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第27回 「遺言だけで安心」は危ない?“お金の行方”から考えるノートの価値~Let’s 海外終活~

終活は新しい大人のマナー

叶多範子


8月。まだまだ日差しは強いのに、朝夕に少しだけ秋の気配が混じるのが、バンクーバーらしいなと感じています。皆さま、いかがお過ごしでしょうか?

「終活って、まず何から始めたらいいの?」そんな質問を受けたとき、私はよくこう答えます。

海外在住なら、ほぼ間違いなく遺言作成を検討すること。
そして、エンディングノートを書いておくこと!と。

そう言うと、よくあるリアクションは——
 「遺言、、、でも作るの高そう」
 「遺言だけでノートはいらないのでは?」
 あるいはノーリアクション(心の声が“はい、はい、そのうちね…”)

そんな風に思っている方に向けて、今回は「お金」の視点から、サクッと違いと必要性をお伝えします。

法的な効力があるのは「遺言」

遺言(Will)は、法律にのっとって書かれた法的効力のある文書です。亡くなったあと、裁判所の手続きを経て、正式に執行されます。

一方、エンディングノートは、気持ちや希望を書き留めておく自由形式のノート。法的効力はありませんが、自分らしさや思いを伝える手段としてとても有効です。

そして何より、これからの人生をより豊かに生きるための道しるべにもなります。ノートを書くことで、自分の気持ちや考えが整理され、「これからどう生きたいか」に目を向けるきっかけにもなります。 

誰かのために、ではなく、これからの「わたしのために」書くノート
そんな風にとらえると、少しハードルが下がるかもしれません。

「ノートは必要ない」と思ったあなたへ

実は、北米で作成される遺言は、日本のように資産をひとつひとつ書き出すのではなく、「自分名義の遺産があれば、配偶者に100%。もし配偶者がいなければ、子どもに等分して渡す」といったように、配分を指定するスタイルが一般的です。

「じゃあ、日本みたいに財産の目録をつけておけばいいのでは?」そう思う方もいるかもしれません。

でも実際には、資産の内容は変わるもの。そのたびに遺言を更新するのは、費用も手間もかかるのが現実です。

その点、エンディングノートなら、自分で資産の内容を書き出すことができ、いつでも書き直せるので、家族にも渡しやすい。「今ある資産の全体像」を整理して伝える手段として、ぴったりなんです。

北米でよくある「うっかり財産」の行方

北米では、遺言に記載されていなかった口座や保険・投資などの資産が、 誰にも気づかれずに放置されると、一定期間後に州政府に没収される仕組みがあります。

これを「エスキート(escheat)」と言います。

たとえば、亡くなった方の証券口座に5,000ドル残っていたとしても、家族がその存在を知らなければ、将来的には州の財産として引き取られてしまうのです。

つまり、遺言にもノートにも書かれていない資産は、存在しないも同然になってしまう可能性があるということ。

日本でも毎年「行き場を失った財産」が国庫に

こうした現象は、実は日本でも起きています。

2022年度には約768億円だったのが、さらに32%も増え、23年度には約1015億円もの相続財産が誰にも相続されないまま、国庫に納められたと報告されています。(出典:2025/2/9 日本経済新聞)

「家族に残したつもりの財産」が、準備不足で「なかったこと」になってしまう。それって、ちょっと悔しいし、こんなことなら、ケチケチせずに使っておけばよかった〜!ってなりかねません。

今日のまとめ

・遺言は、法的な「指示書」
・エンディングノートは、気持ちと情報を伝える「連絡帳」
・どちらも揃えてこそ、あなたの大切な「お金」と「思い」がきちんと届きます。

「いつか」じゃなくて、「今」のあなたにしか書けないことがあります。未来の家族を守るノートは、実は“いまの自分”を整えるノートでもあるのです。

書いたその日から、心がふっと軽くなる。そんな感覚を、ぜひ味わってみてください。

Let’s 海外終活!!
あなたの心に、ひとつでも多くの「安心」を。

次回は「作るの高そう…でも放置のほうが高くつく!? 遺言とノートの“本当の価値”とは」をお届けします。どうぞお楽しみに!

*ご感想・ご質問は、メールにてお気軽にどうぞ。voice@shukatsu.ca

本コラムは終活に関する一般的な情報提供を目的としています。内容には十分配慮しておりますが、必要に応じてご自身での確認や、専門家へのご相談をおすすめします。なお、本コラムをもとに行動されたことによる不利益については、免責とさせていただきます。

「Let’s海外終活~終活は新しい大人のマナー」の第1回からのコラムはこちらから。

叶多範子(かなだ・のりこ)

グローバルライフデザイナー/海外終活アドバイザー
カナダ・バンクーバー在住。

カナダで親しい友人を突然亡くしたことをきっかけに、終活の大切さを実感。
相続専門の弁護士アシスタントとしての経験をもとに、海外を含むさまざまな場所で暮らす日本人の終活を、学びの視点から支えている。

エンディングノートの活用や家族との対話を通じて、「自分らしくこれからを生きる」ヒントを共有する活動を続けている。

「終活」を、これからの人生を見つめ直す機会ととらえる——そんな“私活(わたしかつ)”という考え方も、大切にしている。

家族は、カナダ人の夫、2人の息子、愛猫1匹。
ホームページ:https://www.shukatsu.ca

サーロー節子さんインタビュー「I have to break the silence」プライバシーを犠牲にして訴え続けたトロントでの活動

講演の時にはいつも持っているという被爆時に広島女学院に通っていた学生や教職員の名前が書かれた黄色い布を広げて説明するサーロー節子さん。2025年7月5日、ハミルトン市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
講演の時にはいつも持っているという被爆時に広島女学院に通っていた学生や教職員の名前が書かれた黄色い布を広げて説明するサーロー節子さん。2025年7月5日、ハミルトン市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 アメリカ留学でのつらい経験を通して被爆証言の重要性を確認したサーロー節子さん。結婚して新たな生活の場となったオンタリオ州トロント市で本格的な平和活動へと取り組んでいく。

 話の中で「もう我慢できない “Break the silence”」と活動家気質な一面をのぞかせた。「誹謗中傷を受けても発信していく覚悟」と「行動せずにはいられない責任感」。トロントから平和を発信する活動家「サーロー節子」さんの本領はここからだった。

“I have to break the silence”これが私のモットーになった

 カナダ人男性と結婚して住んだのがトロント市。結婚式を挙げるまでにも戦いがあった。当初は留学先だったバージニア州での結婚を考えていた。しかし、当時白人と非白人の結婚はバージニア州では「違法」だった。ならばと結婚相手の家族がいるトロントでの結婚を望んだ。そこにも壁があった。1955年当時のカナダの移民法ではアジア人などの非白人系の移民を厳しく制限していた。サーローさんによると「結婚式を挙げるための入国はできなかった」という。そこで、バージニア州に近いワシントンDCで結婚式を挙げ、ナイアガラを通ってカナダに入国した。「核の問題だけではなく人種問題でも苦しめられました」

 移住したトロントは「静かで平穏な町」だった。それは日曜日には教会以外活動していないのではないかと思えるほどの町の静けさというだけではなく、原爆について無関心という静かさでもあった。

 トロントではトロント大学大学院でソーシャルワークの修士課程を修了した。その後日本に帰り、再びトロントに戻ってきたのは1962年。町は「相変わらず静かでした」。8月6日が来ても「新聞もテレビも何も伝えない。そういう時は主人と一緒にカヌーを漕いで、私が流す涙を彼がぬぐってくれる、そういう日々が何年か続きました」と穏やかな笑みを見せた。

 カナダでの広島・長崎原爆投下への意識の低さに驚いていた。「しばらくは我慢しましたけどね」。広島・長崎への原爆投下から30年という1975年が近づいていた。「その時には、『もう我慢できない。これではいけない。“I have to break the silence”』それが私のモットーになったんです」。握りこぶしを作り、声に力がこもった。

 アメリカ留学の時は偶然にも水爆実験という背景が後押しして被爆者として語ることをある意味強いられた。しかし今回は自ら荒波に漕ぎ出していった。

 行動せずにはいられなかった。やると決めたらなるべく多くの人に伝える方法を考える必要がある。「どうやろうか?どうやるべきか?」。これまで色々な場面で頼まれれば話はしていたが、もっと効果的な方法はないか?思いついたのが広島・長崎の写真展だ。「視覚に訴える」必要があるとの思いに至った。

 思いついたら即行動。「広島や長崎に行って市長さんにこういう事情だからこうやりたいと思う、協力してくださいと話をしました」。両市とも写真やビデオの提供に協力的だった。その間にトロントでも準備を始めた。まずは団体を作る、そして色々な人に声を掛ける。例えば、大学の教授とか科学者とか、ビジネス界とか。広島・長崎の市長も協力は惜しまなかった。当時のトロント市デイビッド・クロンビー市長も、さらにカナダ初の女性副総督オンタリオ州ポーリン・マクギボン副総督までも協力を申し出たという。そこには平和活動が違う意味に取られかねないことへの配慮もあった。

 30周年イベントは成功に終わった。多くのトロント市民が8月6日に広島で何が起きたか知ることになった。しかし副産物も生まれた。副産物には良い影響も、そうでないのもあった。

 トロント市でソーシャルワーカーとして教育委員会に関わっていたこともあり、「クラスの生徒たちに話してほしい」と現場の先生から声がかかるようになった。初めはうれしかったが、「先生たちの個人的な配慮によって平和教育をするのではなく、システム全体でこういう活動をしていかなくてはいけない」と考えた。

 「そういう意味では教育委員会というところは組織が大きいだけに動きも鈍いんです」。そこでまた考えた。「教育委員会のトップの人たちを巻き込んでいく」。ミーティングを持ち、「核兵器とは何か、社会的・道徳的な責任はないのか」など専門家を交えて、まずは教育委員会を教育することから始めた。「決定権を持つ人たちに理解してもらうことから始める方がその後の動きが迅速になるから」

 また「学校の中でこの問題をみんなで話し合う環境を作ることも大事」と若い世代に理解してもらうため、「まず生徒たちに広島・長崎の意義についてエッセイを書いてもらいました。リサーチも自分たちでやってもらう」。トロント市の多くの高校で実施した。優秀なエッセイを書いた生徒2人を選び、最終的には「私が引率して広島・長崎を案内してきました」。

 教育者も生徒も巻き込んで平和学習に取り組んだ。そうするとメディアがそれを取り上げた。カナダではCBCが、日本ではNHKがドキュメンタリーを作った。引率した生徒2人も日本で積極的にスピーチした。「非常に活発な流れができました」。2人は日本から帰って来るとトロントでもまた平和の使者としてステージに立った。

 相乗効果で多くのカナダの人に知られることとなった。さらに「当時のブライアン・マルルーニ首相が会いたいと言ってくれて。カナダでも原爆のことをオープンに話せるようになりました。良かったと思います」。

 活動は教育だけにはとどまらない。時は前後するが、原爆投下から30年の前年、1974年5月18日、インドが核実験を行った。世界に衝撃が走った。が、カナダではサーローさんたちがすでに「危惧していたこと」だった。

 インドの核実験は、カナダが供与したCIRUS炉(重水減速型天然ウラン燃料の原子炉。重水はアメリカが供給)の使用済み燃料を利用した。カナダは1963年のカナダ・インド原子力協力協定で、施設は「平和的目的にのみ使用される」との条件で合意し、供与した施設に対する厳格な管理規定はしていなかったという。

 サーローさんは実験が行われる前に軍事利用の危険性を訴えるため、大学の教授に訴えることにした。「太平洋から大西洋まで大学の教授に手紙を書いて、今こういうことが起きている、警告を発する必要があると呼び掛けました」。警告は新聞に全面広告という形で出した。費用は教授たちから寄付を募った。広告には寄付に協力した教授たちの名前を掲載し、「広告が3回掲載できるほど寄付が集まりました」。それだけカナダでも原爆の危険性が知られてきたという証拠でもあった。

 「それからはトロントだけではなく、色々な街で大学の先生たちが中心となって反核の動きが出てきました。それも副産物として良かったと思いますね」。

 しかし良いことばかりではなかった。「うれしいと同時に非常に苦しかったです」。最もつらかったのはプライベートがなくなったこと。「『こういう団体を作りました。これからこういうイベントをします』って一般の人に知らせるでしょ。もちろんメディアも取り上げてくれます。そうするとパーッと拡散される。一度そういう立場になると隠すことができない。もう自分のプライベートなんてないんです。メディアの人たちって色々なことを聞きますからね。『それは言えません』なんて言えいない」。覚悟はしていたが、それが本当に一番苦しかったと振り返る。

 「それを我慢してよくやってきたって思います」。そして舞台はカナダから世界へと移っていった。

続く

サーロー節子さんインタビュー「22歳から被爆者として語る覚悟」(前編)

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プライドパレード2025 ルート変更でも盛り上がる

トランスリンクのパレード。2025年8月3日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito
トランスリンクのパレード。2025年8月3日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito

 今年もプライドパレードが華やかに開催された。8月3日、パレードの沿道には多くの人が詰めかけ、レインボーカラーがはためく列に歓声を上げた。

 例年は、デンマン・ストリートやビーチ・アベニューを通り、ダウンタウンの外側をぐるりと回るように行われたが、今年は縮小され、バラード・ストリートの交差点からパシフィック・ブルーバードをBCプレースに向かって進み、コンコルドパシフィックの入り口辺りがゴールとなった。

 プライドフェスティバル実行委員会によると、今年のルートは上り下りの起伏が少なくパレードがスムーズに進むこと、観客にとっては日影が多いルートで暑さをしのげること、スカイトレインの2つの駅が近いことでアクセスがいいことなどの理由でルートが決まったという。

 パレードはプライドフェスティバルのハイライトで、毎年約10万人が詰めかけるバンクーバーの夏の一大イベント。今年はスポンサーが減少した関係で小規模になったということだが、それでも「多様性」を象徴する盛り上がりが陰りを見せることはなかった。

バンクーバー消防署もプライドを応援。2025年8月3日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito
バンクーバー消防署もプライドを応援。2025年8月3日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito
バンクーバー・スクールボード。2025年8月3日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito
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MLSバンクーバー・ホワイトキャップスも参加。2025年8月3日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito
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トランスリンクのプライドパレード仕様のバス。2025年8月3日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito
トランスリンクのプライドパレード仕様のバス。2025年8月3日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito
パレスチナを支持する団体によるデモで行進が遅れる事態も...。2025年8月3日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito
パレスチナを支持する団体によるデモで行進が遅れる事態も…。2025年8月3日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito

(記事 編集部)

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「カナダ“乗り鉄”の旅」第27回 世界的人気を誇るカナダの看板夜行列車、客車は“ビンテージ品”! シリーズ「カナディアン」【1】

VIA鉄道カナダの夜行列車「カナディアン」(カナダ西部サスカチワン州で大塚圭一郎撮影)
VIA鉄道カナダの夜行列車「カナディアン」(カナダ西部サスカチワン州で大塚圭一郎撮影)

大塚圭一郎

 カナダの都市間旅客鉄道を担う国営企業、VIA鉄道カナダの看板列車となっているのが夜行列車「カナディアン」だ。カナダ東西の主要都市であるオンタリオ州トロントのユニオン駅と、バンクーバーのパシフィックセントラル駅と4泊5日で93―97時間程度かけて結ぶ。アメリカの有力旅行雑誌「コンデナスト・トラベラー」の読者が選ぶ「世界の優れた鉄道旅行ランキング」で2024年に13位となったように高く評価されており、早くから予約が埋まるほどの人気を誇る。JR東海は東海道新幹線(東京―新大阪間)の看板列車「のぞみ」などに使う最新型車両N700Sに「1編成16両当たり70億円近く投じており、のぞみの初代車両300系(量産車)の約40億円より格段に高くなった」(幹部)とされる。同じようにVIA鉄道もカナディアンに設備投資を惜しまないかと言えば、さにあらず。ディーゼル機関車がひく客車は“ビンテージ品”で、アメリカから譲り受けた中古車も現役なのだ。

【夜行列車】都市間を移動する利用者向けに、日をまたいで夜間に運転される列車。移動時の二酸化炭素(CO2)排出量を航空機に比べて低減できるため、脱炭素化の一環で見直されている。むやみに旅客機を利用することを「フライトシェイム(飛び恥)」と批判する向きがあるヨーロッパでは、オーストリア連邦鉄道の国際夜行列車「ナイトジェット」が同国やスイス、ドイツ、フランス、イタリア、クロアチアなどの計25都市超を結んでいる。

 夜行列車は、就寝しやすいようにベッドを備えた寝台車や、比較的安い料金で利用できる座席車両などを連結しており、売店や食堂車を備えている場合もある。VIA鉄道カナダはトロント―バンクーバー間の「カナディアン」、東部ケベック州モントリオール―ノバスコシア州ハリファックス間の「オーシャン」、マニトバ州の州都ウィニペグ―チャーチル間の3区間で夜行列車を走らせている。日本では東京―出雲市(島根県出雲市)間の寝台特急「サンライズ出雲」と、東京―高松・琴平(香川県琴平町)間の「サンライズ瀬戸」が唯一の定期夜行列車として1日1往復しており、東京―岡山間は連結して走る。

▽看板列車なのを示す列車番号

 カナダ唯一の大陸横断旅客列車で、旧10カナダドル紙幣にカナディアンロッキーを駆けるイラストが描かれていたカナディアン。VIA鉄道の看板列車なのは疑う余地がなく、トロント発バンクーバー行きの列車番号は「1番」、バンクーバー発は「2番」だ。

走行中の「カナディアン」の列車(大塚圭一郎撮影)
走行中の「カナディアン」の列車(大塚圭一郎撮影)

 カナダの代表的な航空会社エア・カナダの「AC1便」はトロント・ピアソン国際空港発羽田空港行き、「AC2便」は東京発トロント行きで、カナダ最大都市と日本の首都を結ぶ路線の重要性を物語る。東西の主要都市をつなぐカナディアンは、同じような重みを持つ。

 カナディアンはトロント―バンクーバー間を週2往復し、夏の繁忙期には途中の西部アルバータ州エドモントン―バンクーバー間の週1往復を追加。カナダの鉄道路線の大部分は貨物鉄道大手のカナディアン・ナショナル鉄道(CN)、カナディアン・パシフィック・カンザス・シティ(CPKC)が保有しており、カナディアンは主にCNの路線を借りて運行している。

VIA鉄道カナダのカナディアンとすれ違うカナディアン・ナショナル鉄道(CN)の貨物列車(大塚圭一郎撮影)
VIA鉄道カナダのカナディアンとすれ違うカナディアン・ナショナル鉄道(CN)の貨物列車(大塚圭一郎撮影)

 列車には手ごろな料金で利用できるリクライニング座席の「エコノミークラス」、開放型の上下になった2段寝台、原則として1人用と2人用がある個室寝台の「寝台車プラスクラス」、2人用個室の豪華仕様になった最高級の「プレスティージ寝台車クラス」がある。ドーム状のガラス張りの展望スペースを2階に備えた客車や、シェフがその場で腕によりをかけて調理した食堂車なども連結している。

 途中では五大湖の一つのヒューロン湖、小麦などの畑が果てしなく広がる穀倉地帯、そしてカナディアンロッキーの優美な山容などの大パノラマが車窓に広がる。寝台車の利用者は食堂車を使うことができ、中でもラムチョップは「鉄旅オブザイヤー」の審査員を務めている私も「線路上で味わった中で最高の料理」だと評価している。

VIA鉄道カナダの「カナディアン」の食堂車で提供されたラムチョップ(大塚圭一郎撮影)
VIA鉄道カナダの「カナディアン」の食堂車で提供されたラムチョップ(大塚圭一郎撮影)

 輪をかけて魅力を高めているのが、乗務員によるカナダや沿線に関するレクチャーと、他の乗客との会話だ。私はカナディアンの寝台車に2回乗り、カナダ人や中国系カナダ人、アメリカ人、日系ブラジル人、韓国人、オーストラリア人、日本人など幅広い利用者と話し、とても楽しい時間を過ごすことができた。

▽バンクーバーからウィニペグまでわずか7時間!?

 2024年8月12日午後1時すぎ、トロント行きのカナディアン2番列車が出発するバンクーバーのパシフィックセントラル駅に着いた。出発は午後3時のため、2時間近く前に石造りの重厚な駅舎をくぐった。

カナダ西部バンクーバーのパシフィックセントラル駅(大塚圭一郎撮影)
カナダ西部バンクーバーのパシフィックセントラル駅(大塚圭一郎撮影)

 それには下心があったためだが、驚いたのはVIA鉄道も準備万端だったことだ。駅構内で、予約客の受付をする係員が既に待機していたのだ。

「カナディアン」の「寝台車プラスクラス」の2人用個室(大塚圭一郎撮影)
「カナディアン」の「寝台車プラスクラス」の2人用個室(大塚圭一郎撮影)

 私は妻、高校生の息子との計3人で利用し、寝台車プラスクラスの2人用個室と1人用個室を予約していた。預け入れ荷物がないことを伝え、その日の夕食時間を午後7時に予約すると、係員に「何か質問はありますか」と言われた。

 そこで、「念のためですが」と前置きし、印刷した乗車券を係員に示しながらこう確認した。

 「この乗車券には2024年8月12日月曜日バンクーバー15時発、ウィニペグ22時着と記されていますが、到着は8月14日水曜日の22時にマニトバ州のウィニペグに着くという理解でいいですよね」

 乗車券にはウィニペグ到着が22時としか記載されておらず、まるで出発7時間後にウィニペグに到着するように読めるのだ。しかしながら、両都市間は鉄道で約2500キロも離れており、最高時速285キロの東海道新幹線でも7時間で結ぶのは不可能だ。

 VIA鉄道の時刻表には2日後の午後10時に到着すると書かれており、時刻が一致しているので「8月14日水曜日」を省略したと推測した。

アメリカ西部ワシントン州のバンクーバー駅舎(大塚圭一郎撮影)
アメリカ西部ワシントン州のバンクーバー駅舎(大塚圭一郎撮影)

 しかし、同じ名前の駅名を指しているとも限らない。例えばバンクーバーと聞くとカナダのバンクーバーだと受け止めるのが常識的だが、アメリカ国民の一部はワシントン州バンクーバーを思い浮かべる。しかもややこしいのは、アムトラックの国境縦断列車「カスケード」は両方のバンクーバーに立ち寄るのだ。

 アメリカ西部オレゴン州ポートランドを午後2時10分に出発するカナダ・バンクーバー行きカスケードの切符を買い、運賃が驚くほど安かった場合には券面をもう一回見直した方がいい。この列車は終点まで7時間50分かかり、たとえ早く予約したとしても二束三文で売られていることは考えにくいからだ。

アメリカ西部ワシントン州のバンクーバー駅の駅名標。ワシントン州を示す「WA」と記されている(大塚圭一郎撮影)
アメリカ西部ワシントン州のバンクーバー駅の駅名標。ワシントン州を示す「WA」と記されている(大塚圭一郎撮影)

 一方、ワシントン州バンクーバーはポートランドを出て18分後に到着する1つ目の停車駅であり、至近距離のため安値で乗車できる。

 VIA鉄道の時刻表ではマニトバ州ウィニペグ以外に同名の駅名は見当たらなかったものの、実は別のウィニペグ駅に臨時停車するという事態はあり得ないだろうか。

 その場合には出発初日に寝台車の個室で気持ちよく就寝したと思いきや、客室乗務員が扉を「ドンドンドン」とたたいて「下車駅に到着しました」と個室から出るように促される。寝ぼけ眼をこすり、降り立ったのは闇に包まれて人家もまばらなカナディアンロッキーの山奥だったという悪夢が現実になりかねない…。

 私の質問を聞いた係員は「はい、水曜日の午後10時にマニトバ州ウィニペグに到着します」とお墨付きをくれた。

 胸をなで下ろした一方で、券面の日付を省略するのならばせめて「マニトバ州」、または同州を指す「MB」と記載してくれればいいのにとも思った。これに対し、VIA鉄道は「カナディアンが停車するウィニペグは他にないので、記載は不要」と判断したのかもしれないが…。

▽長大編成のユニークな停車方法

 受付作業を終えた係員は「乗車案内があるまで、あちらの待合室でお待ちください」と私から見て左側を指さした。これこそ出発2時間近く前に来た理由で、駅舎には寝台車利用者ならば無料で使える待合室があるのだ。

 待合室には利用者が自由に味わうことができるホットコーヒー、紅茶のティーバッグとお湯、ビスケット、クラッカーなどが置かれていた。しかしながら、昼食時間帯にもかかわらず食事になるものは用意していないのだ。

 やや肩を落としながらも、「今夜は線路上の豪華ディナーが待っているから」と自分に言い聞かせてコップに注いだコーヒーと、ビスケットを握り、テーブル席を求めて屋外に出た。目の前の光景はまるでアリーナ席のようで、駅舎の手前で行き止まりになった頭端駅には、これから乗ろうとしている客車が待ち構えていた。

 ここで私は解決しなければならない「宿題」に取り組んだ。2023年12月にカナディアンでトロントからバンクーバーまでの全区間乗った際、客室乗務員は「この列車は機関車も含めて16両を連結していますが、夏の繁忙期は利用者が多いためもっと長い編成で運行します。ただ、プラットホームには収まらないため、停車駅では編成の途中で客車を切り離して2つのホームに停車させるのです」と教えてくれた。そのユニークな停車方法を直接確認したかったのだ。

 列車は22両の長大編成で、確かにバンクーバーでは二つに分かれて4番線と5番線に停車していた。うち4番線に止まっていたのが、アメリカの自動車大手ゼネラル・モーターズ(GM)の機関車部門だったEMD(現在はアメリカの建設機械大手キャタピラーの部門)の1975年に登場したディーゼル機関車「F40PH」2両と、利用者の預け入れ荷物などを載せる荷物車1両、エコノミークラス客車2両、ガラス張りのドーム状になった展望室を備えた中間車1両の計6両だ。

 一方、5番線に停車していたのは残る16両で、私たち家族が予約した寝台車プラスクラス、プレスティージ寝台クラス、食堂車、展望車などをつないでいた。

カナダ西部バンクーバーに停車中の「カナディアン」の客車(大塚圭一郎撮影)
カナダ西部バンクーバーに停車中の「カナディアン」の客車(大塚圭一郎撮影)

 これらの客車の多くはアメリカにあった金属加工メーカーの旧バッドが製造し、1954年の登場から車齢が70歳に達する「古希」だ。アメリカでお役御免になって“再就職”した客車もあり、VIA鉄道は古参客車を修繕しながら使い続けているのだ。

 では、なぜ看板列車なのに新しい車両に置き換えず、古い機関車と客車を使い続けているのか。それはVIA鉄道が慢性的な赤字経営で、政府の補助金で穴埋めしているため設備投資の余裕がないからなのだ。2024年12月期決算の本業の損益を示す営業損益も3億8520万カナダドル(1カナダドル=108円で約416億円)の赤字だった。

 ただし、カナディアンに一歩足を踏み入れると、北米で大陸横断列車が盛んに運行されていた1950年代にタイムスリップしたような優雅な空間に身を置くことができるのだ。もしもVIA鉄道の経営状態が左うちわならばとっくの昔に引退し、大部分は解体されていたことだろう。

 政府の補助金頼みのVIA鉄道に対し、カナダ国民の一部から「金食い虫」との批判が出ている。多額の税金が投入される国民の負担感には一定の理解ができるものの、私は「死に金」にはなっていないと受け止めている。

 というのも、経営に余裕がないことから「古希」の客車を大事に使い続けている姿は、世界が目指すサステナブル(持続可能)な社会に合致している。また、魅惑的な客車に乗り込めることがカナディアンの価値を高めており、大勢の外国人旅行者がカナダを訪れるきっかけにもなっている。そして利用者には金に糸目を付けずに旅行を楽しむ富裕層も多く、観光業を潤わせている。

 つまり、VIA鉄道およびカナディアンの運行は赤字であっても、カナダに大きな経済効果をもたらす起爆剤の一つになっているのだ。

 これは赤字経営でも、どちらかというと「良い赤字」ではないだろうか。

共同通信社元ワシントン支局次長で「VIAクラブ日本支部」会員の大塚圭一郎氏が贈る、カナダにまつわる鉄道の魅力を紹介するコラム「カナダ “乗り鉄” の旅」。第1回からすべてのコラムは以下よりご覧いただけます。
カナダ “乗り鉄” の旅

大塚圭一郎(おおつか・けいいちろう)
共同通信社経済部次長・「VIAクラブ日本支部」会員

1973年、東京都生まれ。97年に国立東京外国語大学外国語学部フランス語学科を卒業し、社団法人(現一般社団法人)共同通信社に入社。2013~16年にニューヨーク支局特派員、20~24年にワシントン支局次長を歴任し、アメリカに通算10年間住んだ。24年9月から現職。国内外の運輸・旅行・観光分野や国際経済などの記事を多く執筆しており、VIA鉄道カナダの公式愛好家団体「VIAクラブ日本支部」会員として鉄道も積極的に利用しながらカナダ10州を全て訪れた。

 優れた鉄道旅行を選ぶ賞「鉄旅(てつたび)オブザイヤー」(http://www.tetsutabi-award.net/)の審査員を2013年度から務めている。共同通信と全国の新聞でつくるニュースサイト「47NEWS(よんななニュース)」や「Yahoo!ニュース」などに掲載されている連載『鉄道なにコレ!?』と鉄道コラム「汐留鉄道倶楽部」(https://www.47news.jp/column/railroad_club)を執筆し、「共同通信ポッドキャスト」(https://digital.kyodonews.jp/kyodopodcast/railway.html)に出演。
 本コラム「カナダ“乗り鉄”の旅」や、旅行サイト「Risvel(リスヴェル)」のコラム「“鉄分”サプリの旅」(https://www.risvel.com/column_list.php?cnid=22)も連載中。
 共著書に『わたしの居場所』(現代人文社)、『平成をあるく』(柘植書房新社)などがある。東京外大の同窓会、一般社団法人東京外語会(https://www.gaigokai.or.jp/)の広報委員で元理事。

サーロー節子さんインタビュー「22歳から被爆者として語る覚悟」

サーロー節子さん。オンタリオ州トロント市内で。2025年4月1日。撮影 三島直美/日加トゥデイ
サーロー節子さん。オンタリオ州トロント市内で。2025年4月1日。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 今年も暑い8月6日がやってきた。80年前の8時15分、太陽よりも熱い光と風が広島の人々と町を焼き尽くした。生き残った人たちは「この世の物とは思えない光景」を経験し、被爆者として生きていく運命を負わされた。町は復興したが、人々の心に残った傷は癒えることがない。

 今年4月、サーロー節子さんにインタビューする機会を得た。おそらく世界で最も知られた被爆者で、平和活動家だ。広島女学院時代の学徒動員中に13歳で被爆。九死に一生を得たが、多くの学友を亡くした。

 多くの被爆者は自分の体験を語りたがらないという。理由はさまざまだ。当時を思い出すことが辛いから、被爆者として知られたくないから、自分だけ生きていることが申し訳ないから。鍵を掛けた記憶の奥の扉を開くことは難しい。

 それでも広島・長崎が忘れ去られる危機感と伝えておかなければならないという使命感から話し出す被爆者もいる。ほとんどは何十年も経ってから記憶を継承したいと始める。

 サーロー節子さんはどうだったのだろうと思った。インタビューで聞きたかったのは、今や平和活動家として知られる彼女の原点だった。

 これまで何百、何千ものインタビューを受けてきたサーローさん、メディアへの対応は「良い思いばかりではなかった」と話した。同じ質問に何度も答えてきたに違いない。それでも、インタビュー中に質問を拒否することも、嫌な顔をすることもなく、常に笑顔で真摯に応じてくれた。そこには自分の声を届けられなかった学友たちの声も代弁して、被爆体験を語り継ぐという強い覚悟があった。

 まだ寒さが残る4月初旬、トロント市内で話を聞いた。被爆者として活動を始めたきっかけ、トロントでの活動、核兵器禁止条約への道などに話は及んだ。全3回。

アメリカ留学時代に折れなかった心「被爆者として発言を止めることはできない」

 「被爆後みんな苦しい時代を生きてきたんです」と話し始めた。「もうこういうことが絶対に世界の誰にもあってはいけないんだっていう確信を持って生きてきました。学友に起きたこと、そういうことは許されない」。静かな口調に強い意志がにじむ。

 広島は被爆して「平和主義」の町となった。その中で育ち、平和活動を起こすという「土台は(自分の中に)できていたと思うんです」。

 しかし本当のきっかけになったのはアメリカ留学時代の経験だった。広島女学院大学を卒業して1954年にアメリカの大学に留学することになった。

 日本は1952年のサンフランシスコ講和条約の発効で、国際舞台へ復帰したばかりだった。女性の留学など一般的ではない時代。それでも留学を決意したのは、被爆した街で必死に生きる子どもたちを助ける大人や牧師の姿だった。

 「戦争が終わって学童疎開から被爆した広島に帰ってきても、町がない、親がいない、身内もいないという子どもたちがたくさんいました」。生きるためには犯罪のようなことをする原爆孤児がいる、「社会問題がいっぱいでした」。そんな子どもたちに手を差し伸べていたのは良識ある大人たち。「私の教会の牧師先生もその先頭に立っていました」。牧師たるもの次の日曜日の説教の準備をするのが仕事だと非難する人もいたが、「先生は『いやいや愛の行動がなくて、それはクリスチャンとは言わない』と言って」。まだ10代だった節子さんに「大人の生き方」を態度で示していたという。「私もあの先生のようになりたい、人様のお役に立つサポートのできる人間になりたいっていう願望を持つようになりました」。

 そこで当時の広瀬ハマコ学長(1951~70年)に相談した。当時ですでにアメリカのコロンビア大学で博士号を取得していた女性の学長だった。ソーシャルワークに興味があると相談すると、「ソーシャルワークは学問として日本では設置されていない」と教えられた。だからソーシャルワークの学問とトレーニングを受けるにはアメリカに行くしかないと。「『ソーシャルワークを勉強して、帰ってきて、この町で女性運動の先頭に立ってほしい。今は民主主義に社会が変わって女性も男性と一緒に働ける時代になったから、そういうことを手伝ってほしい』って言われて。それで、『私はそういうことをやりたい』と思ってソーシャルワークを選んだんです」。

 1954年、広島を発って2週間かかってアメリカに到着した。大学はバージニア州にあった。「その年っていうのは世界にとって大変な年だったんです。特に日本の人はそれを強く感じたと思います」。

 アメリカは1954年3月1日、中部太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁で水爆実験を実施した。爆発力は広島へ投下した原爆の約1000倍に相当し、46年から始まった実験は12回目だったが、それまでで最大規模だったという。この時近くでマグロ漁をしていた第五福竜丸の乗組員23人が被曝(ひばく)した。日本に帰港して、この事実が新聞などで報道されると日本中で原水爆への反対運動が起きた。「日本の国民が立ち上がってこれほどの運動を起こすっていうのは初めてのことだったと思う」と振り返る。

 こうした背景の中、アメリカに到着。「早速メディアのインタビューを受けました。『あなたは広島から来たと聞いているけれども今起きていることに対してどう思っていますか?』と」。答えは明快だった。「アメリカはこういうことを即座に止めるべきだ。実験をするということは開発を続けるっていうことで、核戦争の準備をすることだ、と。私は広島で見てはならないものを見てきたんだ、とすごく怒って言いました」。大学を出たばかりで言いたいことを自由に言って相手がどう思うかなんか心配しないで意見を言ったと微笑んだ。

 取材で言った内容は翌日の新聞に早速掲載された。それから脅迫の手紙が大学に来るようになったという。「『誰があなたに奨学金を出していると思う?』『日本へ帰れ』『アメリカの外交政策を批判するような人はアメリカに来るべきではない』『パールハーバーは誰が始めたんだ』と、とにかく袋叩きになったんです」。

 学校で授業に出席することもできず、大学の寮にいることすら危険だと感じ、支援してくれていた大学の先生の家で過ごすことになった。

 「そこで一人で色々と考えました。そういう人たちにどう対応すればいいのか、脅しの手紙には命にもかかわるようなことが書かれて、トラウマになるような経験でした」。しばらくは震えながらどうすればいいのか、こういう社会で生きていくことができるのか、自問自答する日々が続いた。

 それでも帰国するという選択肢はなかった。「私には道徳的に責任があるんだ」「どういうことがあっても被爆者としての発言を止めるってことはできない」という強い思いが恐怖を乗り越えた。「今考えると自分の肩をたたいて褒めてやりたいと思うんです。22歳の大学を出たばかりの若い子がよく言えたなって。そして、ああいう状況からよく奮い立ったなって。そういうことがきっかけでした」。

 アメリカに滞在した1年間では大学内で色々なコミュニティで発言し、証言をした。労働組合や教会や女性の団体などから招待を受けたら全て引き受けた。大学では討論会にも出席した。

 13歳で被爆して、10年しかたっていなかった。

続く

(取材 三島直美)

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バンクーバー・ライズ悔しい引き分け、岡本は後半フル出場でアシスト

試合後のインタビューに応じる岡本。2025年7月24日、バーナビー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
試合後のインタビューに応じる岡本。2025年7月24日、バーナビー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

 NSL(ノーザンスーパーリーグ)バンクーバー・ライズはオタワ・ラピッドFCを迎えた。拮抗する両チームの今季を象徴するかのような好ゲームとなった。

8月2日(スワンガード・スタジアム:3,988)

バンクーバー・ライズ 3-3 オタワ・ラピッド

前半はオタワが推す展開で13分に先制点、しかしバンクーバーも15分にはクインの技ありのミドルシュートが右隅に決まり同点に。その6分後には再び1点を取られリードを許した。しかしバンクーバーは38分に同点に追いつく。後半はバンクーバーが58分に決めてリードした。このまま勝利するかに思えたが、アディショナルタイム終了間際の96分にボールの奪い合いからオタワに反則があったように見えたがバンクーバーの選手が倒されたままゴールを決められ同点で終了した。

豪快にミドルシュートを決めたクイン、同点ゴールの後で喜び爆発。2025年8月2日、バーナビー市。Photo by Jordan Leigh/Vancouver Rise
豪快にミドルシュートを決めたクイン、同点ゴールの後で喜び爆発。2025年8月2日、バーナビー市。Photo by Jordan Leigh/Vancouver Rise

岡本は後半から45分出場、得点に絡みアシストも

 前半は押され気味だったバンクーバーだったが、同点で後半を迎えた。岡本祐花は後半の最初からピッチに立ち、名前が呼ばれると大きな歓声が上がった。ポジションは左サイドバック、攻撃の時には左サイドをグッと上がっていく。

 58分の勝ち越し点は岡本が上げたボールがFWワードのゴールにつながり、移籍後初アシストが付いた。前半が終わった後に監督から「フレッシュで入るから、いっぱい走ってチームに貢献してほしいと言われた」と岡本。「そこは本当に攻撃参加を意識して勝ちに行く気持ちで入りました」と勝ち越し点につながった。

 チームは悔しい引き分けだったが、「自分自身も慣れてきて、攻撃参加の部分ではもっともっとできるかなと思っています。これからチームメートともコミュニケーションを取りながら新しいチームの中心選手になれるようにがんばりたいと思います」と手ごたえを感じていた。

ホワイトキャップスGK高丘選手にもあいさつ、工藤選手との縁も

 バンクーバーではMLSホワイトキャップスでGK高丘陽平選手が活躍している。クラブハウスで会った時には「こんにちは。お願いしますと話したくらいです」と笑う。それでも男女のリーグという違いこそあれ、バンクーバーに日本人サッカー選手がいることは「心強い」と言う。

 「いま活躍されている選手なので、コミュニケーションの部分だったり、色々アドバイスが聞けたらいいなと思います」と語った。

 バンクーバー・ホワイトキャップスには2016年に工藤壮人選手が所属していた。岡本選手は工藤選手がまだJリーグ柏レイソル時代に東京で開催したサッカーワークショップに子どもの頃一度参加したことがあるという。

 工藤選手はその後バンクーバーに移籍。1年在籍してJリーグに戻ったが、今年は岡本選手がバンクーバーのチームに移籍。「バンクーバーに縁があると思います」と笑った。

アウェイで日本人対決2試合

 バンクーバーはこの後8月は3試合連続でアウェイとなる。9日にはハリファックスでタイズFCと対戦。ハリファックスには中村恵実が所属している。日本ではAC長野パルセイロでチームメートだったという。17日にはAFCトロントの木﨑あおいと再び対戦する。

 ライズがバンクーバーに戻るのは30日。モントリオール・ローズと対戦する。

バンクーバー・ライズ今季のホームゲームhttps://www.vanrisefc.com/

8月30日(土)7pm モントリオール・ローズ戦
9月6日(土)4pm カルガリー・ワイルドFC戦
9月20日(土)1pm オタワ・ラピッドFC戦

(取材 三島直美)

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広島長崎パネル展、バンクーバーイエールタウンで開催

原爆ドーム。広島市。撮影 日加トゥデイ
原爆ドーム。広島市。撮影 日加トゥデイ

 広島長崎への原爆投下から80年となる今年、カナダ各地で原爆に関するイベントが開催されている。

 ブリティシュ・コロンビア州バンクーバー市では、8月5日から3日間の日程で原爆に関するパネル展が開催される。

 核兵器投下に至る歴史的な過程、広島と長崎の住民に与えた即時および長期的な影響、生存者や市民社会による核兵器廃絶への取り組みを描いた30枚のポスターを紹介。

 世界情勢が不安定さを増す中、バンクーバーで広島・長崎からの声にもう一度耳を傾ける機会となる。

Remembering Hiroshima and Nagasaki: 80 years of the nuclear age

日時:2025年8月5日~7日 9:00am~9:30pm
会場:The Roundhouse Community Arts & Recreation Centre(181 Roundhouse Mews Vancouver, BC)
入場料:無料
ウェブサイト:https://www.roundhouse.ca/event/remembering-hiroshima-and-nagasaki/2025-08-05/

(記事 三島直美)

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広島原爆投下80年に姉妹都市モントリオールで原爆パネル展

広島市から寄贈された「平和の鐘」。2025年4月5日、モントリオール市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
広島市から寄贈された「平和の鐘」。2025年4月5日、モントリオール市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 今年広島長崎原爆投下80年を迎え、カナダで関連イベントが相次いで開催されている。広島市と姉妹都市のモントリオール市(ケベック州)では、市が主催するパネル展が8月4日から開催される。

ケベック州モントリオール市国際課 Arber Fetiuさん。2025年4月4日、モントリオール市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
ケベック州モントリオール市国際課 Arber Fetiuさん。2025年4月4日、モントリオール市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 モントリオール市国際課のArber Fetiuさんは、トロント市(オンタリオ州)在住の広島で被爆した平和活動家サーロー節子さんから連絡があり、モントリオール市で開催することになったと説明した。昨年から準備していたという。

 さらに広島市松井一實市長からも公式に書簡でパネル展開催にモントリオール市の協力を要請されたと明かした。モントリオール市と広島市は1998年5月19日にモントリオール市で姉妹都市提携の調印をして以来、積極的な文化・経済的交流が続いている。

 今年は2人の若者が8月6日の平和式典に参加するために広島を訪問する。滞在中はホームステイなどを通して広島を体験するという。

広島市から寄贈された「平和の鐘」。2025年4月5日、モントリオール市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
広島市から寄贈された「平和の鐘」。2025年4月5日、モントリオール市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 モントリオール市でも毎年日本時間の8月6日午前8時15分と同時刻の東部標準時8月5日午後7時15分に記念式典が行われている。場所は、モントリオール市植物園内にある日本庭園。広島市から寄贈された平和の鐘の前で行われる。今年は80年という節目の年ということで8月6日には鐘を80回鳴らす予定だ。

 今回のパネル展は原爆投下80年に合わせたイベントの一つとして8月6日を含めた4日から8日まで “Survivre et témoigner: témoignages dessinés des survivantes et survivants d’Hiroshima”と題して広島の被爆者が描いた当時の様子を絵で紹介する。展示されるのは25作品。会場はThe Conseil des arts de Montréal。

 モントリオール市は早くから平和首長会議にも参加。1985年8月に「世界平和連帯都市市長会議」として第1回が開催され、モントリオール市は1987年7月に加盟。現在は副会長都市として、また地域グループを管轄するリーダー都市としての役割を担っている。今年は8月7日~10日(日本時間)に長崎で開催される。Fetiuさんは、今年は秋に選挙が控えているため「残念ながら市長や市議の参加は見送られる予定」と話す。それでも平和への思いは変わらない。

 今回のパネル展を通してより多くのモントリオール市民に平和について考える機会になってほしいと語った。

“Survivre et témoigner: témoignages dessinés des survivantes et survivants d’Hiroshima”
(広島の被爆者による被爆体験絵画展)

日時:2025年8月4日~8日
会場:the Conseil des arts de Montréal(1210 Sherbrooke St. E, Montréal, Québec, H2L 1L9)https://www.artsmontreal.org/en
入場料:無料
ウェブサイト:https://www.facebook.com/mtlville/?locale=fr_CA

(取材 三島直美)

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「大暑来る*くず餅ひやり夏深し」

カナダde着物

第73話
*和の涼:風を通す軽やかな絽の着物*

 暑中お見舞い申し上げます。

「Eastern Painted Turtle」Manto Artworks
「Eastern Painted Turtle」Manto Artworks

 夏のバンクーバーは、湿気が少なく、木々の緑が濃くなり、どこか日本の高原を思わせるような爽やかさがあります。とはいえ、午後の陽射しは強く、やはりここがカナダなのだと感じさせられます。

 午後9時まで明るい日が続くこの季節、人々は公園に集い、ピクニックを楽しんだり、浜辺を散歩したり、それぞれの夏をのびやかに過ごしています。街の至るところにラベンダーや紫陽花が咲き、マーケットにはベリーやサクランボが並び始めると、いよいよ本格的な夏の訪れです。

 バンクーバーの夏は短く、貴重です。だからこそ、一日一日を丁寧に味わいながら、目の前に広がる風景を心に刻みたいと思います。

写真「お菓子も涼しさを演出します:くず餅と抹茶」 コナともこ
写真「お菓子も涼しさを演出します:くず餅と抹茶」コナともこ

*今日の着物*Today’s Kimono

「和の涼:風を通す軽やかな絽の着物」

 夏の着物と聞いて、多くの人がまず思い浮かべるのは「暑そう」という印象かもしれません。

 でも、昔の人たちは、むしろ着物の中にこそ「涼」を見つけてきました。その代表が、絽(ろ)や紗(しゃ)といった透け感のある夏の生地です。

 なかでも、絽の着物は、見た目にも涼やかで、風をすっと通してくれる軽やかさがあります。

 生地の表面に細かい“隙間”があることで、熱がこもらず、歩いているだけで自然の風が身体をなでてくれるような心地よさがあります。

夏の着物でお出かけ「駒絽」コナともこ
夏の着物でお出かけ「駒絽」コナともこ

 「見た目にも、着心地も涼しい」という、日本人ならではの感性。和の涼は、暑さを我慢するのではなく、美しく楽しむ工夫の中に宿っています。

 透け感のある絽は、肌や長襦袢の色がふんわりと見えるため、淡い水色、白藤色、薄墨色……どれも、夏の光の中でふわりと浮かび上がります。

 カナダの夏は湿気が少ないぶん、こうした風通しの良い着物がぴったりですね。

 今年の夏、少しだけ背筋をのばして、絽の着物で涼やかなひとときを過ごしてみませんか?

 こちらでは、着物はまだまだ特別なもの。でもだからこそ、街で着物や浴衣姿で歩いていると、”So beautiful!” と声をかけられることもしばしば。文化の違いを楽しみながら、装いを通して対話が生まれるのも、カナダならではの夏の風景です。

 「着物は特別でありながら、暮らしの中にもなじむもの」。そんな想いを胸に、今年の夏も、楽しいイベントに足を運んでみようと思います。

 もしどこかで私を見かけたら、ぜひ気軽に声をかけてくださいね。

夏の着物「絽」「紗」&浴衣 コナともこ
夏の着物「絽」「紗」&浴衣 コナともこ

*今日の和の学校*Today’s gathering*

 東漸寺では、季節ごと日本の行事や、殺陣教室や茶の湯の稽古を通して、日本の文化をカナダに伝え、私たちは遠く離れた故郷を思い出すことができます。

 7月の七夕まつりには、子どもたちが短冊を書き、大人たちは浴衣で集い、お寺の本堂では、夏のお菓子と京都からのお抹茶をいただきました。

 今年は書道アートのワークショップを設けまして、書道アーティストとしてご活躍の木村冴子さんに、ご指導をお願いしました。

 ハガキに七夕の願いや想いをしたため、参加した皆さんは、どんな夢や祈りを星に託したのでしょうか。

 その一筆一筆に込められた願いは、笹の葉に揺れながら、きっと空の向こうへと届いていったことでしょう。

「七夕まつり:和の学校@東漸寺2025」コナともこ
「七夕まつり:和の学校@東漸寺2025」コナともこ

*参照*

暦生活
https://www.543life.com

暦生活 夏の駒絽(こまろ)を分かりやすく説明
https://kimono-rentalier.jp/column/kimono/komarotoha/

「着物語り」
コナともこさんが着物の魅力をバンクーバーから発信する連載コラム。毎月四季折々の着物やカナダで楽しむ着こなしなどを紹介します。
2020年8月から連載開始。第1回からのコラムはこちらから

コナともこ
アラ還の自称着物愛好家。日本文化の伝道師に憧れ日々お稽古に励んでおります。
14年前からコキットラム市の東漸寺で「和の学校」を主宰。日本文化を親子で学び継承する活動をしております。

年間を通じて季節の行事に加え、お寺での初参り、七五三祝い、十歳祝い、元服祝い、二十歳祝い、結婚式、生前葬、お葬式などの設えと装いのお手伝いもさせていただいております。

*詳しくはコナともこ までお問い合わせ下さい。tands410@gmail.com
東漸寺は非営利団体で、和の学校の収益は東漸寺の活動やお寺の維持の為に使われています。

カナダ人の夫+社会人と大学生の3人娘がおり、バンクーバー近郊在住。

和の学校ホームページ https://wanogakkou.jimdofree.com/
インスタグラム https://www.instagram.com/wa_no_gakkou_tozenji/
フェイスブック https://www.facebook.com/profile.php?id=100069272582016

東漸寺Tozenji Temple https://tozenjibc.ca/

コナともこ
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Instagram https://www.instagram.com/konatomoko/?hl

「東漸寺🌸春🌸2024」Manto Artworks
「東漸寺🌸春🌸2024」Manto Artworks

バンクーバー広島県人会BBQランチ会開催のお知らせ 🌞 Join Us for the Vancouver Hiroshima Kenjinkai Summer BBQ!

バンクーバー広島県人会は8月17日に毎年恒例のランチ会を開催いたします。

広島出身の人、広島にゆかりのある人、広島に興味がある人など、バンクーバーに住む広島の人とつながりたい人はぜひご参加ください。

🗓日時:2025年8月17日(日)12時開催、11時30分登録開始
📍場所:日系文化センター・博物館
💰参加費:無料
📝参加申込締切:8月5日(火)
📧申込先:van.hiroshimaclub@gmail.com

今年は日系センターでバーベキューを開催いたします。ご家族などお誘いの上、ご参加ください。
準備のため、参加ご希望の場合は8月5日(火)までにvan.hiroshimaclub@gmail.comまでお知らせください。

広島にゆかりのある方々の参加をお待ちしております。

バンクーバー広島県人会

Vancouver Hiroshima Kenjinkai Annual Summer Luncheon Announcement

The Vancouver Hiroshima Kenjinkai will host its annual summer luncheon on Sunday, August 17, 2025.

Whether you’re originally from Hiroshima, have ties to the region, or simply have an interest in Hiroshima, we warmly welcome anyone living in Vancouver who would like to connect with others from the Hiroshima community.

🗓 Date & Time: Sunday, August 17, 2025
Registration begins at 11:30 AM
Event starts at 12:00 PM

📍 Location: Nikkei National Museum & Cultural Centre
💰 Admission: Free
📝 RSVP Deadline: Tuesday, August 5, 2025

This year’s luncheon will feature a barbecue at the Nikkei Centre. Please feel free to bring your family and join us for a fun and relaxed afternoon.

To help with planning, kindly RSVP by Tuesday, August 5 to: 📧 van.hiroshimaclub@gmail.com

We look forward to welcoming everyone with a connection to Hiroshima!

Vancouver Hiroshima Kenjinkai

高丘、MLSオールスター出場明けに11度目のクリーンシートでホワイトキャップス快勝

GK高丘とゴール前の攻防。2025年7月26日、バンクーバー市BCプレース。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
GK高丘とゴール前の攻防。2025年7月26日、バンクーバー市BCプレース。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ

 スポルディングKCに快勝した。GK高丘は23日にMLSオールスターに初出場したばかりだったが、26日には先発フル出場し無失点でチームを勝利に導いた。

7月26日(BCプレース:20,719)
バンクーバー・ホワイトキャップス 3-0 スポルティング・カンザスシティ
 先制は35分。サビーが決め1-0。8分後にはウガンドのゴールで2-0とリードした。87分にはラボルダがダメ押しの3点目を挙げた。

随所に好セーブを見せ、高丘は今季リーグトップとなる11度目のクリーンシート

 もう少し点差が開いていてもおかしくないほど危なげない試合運びで快勝した。シュート数は22本。攻撃が目立った試合だったが、GK高丘は随所に好セーブを見せてオールスター明けの勝利に無失点の花を添えた。

スポルティングKCのゴールチャンスを消す好セーブ。2025年7月26日、バンクーバー市BCプレース。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
スポルティングKCのゴールチャンスを消す好セーブ。2025年7月26日、バンクーバー市BCプレース。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ

 試合後「チームとして自分たちが今まで積み上げてきたことをパフォーマンスとして出せだと思いますし、 3-0というスコア以上に自分たちが持っていた内容が出せたので、そこが今日の試合で1つ大きかったと思います」と振り返った。

 これまで高丘と守りの要を担ってきたDFベセリノビッチが7月19日のサンディエゴFC戦で左膝の前十字靭帯(ACL)断裂という重傷を負い今季の出場が絶望となった。高丘は「彼が今までチームにもたらしたものは大きいですけど、その彼がけがしてこれから残りのシーズンにいないってことは変えられないので残りの選手でやるしかないです」と前を向いた。

 これで首位サンディエゴFCに勝ち点1差のままピタリと付いて2位を確保。ホワイトキャップスは今季のリーグスカップに出場しないため、サンディエゴが3試合をこなす間、後半戦に向け、休息とトレーニングで調整する時間に充てられる。次節は8月9日サンノゼでクエイクストと対戦する。

日本人初のMLSオールスター出場を終えて

 7月23日に行われたMLSオールスターに初出場した高丘は「本当に貴重な経験ができました」と笑顔を見せた。ホワイトキャップスからは高丘を含め4人が選出された。「4人でこのクラブを代表して、リーグを代表して、選出されたというのは個人的にもチームとしても非常に大きい」と語り、「リーグのトップレベルの選手たちと一緒に過ごせたっていうのは非常に貴重な経験でした」。

 雰囲気は「MSL特有のイベントというか盛り上げる感じで、ファンと一緒にエンジョイ的なものが大きかった」という。前日のスキルチャレンジでは、高丘の一蹴でMLSの勝利が決定し、チームメートやファンと一緒に喜んでいる姿が見られた。

 そんな楽しい中でも学ぶことも多かったと振り返る。印象に残ったのは、ニューイングランド・レボリューションのカルレス・ヒール選手やシカゴ・ファイヤーFCのフィリップ・ツィンカーナーゲル選手。「対戦したこともありますけど、同じチームでプレーしてそのクオリティの高さっていうのはより一層感じました」。超一流が集まるオールスターでの経験は「選手としても非常に大きい経験でした」と得るものが大きかったようだ。

 日本人として初めて出場したことも意義があったと振り返る。MLSオールスターにゴールキーパーとして出場できたことは、MLSでの日本人選手の評価と日本でのMLSへの認識とに「アピールできたかなと思います」と語った。

バンクーバーに日本人選手が集結?

 ホワイトキャップスは7月22日、日系ペルー人のケンジ・カブレラ選手の入団を発表した。ペルーのリーグでプレーしていた22歳ミッドフィルダー。母親が日本人で滋賀県生まれのペルー国籍。ホワイトキャップス広報によると日本語は話さないようだが、自身のインスタグラムには中村健治と記載している。8月中旬ごろに合流する予定。

 日系人選手の加入について、「うまくチーム入っていけるようサポートしていきたいですし、いい選手だと思うので力になってくれると思います」と期待した。

 バンクーバーではもう一人、カナダサッカー女子プロリーグNSL(ノーザン・スーパー・リーグ)バンクーバー・ライズに岡本祐花が加入した。7月24日には途中出場ながらバンクーバーでのデビューを飾り、ファンに印象付けた。

 高丘はすでにクラブハウスで話をする機会があったという。バンクーバーで日本人選手の活躍が増えることについて、「うれしいです。自分が来た時は1人だけだったので、男子と女子と違うチームですけど、自分のプレーが悪かったら日本人取らなくていいやってもしかしたらなってたかもしれないので、そういった意味では1つ自分のやってきたことが認められた部分もあるのかなと思ってうれしいです」と素直に喜んだ。

8月・9月のホームゲームhttps://www.whitecapsfc.com/

8月17日(日)6pm ヒューストン・ダイナモ戦
8月23日(土)6:30pm セントルイス・シティSC戦
9月13日(土)6:30pm フィラデルフィア・ユニオン戦
9月24日(水)7:30pm ポートランド・ティンバーズ戦

好セーブを見せるGK高丘。2025年7月26日、バンクーバー市BCプレース。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
好セーブを見せるGK高丘。2025年7月26日、バンクーバー市BCプレース。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ

(取材 三島直美/写真 斉藤光一)

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バンクーバー・ライズに岡本が入団、AFCトロント木﨑と直接対決

64分から途中出場で地元デビューを果たしたバンクーバー・ライズ岡本。2025年7月24日、バーナビー市スワンガードスタジアム。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
64分から途中出場で地元デビューを果たしたバンクーバー・ライズ岡本。2025年7月24日、バーナビー市スワンガードスタジアム。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ

 今年4月に開幕したカナダのサッカー女子プロリーグ、ノーザンスーパーリーグ(NSL)。バンクーバーに本拠地を置くバンクーバー・ライズに7月から岡本祐花が加入した。

 AFCトロントには木﨑あおいが開幕から活躍している。この日はバンクーバーで初の日本人対決が実現した。

7月24日(スワンガード・スタジアム:3,911)
バンクーバー・ライズ 2-1 AFCトロント
 先制はトロント。9分にハンターが決め0-1。しかしバンクーバーは19分にチャンが決め同点に追いつく。さらに35分にもチャンが決め2-1。後半は両チームとも得点がなく、このままバンクーバーが勝利した。

岡本、バンクーバー移籍後初試合に途中出場、大歓声を受ける

 岡本のバンクーバー入団が発表されたのは7月22日。その2日後にはピッチに立った。後半も半ばの64分。スペンサーとの交代で名前が呼ばれると、観客席から大きな拍手が巻き起こった。

 ポジション的にはMF/DF。積極的に攻撃に参加する位置ではないが、守りやチャンスを作る場面で光る動きを見せた。

 バンクーバーには7月1日から合流していたという。当初は8月から試合に出場する予定だったが、この日すでにチームメートとの連携もそつなくこなした。約30分の海外初試合出場を振り返り、「緊張とかなくすごく楽しみな気持ちで試合に入って、ファーストプレーでチャンスっぽいチャンスを作れましたし、周りの観客の雰囲気もすごい湧いてくれて楽しくプレーできました」。

チームメートと勝利を喜ぶ岡本。初出場試合で勝利した。2025年7月24日、バーナビー市スワンガードスタジアム。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
チームメートと勝利を喜ぶ岡本。初出場試合で勝利した。2025年7月24日、バーナビー市スワンガードスタジアム。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ

 トロント木﨑が67分で交代したため、バンクーバーでの日本人初対決は約3分と短い時間だったが、これからの対戦も楽しみにしている。

 ハリファックス・タイズFCには日本のWEリーグAC長野パルセイロでチームメートだった中村恵実が所属している。「新しいリーグの中で日本人が3人先に入っていて、自分もそこに入る中で、色々聞いたりしながら(やっています)。一緒のチームにはジェシカもいてすごい心強いなって思ってます」。

 バンクーバーには日系カナダ人でWEリーグ日テレ・東京ヴェルディベレーザでプレーしていたジェシカ・ウルフ結吏(GK)も所属している。

試合後のインタビューに応じる岡本。2025年7月24日、バーナビー市スワンガードスタジアム。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
試合後のインタビューに応じる岡本。2025年7月24日、バーナビー市スワンガードスタジアム。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ

 この日は平日の夜にも関わらず約4,000人(収容人数約5,000人)のファンが詰めかけ、声援を送った。「日本に比べてすごい観客の数も多くて。本当に歓声がすごくて、すごく気持ちが上がるというか楽しかったです」と岡本。

 バンクーバーの日系コミュニティに向けては「加入しましたので、ぜひ応援していただけたらうれしいですし、スタジアムに見に来ていただけたらすごくうれしいので、これからも応援よろしくお願いします」とメッセージを送った。

逆転負けに「残念な試合だった」とトロント木﨑

AFCトロントの木﨑。先発出場し67分で交代した。2025年7月24日、バーナビー市スワンガードスタジアム。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
AFCトロントの木﨑。先発出場し67分で交代した。2025年7月24日、バーナビー市スワンガードスタジアム。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ

 トロントは先制ゴールを決めたものの、2失点で逆転負けした。チームに支持を出す大事なポジションを任されている木﨑は「前節(7月18日モントリオール・ローズ戦)も負けていて(1-2)チームの雰囲気もなかなかうまくいかない中で、入りは良かったんですけど簡単に失点してしまって。その後もうまく立て直せず追加点を奪えなかったので、すごく残念な試合だったなと思います」と振り返った。

 木﨑はシーズン開幕からトロントでプレー。現在1ゴール、1アシストを決めている。日本とカナダのプレーの違いは、「カナダはフィジカルが強かったり、速さっていうのはすごい特徴だと思うので、そこで最初は順応するのがすごく大変でした」とここまでを振り返り、今は慣れたと笑う。

 リーグ創設1年目でトロントでもバンクーバーでも女子リーグで、ホームに3,000人が入って応援するのは「すごい文化だと思う」と言う。

 日本人が多いトロントやバンクーバーで「応援してもらえる機会が増えたらいいなと思ってます」と語った。

 木﨑選手へのインタビューは後日掲載する。

バンクーバー・ライズの今季ホームゲームhttps://www.vanrisefc.com/

8月2日(土)4pm オタワ・ラピッドFC戦
8月30日(土)7pm モントリオール・ローズ戦
9月6日(土)4pm カルガリー・ワイルドFC戦
9月20日(土)1pm オタワ・ラピッドFC戦

ファンからサインを求められる岡本。2025年7月24日、バーナビー市スワンガードスタジアム。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
ファンからサインを求められる岡本。2025年7月24日、バーナビー市スワンガードスタジアム。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ

(取材 三島直美/写真 斉藤光一)

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