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敬子サンダース

第50回 アジアの小国ミャンマーの行く末

ノーベル平和賞受賞者‐アウンサン・スーチー氏

 二ヶ月半程前の2月1日から、世界のメディアには「ミャンマー」という文字が頻繁に登場している。だが国軍によるクーデターが起こったと言う以外、一体東南アジアのあの小国に今何が進行しているのか、その詳細を知るのはなかなか容易ではない。

 筆者は一時この国について格別な興味を持ってニュースを追っていた時期があった。それは何時頃のことかと思い、手元に残っているはずの日本語や英語の新聞、雑誌の切り抜きを探してみた。嬉しいことにそれらは、91年秋にノーベル平和賞を受賞した同国の政治指導者、アウンサン・スーチー氏が著した『自由』(集英社)と題する本の間に挟まれていた。

自由 自ら綴った祖国愛の記録©︎ Keiko Miyamatsu Saunders
自由』(集英社刊 ISBN 4087731405) ©︎ Keiko Miyamatsu Saunders

 この表紙のポートレートを見ても分かるように、確かに美しい人ではある。だがこれを見たらそんな平易な評価だけではなく、黒目がちな瞳の奥に一体どんな秘めた思いを持っているのか…、誰でもが知りたくなるに違いない。

 まさに私もそんな興味が先立っていたようだが、忘れかけていた記憶を呼び起こし、その資料の一枚一枚に再度目を通してみると、それまで政治運動に関わった経験のなかった氏の母国に対する篤い思いが改めて伝わって来る。

 1988年英国で家族と暮らしていたスーチー氏に、ビルマに住む実母が危篤との知らせが送られて来た。これを機にビルマに戻り政治活動にのめり込むようになり、「第二次ビルマ独立闘争」に参加することになったのである。だがその手段は、マハトマ・ガンジーのように暴力を用いずに、それまでの暴政に対抗し、結果として徐々に野党民主化勢力のリーダーになった経緯が読み取れる。

自由 自ら綴った祖国愛の記録©︎ Keiko Miyamatsu Saunders
自由 自ら綴った祖国愛の記録©︎ Keiko Miyamatsu Saunders

日本との歴史的関係

 しかしそこに至るまでの氏の生い立ちは実に興味深い。

 もともとは「ビルマ」と言う名称だったこの国を、1942年から45年まで統治していたのは「大日本帝国」だった。日本軍はそれまで大英帝国が植民地として支配していた状況から、ビルマを解放すると言う表向きの名目によって1941年に侵攻を進めていた。

 当時のビルマ独立義勇軍は、英国からの独立を希求していたため日本軍に協力的で、最終的に首都ラグーンを陥落したのである。

 それによって生まれたビルマ国ではあったものの、一般国民からの支持を得ることは出来ず抗日運動が続いていた。日本の敗戦が濃厚になった1945年に、国防相の役職にあったアウンサン将軍がクーデターを起こして英国側につき、連合軍と協力してビルマを日本軍から奪還した。

 まさにこのアウンサン将軍がアウンサン・スーチー氏の父であったのだが、その後ビルマは再び英国領となってしまった。だが将軍は反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)総裁に就任して、独立国家となるべく英国と交渉を進めた。その結果1947年には一年以内に独立する協定を締結したものの、残念なことにその翌年に政敵によって暗殺され、晴れの日を見ることはなかったのだ。

在りし日のアウンサン将軍一家(中央がアウンサン・スーチー氏)©︎ Keiko Miyamatsu Saunders
在りし日のアウンサン将軍一家(中央がアウンサン・スーチー氏)©︎ Keiko Miyamatsu Saunders

 以後将軍は「建国の父」と呼ばれるようになり国民から敬愛されたが、スーチー氏はそんな政権の不安定な時期の1945年6月にラングーンで生を受けたのである。父親が暗殺されてからは、看護師で後に駐インド兼ネパール特命全権大使になった母親と共に、インドのニューデリーに移り住んだ。

 長じてからは、英国のオックスフォード大学で哲学・政治学・経済学を学び、その後米国に渡りNY大学大学院で国際関係論を専攻し、NYの国際連合事務局で仕事をするなど国際舞台で大活躍をしたのである。加えてオックスフォード大学時代に二年間日本語を勉強したため、国際交流基金の支援で京大の東南アジア研究センターの客員研究員として来日してもいる。

 こんな経歴を見るとお堅い学究一筋の人生かと言えば、決してそうではなく、72年にはオックスフォード大学の後輩で、チベット研究者の英国人マイケル・アリス氏(1999年死去)と結婚し二児を儲けている。

女性党首

 近年ではニュージーランド、アイスランド、台湾、ドイツ、フィンランド、デンマークなど国家の指導者に女性が選ばれることは、まだ話題にはなるものの「大変に」珍しいことではなくなった。しかしスーチー氏が実母が危篤状態である事を知り、英国からビルマに戻ったのを機に政治活動にのめり込むようになった1988年頃には、一国の党首が女性であったのは英国のマーガレット・サッチャー氏のみであった。

 理不尽な軍の圧政に苦しむ生まれ故郷のビルマ国民を救いた一心で、経験のない政治の世界に一歩を踏み出したのは、やはり胸の奥に父親ゆずりの秘めた闘志があったためかもしれない。

 その時から数えてすでに33年もの年月が経過しており、また氏が率いる国民民主主義連盟(NLD)が、2015年に勝利し本格的な民主主義に向けて希望の兆しが見えていた。にもかかわらず、ここに来てまた軍による民主主義体制への回帰を求める市民への弾圧が激化し、スーチー氏は今度で4度目の軟禁状態に置かれている。

 クーデターの理由は幾つかあるようだが、一番の理由は昨年11月の国内総選挙の結果が予想に反してNLDが圧勝したことで、国軍系の連邦団結発展党(USDP)が選挙結果に不正があったといちゃもんを付けているためと言われている。「おや、何処かで聞いたようなセリフだな?!」と思えるが、氏の解放を求めるデモ隊の犠牲者は、4月11日までに全土で700人以上にも上ると発表されている。民衆が独裁への「反逆」「抵抗」の印として3本指を掲げて行進する姿は世界中に流されている。

デモ隊 ©︎ Keiko Miyamatsu Saunders
デモ隊 ©︎ Keiko Miyamatsu Saunders

 国際社会が協力して国軍に圧力をかけることは最も大切ではあるが、一つだけ気になることある。それは近年「氏が指導者として少数民族のロヒンギャに対する暴力・虐殺に適切な対応をしなかった」ことで、これが軍政府と共通の政策とみなされている事である。それが理由で、今まで世界各国から氏に与えられた数えきれない程の受賞や称号などの幾つかが剥奪や取り消しをされている点である。

カナダ名誉市民賞(2007年授与)。後にロヒンギャ問題への対応の不誠実さに対し剥奪(2018年)©︎ Keiko Miyamatsu Saunders
カナダ名誉市民賞(2007年授与)。後にロヒンギャ問題への対応の不誠実さに対し剥奪(2018年)©︎ Keiko Miyamatsu Saunders

 近年公の場で見られる氏の様相は、盛装していてもなおは痛々しいほどに細身で過酷な運命に粗がいながら生きることが伺える。今どんな状況のもとに軟禁されているのであろうか、大いに気になるところだ。

サンダース宮松敬子 
フリーランス・ジャーナリスト。カナダに移住して40数年後の2014年春に、エスニック色が濃厚な文化の町トロント市から「文化は自然」のビクトリア市に国内移住。白人色の濃い当地の様相に「ここも同じカナダか!」と驚愕。だがそれこそがカナダの一面と理解し、引き続きニュースを追っている。
URL:keikomiyamatsu.com/
Mail:k-m-s@post.com

第44回 神のみぞ知る大統領選の勝利者

ジコチュウ大統領 

 昔から人が口にする「無理が取れば道理が引っ込む」という諺は、まさにトランプ大統領(74歳)のためにあるのではないかと、2016年以来私はずっと思ってきた。

ホワイトハウスのバルコニーに立つ大統領 Photo © バンクーバー新報
ホワイトハウスのバルコニーに立つ大統領 Photo © バンクーバー新報

 もちろん何処の国の指導者を見ても分かるように、それぞれに長所短所があり「十人十色」。特に政治の世界では、同じ党派と言えども全員の考えが等しく一致するなどはあり得ない。それは分かるのだが、それにしても隣国のあの支離滅裂な大統領の言語や行動は説明のしようがない程ひどい。 

 どうしようもなく“ジコチュウ”で、得意の“自画自賛”が如実に表れたのが、二週間余り前(10月29日)にオハイオ州で行われた第一回大統領選討論会であり、COVID-19に罹患したことが分かってから後の一連の行動である。

 にもかかわらず、その指導者を熱烈に支持する米国民が、白人以外にも多数いるのは周知の通りで、アメリカ社会が一枚岩ではないことを物語っている。現時点では、彼が再選されるか否かは神のみぞ知るである。

退院後初めてホワイトハウスで開いた集会(10日)。白人以外にも黒人、ヒスパニックの人々が多数集まったが、ソーシャル・ディスタンスなど何のその!Photo © バンクーバー新報
退院後初めてホワイトハウスで開いた集会(10日)。白人以外にも黒人、ヒスパニックの人々が多数集まったが、ソーシャル・ディスタンスなど何のその!Photo © バンクーバー新報

 政権を取って以来、多くの閣僚が去来した。その中で政治理念など皆無、昨日と今日で言っていることが違うなどは日常茶飯で、そんな姿勢で国際社会を振り回して来た彼の行動の全ては、「自分の損得勘定で動くことにある」— そう語るのは、2018年4月から一年3か月ほど、国家安全保障担当補佐官として大統領に仕えた白髭頭に白い口髭が印象的なジョン・ボルトン氏。

国家安全保障担当補佐官として大統領に仕えた白髭頭に白い口髭が印象的なジョン・ボルトン氏 Photo © バンクーバー新報
国家安全保障担当補佐官として大統領に仕えた白髭頭に白い口髭が印象的なジョン・ボルトン氏 Photo © バンクーバー新報

 6月に出版した回顧録(The Room Where It Happened和訳『それが起きた部屋』)の中にこもごもと書かれていると幾つもの書評が採り上げている。

 中でも「突飛で驚くほど無知」である例として、英国が核保有国である事を知らなかったり、フィンランドはロシアの一部かと側近に聞いたり等のエピソードには笑ってしまう。

ジョン・ボルトン氏が6月に出版した回顧録(The Room Where It Happened和訳『それが起きた部屋』) Photo © バンクーバー新報
ジョン・ボルトン氏が6月に出版した回顧録(The Room Where It Happened和訳『それが起きた部屋』) Photo © バンクーバー新報

トランプ一族

 また7月には、大統領の姪で臨床心理学の博士号持つMary L. Trump(大統領の兄の娘)が、一族にまつわる詳細な暴露本(Too Much and Never Enough-和訳『世界で最も危険な男』)を出版した。彼に関する本はすでにあまたあり、奔放な女性関係やビジネス面での醜聞などにもうウンザリと感じている人も多い。だがある書評によると、姪が書き残したかったのは「大統領の人となりは常習的に嘘つきで救いがたいことは事実だが、彼を支えてきた廻り取り巻きも同じくらい救いがたく罪深い言っている点にある」という。

Mary L. Trumpが出版した、一族にまつわる詳細な暴露本(Too Much and Never Enough-和訳『世界で最も危険な男』) Photo © バンクーバー新報
Mary L. Trumpが出版した、一族にまつわる詳細な暴露本(Too Much and Never Enough-和訳『世界で最も危険な男』) Photo © バンクーバー新報
大統領の姪で臨床心理学の博士号持つMary L. Trump Photo © バンクーバー新報
大統領の姪で臨床心理学の博士号持つMary L. Trump Photo © バンクーバー新報
ビクトリアの本屋にもトランプ大統領に関する本がズラッと並んでいる Photo © バンクーバー新報
ビクトリアの本屋にも大統領に関する本がズラッと並んでいる Photo © バンクーバー新報

 大統領の現時点での妻は三番目で、元モデルであった24歳年下のメラニア夫人(50歳)。二人の間には14歳になる息子Barron W Trumpがいるが、語られて久しい父親の一連の極評を、どの様に受け止めているのだろうか。

大統領の現時点での妻、メラニア夫人との間の14歳になる息子Barron W Trump(左端) President Trump Returns to D.C., Photostream of The White House
大統領の現時点での妻、メラニア夫人との間の14歳になる息子Barron W Trump(左端) President Trump Returns to D.C., Photostream of The White House

 彼の祖父(大統領の父親)にあたる不動産業者だったフレッド・トランプも、「勝つためには手段を選ばない人物」であったと評されている。もちろんBarron はまだ若く将来は不確実だが、祖父、父の二代に渡る血脈を充分に受け継ぎ、トランプ一族の一人としてゆるぎない社会的地位を維持して行くのだろうか。

アメリカ女性と日本女性

 泣いても笑っても11月3日までに後19日。投票妨害、支持者の衝突、郵便投票の不具合など諸々の障害が予想されている。これからも成り行きに目が離せないが、この一ヶ月ほどニュースを熱心に追っている中で、改めて驚かされるのは、大統領の取り巻きの女性たちが、メラニア夫人と似たり寄ったりの髪型、体形であることだ。

 胸まである金髪(あるいはそれに近い色)の長髪を風になびかせ、それを優雅にかき上げながら大統領の後ろをピンポイントのハイヒールで颯爽と闊歩している。“色好み”で知られる彼の選択が如実に現れていて「なるほどなぁ~」と思わず苦笑してしまう。

 彼女たちのその堂々とした態度は、大統領が目の敵にしているCNNのアンカーウーマンたちも同じこと。そして揃いも揃って早口である。

CNNのアンカーウーマンの一人-Julia Chatterley

 それに比べ、日本のテレビのアンカーを務める女性たちの、時には歯がゆくなる程に楚々としていること!それが良いとか悪いとかは一概に言えないことは承知である。

 だがそれでも思うのは、菅義偉新内閣の女性閣僚はたった二人、主要7カ国(G7)の中での女性管理職比率は最下位。この数字が示す日本の男社会の現状には正直ホトホト情けなくなるのである。

 

サンダース宮松敬子 
フリーランス・ジャーナリスト。カナダに移住して40数年後の2014年春に、エスニック色が濃厚な文化の町トロント市から「文化は自然」のビクトリア市に国内移住。白人色の濃い当地の様相に「ここも同じカナダか!」と驚愕。だがそれこそがカナダの一面と理解し、引き続きニュースを追っている。
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第42回 ビクトリア市で迎えた原爆投下/終戦75周年記念日

安倍首相の式典での挨拶

 先週の土曜日8月15日は、日本が戦争に敗れ終戦を迎えてから75年目であった。もし読者が日本人なら「戦争」と言った時「どの戦争のこと?」と言う問いは返って来ない事と予測する。

 世界の中には次々に自国が戦争に巻き込まれるため、どれを指すのか定かでない国も多いのである。とは言え日本も今は、戦後生まれが総人口の83%以上になっているため、実際に兵隊として戦地に赴いた人などは、ほんの一握りの高齢者になっている。

 また終戦(1945年)以前に生まれていたとしても、日本国内のあの悲惨な戦争体験、例えば空襲、B29、防空壕、焼け野原…と言ったことを覚えている年齢となれば4、5歳になっていなければならない。その層の人達の数も今は11%余りと言う。

 周知の通り今年は単に終戦75周年目であるだけでなく、広島/長崎に原爆が投下されてからも同年数の月日が流れたことになる。例年8月6日には広島で、また9日には長崎で、原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が行われ、首相が出席して挨拶するのが習わしになっている。

原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で挨拶する安倍首相
原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で挨拶する安倍首相 テレビ画面から Photo © the Vancouver Shinpo

 ところが今年は、その大きな節目の年にもかかわらず、あろうことか、両式典での首相の挨拶の93%が同じ文言であったのだ。

 世界で唯一の被爆国である日本の、首相として臨席した人の挨拶が、まるでコピペをしたかのような、使い回しと言われても仕方がない内容であったとは!

 開いた口が塞がらないと言うのはこのことで、犠牲者を如何に軽んじているかの表れで、彼らを冒涜していると言わざるを得ない。

サーロー節子(Setsuko Thurlow)氏

 各種の理由があってのことではあるものの、日本は未だに核兵器禁止条約批准国になっていない。現在世界で40カ国が署名しているが、批准条約を発効させるにはあと10カ国の承認が必要である。一日も早くその数に達することを熱望している一人が、トロント在住の被爆体験者で反核運動家のサーロー節子氏である。

トロント在住の被爆体験者で反核運動家のサーロー節子氏
トロント在住の被爆体験者で反核運動家のサーロー節子氏 Photo © the Vancouver Shinpo

 2017年12月のノーベル平和賞受賞式で、ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)事務局長のベアトリス・フィン(Beatrice Fihn)氏と共に記念のメダルと賞状を受領し、受賞記念講演を行ったことで知っている人も多い事と思う。

 彼女は1945年8月6日、広島市に原爆が投下された時、爆心地から1.8km離れた場所にいて被爆した。建物の下敷きにもなったりして九死に一生を得たが、幸いにも強く生き延びたのである。

 筆者はトロントで知己を得てから、折に触れ何度か波乱万丈の人生についてお聞きした事があり、その度に深い感銘を受けたものだ。88歳になられた今は、脚が不自由なため歩行に困難をきたしておられるが、実に意志強固で核廃絶のために現在でも全身全霊で戦っている。今年も広島の記念式典には、トロントから遠距離参加をして、メッセージを送った。

ビクトリア市在住の長崎の原爆体験者

 被爆体験者は日本人ばかりでないことは広く知られることだが、ここビクトリアにもRudi Hoenson氏というオランダ系カナダ人男性がいた。「いた」と過去形で書くのは、今年5月に96歳で亡くなったからである。

 1945年、彼は21歳の若いオランダ兵士として現在のインドネシアで戦っていたが、終戦直前に日本軍の捕虜(PoW=Prisoner of War)となり、長崎の三菱造船所に送られ3年半もの間強制労働を強いられた。この捕虜収容所は、後に語り草になるほど劣悪な環境で、十分に食料も与えられず73キロあった体重が、半分になったほどであった。そこは長崎の爆心地から1.4Km離れていたのだが、彼は仲間の多くと8月9日の原爆投下をその地で体験したのである。

 幸いにも戦後その収容所からは解放されカナダに移住したのだが、この悲惨な体験は丁度日系カナダ人たちが、強制収容所での辛い思い出を家族や後世の人々に語らなかったのと同じに、Hoenson氏も70年近く誰にも明かすことはなかった。しかし毎年8月を迎えるたびに、脳裏に思い出が去来した事は確かであった。

カナダのバンクーバー島にある、ビクトリア市在住の長崎の原爆体験者
ビクトリア市在住の長崎の原爆体験者Rudi Hoenson氏 Photo © the Vancouver Shinpo

 だが2014年のある時、彼のこの体験をビクトリア在住で、長い事Camosun College で社会学や日本の伝統文化について教鞭を執っていたり、移住者の助けをするinter-Cultural Association でコーディネーターをしていた坂本千家紀子(みちこ)さんが耳にする事となり、彼女はHoenson氏に手紙を書き送った。

 筆舌に尽くし難いであろうこの苦い思い出が、歳を重ねると共に彼の心の中にどの様に深く刻まれているか…。それを癒すために自分に何か出来ることはないかと思いたったのである。例えば新聞を読んであげたり、アポにお連れしたり、お茶を一緒に飲んだり…。そして最後に日本の軍隊が彼や戦友たちに行ったむごい仕打ちに対し、陳謝の気持ちを書き添えた。

 数日後紀子さんは、Hoenson氏から電話を受け取った。「貴女が謝ることなんかありませんよ。戦争を引き起こしたのは貴女ではないのですから」との温かい言葉が返って来たのである。

 以来、つかず離れずの心の通ったお付き合いが続いたが、紀子さんは「私の方が彼から人間として学ぶことが多かったのです」と言う。戦中戦後の出来事や辛かった経験に対し一切の憎しみを持たず、ポジティブ思考で前に向かって人生を歩む姿は、ちょうど自分の両親も東京の大空襲で焼け出され疎開をして辛苦をなめたものの、前向きに生きた両親からの教えと共通するものがあったと述懐する。

 今年一月に新年の挨拶を交わしたのが最後になってしまったことが惜しまれる。

ビクトリア市在住の長崎の原爆体験者、Rudi Hoensonさんと坂本千家紀子(みちこ)さん
オランダ系カナダ男性Rudi Hoensonさんと坂本千家紀子(みちこ)さん Photo © the Vancouver Shinpo

 YYJ島のささやかな式典

 6日と9日の原爆投下の日には、ここビクトリアでも日系カナダ人団体のVictoria Nikkei Cultural Society が主催して、ダウンタウンのInner Harbour近くにある「友情の鐘」と呼ばれる盛岡から寄贈の鐘が設置されている小さな公園で記念式典が執り行われた。

原爆投下の日には、ビクトリアのダウンタウンのInner Harbour近くにある「友情の鐘」が設置されている小さな公園でも記念式典が執り行われた。Photo © the Vancouver Shinpo
原爆投下の日には、ビクトリアのダウンタウンのInner Harbour近くにある「友情の鐘」が設置されている公園でも記念式典が執り行われた。Photo © the Vancouver Shinpo

 両日とも30余人の参加者を得て、何人もの人が鐘を鳴らしささやかではあったが、75年の節目に相応しい心温まる穏やかな一時を共有した。

 余談だが、ビクトリア市の北に隣接するSaanich市の市庁舎の前には、広島の隣にある廿日市市から原爆にあったものの、力強く生き延びた銀杏の木から根分けされた苗木が植わっている。3年ほどの間にすくすくと生育し60㎝ほどの背丈に伸び、市庁舎を訪れる人を見守っている。

カナダ、ビクトリア市に隣接するSaanich市の市庁舎前にある銀杏の苗木。原爆から力強く生き延びた。
ビクトリア市に隣接するSaanich市の市庁舎前にある銀杏の苗木。原爆から力強く生き延びた。 Photo © the Vancouver Shinpo

 二年前の秋に行われた地方選挙で落選したRichard Atwel 前市長が、廿日市市と姉妹都市になる計画に非常に乗り気だったのだが、次期市長にはその意思がなく計画が頓挫した経緯がある。

サンダース宮松敬子 
フリーランス・ジャーナリスト。カナダに移住して40数年後の2014年春に、エスニック色が濃厚な文化の町トロント市から「文化は自然」のビクトリア市に国内移住。白人色の濃い当地の様相に「ここも同じカナダか!」と驚愕。だがそれこそがカナダの一面と理解し、引き続きニュースを追っている。
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第41回 ここ迄彼女を動かしたもの

日系三世メアリー・イトウ氏

『仲よき事は美しき哉』の言葉を残したのは、明治から昭和にかけての長きにわたって、小説家、劇作家、また詩人や画家としても活躍した武者小路実篤である。昭和の時代に日本の学校に通った者なら、必ずや国語の時間などに勉強させられた記憶があることだろう。

 一般に知られている英語の訳は「How beautiful it is to have good friends」であるが、これでは友情のことのみを指していることになる。更なる幅白い解釈をすれば、そこには家族も含まれるのではないかと考えるのが一般的だろう。

 いずれの解釈にせよ、そんな言葉がふと私の脳裏をよぎったのはCanadian Broadcasting Corporation:CBC放送局から、同局の元アナウンサーであったMary Ito氏をインタビューした記事が発表されたのを読んだ時だった。

 彼女はオンタリオ州地域で生き生きと活躍する市井の人々を、音楽などと共に楽しく紹介するFresh Airと呼ばれるラジオ番組のホストを長いこと務めた日系三世である。

 現在CBCは嘱託として働いているが、、現役時代からトロントの日系文化会館(Japanese Canadian Cultural Centre: JCCC)などで行われる各種のイベントで司会を務めるなど、気さくで温かい人柄が高く評価されていた。

Mary Ito
Mary Ito氏(イトウ氏提供)

 さて彼女に関するその記事とは、現在世界中を恐怖に落とし入れ、終息の兆しのほとんど見えないCOVID-19にまつわるものであった。一口に言って「家族愛」の極限を地で行ったと断言しても過言ではなく、読者の感涙を誘ったヒューマンストーリーである。

 カナダ政府がCOVID-19の問題を「対岸の火事ではいられない」と、真剣に取り組み始めたのは3月に入ってから。それ以前は高齢者の疾患率が高い病気で、若者は大丈夫と言った風潮がみられ、事実犠牲者は、大都市のトロントやモントリオールなどのシニアホームの居住者に多かった。

日系二世のIto氏の両親

 同時期Ito氏の両親もトロントの某シニアホームで暮らしていたのだが、 母親(92歳)も父親(97歳)も高齢のため体力が非常に弱っていた。当然ながら二人揃ってPCR検査を受けたのだが、医者からは疾患するのは時間の問題と宣言された。それを聞いたIto氏は検査結果を待たずに、両親と同じシニアホームの同じ棟に即入居することを希望した。

 言わずもがなであるが、それは非常に高い率で彼女もウィルスに侵され、最悪の場合は死をも覚悟することであった。間髪を入れずの決心と、人手不足が日に日に深刻になっていた医療機関の現状からして、元気な人の手助けはホームにとって大変に有難くすぐに許可を出した。

 Ito氏はその短期間に夫と成人している3人の子供たちを説き伏せ、最悪の場合の備えをして4月12日の復活祭の日曜日に両親のそばで過ごす生活を開始した。

Mary Ito and her parents
ご両親と(イトウ氏提供)

 最初に彼女の姿を見た母親の第一声は「何で貴女ここにいるの?」だったそうだが、すぐに母親の容態は急変し、昼夜を問わずの看病を必要とするようになった。そして僅か3日後には、ホームからコロナ専門病棟のある病院に搬送されたのだが、翌日には心臓発作を起こし非常に危険な状態に陥った。

 それを知った父親は、妻と共に最後の日々を過ごすために、自分も同じ病院に移送されることを切望した。お陰で4月20日に60余年連れ添った妻が命尽きた瞬間に立ち会うことは出来たのだが、苦渋に満ちた顔を両手に埋めたまま一言も言葉を発することはなかったと言う。

 すでにウィルスに侵されていた父親は、それから9日目に病状をこじらせて亡くなり、またIto氏は予想した通り陽性反応を示した。母親とは僅か一週間余り、父親とは半月余りであったが、最後の日々を愛する二人の元で過ごせたことに彼女は心から感謝したいと言い切る。加えて「両親を家族から離し孤独の中で死んで行く姿をどうやっても想像することが出来なかった」と淡々と語る。

7月16日に行った筆者のインタビューでは、体力は十分に回復しているものの、まだスタミナが元通りにはなっていないと答えている。 

カナダ日系人の歴史

 親とは言え、Ito氏がここ迄両親に対する深い愛情を示す娘に育ったのは、一体何処に起因しているのだろうか・・・と考えずにはいられない。

 思いやり深い仲の良いご両親のもとで育ったことは疑う余地はない。だが更に深く考えてみるに、第二次世界大戦開始後、母国であった筈のカナダから日系二世が受けた理不尽な社会的制裁があったことに深く関係していると思えてならない。

 今では広く知られていることだが、二世たちはカナダに生を受けたカナダ人であったにもかかわらず、1941年12月7日の日本軍の真珠湾攻撃によって、一夜にして「敵国人」にされてしまった過去がある。その後BC州に住む日本人移民やカナダ生まれの日系人たちは、根こそぎロッキー山脈の麓の粗末な強制収容所に送られ、財産は全て没収され、それ等が戻って来ることはなかった。

Japanese Canadian internment ca,mp
当時の強制収容所の一つ、タシメ当時の強制収容所の一つ、タシメ:今は跡地に博物館が建てられ一般公開されている。撮影:サンダース宮松敬子

 後に三世が中心になって起こしたリドレス運動(redress movement)によって、1988年に戦時賠償が行われた。しかし日系人の多くは辛かった経験を声高に語ることはせず、恨むこともなく、また次代を引き継ぐ家族たちにも口を閉ざし続けた。

 Ito氏の両親も一口ではとても語り尽くせない辛酸と屈辱を経験し、一時は日本に帰国するなどの生活苦も味わったが、二人からカナダに対する恨みなどを一度も聞いたことがないと言う。

 辛苦を口にする前に黙々と前を向いて行動する・・・そんな親からの暗黙の教訓が、Ito氏に受け継がれているからこそ、コロナ禍の真っただ中に躊躇なく身を投じ、両親を見守る決心をしたのではなかろうか・・・、そんな気がしてならない。

サンダース宮松敬子 
フリーランス・ジャーナリスト。カナダに移住して40数年後の2014年春に、エスニック色が濃厚な文化の町トロント市から「文化は自然」のビクトリア市に国内移住。白人色の濃い当地の様相に「ここも同じカナダか!」と驚愕。だがそれこそがカナダの一面と理解し、引き続きニュースを追っている。
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