe. A teacher at the school taught students how to knit socks and make quilts for children suffering in Britain. “Before the (Asia-Pacific) war, I was just a happy kid. I didn’t even know what discrimination was,” he reflected.

The Attack on Pearl Harbor That Changed Everything

Dr. Horii’s carefree childhood was shattered on December 7, 1941, when the Japanese military attacked on Pearl Harbor in Hawaii. “The world changed. It turned upside down for Japanese Canadians.” he said. On the same day, Canada declared war on Japan.

Dr. Horii was 10 years old at that time. After the attack, everything changed suddenly. “All of a sudden, we had to quit school. Until Pearl Harbor, I was in Grade 5 in Lord Strathcona Elementary and Grade 5 at the Vancouver Japanese Language School on Alexander Street,” he said. Around 630 Japanese Canadian students were forced to leave Strathcona Elementary, cutting its enrollment in half.

He recounts the events that transpired within the Japanese Canadian community. The Canadian government mandated that all Japanese Canadians, regardless of citizenship, relocate from British Columbia’s coastal areas to locations at least 100 miles (160 kilometres) inland. Homes, cars, businesses, fishing boats, properties and other possessions were confiscated, including the fishing boat owned by Mr. Horii’s father. Able-bodied men aged 18 to 45 were forced into road labour camps at one of three sites in BC: Hope-Princeton, Revelstoke-Sicamous, or Blue River-Yellowhead. Those who refused road camp work were sent to prisoner-of-war camps in Ontario.

The Canadian government established ten internment camps in BC: Tashme, Greenwood, Slocan City, Lemon Creek, Popoff, Bay Farm, Rosebery, New Denver, Sandon, and Kaslo. Sandon, a remote valley town with harsh winters, housed a significant Buddhist population. Many internees later relocated to New Denver. “These ten sites were government-supported internment camps,” he explained.

On January 14, 1942, the Canadian government designated Japanese Canadians as “enemy aliens,” and by February of that year, the forced relocation to internment camps had begun. Since the ten designated camps were not ready, many people were initially sent to Vancouver’s Hastings Park, where they lived in horse stalls that reeked of urine and feces. “I’ve heard that some people stayed there as late as September or October,” he said.

In addition to government-supported camps, there were also “self-supporting sites” where people lived without government assistance. Four such communities existed in BC: East Lillooet, Bridge River, Minto City, and McGillivray Falls. These sites received no government aid, requiring residents to be self-sufficient. However, families were allowed to stay together in these locations.

Life in East Lillooet

Dr. Horii began, “My parents decided to move to a self-supporting internment site.” They traveled by ship from Coal Harbour to Squamish, where they transferred to the Pacific Great Eastern Railway (PGE), now known as BC Rail. He recalls that Squamish was the southernmost terminal of the PGE at the time. After the transfer, they arrived in Lillooet the following morning. “I got up in the morning, and, we were surrounded by mountains,” he said. “I thought, “I thought, ‘Oh, gee. This is where we’re going to live.’ And I thought maybe it won’t be so bad living in this little town called Lillooet.”

East Lillooet

However, he added, “to my surprise,” they were taken further by truck, crossing the Fraser River to a place called East Lillooet, about four miles (6.5 kilometres) away.

In the spring, his father and other men in the group began constructing tar-paper shacks. His mother, meanwhile, was busy caring for Dr. Horii and his four younger siblings. “There was no drinking water, no electricity, and no jobs because of discrimination,” he explained, as Japanese Canadians were even prohibited from entering the town of Lillooet.

Despite these hardships, families found ways to survive. Drinking water was purchased, and they built a filtration system to use water from the Fraser River for household needs. They grew vegetables such as potatoes, onions, and even burdock root (gobo). They raised chickens for eggs and sometimes bought salmon from Indigenous people. “My mother canned the salmon,” he added. Each family also built a bathhouse, allowing them to live self-sufficiently.

Many of the men relocated to East Lillooet had been fishermen, and there were few opportunities to earn a living. “The saviour for us was Tokutaro Tsuyuki, a farmer from Haney (Maple Ridge),” he said. Tsuyuki recognized that the hot, dry climate of the Lillooet region was ideal for growing tomatoes. The community began cultivating tomatoes collectively. Initially, the harvest was shipped to New Westminster, but they eventually established a tomato canning factory in the town. “That’s how we managed to survive in East Lillooet for seven years,” he added.

Life was difficult, but the men built a small elementary school for the children. “Since there weren’t any teachers, anyone who had graduated high school became a teacher for the younger kids,” he said. However, teenagers already in high school when they moved to East Lillooet couldn’t graduate initially because they weren’t allowed to attend the town’s high school.

By 1946, they were permitted to enroll in Lillooet’s high school. Dr. Horii attended, cycling the four miles to and from school daily. “In the coldest day of winter, the road was covered in ice, and when we get to the high school in town, our mouths will be covered in an ice, frost,” he recalled.

While attending high school, he worked part-time to help support his family, taking jobs at the town newspaper, on his father’s tomato farm, and at the canning factory. “It was only natural for the Japanese eldest son to help the family,” he said.

During his senior year, he returned to Vancouver to attend the UBC High School Conference with a Canadian classmate. Even as a school representative, he was required to obtain a police permit. “To come back to my birthplace Vancouver, I had to get RCMP permit. Because I’m not allowed on the coast,” he added. One evening, while walking on East Hastings Street after seeing a movie, a police officer stopped him. “I think he realized I was Japanese,” he recalled.  When asked what he was doing there, he showed the officer his permit. “I’ve got a special permit to come to Vancouver,” he said. In December 1948, Vancouver was still unwelcoming to Japanese Canadians.

In 1949, Dr. Horii graduated from Lillooet High School.

Graduating from UBC Medical School While Working as a Fisherman

On April 1, 1949, the internment policy ended, allowing Japanese Canadians to move freely. That same year, Dr. Horii graduated from high school and enrolled at the University of British Columbia (UBC). “My parents allowed me to go to university,” he said. However, he was keenly aware of the financial burden. “I stayed in a dormitory,” he added, “but to save the 10-cent streetcar fare, I hitchhiked to campus.”

He took six courses per term, even though the standard load was five. “As a freshman from rural Lillooet, I was pretty naive,” he admitted with a laugh. His demanding schedule included chemistry, physics, and biology labs. “When I finished my first year and passed the exams,” he said, “I was amazed that I did okay.’”

Despite this success, he took a leave of absence after his first year to help his father. “My father really wanted to return to fishing,” he explained. Beginning in 1950, Dr. Horii worked as a fisherman, joining his father in salmon fishing near Prince Rupert in northern British Columbia. For two years, he embraced the fisherman’s life, handing over his earnings his parents. As the eldest son, he felt it was his duty to support his family. By 1951, the family had returned to Vancouver.

After two years away, he resumed his studies at UBC in 1952, again taking six courses per term. During summers, he continued working as a fisherman to assist his father, which he did until 1957.

In 1955, he graduated from UBC and, on a friend’s suggestion, applied to medical school. “To my surprise, I was accepted,” he smiled. During medical school, he faced a life-threatening subphrenic abscess. Thanks to the intervention of a university medical professor, his life was saved, but he lost a year of studies. Undeterred, he graduated in 1960.

Two weeks later, he married, and the couple embarked on a honeymoon road trip across northern United States in a Volkswagen, heading to Toronto. There, he completed a one-year internship at Toronto Western Hospital.

A First-Generation Japanese Canadian’s Story

Before the internment, Vancouver was home to a vibrant Japanese community. As the eldest son, Dr. Horii admits he was sometimes spoiled. He fondly remembers visiting a small confectionery shop on Powell Street near the Vancouver Buddhist Temple. “I used to get anpan (sweet red bean buns) there,” he said. “The shop was run by a couple named Matsumoto.” The Horii family grew close to the Matsumotos, but they lost contact after the internment began.

In 1961, when he began practicing as a doctor, the Matsumotos became his patients. It was then he learned that Mr. Matsumoto had been a Canadian war veteran in World War I. “I saw a photograph of him in uniform—tall, handsome, and strong,” he explained. “His name was Kingo Matsumoto.”

During World War I, 222 Japanese Canadians served in the Canadian military despite facing severe discrimination in British Columbia. Many had to travel to Alberta to enlist, as they were barred from joining in BC. Of those who served, 54 lost their lives. A memorial for these fallen soldiers, built by the Japanese Canadian community, now stands in Vancouver’s Stanley Park.

Japanese Canadians who served in World War I were eventually granted Canadian citizenship. “At first, the Canadian government refused, but in 1931, they relented. It was the first time citizenship was granted to people of Asian descent,” he explained. However, this recognition was short-lived. “When war with Japan broke out in December 1941, Mr. Matsumoto was labelled an ‘enemy alien,’ stripped of his citizenship, and interned,” he added.

Like other Japanese Canadian veterans of World War I, Mr. Matsumoto endured unjust treatment. Having inhaled poison gas while fighting in Europe, he suffered from lung disease. “It’s ironic, isn’t it?” Dr. Horii said, reflecting on the bitter irony on how the Canadian government treated men who risked their lives for this country with such cold disregard.

On Japanese Canadian Internment and Discrimination

“More towards the end of my working career, I got interested in talking about the internment and racism,” said Dr. Horii. Known professionally as Dr. Aki Horii, he built a reputation as a physician fluent in Japanese, caring for many first-generation Japanese Canadian patients. Now, he speaks to elementary and high schools, universities, and colleges, sharing his experiences and shedding light on the realities of discrimination.

Mr. Horii explains that the Canadian government’s discriminatory actions against Japanese Canadians were fueled by the prejudiced statements and attitudes of politicians. Discrimination was openly endorsed by members of the federal government, the BC provincial government, and Vancouver city officials, with federal MPs wielding significant influence.

To illustrate the depth of prejudice, he cites discriminatory remarks made by politicians and published in the Vancouver Sun:

“Japs must never be allowed to return to British Columbia.”

“The government’s plan is to get these people (Japanese Canadians) out of BC as quickly as possible. I will spend every remaining moment as a public official ensuring this happens, so they will never come back here.”

“Not a single Jap should be allowed between the Rockies and the Pacific.”

Dr. Horii also references a 2015 Vancouver Sun article that examined the events of 1942. The article explained how the attack on Pearl Harbor was used as a pretext to forcibly remove Japanese Canadians from the BC coast. For decades, BC had opposed immigrants from Asia, but federal government had resisted taking sweeping measures. However, under the guise of wartime necessity, Japanese Canadians were forcibly relocated inland. The article highlighted that the war provided a convenient opportunity to resolve a long-standing “problem.”

“That tells you all that saying the editorial that they used the military, the war Japan, as an excuse to get rid of all the Japanese Canadians from the province of British Columbia,” Dr. Horii stated emphatically. The mistreatment continued even after the war ended on August 15, 1945. That year, the Canadian government gave Japanese Canadians living in BC an ultimatum: relocate east of the Rockies or face deportation to Japan. Approximately 4,000 chose deportation, while many others moved to Alberta or Saskatchewan.

Dr. Horii underscores that discrimination can occur anytime and anywhere, leaving deep and lasting scars. He shares a personal story: “At a doctors’ meeting, one physician repeatedly used the term ‘Jap’ during the conversation. I couldn’t sleep for a month afterward.” At the next meeting, he confronted the doctor, who apologized.

“Discrimination often arises in the most unexpected places,” he reflected quietly. “This is what I tell students when I share my story.”

(Text: Naomi Mishima)

Related Articles

***

***

ベテランになっても学び続けます!

 2024年の12月はあっという間に過ぎ去り、気づけば新年を迎えていました。仕事に追われてコラムの締切をすっかり逃してしまった私ですが、それでも温かく受け入れてくださった日加トゥデイの三島様に感謝申し上げます。読者の皆様、2025年もどうぞよろしくお願いいたします。

 さて、2024年を振り返ると、私にとっては学びの多い一年でもありました。カナダで薬剤師として16年間に渡り同じ薬局に勤めてきた私が、ブリティッシュコロンビア大学(UBC)のFlexPharmDプログラムの一環として、2件の薬局での実習をする機会があったのです。

 「なぜベテラン薬剤師が実習生?」と思う方もいらっしゃるかもしれません。実際、私自身も「学位取得のためとはいえ、今さら他の薬局に行って新たに学ぶことがあるのだろうか?」と半信半疑でした。しかし、実際に体験してみると、なかなかどうして面白いではありませんか。

 まず1件目のノースバンクーバーにある食料品店内の薬局では若手薬剤師たちの薬学的管理スキルが印象的でした。最近の若い薬剤師の多くはPharmD(Doctor of Pharmacy:私が現在目指している学位)であり、薬物治療に関する実践的な教育をみっちりと受けています。彼らが学生時代に一生懸命取り組んだのと同様に、私は実習中に薬学的ケアプラン(薬学的管理を行うための詳細な計画書で、薬剤師が患者の薬物療法を最適化するために使用するもの)の作成に取り組みましたが、これがなかなか大変でした。患者さんの疾患の概要や薬物選択の根拠を詳細に書き出し、治療上の問題点を洗い出して解決策を提示する一連のプロセスを文章化するのは、予想以上に時間と労力が必要でした。

 今から17年前に、カナダで薬剤免許を取得するためにUBCのブリッジングプログラムに在籍していた頃、同様のケアプランの作成を少しかじったことはありましたが、最近のバージョンは要求レベルが高くなっており、とてもびっくりしました。

 また、この薬局では、薬学的ケアプランと直接的に関連するメディケーションレビューに力を入れていました。メディケーションレビューとは、複数の慢性疾患の治療薬を服用している患者さんを対象に、薬物治療に関する問題の有無をチェックするサービスです。このサービスは患者さんにとって無料ですが、薬局には州政府からのクリニカルサービスフィーが支払われます。そのため、薬局によってはメディケーションレビューに大きく力を入れているところもあります。

 このようなビジネスモデルの賛否はともかく、メディケーションレビューは正しく実施されれば、患者さんと薬剤師の双方にとって非常に有益です。たとえば、適切な薬が適量で処方されているか、薬を正しく服用できているか、副作用がないか、薬の効果が十分に現れているかといった点を確認することで、患者さんの薬物治療の効果と患者さんの健康状態を総合的にチェックすることができるのです。問題が見つかった場合には、処方医師へフィードバックを行うことで、薬物治療の質を向上させることができます。

 現実的には、このようなメディケーションレビューを、まとまった時間をとって体系的に行っている薬局は限られています。私の勤務するロンドンドラッグスでは、時間や人員の制約があるため、メディケーションレビューの件数は少ないのが現状で、同様の相談やリクエストが寄せられた際には、重要なポイントを簡潔に絞って対応する形をとっています。ただ、せっかく実習で身につけたスキルを使わないのはもったいないので、メディケーションレビューの件数を増やすように努力をしているところで、これは私の2025年の大きな目標です。

 2件目にお世話になったのは、ポートコキットラムにあるメディカルクリニックに隣接したこじんまりとした薬局でした。薬局に足を踏み入れた瞬間、「こんなに小さな薬局で実習をするなんて!」と戸惑いましたが、その後すぐに新たな事実を知ることになります。

 この薬局は通常の処方せん対応だけでなく、精神疾患を抱える患者さんが生活する複数のグループホームを担当していたのです。このような特化型サービスを提供する薬局では、単なる薬の配達にとどまらず、患者さんの生活全般を支える重要な役割を担っています。定期的に入居者と面談を行い、薬が正しく服用されているか、副作用や健康上の問題がないかを丁寧に確認します。薬の服用が困難な場合には、患者さんの状況に応じた服薬スケジュールを提案・調整することもあります。さらに、多くの薬を服用する患者さんが多いため、相互作用や副作用のリスクを慎重に管理する必要があります。このようなアプローチは、患者さんのQOL(生活の質)の向上に大きく寄与するだけでなく、医療費の削減にもつながるとされています。また、ホームの入居者と信頼関係を築き、意思疎通を図るためには高度なコミュニケーション能力が求められましたが、これは非常に貴重な経験となりました。

 ちなみに、コーストメンタルヘルス(Coast Mental Health、ウェブサイト:https://www.coastmentalhealth.com/)は、バンクーバーを拠点とする非営利団体で、精神疾患を抱える人々が適切な住まいや支援サービス、雇用や教育の機会を得ることで、地域社会での自立を支援しています。同団体は、コミュニティーホームやサポートハウジングプログラム、The Transitional Cottage Programなどの施設を運営しており、利用者自身もピアサポートやボランティア活動を通じて団体の運営に貢献しています。また、Coast Mental Health Foundationは資金調達を行い、利用者のために多様な自立支援プログラムを展開しています。精神疾患は遺伝や環境要因が絡む複雑な問題ですが、適切な支援を受ければ自立した生活が可能であることを実証しており、その活動は薬剤師として非常に勉強になったのは言うまでもありません。

 2025年にはいくつかの実習を予定しており、さらなる成長を目指して引き続き努力を重ねてまいります。また、本コラムに関するご質問やリクエストがございましたら、ぜひ日加トゥデイ編集部までお気軽にご連絡ください。

佐藤厚

*薬や薬局に関する一般的な質問・疑問等があれば、いつでも編集部にご連絡ください。編集部連絡先: contact@japancanadatoday.ca

佐藤厚(さとう・あつし)
新潟県出身。薬剤師(日本・カナダ)。 2008年よりLondon Drugsで薬局薬剤師。国際渡航医学会の医療職認定を取得し、トラベルクリニック担当。 糖尿病指導士。禁煙指導士。現在、UBCのFlex PharmDプログラムの学生として、学位取得に励む日々を送っている。 趣味はテニスとスキー(腰痛と要相談)

全ての「また お薬の時間ですよ」はこちらからご覧いただけます。前身の「お薬の時間ですよ」はこちらから。

「バンクーバー・ホワイトキャップス3年目、さらに上を目指して」GK高丘陽平選手インタビュー

試合後のインタビューの後に、高丘選手、懐かしいユニフォームデザインで。2024年5月4日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
試合後のインタビューの後に、高丘選手、懐かしいユニフォームデザインで。2024年5月4日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

 高丘陽平さんは2025年、MLS(メジャーリーグサッカー)バンクーバー・ホワイトキャップスFCで3年目を迎える。

 昨季のチームはプレーオフに進出したものの、1回戦で敗退。前シーズンと同じ成績だった。

 ただ高丘さん自身は充実した2年目を送ったと振り返る。2025年もホワイトキャップスでプレーすることが決まった高丘さんに話を聞いた。

2024年シーズンを振り返って

‐2024年シーズンで、自身でよくできたところ、課題が残ったところを振り返ってください。

 よくできたところで言えば、去年よりはチームのやり方だったり、キーパーコーチが求めてるものが理解できて、パフォーマンスも出せたと思います。今年(2024年)2年目なので慣れてきて、考えなくても自然に出てくるようなシチュエーションがいくつかあったので、そういった意味で変なストレスというのは去年よりもなくなってきました。チーム中でもきちんとリーダーシップを取ってプレーでチームを引っ張れるようにというのは思っていたので、そういう部分は多少ですけども良くなってるのかなと思います。

随所に好セーブを見せたGK高丘。2024年10月5日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
随所に好セーブを見せたGK高丘。2024年10月5日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

 課題的なところで言うと、課題は職業柄尽きないっていうか。相手がいるスポーツですし、点を防ぐのが最大の目的ですけど、相手はそれを決めようとしてくるわけで、色々なシチュエーションが毎回同じではないので、それを毎回瞬時に対応しないといけないので、そこの難しさはあります。その難しさが逆にゴールキーパーのおもしろさっていうか、そういったところを最善の準備をしながら、試合では想定していたこと以外のことが起こるので、そういうところのリアクションが非常に大事なのかなぁっていうのは、今年1年間やりながら感じてました。

‐北米リーグ2年目で成長したところは感じますか?

 相手の特徴だったり、自分のチームの他の選手の特徴っていうのが去年よりも分かってきた中で、語学の問題もありますけど、去年(2023年)よりも自分が伝えたいことをもうちょっとより細かく、意見交換が去年よりもスムーズになったと思います。

FW・WhiteとグータッチするGK高丘。2024年9月28日、BCプレース。Photo by Koichi Saito
FW・WhiteとグータッチするGK高丘。2024年9月28日、BCプレース。Photo by Koichi Saito

 (チームの)ディフェンダーの選手がどうしたかったのかとか聞きながら、相手に絶対こうしろよって押し付けることはしないので、選手のプレーを尊重しながら一緒に守ってくのが大事かなと思ってます。

 そこは去年よりもコミュニケーションの部分で成長した部分でもあると思いますし、2年目ということで、別のチームに移った環境に馴染むっていうのは日本の中でも移籍すると難しいものはありますけど、そういった中でチームメートも自分のキャラクターは分かってくれて、色々なことが去年よりもスムーズだったかなと思います。

MLSで吉田選手、山根選手と対戦

‐LAギャラクシーに吉田麻也選手、山根視来選手が加入し、日本人対決として注目されました。MLSの良さを日本のファンにも伝えたいと言っていた高丘さんにとって日本人対決でおもしろさを伝えられたと思いますか?

 そうですね。伝わってくれてればいいんですけど。アップルが独占配信ということで、日本のテレビから認知してもらうのは難しいので、ソーシャルメディアで発信していくしかないなと思っています。日本のファンはヨーロッパを見ると思いますけど、アメリカ(MLS)もエンターテインメントの一つとしておもしろいと思いますし、自分たちが活躍することで、日本の皆さんにもより知ってもらえると思っています。

試合終了後に話す高丘とLAギャラクシー山根。同じ横浜市出身で少年時代から知っている仲という。LAギャラクシー戦。2024年4月13日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
試合終了後に話す高丘とLAギャラクシー山根。同じ横浜市出身で少年時代から知っている仲という。LAギャラクシー戦。2024年4月13日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

 そういう意味では自分たちのパフォーマンスが大事だと思いますし、(吉田)麻也さんだったり、(山根)視来くんがMLSに入ってきてくれて、日本人対決でも注目してもらえるポイントが増えたので、いいなと思います。バンクーバーもLAも日本人のコミュニティが大きいので、そういったところでお互いに切磋琢磨していけたらなと思ってます。

‐海外で日本人と対戦するということに何か特別な思いはありますか。

 特別な思いというより、同じ日本人として上を目指している選手というか同士っていうか、相手に(日本人選手が)いるっていうのはそれだけでも刺激ですし。試合中は正直そんなことあんまり考えていなくて、自分がどうやってチームに貢献するかとか、いいプレーするかとか、そっちを考えています。でもファンの方がそういう目線で見てくれてるっていうのは分かりますし、そういった意味でお互いにいいプレーを見せられたらいいかなと思います。

吉田選手と高丘選手。LAギャラクシーがBCプレースを離れる直前に。2024年4月13日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
吉田選手と高丘選手。LAギャラクシーがBCプレースを離れる直前に。2024年4月13日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

2025年シーズンについて

-来年は3年目ですが、自分にゴールキーパーとしてどういうことを期待していますか。

 チームがうまくいかない時こそ、チームを助けられるようにというか。良い時にはみんな良いので、チームがちょっと苦しい時とかにきちんと止めきるところもそうですし、味方を安心させたり、数字に出づらいところも大事にしたいと思っています。1つのセーブで勝ち点が0になるか1になるか3になるか変わるので、そこをシーズン通して見た中で1つでも多くするっていうのが大事だと思います。

 それ以外のプレーでも当たり前のプレーは当たり前にすることもそうですし、難しいプレーを簡単にしているように見せるっていうのも良いゴールキーパーの大事な要素だと思うので本当に一つ一つのプレーを丁寧にやっていくことでしか、自分が求めてるものは達成できないし、そこは変わらず丁寧にやっていきたいなと思います。

-チームについて、来年は3年目ですが、入団1日目から良い雰囲気と言われてましたが、それは変わらないですか?

 そうですね。そこの印象は特に変わらないですね。ただ、もっと自分たちが強くなるためには言い合っていかなくてはいけない部分はあると思います。それが今年は去年よりも見えたので、良いサインだと思いますけど、まだまだもうちょっとお互いに求め合ってもいいのかなと思います。

随所に好セーブを見せるGK高丘。トロントFC戦。2024年4月6日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
随所に好セーブを見せるGK高丘。トロントFC戦。2024年4月6日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

‐バンクーバー2年目、日系コミュニティとの関りはどうでしたか?

 スタジアムにも日本人の方がたくさん来てくれて声をかけてくれるので、それはうれしいですし、子どもたちが、将来に、ホワイトキャップスでも、Jリーグでも、少しでも僕の姿を見て刺激をもらってくれればうれしいかなと思います。

-ファンに向けてひと言お願いします。

 レギュラーシーズンを一つでも上の順位で終わるというのは大事ですし、そこから進んでより上まで行くって考えた時にレギュラーシーズンを何位で終わるかっていうのは非常に大事なところだと感じました。そこは、去年、今年よりも来年は求めていきたいです。あとはスタジアムに来てもらって、なにか感じるものを僕たちは届けないといけないと思うので、いいものを届けれるように、チームとしても良いものを見せれるように、僕自身もやれることは全部やっていきたいと思います。

***

 バンクーバー・ホワイトキャップスFCは2024年シーズン終了後、バンニ・サーティニ監督を解任。2025年シーズンは新監督の下でスタートする。

 2025レギュラーシーズンの開幕戦はポートランドで2月23日、ポートランド・ティンバーズと対戦する。ホームでの開幕は3月2日、吉田麻也選手率いる2024年MLSカップ優勝チームのLAギャラクシーをBCプレースに迎える。

好セーブを見せ前半を無失点に抑えたGK高丘。LAギャラクシー戦。2024年4月13日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
好セーブを見せ前半を無失点に抑えたGK高丘。LAギャラクシー戦。2024年4月13日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

(記事 三島直美)

合わせて読みたい関連記事

髙橋良明在バンクーバー日本国総領事より新年のごあいさつ

(Tandem Photography & Films)
(Tandem Photography & Films)

謹んで新春のお慶びを申し上げます。

本年は、21世紀の4分の1という節目を迎え、私たちは新たな時代に入ろうとしております。ここ数年間の世界の様々な変化の中で、人々の交流が大きく回復していることは素晴らしいことで、特にカナダからの訪日者数の顕著な増加は、両国の未来への大きな希望の一つであると思います。

本年4月には、いよいよ大阪・関西万博が開幕します。カナダのパビリオンは、自然や季節の変化をモチーフとして、河川の氷結と氷解を模した外観とともに、その内部では、文化的多様性、開放性、持続可能な社会に関する取組みなどが紹介される予定と聞いており、大変楽しみにしています。

当館は、カナダ西岸でブリティッシュ・コロンビア州およびユーコンを管轄しており、今後も引き続き、太平洋を挟んだ隣人として、政治、経済、文化、そして人と人との絆を一層深めるために責任ある役割を果たして参りたいと存じます。
新しい年が皆様にとって実り多き素晴らしい一年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。

在バンクーバー総領事 髙橋良明
令和7年 元旦 

山野内勘二 駐カナダ大使より新年のごあいさつ

日加トゥデイ読者の皆さま、

 明けましておめでとうございます。

 皆さまにおかれましては、輝かしい新年をお迎えのこととお喜び申し上げます。

 2024年を振り返りますと、カナダでは女子柔道オリンピック選手のクリスタ出口選手がカナダ柔道界初の金メダルを獲得したほか、両国に目を向けると、人工知能(AI)の父と称されるカナダのジェフリー・ヒントン・トロント大学名誉教授がノーベル物理学賞を、日本原水爆被害者協議会(日本被団協)がノーベル平和賞をそれぞれ受賞するなど、喜ばしいニュースがありました。特に、クリスタ出口選手は、日本にも深い繋がりのある選手であり、その活躍に注目しておりました。また、2024年のカナダにおける世論調査によれば、カナダ国民にとって最も好感度が高い国は日本とのことです。日本大使として大変嬉しいニュースとして受け止めています。

 世界を見渡すと様々な厳しい事態が各地で発生しており、刻々と変化する世界情勢の中、日本とカナダは、自由、民主主義、人権、法の支配といった基本的価値を共有する極めて重要な二国間のパートナーとして、また、G7メンバーとして、緊密な協力を行ってきています。

 今日の日加関係は、外交、安全保障、政治、経済、文化交流の各分野において、協力の進展が確認されています。この1年間で首脳会談が3回実施され、インド太平洋情勢への対応や電気自動車やLNG等の経済分野での両国の連携強化を確認しました。また、両外相においても、相互の訪問を含め、頻繁に会談を行い、有意義な意見交換を重ねています。

 2023年9月の経済産業大臣のオタワ訪問時に行われた、蓄電池サプライチェーン及び量子・AI等の産業技術に関する協力覚書の署名を契機として、2024年は日本企業によるカナダでの投資も様々な動きが見られました。例えば、世界が2050年ネットゼロ社会の実現を目指す中での重要な取組として、旭化成を含むホンダのカナダにおける電気自動車に係わる包括的バリューチェーン構築構想は、カナダにとって史上最大規模の投資プロジェクトでもあり、非常に大きな存在感を示しています。

 2025年はカナダがG7議長国を務めますが、激動の国際社会において一層重要な役割を果たすことを期待しています。また、日本から首脳・閣僚を含む多くの関係者がカナダを訪れる機会にもなりますので、この機会を生かして、両国の様々な交流が更に深化することを期待しています。

 また、日本では2025年大阪・関西万博が開催されます。カナダは「再生」(Regeneration)をコンセプトとした、春の訪れをイメージした素敵なパビリオンを出展されます。パビリオン内ではカナダ人の温かさ、開放性、前向きな姿勢が表現され、カナダの革新性、多様性、創造性、持続可能な社会に関する取組を体験できるとのことです。カナダからの訪日観光客数は年々増加していますが、更に多くの方々に訪れていただき、ここから新たな日本とカナダのコラボレーションのきっかけが生まれ、日加関係が一層深まることに期待したいと思います。

 2025年においても、日本とカナダとの関係を更なる高い次元に引き上げられるよう、日本大使館としても、より一層力強く取り組んでまいります。

第12回建友会年次総会を開催

あいさつする建友会・松原会長。写真:建友会
あいさつする建友会・松原会長。写真:建友会

11月20日建友会2025年度の年次総会が、ガーデナーズ協会2階会議室をお借りして開催されました。

26名の会員が会場に来場して出席し、2名の会員がZoomにて出席しました。

年次総会の開始に先立ち、松原会長より挨拶、穴澤役員、和田会計役員から2024年の活動、会計報告がなされました。その後、2025年度の役員として、松原昌輝が会長、Thomas Plamerが副会長、和田健治が会計、三河、伊藤、吉武、花木、穴澤、牧田、村山が役員の総勢10名が立候補・再任されました。

建友会年次総会の様子。写真:建友会
建友会年次総会の様子。写真:建友会

引き続き2025年度の活動、会計計画案が説明され無事年次総会は終了しました。

年次総会終了後、食事と歓談をしたのち、8名の2024年度新規会員の方より、自己紹介・プレゼンを行ってもらい会員間の交流を深めました。

写真:建友会
写真:建友会

会の最後は、トム副会長の閉会の挨拶により締めくくり、2025年度も、役員・会員力を合わせ、建友会および日系コミュニティをより一層盛り上げていくこと決心しました。

建友会懇親会の様子。写真:建友会
建友会懇親会の様子。写真:建友会
建友会懇親会の様子。写真:建友会
建友会懇親会の様子。写真:建友会

(寄稿 建友会)

合わせて読みたい関連記事

日本カナダ商工会議所クリスマス・パーティと第4回小松和子アワード授賞式

参加者全員で。©️Manto Artworks
参加者全員で。©️Manto Artworks

🎵ジングルベル🎵サンタが町にやって来る🎵

2024年12 月17日、世界各地からの人々を魅了するバンクーバー・ガスタウンは、高層ビルの脇にありながらも、人々の歴史を感じさせる。

見事な壁画や、アンティーク家具を備えたイタリアン・レストランを会場に開催されたのは、日本カナダ商工会議所主催のクリスマス・パーティ。

さまざまなバックグラウンドを持つ、バラエティに富む参加者たちの笑顔に包まれ、煉瓦造りの暖かみの中で、世界がひとつになり、新しい歴史を築き始めるパッションに溢れた。

総勢36名が集った中、ゲストの髙橋良明バンクーバー総領事は、アフガニスタン赴任時のエピソードを、ユーモアたっぷりに語り、大きな喝采を得た。

髙橋良明バンクーバー総領事。©️Manto Artworks
髙橋良明バンクーバー総領事。©️Manto Artworks

例年、クリスマス・パーティにおいて、日本カナダ商工会議所の『小松和子アワード』の授賞式が行われ、本年度は6名の受賞者が選ばれた。

3つのカテゴリーを持つ同アワードは、日本とカナダをつなぐ活動を通して、日系カナダコミュニティに貢献した人々に贈られる。

カテゴリー 1:

ジョージ・シム氏(ライオンズ・ノースショア・ユース・エクスチェンジ会長)長年に渡り、ノースバンクーバー市と千葉市の姉妹都市交流を推進して来た中心人物。

ジョージ・シム氏。
ジョージ・シム氏。

村上陽子(グラッドストーン日本語学園 学園長)50年に渡り、卒業生延べ2千人以上の日本人やカナダ人に日本語を教えてきた。

グラッドストーン日本語学園村上陽子学園長。©️Manto Artworks
グラッドストーン日本語学園村上陽子学園長。©️Manto Artworks

カテゴリー2:

ケーシー若林氏(日本カナダ商工会議所副会長)10年間に渡り、日本カナダ商工会議所の事務局長、副会長を歴任。

ケーシー若林氏
ケーシー若林氏

鈴木美和氏(日本カナダ商工会議所理事)理事に就任して 2年目で、積極的に会の活動を行い、特に本年は UBC キャリア・ネットワークの学生たちと日系コネクト・フェアやグローバル社会で活躍できる若者養成のための「繋ぐ塾」を開催。

カテゴリー3:

清野健二氏(バンクーバー神輿櫻會)長年お神輿を担ぎ、8年前から神輿グループ、櫻會を創設。

清野健二氏。
清野健二氏。

ダグ・マスハラ氏(テツ太鼓)日本の伝統和太鼓をカナダの子供たちに教えて22年。

ダグ・マスハラ氏(テツ太鼓)
ダグ・マスハラ氏(テツ太鼓)

最後に、サミー高橋会長は、日本カナダ商工会議所の存在意義と役割について「この会は日本人以外の人たちもメンバーとして含み、理事会や年次総会、クリスマス・パーティなどは、すべて英語を公用語として使用している。日本とカナダをつなぐマルティカルチュラルな人々を結ぶ連邦政府が承認した唯一の日系ビジネス団体として、ビジネスのみならず、文化、教育、観光等の分野で活動しいることが特徴である」と語った。

サミー高橋会長。©️Manto Artworks
サミー高橋会長。©️Manto Artworks

撮影 編集 吉川英治

(寄稿 日本カナダ商工会議所)

合わせて読みたい関連記事

23 ☆ワイングラス「数え方」の奥深さ !

日本語教師  矢野修三

 師走も半ば過ぎ、「今年も残り少なく・・・」こんな挨拶言葉がふさわしい時期になり、あちらこちらで色鮮やかなクリスマスのイルミネーションが目を楽しませてくれる。忘年会など飲み会も重なり、何かと忙しい年の瀬である。

 飲み会といえば、カナダに移住してから、ワインを飲む機会が増え、だんだん好きになり、飲み会での、いかにも日本的なスタートの決まり文句、「最初はビールで・・・」が、今では「最初からワインで・・・」に変わってしまった。

 そんなワイン好きな上級者と忘年会を行なった。居酒屋風パブで4人、輪になってワインを飲む「輪飲(ワイン)会」のスタート。早速「赤だ、白だ」と、いろいろワイン談義が始まり、特にS君はワイングラスの持ち方などにも結構うるさい。

 そこで、この機会にワイングラスの「数え方」を話題にした。先ず、日本語ではどんな数え方をすると思うか、聞いてみた。すると「1個、2個」ですね。でも「1つ、2つ」かも、また「1本、2本」も・・・などいろいろな意見が出たが、何か特別な「数え方」がありそうですね。さすが、なかなか察しがよろしい。

 早速、ワイングラスを片手に、勉強会を始めた。先ず、「1本、2本」は、うーん、気持ちはよく分るが、残念ながらワイングラスには使わない。でも「1個、2個」や「1つ、2つ」はどちらも使われており、全く問題ない。

 しかしながら、正式な数え方は・・・、ワイングラスの細長くなっていて、手で持つ部分、英語ではステム(stem)だが、日本語では「脚」。この漢字の音読みは「キャク」、訓読みは「あし」であり、格式高い店などでは、「1脚(きゃく)、2脚(きゃく)」と数えるよ、と説明した。

 すると、なるほど、と感心しきり。加えて、お客さまに出すグラスの場合は「おもてなし精神」を発揮して「お客」の「客」を使い、「1客、2客」と数える場合もあると補足したら、びっくり。

 さらに、ワインが入っているグラスは中身、つまり「飲み物」に焦点を当てて、「1杯、2杯」と数える場合もあり、と告げると、英語では考えられず、ちんぷんかんぷん。確かに、こんなこと生徒に教える必要はないが・・・、状況に応じて使い分ける日本語ならではの細かな表現方法。

 そこで、おまけにこんな話もつけ加えた。日本ではそろそろ年賀状を準備する時期。でも最近はSNSなどの影響もあり、年賀状離れがかなり進んでいるようでさびしい限りだが、この年賀状の「数え方」である。

 間違いなく、買うときは「1枚、2枚」と数えるが、お正月に友達から届いた年賀状は、日本人はさり気なく、「1通、2通」と数えたくなる。それはお互いの心が通じたから「通」を使うんですよ、と講釈を垂れると、すごい、すごいの連発。教師として、ほんわか気分に。

 こんな話をしていたら、ワインもかなり進んだ。そしてS君曰く、茶目っ気たっぷりに「脚の長いワイングラスを二脚買って、脚の長い彼女とボジョレーヌーボーが飲みたいです」、さらに「日本語って本当に奥が深いですね。ワインと同じように」と、締めの挨拶。奥が深い忘年会であった。

「ことばの交差点」
日本語を楽しく深掘りする矢野修三さんのコラム。日常の何気ない言葉遣いをカナダから考察。日本語を学ぶ外国人の視点に日本語教師として感心しながら日本語を共に学びます。第1回からのコラムはこちら

矢野修三(やの・しゅうぞう)
1994年 バンクーバーに家族で移住(50歳)
YANO Academy(日本語学校)開校
2020年 教室を閉じる(26年間)
現在はオンライン講座を開講中(日本からも可)
・日本語教師養成講座(卒業生2900名)
・外から見る日本語講座(目からうろこの日本語)    
メール:yano@yanoacademy.ca
ホームページ:https://yanoacademy.ca

「年の瀬*廻りつづける街と人」

カナダde着物

第66話 
四季折々の着物と歩んだ一年

 今年も残すところわずかとなり、年末のご挨拶を申し上げる時期がやってまいりました。
 今年一年、皆さまにとってどんな年だったでしょうか。

 世界各地で起こる悲しい出来事が耳に入る中でも、私たちの日常は続いています。紛争や災害、経済的困難、環境問題など、私たちの生活に直接的な影響がなくとも、他の人々の苦しみに心を痛めることがあります。

 そのような時、私たち一人一人ができることは限られているかもしれませんが、小さな力でも集まれば大きな変化を生むことを忘れないでおきたいものです。

 こうして年末に振り返ると、どんな小さな出来事も大切な一部分であることに気づかされます。
 また、日常の中で優しさや思いやりを大切にすることで、周りの人々の支えとなり、少しでも希望の光を灯すことができるかもしれません。

「Holiday light 2024」Manto Artworks
「Holiday light 2024」Manto Artworks

*今日の着物*Today’s Kimono

四季折々の着物と共に歩んだ一年

 今年も四季折々の行事やお茶会を通じて、カナダで着物を存分に楽しむことができました。
 これも、隣組さまや日系センターさまでのバザーで着物や小物を購入したり「和の学校@東漸寺」にお越しいただいた皆様との交流の中で着付けを学び、楽しむことができたおかげです。

 また、着物好きが集まる場所をご提供くださった東漸寺さまに心から感謝しております。

 2024年の終わりに、私の着物生活を振り返ると、フィルム撮影や着付けの仕事を通じて多くのことを学び、着物を通じてさまざまなコミュニティや人々と触れ合うことができたことを実感しています。

 伝統を尊重しながら進化し続ける着物は、これからも世界中で愛される文化遺産であり続けるでしょう。未来に向けて、着物がどのように進化し、広がっていくのか、私たちもその成長を見守り続けたいと思います。

「カナダde着物:思い出と共に 2024」コナともこ
「カナダde着物:思い出と共に 2024」コナともこ

*今年の最後のご挨拶*The last Greeting for the end of the year

 来年は蛇年ですね。
 蛇は脱皮を繰り返す生き物としても知られています。
 脱皮は古いものを捨て、新しいものを迎え入れる象徴とも言われていますので、来年はさらに柔軟に、そして力強く新しい挑戦に取り組んでいける年になることを願っています。

 どうか新しい年が、皆様にとってさらなる飛躍の年となり、健康で幸多き一年となりますよう心よりお祈り申し上げます。

コナともこ

「December light 2024」Manto Artworks
「December light 2024」Manto Artworks

「着物語り」
コナともこさんが着物の魅力をバンクーバーから発信する連載コラム。毎月四季折々の着物やカナダで楽しむ着こなしなどを紹介します。
2020年8月から連載開始。第1回からのコラムはこちらから

「カナダde着物 日系センター夏祭り2023にて Kona Tomoko」コナともこ
「カナダde着物 日系センター夏祭り2023にて Kona Tomoko」コナともこ

コナともこ
アラフィフの自称着物愛好家。日本文化の伝道師に憧れ日々お稽古に励んでおります。
13年前からコキットラム市の東漸寺で「和の学校」を主宰。日本文化を親子で学び継承する活動をしております。

年間を通じて季節の行事に加え、お寺での初参り、七五三祝い、十歳祝い、元服祝い、二十歳祝い、結婚式、生前葬、お葬式などの設えと装いのお手伝いもさせていただいております。

*詳しくはコナともこ までお問い合わせ下さい。tands410@gmail.com
東漸寺は非営利団体で、和の学校の収益は東漸寺の活動やお寺の維持の為に使われています。

カナダ人の夫+社会人と大学生の3人娘がおり、バンクーバー近郊在住。

和の学校ホームページ https://wanogakkou.jimdofree.com/
インスタグラム https://www.instagram.com/wa_no_gakkou_tozenji/
フェイスブック https://www.facebook.com/profile.php?id=100069272582016

東漸寺Tozenji Temple https://tozenjibc.ca/

コナともこ
Facebook https://www.facebook.com/tomoko.kona.98
Instagram https://www.instagram.com/konatomoko/?hl

「東漸寺🌸春🌸2024」Manto Artworks
「東漸寺🌸春🌸2024」Manto Artworks

Today’s セレクト

最新ニュース